二子~青山

2023年4月13日 二子~青山

荏田から二子までは、以前歩いた大山街道(矢倉沢往還)と重なっているため、今回は二子から再開する。また、二子の渡しから先の鎌倉街道中道は、中野、板橋を経て岩淵へ至るルートと上野毛、渋谷、新宿を経て岩淵へ至る二つのルートがあるが、今回は後者のルートを歩く。

東急田園都市線二子玉川駅を出て、まずは二子の渡し跡碑の置かれている玉川福祉作業所の方に向かう。
そこから堤防沿いの道を川下に向かって少し行くと、周辺の再開発に伴い造られた二子玉川公園がある。園内には日本庭園の帰真園や旧清水邸書院などの見どころもある。


公園を横断して真っ直ぐ進むとそのまま上野毛通りに入り、丸子川に架かる稲荷橋を渡った先は上りの稲荷坂になっている。


坂の右手は上野毛自然公園で、大きな木々が多い緑濃いところになっており、通りかかったときに鶯の鳴き声に迎えられた。
坂を上りきると環八通り上野毛駅前交差点に出る。東急・上野毛駅を通り越し、道なりに右へ曲がって行く。
ほどなく左手に天祖神社の鳥居が見えてくる。創建年代は不詳だが江戸時代には神明宮と呼ばれ野良田村(現・中町)の総鎮守として篤く信仰を集めていた。


その手前を右に入った先の金剛寺は弘安7年(1284)に聖空上人が薬師如来を勧請し一宇を建立したのが始まりという古刹。静かな佇まいの境内の北向薬師は坂東七薬師の一つで、眼病と安産に効験ありと古くから信仰を集めている。


閑静な住宅街を進んでいくと、やがて上野毛通りが目黒通りに合流するが、その合流点手前に庚申塔と地蔵尊が祀られている。


ここまで歩いてきた上野毛通りは比較的新しい住宅が続いていたが、この一角だけは時間が止まっていたかのような空気が漂っている。

しばらく目黒通りを進むと八雲3丁目交差点のところにくる。ここを右に行くと自由が丘駅に通じる。数十年前に、一時、近くに住んでいたことがあり、交差点角に今もシェルガーデンがあることに大変懐かしさを覚えた。
交差点を自由が丘と反対の方に少し入ると、路地は長くまっすぐなので遥か彼方から上り坂が目黒通りに向かって上っていることがよくわかる。この坂を太鼓坂といい、その名の由来は諸説あるが斜面が太鼓のような形をしていたからとか、急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたからとかいわれる。
目黒通りをしばらく歩き、都立大駅前までくると、今は暗渠となり川面は見えないがかつて呑川が流れていた頃の中根橋跡に小さな中根橋の欄干が残されている。
鎌倉街道の旧道はこの先から消滅しているので、都立大駅前信号の少し先、病院横の路地に入り、呑川柿の木坂支流緑道を行く。
少し行ったところでやくも文化通りに出たら右に行くと、環七(都道318号)の柿の木坂一丁目交差点を横断したところから旧道が復活。
旧道に戻って少し先、右手のテニスコートの奥の方に行くと碑文谷公園があった。若いころ友人が近くに住んでいて何度か来たことがあったので懐かしく思う。


しばらく進んで祐天寺駅に近づいたあたり、道路の真ん中に大木と石碑のある島が出現する。これは芦毛塚で、伝承によると源頼朝が芦毛の馬に乗ってこの地を通った時、その馬が何かに驚いて沢に落ち込んで死んだため、その愛馬を葬った塚だという。


その先を左に曲がり細い路地を進むと、三宿病院入口交差点の道端に庚申塔道標がひっそりと残されている。側面に「南ゆうてん寺道 北めぐろ道」と刻まれている。

道標を右に曲がり蛇崩交差点を過ぎると半兵衛坂となる。江戸時代、この辺りに代々清水半兵衛を名乗る旧家があったことで半兵衛坂と呼ばれるようになったのだとか。
坂を上り寿福寺の前を通り過ぎた少し先、宿山(しゅくやま)と呼ばれたところで分岐して右の細い道へ入っていくが、その入口に宿山の庚申塔が残されている。これらの庚申塔は元禄5年(1692)、延宝3年(1675)、宝永5年(1708)に造立されたもの。


