日本橋~大磯

2011年5月15日 日本橋~品川宿~川崎宿
2011年6月27日 川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿
2011年7月 3日  保土ヶ谷宿~藤沢宿
2011年7月10日 藤沢宿~平塚宿~大磯宿

日本橋出立
初代日本橋が架けられたのは慶長8年(1603)。広重の画に描かれているように、当時の橋は木造の太鼓橋で、五街道の基点として江戸の中で最も賑わう場所であった。
初代から数えて20代目の今の橋は明治44年に完成したもので、国の重要文化財に指定されている。残念なことに首都高速道路に覆われてしまっていて見えにくいが、橋中央には凛々しい姿の麒麟像が鎮座している。


日本橋から中央通りを行くと京橋にさしかかる。京橋は日本橋と同時期に架けられたが、今は橋の親柱が記念碑として残るのみである。この界隈には、銀座煉瓦の碑や明治初期に街灯として設置されたガス灯も立ち、道路を渡ったところには江戸歌舞伎発祥の記念碑や京橋大根河岸跡の碑などもある。

旧東海道はこの先、賑やかな銀座通りを通り、神奈川まではおおむね国道15号を行く。
新橋のガードをくぐった汐留あたりは、近年の開発でまるで別世界に様変わりしている。
少し先の芝の大門交差点で右手には増上寺の大門が見える。家康が徳川家の菩提寺とした増上寺には、2代秀忠以降14代のうちの6人の将軍の墓所が設けられている。

田町駅手前で日比谷通りが合流してくる交差点脇に、西郷隆盛と勝海舟会見の地碑がおかれている。慶応4年(1863)、このあたりにあった薩摩藩邸で、西郷と勝は江戸城無血開城の交渉を行った。


田町駅の先の札ノ辻交差点にはかつて高札場があった。この交差点から北にまっすぐ伸びる国道1号のずっと先の方に目をやると東京タワーがよく見える。
少し先の高輪大木戸跡は、今は石垣が少し残るだけだが、往時は江戸の南の玄関口として治安維持や交通規制の役割を担っていた。


泉岳寺前を過ぎると間もなく品川駅前を通る。その先の八ツ山橋でJR線路を跨ぎ、京浜急行の踏切を越えると品川宿に入って行く。
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1 品川宿
東海道最初の品川宿は、今は、狭い道の両側にビルが立ち並ぶ商店街になっており、広重の画とは全く様子が違っているが、道幅が往時のままの街並みにはそこここにかつての宿場の雰囲気が残っている。


宿場に入るとすぐのところに、将軍家光と沢庵和尚の問答が伝わる問答河岸の碑が立っており、そのすぐ先のコンビニの脇には土蔵相模跡の碑が立っている。旅籠相模屋は、幕末の志士たちがよく使っており、安政6年(1860)3月、大老井伊直弼を桜田門外で討った水戸浪士たちが決行前日に酒宴を張っている。また、文久2年(1862)12月には御殿山に建設中のイギリス公使館を襲った高杉晋作、伊藤博文らが前夜に泊まっている。

街道を進むとやがて、かつて本陣があった聖蹟公園に至り、その少し先で目黒川に掛かる品川橋に差し掛かる。


品川橋の手前右側の荏原神社は、祈願して叶わぬことは無いといわれる。そこから目黒川に沿って少し上流に行ったところには、家光が沢庵和尚のために建てた東海寺がある。
品川宿はこの品川橋を境に北品川、南品川にわかれ、この先の南品川の旧道沿いには古くからの寺社が多い。そのうちの一つ、品川寺(ほんせんじ)には、江戸六地蔵の一つが入口を入ったすぐのところに鎮座している。


鮫洲の商店街を抜けると、前方の立会川に小さな石橋がかかっている。別名涙橋といい、この少し先で旧道と国道が合流する地点には、鈴が森刑場跡がひっそりと残されている。
ここからしばらくは国道を歩くことになる。

