下永谷~鶴ヶ峰

2023年3月14日 下永谷~柏尾~鶴ヶ峰

今回は、下永谷から再開。畠山重忠所縁の地鶴ヶ峰を目指す。

老人ホームサンバレー横の細い階段を上っていくと、遊歩道に入る。
老人ホーム裏の雑木林に沿った道を行くと、その先は一人がやっと通れるほどの狭い土道となる。


住宅地を抜けたら、下永谷市民の森脇の遊歩道に入り、しばらくすると右の高台に東屋が見えるあたりで下永谷市民の森から外れ、少し行った先の崖に張り付いたような狭い土道を柏尾町へと下って行く。
一般の人が訪れることがまずないような山道の途中、唐突に松伯稲荷大明神が現れる。その隣には菩薩像が並んでいる。


そのあたりから山道を下って住宅街を進んでいくと柏尾郵便局前を過ぎてすぐに旧東海道の国道1号に出る。
ちなみに、ここから京側へ600mほど行ったところが柏尾通り大山道との追分であり、大山道に入るとすぐに柏尾追分不動尊がある。

歩道橋で国道を渡り、跨線橋でJR東海道線を横断したらすぐに柏尾川を渡る。
秋葉小中入口交差点のところから住宅地の中の狭い旧道を道なりにしばらく歩く。やがて川上小学校の崖下まで来るとその先の旧道は消滅しているので小学校を回り込み、横浜新道を跨ぐ跨道橋の名瀬橋を渡ってすぐに右へ曲がって旧道に復帰する。

住宅街の道を進み、新戸塚病院の前まで来ると その先の旧道は山中に入り消滅しているので、目の前の階段を上り迂回路へ行く。

病院裏側の道をしばらく進み、川沿いの道に左の霊園の方へ進んでいく。この道は横浜カントリーと戸塚カントリーの間をしばらくは進んでいく。
緩やかな坂を上りきったところに戸塚カントリーの入口があるが、先ほど消滅した旧道はこの辺りに通じていてこの先から旧道が復活する。

数分歩くと道路際に都塚標柱が建てられ「昔は武蔵の国と相模の国の国境 鎌倉の都が一望できた」と記されている。 その後ろに見える小山が都塚で、塚の上り口に小さな道標が立っていて、「南 鎌倉道」「西 武相堺道」「東 二俣川村道」と刻まれている。


塚の上に地蔵堂があり、延命地蔵が祀られている。


武蔵国と相模国の国境を「武相国境」というが、そのうち現在の横浜市については旧国境ラインが概ね尾根筋を通る区境になっている。ここの都塚は、現在の戸塚区と旭区の区境にあたる。

都塚の前から10分ほど下ると左に大きく曲がるところに小さな道標が建てられており「南鎌倉道 西大山道」とある。今は十字路だが、かつては三叉路だった場所で、鎌倉街道はここを右へ曲がっていく。

小さな長谷橋を渡り、突き当りを左へ曲がったらしばらくは道成りに進み、やがてバス通りを横断して左の細い坂道を上っていく。このあたりは結構旧道の名残が見られる。


バス通りを渡って数分歩くと「寿々喜園芸」の看板が立つ三叉路があり、旧鎌倉街道はここを右に行く。ここにも旧道の面影がしっかり残っている。


その先は保土ヶ谷バイパスをまたぐ跨道橋を渡り、本宿中学校の看板が立つところを左に入り、新幹線をまたぐ跨線橋を渡って、相鉄線の踏切まで道なりに狭い道を下って行く。旧道の趣など全く感じられないが、道幅の細さがどことなく旧道の名残のような感じではある。


相鉄線の踏切のところから鶴ヶ峰駅は近い。この日の歩きはここまでとし、鶴ヶ峰駅から帰途に就いた。
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<鶴ヶ峰・畠山重忠終焉の地>
以前、絹の道を歩いた際一通り見て回っているので今回は省略するが、ここ鶴ヶ峰地域は畠山重忠ゆかりの史跡が多い。鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠は執権・北条時政の謀略によりこの地で落命した。

踏切を渡った先、厚木街道と水道道さらには帷子川が交差する鶴ヶ峰駅入口交差点のところには「畠山重忠公終焉の地」と記された標柱と畠山重忠公碑がある。元久2年(1205)、重忠は鎌倉に向かう途中、この地で北条氏数万の兵と戦い無念の死を遂げた。二俣川の合戦と呼ばれている。重忠公碑の隣の篠竹はさかさ矢竹と呼ばれ、重忠が戦死の直前に矢二筋を地に突き刺したところ やがてこの矢が根付き、年々、二本ずつ生えて茂り続けたと言い伝えられている。
交差点から少し離れたところに、愛甲三郎によって討ち取られた重忠公の首が葬られた場所が首塚となっている。さらに「鎧の渡し、首洗い井戸」と記された標柱が立っている。かつてこの地を流れていた帷子川は川幅が広く武士が川を渡るときは鎧を頭にかざして川越したという。その川原にあった井戸で討ち取った畠山重忠公の首を洗い清めたのだと伝わっている。
また、鶴ヶ峰駅入口交差点の北側、現八王子街道(国道16号)の北側の山の上を通っていた浜街道(旧八王子街道)沿いには、畠山重忠公戦死之地碑、六つ塚、駕籠塚などの史跡がある。

ところで、鎌倉街道のルートには諸説あるが、中道はここ鶴ヶ峰から北上し、本町田付近で上道と合したという説もある。重忠の居館は鎌倉街道上道の嵐山あたりにあり、そこを出た重忠がここ鶴ヶ峰を通って鎌倉を目指していたということからすると、それもまたむべなるかなという気がする。
実際、これまで歩いた旧街道を振り返ってみると、鎌倉街道上道は本町田で浜街道(絹の道)と交差し、旧町田街道、旧八王子街道を通る浜街道(絹の道)はその後鶴ヶ峰を通っており、重忠はこのルートを通った可能性が高い。
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