細い道を道なりにすすむと烏森小学校前から小川坂というゆるい下り坂になる。小学校の塀にある小川坂の説明板に 「この坂のある道は鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった」 とある。
道は右へ曲がっていって山手通りに出ると、その向こうは目黒川で、そこに架かっている宿山橋を渡る。
桜並木で有名な目黒川だが、残念ながら今年は開花が早かったこともあり、桜をめでることはできなかった。それでも、この周辺はしゃれたレストランなどがあるせいか、若い人たちでにぎわいを見せている。

目黒川を渡り、突き当りを右に曲がると三叉路となる。左の上り坂は目切坂で、江戸時代、近くに石臼の目切りをする腕の良い石工が住んでいたことからこの名前がついたという。


結構な急な目切坂を上りきると、そこに元富士跡の説明板が置かれている。
富士山信仰が盛んだった江戸後期、ここには高さ12mほどの富士塚が築かれた。山頂からは本物の富士山も望め、大勢の人でにぎわったという。後に近くの別所坂上に富士塚が築かれ、そちらを新富士、こちらを本富士と呼ぶようになったとのこと。

元富士跡から50mほど歩いたところにひっそりと地蔵尊が鎮座していた。


文政元年(1818)造立というこの地蔵尊の台座部分は道標となっており、「右大山道 南無阿弥陀仏 左祐天寺道」と刻まれている。説明板に、「江戸時代には人家もまばらなさびしい道で旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう」とあるが、おしゃれな街として若者を惹きつける今日の代官山にあっては全く想像もできない。

地蔵尊の向かい側は国指定重要文化財の旧朝倉家住宅の入口。


東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎次郎によって大正8年に建てられた和風住宅は南西側斜面に回廊式庭園をしつらえた豪邸である。目切坂を上りきった元富士跡のすぐそばにあることから、主屋から庭園越しに富士山が望まれたと想像すると、まことにうらやましい限りだ。

旧山手通りを横断して猿楽小学校裏交差点を左に入って行くと、猿楽古代住居跡公園がある。古代人が居住していた場所と推定されているという。また、この公園の一角には、猿楽周辺にあった二十三夜塔、庚申塔、道標が集められていた。

街道に戻り坂道を下って跨線橋でJR山手線を越えたら階段を下りガードをくぐって跨線橋の左側に回り込むと、跨線橋に沿った細い道があり、渋谷川に架かる並木橋を渡ったところに立つ「鎌倉道」と表題のついた説明板にこの細い道が鎌倉街道の旧道だとある。

明治通りの並木橋交差点を横断すると上り坂となる。この坂の途中に八幡宮があることから八幡坂と呼ばれる。
金王八幡宮の歴史は古く、寛治6年(1092)に渋谷氏の祖、河崎基家の創建になる。その子重家がこの地に居城を構えて以来、渋谷氏の氏神として尊崇された。また、重家の代に渋谷姓を賜ったことが渋谷の地名の発祥と云われている。


社殿右脇に文化14年(1817)に建立された芭蕉句碑がある。
  - 志ばらくハ 花のうえなる 月夜かな -
そういえば、矢倉沢往還を歩いた時に訪れたここから近い宮益坂の御嶽神社にも芭蕉句碑があった。

八幡宮の隣に朱鮮やかな鳥居が並ぶ豊栄稲荷神社が鎮座する。


境内に13基ほどの庚申塔が並んでいる。元々は周辺にあったものだが都市化が進み明治末から大正に掛けて順次集められたものという。

八幡坂に戻って六本木通りを横断し、青山学院横を通って青山通りまで来ると道の向い側に岡本太郎の作品とすぐわかる個性的なオブジェが見える。以前、ここには国立児童センターがあって「こどもの樹」はその名残として残っている。

この日は、このあたりで家路につくことにする。
鎌倉街道の旧道はこの先いったん消滅しているが、青山通りを少し行き、明治神宮表参道に入るとほどなく青山善光寺の裏あたりを通る旧道が復活する。