京急蒲田駅の先、多摩川に差し掛かる手前左側に六郷神社がある。昔は六郷八幡宮と呼ばれており、源頼義、義家の父子の時代に創建されたという。
六郷神社の先で多摩川の堤防にぶつかる。往時は、ここは渡し舟で渡ったが、今は国道に架かる新六郷橋で渡る。
ここで多摩川を越えると、川崎宿に入って行く。
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2 川崎宿
川崎宿入口には旧東海道の道標が建てられている。


川崎宿は、元和9年(1623)、品川と神奈川両宿の伝馬負担を軽減するため開設された。川崎大師が近いため、多くの参詣者で賑わったが、今は本陣跡などに標識が置かれているだけで、往時の宿場の遺構などはまったく残っていない。
広い市役所通りを右に曲がるとJR川崎駅が近い。東海道歩き旅初日はここまでとし、ひとまず帰宅。

2011年6月27日、川崎から歩き旅を再開。(川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿)

駅を出て市役所通りの砂子交差点で旧道に入り、少し行った小土呂橋交差点から八丁畷に向けた真っ直ぐな道を進んで行く。
教安寺近くの京口見附跡を過ぎて京急八丁畷駅手前に来ると、植え込みに芭蕉句碑が置かれている。
  - 麦の穂を たよりにつかむ 別れかな - 
元禄7年(1694)5月、故郷の伊賀国へ帰る芭蕉を見送りにきた門弟たちとの惜別の句である。


京急八丁畷駅手前の踏切で一部途切れているが、踏切を渡ると再びまっすぐな道が続いている。ちなみに、”畷”とは”まっすぐな長い道”という意味で、地図を見ると小土呂橋から鶴見橋のあたりまでまさにまっすぐな道が伸びている。
やがて市場通り商店街のはずれまでくると、江戸から5番目の市場一里塚跡がある。左側だけだが今も塚が残り、そこには稲荷社が鎮座している。


鶴見川を渡ると、左手に鶴見橋関門旧跡碑が置かれている。安政5年(1858)に始まった安政の大獄以来の世情不穏な中、安政6年(1859)横浜港開港とともに、外国人警護の為、横浜への主要道路に番所や関門が設けられた。

この先、旧東海道は鶴見神社横を通り、商店街を抜け、京急鶴見駅の高架をくぐる。そこから高架沿いの道を進んで国道15号を横切ると、生麦魚河岸通りに入って行く。
ほどなくJR鶴見線の高架が見えてくる。この高架下のトンネル通路に国道駅があるのだが、ここだけ時計が止まったかのような独特のレトロな雰囲気が漂い、得も言えぬ異様な空間となっている。


国道駅を過ぎた旧道沿いには、どこか懐かしさを感じるような数十軒の魚屋が立ち並んでいる。江戸時代には、ここの魚河岸で取引された魚は江戸に送られ、幕府にも献上されていたという。

しばらくすると住宅の塀に生麦事件発生現場跡の説明板が設置されたところを通る。文久2年(1862)、島津久光の行列に入り込んだ英国人が殺傷され、翌年の薩英戦争に発展した事件が発生したところである。
左手にキリンビール工場を見ながら進むとやがて国道と合流し、しばらくは国道を淡々と歩く。
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3 神奈川宿
神奈川宿は、神奈川湊を中心に古くから栄えたところで、神奈川新町あたりから台町のはずれの上台橋あたりまで続く大きな宿場であった。当時の絵図で見る東海道は海沿いを通っており、今の横浜駅周辺はほとんど海の中で、今の街並みからは想像もできないくらい大きく変貌している。
青木橋あたりまでは、現在国道となっている旧東街道に往時の面影はまったく見られない。その代わり、国道の一本裏手に「神奈川宿歴史の道」が整備されており、多くの寺社や史跡が見られるので、そちらを歩いてみた。

宿場入口近くの神奈川通東公園にかつてあった長延寺は、幕末開港当時はオランダ領事館に充てられていた。
金蔵院、熊野神社を過ぎると、そこから滝の川までの道には、往時の街道を彷彿とさせるような松並木や高札場が復元されている。


すぐ先の成仏寺は、開港当時アメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボン式ローマ字でも知られるヘボン博士も住まいとしていた。ヘボン博士は、日本最初の和英辞典を完成し、聖書翻訳なども行った。また、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽力した人である。
滝の川を少し上流に行った慶運寺は、開港当時はフランス領事館が置かれた。ここは浦島寺ともいわれ、浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったという観音像など浦島伝説に関わるものが多く残されている。
滝の川は神奈川宿のほぼ中央を流れ、川を挟んで江戸側に神奈川本陣、京側に青木本陣が置かれていた。
滝の川を渡ったところにある浄滝寺は、開港当時はイギリス領事館に充てられた。
少し南の宗興寺は、開港当時、ヘボン博士が施療所を開いた所で、境内を入るとヘボン博士施療所碑が建てられている。生麦事件の際には、傷を負ったイギリス人が逃げ込んだアメリカ領事館のある本覚寺にここから駆けつけて治療に当たった。


路地を入った幸ケ谷公園は、北条早雲が上杉朝良と戦った権現山合戦場跡。かつてこのあたりは、本覚寺のある高島台と尾根伝いに繋がる急峻な山だった。この後訪れる本覚寺の方から見ると、それがよく分かる。
ここから旧街道に戻る途中にある洲崎大神は、源頼朝の創建で、参道を下った先はかつては海で、国道に突き当たるあたりが船着場だった。

旧街道に戻ったところは宮前商店街で、開港当時、近くの普門寺はイギリス士官宿舎に充てられ、甚行寺はフランス公使館に充てられた。
また、宮前商店街を抜けた青木橋の先の右手高台にある本覚寺は、アメリカ領事館として使用された。山門に向かってやや急な石段を上って行くと、眼下にJRや京急の線路と国道が走っており、その向こうに先ほど行った権現山が臨める。かつては尾根が繋がっていたのだが、幕末から明治にかけて、この山は削り取られ、その土が台場や鉄道用地の埋め立てに使用されて現在のようになったとは驚きである。(下の写真は本覚寺山門から臨む権現山方向)


青木橋を渡った台町あたりは、往時は神奈川湊を見下ろす風光明媚なところで、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や歌川広重の浮世絵にも紹介され、立ち並ぶ茶屋がたいそう繁盛したという。
大きなマンションが立ち並ぶ今の街並みからは想像もつかない話である。その一角で今も料亭を営む田中屋は、文久3年(1863)創業で、その前身の「さくらや」は広重の画にも描かれている。勝海舟の紹介で竜馬の妻おりょうが働いていたこともあるなど、歴史の生き証人になっている。


田中屋脇の路地にまわってみると、急坂が下っており、往時の面影はないものの、崖下は海であったことが窺える。
街道の少し先、坂を上り切ったところには神奈川台関門跡碑と袖ヶ浦見晴所碑がある。開港後、外国人の安全を守るため、東海道や横浜の主要地点に関門や見張り番所が設けられた跡である。


坂を下って上台橋と呼ばれる陸橋を渡る。このあたりが神奈川宿の京方口であった。
高速道路をくぐり、旧芝生村(しぼうむら)の鎮守浅間神社の前を進んで行くと、やがて八王子道との追分に出る。
横浜開港により日本の生糸が横浜から大量に欧米へ送られるようになった時、八王子道は、関東周辺や多摩地域の生糸の集積地であった八王子から横浜へ生糸を送るのに使われたことから、絹の道ともいわれた。

追分からすこし行くといつも賑わっている松原商店街に入って行く。国道16号を横切って帷子(かたびら)川を帷子橋で渡ったところの相鉄線天王町駅のあたりからが、かつての保土ヶ谷宿である。
今日の旅はここまでとし、相鉄線天王町駅から帰宅。
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2011年7月3日 保土ヶ谷宿~藤沢宿
相鉄線で天王町駅まで行き、歩き旅の再開。

4 保土ヶ谷宿
天王町駅前の小公園には、旧帷子橋がモニュメントとして復元されている。帷子川の流れが相模鉄道本線の南側から北側に付け替えられたため帷子橋の位置も変わっているが、かつては、この公園のところにあった。広重の保土ヶ谷宿ではこの帷子川と帷子橋が描かれている。


保土ヶ谷駅の方に向かってしばらく広い道を進み、保土ヶ谷駅前のところで分かれてまっすぐに進む旧道は急に狭い道となる。
この道には助郷会所跡、問屋場跡、高札場跡といった標柱や説明板が次々と現れ、すぐ先の金沢横町には4基の道標が集められている。保土ヶ谷宿には脇街道への分岐が複数あったことに加え、江戸を出てからの最初の難所と言われる権太坂を控えており、本陣、脇本陣、茶屋本陣のほかに天保13年には旅籠が69軒もあるほどの大きな宿場であった。

JR東海道線の踏切を越えると、正面突当り国道1号の向こう側に保土ヶ谷宿本陣跡(苅部本陣)が見える。国道を渡って本陣跡の前を右に進むと脇本陣・藤屋跡、脇本陣・水屋跡といった標柱や説明板があり、少し先には旧旅籠本金子屋の宿場時代の建物が残されている。
やがて外川神社が見えるところ、仙人橋の架かる今井川沿いには、復元された一里塚と上方見附跡が設けられている。


街道はこの先国道の右側に渡り、すこし先の歴史の道旧東海道の案内板に従い右の旧道へ入っていく。

権太坂
元町ガード交差点で左折し、少し先の細い道に入るとすぐに横浜横須賀道の上を横切り、いよいよ権太坂の結構急な長い坂道となる。
今はそれほどではないが、当時の権太坂は生き倒れる人を葬る投込塚が設けられるほどきつく、多くの旅人は手前の保土ヶ谷宿で休息してから坂越えに挑んだという。今は、街道筋にマンションや学校が建ち並ぶ住宅地となっている。

しばらく道なりに進むと境木中学校に突き当たるが、ここを右に曲がると間もなく堺木立場跡に至る。権田坂、焼餅坂、品濃坂といった難所を上り詰つめた見晴らしのよいこの高台には、牡丹餅が名物の数件の茶屋があった。今も、街道右手に立派な佇まいの若林家屋敷が残っている。すぐ隣に境木地蔵尊があるこのあたりは、武蔵と相模の境で国境を示す杭があったことから境木という地名になったといわれている。


地蔵尊前の交差点で左旧東海道の道標が建つところを左に曲ると、結構急な焼餅坂を下って行く。
しばらくすると鬱蒼とした林の片隅に品濃の一里塚の説明板がある。周囲に住宅が立ち並ぶ中、ここだけ江戸時代の風情がひっそりと残されている。


一里塚を過ぎ、細い道を道なりに進んでしばらくすると、東戸塚のニュータウンの中を通る環状2号線を歩道橋で渡る。このあたり、かなり立体的な地形の近代的街づくりが行われていて、旧街道の雰囲気は微塵もない。
この先、道がちょっと分かりにくくなるが、川沿いの道をしばらく進んで行くと、しばらく先で国道1号に合流する。

工場など建ち並ぶ国道1号をしばらく歩き、戸塚一里塚跡の標識を過ぎるとまもなく柏尾川を渡る。ここに架かっているのが、広重の戸塚宿に画かれている吉田大橋で、橋の途中には広重の絵が何枚か掲げられている。ここが戸塚宿の入口である。
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5 戸塚宿
戸塚宿は江戸からちょうど10里の距離に位置し、約10里が1日の旅程として一般的だった当時は、戸塚で最初の宿を取る旅人が多かった。また、保土ヶ谷寄りに権太坂・品濃坂、藤沢寄りに大坂という急坂に挟まれていたことに加えて、大山や鎌倉方面の参詣客もあって、宿場は大いに賑わっていた。
吉田大橋手前を描いた広重の画に鎌倉道を示す道標が描かれているとおり、柏尾川沿いの道を左に行くと鎌倉に至る。ちなみに、この道標は近くの妙秀寺に残されている。

大橋を渡ってしばらく行くと、 戸塚駅横の開かずの踏切として名高い東海道線の踏切を越える。駅周辺は、大規模な再開発工事が進められている。
*戸塚大踏切は、平成27年3月、戸塚アンダーパス開通により閉鎖されている。

東海道線を越えると、旧道沿いに内田本陣跡の標柱が立っている。戸塚宿にはこの先の澤邉本陣とともに本陣が2軒あった。
澤邉本陣から少し先に、富塚(とつか)八幡宮がある。源頼義・義家親子の建立と伝えられる由緒ある神社である。社殿後方の山上に富属彦命の墳墓と伝えられる古墳があり、富塚と呼ばれ、これが戸塚の地名のもとになったともいわれている。


ここからすぐのところに上方見付跡があり、その先には大坂の長い上りが続いている。大坂下を過ぎたあたりに、数基の青面金剛と庚申搭群が立ち並んでいた。


大坂を上り切ると、国道1号のバイパスに合流し、松並木が残る高台を通るため視界が開け、左手下の方に戸塚の市街地が見下ろせる様になる。

国道をしばらく淡々と進んでいると、吹上交差点の先、浅間神社が見えるあたりの左手、うっかりすると見落としてしまうようなところに、原宿の一里塚跡の説明版がポツンと置かれている。
大掛かりな立体交差工事中の原宿交差点の先、影取町のところでようやく国道から分かれ、旧道は県道30号線を藤沢宿に向かう。
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6 藤沢宿
やがて道は遊行寺坂のゆるい坂を下る。毎年、箱根駅伝で通過するところだが、ここを上る復路では、結構きつい坂になるであろう。
坂の途中、右手にある遊行寺は鎌倉時代の建立で、藤沢はこの遊行寺の門前町として栄えた。本堂の裏手に行くと、小栗半官・照手姫ゆかりの寺といわれる長生院がある。
遊行寺の中を通り、石畳の坂を下りたところの黒門を出て、少し先の境川に架かる遊行寺橋を渡ると、旧道に出る。


旧街道は西に向かい、藤沢宿の中心に入ってゆく。途中、蒔田本陣跡を示す看板があるが、よほど気を付けて歩かないと見落としそうになる。往時は大いに栄えた藤沢宿だったが、今ではところどころに本陣跡、問屋場跡、見附跡などを示す看板や古い商家の名残がわずかに残っているだけである。

藤沢本町交差点近くで、狭い路地を入ったところに源義経首洗井戸がある。


藤原秦衡に襲撃され自害した源義経の御首は、鎌倉に送られて首実検が行われた後、腰越の浦に捨てられた。ところが、その後、白旗神社の近くに流れ着き、里人によって洗い清められ、葬られたと言い伝えられている。この近くの白旗神社には義経公鎮霊碑などもある。

今日はここまでとし、小田急線藤沢本町から帰宅。ここから我が家は近い。

2011年7月10日 藤沢宿~平塚宿~大磯宿
藤沢本町から歩き旅の再開。
駅からすぐの旧東海道に出ると、小田急の跨線橋の少し先に京方見附跡の標柱が立っている。

引地川を渡り、淡々と歩いて行くと、やがて四ツ谷で旧道は国道1号と合流する。ここは田村通り大山街道の起点で、四ツ谷交差点を横断したところに不動明王を乗せた大山道道標が祠の中に安置されている。


この道標横の細道に入ったところには大山安夫利神社一の鳥居が立ち、その先が大山道になる。
国道に合流してすぐの羽鳥交番前交差点を渡ると、四ツ谷一里塚跡があり、少しばかりの区間だが東海道の趣を残す松並木が見られるようになる。
その先の二ツ谷稲荷神社の辺りは、かつては二軒の茶屋がある立場で、大山詣での参詣者や江ノ島鎌倉の物見遊山の人々で賑わったと云う。

茅ヶ崎
二ツ谷を過ぎると茅ヶ崎に入り、ところどころ松並木が見られるようになる。とくに、松林中学入口あたりから茅ヶ崎高校前あたりまで、国道に沿った松並木が続き、東海道を歩いている気分が高まる。茅ヶ崎駅に近い元町に入ると左手に茅ヶ崎の一里塚が残っている。


茅ケ崎駅前交差点を越えた右手の茅ケ崎市役所の敷地内に、たいそう立派な石燈籠が4基あった。徳川家の菩提寺である上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていたが、そのうちの一部が、戌辰の役、関東大震災、戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものだという。


少し下りの十間坂の先で、右に大きく曲がる辺りまでが茶屋町で、南湖の立場があったところになる。この辺りから見える富士を南湖の左富士といい、浮世絵にも描かれている。鳥井戸橋(千の川)の渡り詰に東海道南湖左富士之碑があり、碑の向かい側に鶴嶺八幡宮の鳥居と参道が見える。

下町屋を過ぎ、小出川(古くは赤池川)を渡るが、古くはこの辺りが相模川の流路であったとされており、関東大震災の時、橋の手前の水田が隆起して7本の橋脚が出現した。国指定史跡の旧相模川橋脚として近くに残されている。鎌倉時代に、源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考えられている。ちなみに、頼朝はこの橋の落成供養に出席した帰路に落馬し、それが原因で死去したという説がある。


相模川に架かる馬入橋を渡ると、平塚に入る。
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7 平塚宿
平塚から次の大磯宿まではわずか1里足らずと、宿間が短いところだった。
平塚の市街地に入ると、ちょうど七夕まつりで大変な賑わい。期せずして、有名な七夕祭りの真っただ中を通ることとなった。


商店街のアーケードの先の大きな交差点を渡り、少し歩くと右側に平塚宿江戸見附跡の標柱と説明板があり見附石垣が復元されている。


平塚には本陣跡、脇本陣跡、高札場跡などいろいろな標柱などが随所に置かれているが、往時の建物などは全く見かけられない。第二次大戦末期の空襲で、市街地の大部分が消失した。

国道1号に合流するところに京方見附跡が復元されており、前方にこんもりした高麗(こま)山が見える。高麗山の名は、奈良時代に新羅に追われた高句麗一族が移り住んだことに由来している。広重の平塚宿の画はこの付近からの眺めといわれ、まさに当時の姿そのものが目の前にある。


花水橋を渡ると、大磯町である。少し先には高麗山の懐に抱かれるようにたたずむ高来神社がある。
高来神社の先の化粧坂交差点で国道は左に曲がっていくが、旧東海道は真っ直ぐに進んでいく。 
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8 大磯宿
大磯といえば、明治以後日本最初の海水浴場に指定されたりして、美しい松並木が残る風光明媚な別荘地として発展してきた街というイメージが強い。しかし、大磯宿の形成は鎌倉時代に遡り、古くからの歴史ある街である。

国道から分かれた旧道には、今も旧い松並木が続いていて、いかにも旧道らしい静かで風情のある道が残っている。鎌倉時代、大磯の中心はこの化粧(けわい)坂の付近にあったという。


坂の途中の民家の庭の片隅に化粧井戸がある。仇討で有名な曽我十郎の恋人虎御前がこの近くに住み、朝な夕なにこの井戸の水を汲んで化粧をしたと伝わる。


旧道はこの先で東海道線に分断されるため、地下道を潜って進む。
地下道を抜けると再び化粧坂の雰囲気を残す松並木の街道が現れ、道をまたがるように斜めに立った松の木がいかにも歴史の長さを偲ばせる。


すぐ先で再び国道1号と合流するが、合流点近くに大磯宿江戸方見附跡の看板がおかれている。
ここから大磯宿に入って行くが、今日はここまでとし、大磯駅から帰途に就く。
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日本橋から大磯までは比較的我が家から近いため、時間を見つけては日帰りで歩き旅を繰り返して、少しずつ進んできた。

東海道歩き旅を始めてからまだ間もないが、日本橋から平塚あたりまでは都会化が進んでいて、往時の風情が残っているところは少ない。
だが、藤沢や茅ヶ崎あたりまでくると、松並木がところどころに残っていて、いかにも東海道を歩いている気分になれる。
平塚の先、高麗山を見ながらしばらく行った化粧坂あたりは、とくに印象に残るところであった。
化粧坂の名の由来は前述しているが、古の逸話さえも、自然な感じに立ち並ぶ松並木とともに、時の流れを経た今の街並みに溶け込んでいて、しばし別世界に踏み込んだような不思議な気分になった。