掛川~二川

2011年11月4日 (掛川宿)~袋井宿~見付宿~浜松宿
2011年11月5日 浜松宿~舞坂宿~新居宿~白須賀宿~二川宿

前回に続き、掛川宿の途中から再開。まずは、駅から真っすぐ掛川城に向かう。

(掛川宿続き)
掛川城は、室町時代に今川義忠が家臣の朝比奈氏に命じて築かせたのが始まり。その後、家康の領有となったが、天正18年(1590)家康の関東移封に伴って山内一豊が入り、天守閣、大手門を建設すると共に、城下町の整備や大井川の治水工事などを行った。
現在の掛川城天守閣は平成6年に復元されたもので、小規模だが本格木造の貴重なものである。


東海道に戻って少し行った中町交差点角の清水銀行の壁面に、馬に跨った山内一豊と轡(くつわ)を持つ妻・千代の浮彫刻がある。夫の出世を願う千代が、へそくりで名馬を買い求めたという内助の功が語り継がれている。


少し先の円満寺には、掛川城の蕗の門が移築されている。この先で右へカーブし、道なりにしばらく行くと旧国道に合流して大池橋に出る。広重の「掛川」では、この大池橋と秋葉山を遠景に描いている。大池橋を渡ると旧東海道は左に行くが、すぐ目の前右手に秋葉山神社遥拝所がある。ここは火防の神秋葉山への秋葉街道の入口だった。

しばらくは県道253号線を淡々と進み、東名高速高架をくぐって垂木川を渡ると右手石段上に善光寺がある。延暦9年(790)奥州征伐に向かう坂上田村麻呂の守護仏阿弥陀如来を安置したのが寺の始まりという。
この先、街道にはいかにも東海道らしい原川の松並木が残されている。
やがて原野谷川に架かる同心橋を渡ると袋井に入る。
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27 袋井宿
袋井宿は、掛川と見附の間が4里と長く、その間を埋めるために追加された宿であり、宿の制定は他の東海道の宿場より遅かった。宿場の規模は小さかったが、遠州三山の参拝客で賑わっていた。法多山尊永寺は厄除けで知られ、万松山可睡斎は日本唯一の火坊霊場、医王山油山寺は眼病治療で有名であった。

同心橋の渡り詰に花茣蓙公園がある。この辺りは名栗の立場跡で、花茣蓙(ござ)が名物だった。
公園から少し行くと松並木の快適な道が続く。往時、掛川宿より袋井宿迄松並木が続き、今も名栗から久津部間に松並木が残されている。


やがて右手に富士浅間宮赤鳥居が現れる。本殿は鳥居の左側の道を北へ800mほど行ったところにあり、桃山時代の建築物で国の重要文化財となっている。


さらに行くと、「東海道五十三次どまん中東小学校」と大きな看板をかけた小学校の横に久津部の一里塚跡碑がある。ここは江戸からちょうど60里のところにあたり、当時のものは残っていないが、小学校の創立100年記念で復元された塚である。このほか、このあたりの旧道沿いには、様々な道標が立ち並んでいる。

新屋にくると、竜などの彫り物が施された立派な秋葉山常夜灯がある。秋葉山常夜灯というと、殆どが石灯籠だが、ここにあるのは木造の珍しいものである。


常夜灯を右に見て真っ直ぐ進むと袋井市役所の前に出る。左に曲がり最初の交差点を渡って右に渡ると、植え込みの中に大きな袋井宿石柱と説明板が立っている。袋井宿は東海道53次の27番目の宿で、ちょうど東海道のどまん中になるということだ。
そのすぐ先の三叉路のところのにぎにぎしく幟が立つ小公園に東海道どまん中茶屋というお休み処があるので、ちょっと立ち寄ってみた。ボランティアのお年寄りが何人かいて、街道歩き人などを相手にもてなしてくれる。流石に出されたお茶は天下一品であった。


すぐ先の仲之川にかかる御幸橋手前に小公園があり、秋葉山常夜灯が建っている。このあたりが袋井宿の西の入口である。

この後、旧国道1号と合流し、歩道橋右手に少しだけ残る旧道を入って行くと、左に木原の一里塚跡がある。この近くには木原畷の古戦場跡がある。武田信玄と徳川家康の戦った有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦がここで行われた。

この先で、太田川を渡ると見附宿に入って行く。
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28 見付宿
西からの旅人が初めて富士を見つけたところが見付の地名由来と云い、古には遠江国府が置かれ、遠江國の中心地であった。
現在の見付宿はサッカーで有名な磐田市といったほうが分かりやすい。

太田川を渡り、渡詰めを左折して土手道に入ると、すぐ先の石段を下りて旧道に入る。
十字路を横断すると松並木が残っており、その先は三ケ野坂という坂になっていて、時代とともに変わった道筋が、明治の道、大正の道、江戸の古道として残っている。
しばらく行った先の街道にも松並木が残っており、坂を上り詰めると県道413号線に合流する。
すぐ目の前の歩道橋を渡ると、右手の小高い所は遠州鈴ケ森刑場跡で、急な石段を上ると日本左衛門の供養塔がある。

この先で旧道は斜め右の道に入り、住宅の建ち並ぶ旧道を進むと、やがて愛宕山脇の急な下り坂となる。
急坂を下ると下道に突き当たり、左に愛宕神社の参道石段口があり、右手が宿並となる。ここが見付宿の江戸方口で、ここには東海道五十三次之内遠州見付宿木戸跡標識がある。

この先の宿内に、往時の遺構を残すものはほとんど見当たらないが、随所に、本陣跡、脇本陣跡、木戸跡など丁寧な標識が数多く置かれている。 
途中、本陣跡の次の交差点を右に入るとすぐのところに見付学校が残されている。これは現存する日本最古の木造小学校校舎で、明治7年に建てられた西洋風のモダンな学校として有名だった。


この先東海道は磐田駅の方向へ大きく左に曲がるが、ここをまっすぐ行くと通称姫海道といわれた道となる。東海道はこの先新居の関所があり、特に女性を厳しくチェックしたことから、この関所を避けて通るために、姫街道のほうを通る女性が多かったという。
姫街道入口のあたりに見付宿の京方口の西木戸があった。

磐田駅の方に行く途中、右手に特別史跡遠江国分寺跡がある。天平13年(741)聖武天皇の詔で全国に建立された国分寺跡で、七重塔の跡や金堂跡の礎石を残している。
向いの左手には府八幡宮があり、楼門は嘉永12年(1635)建立の随身門である。

旧街道は、磐田駅の手前で右に曲がり、しばらくは淡々と西に向かって行く。
やがて天竜川にぶつかる。天竜川を渡る天竜川橋は長大なうえに歩道部分がないので、歩行者にとって危険な橋だったが、平成20年天竜川橋に並行して新天竜川橋が完成し、こちらの歩道を通れるようになった。

天竜川を渡るころには日が暮れはじめていたため、ひたすら浜松駅前のホテルを目指す。
途中から浜松駅前の地上45階、高さ200m超のアクト・タワーが見えてようやくホッとするが、なかなかたどり着かない。秋の陽は釣瓶落としで、予約したホテルにたどり着くころにはすっかり夜のとばりが下りていた。
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2011年11月5日 浜松宿~舞坂宿~新居宿~白須賀宿~二川宿
翌朝、例によって早朝散歩で、何はともあれ浜松城に向かう。

29 浜松宿
浜松宿は、徳川家康が築城した浜松城の城下町であり、東海道最大規模の宿として栄えた。浜松城の石垣は、野面積みと言われる、自然石を積み重ねたもの。石を加工して隙間なく積み上げた切込みハギの石垣に比べ一見粗雑に見えるが、見応えがある。


家康は浜松城に17年間在城したが、この期間は辛酸を舐めた時期で、三方ヶ原の合戦に大敗し、織田信長から正室の築山御前と嫡子信康は武田信玄に内通していると疑われ、処刑を命じられ、死に追いやっている。
家康にとっては辛酸を舐めた浜松城だが、徳川の世になると譜代大名が城主となり、25代の城主のうち5人が老中になったところから出世城と呼ばれた。
広重は「浜松」として画面右奥に浜松城、その右手前に颯々(ざざんざ)の松を描いている。颯々の松は30本の松が群生したもので、室町6代将軍足利義教が風にざわめく松の音を「はま松の音はざざんざ」と謡い、これが浜松の地名由来になった。

城から連尺町に戻り東海道を南へ向かう。
連尺交差点から次の伝馬町交差点までが宿場の中心で、当時は6ヶ所も本陣が軒を並べていた。今は往時の遺構は全く残っていないが、丁寧な説明板が随所に置かれている。
浜松は東京、大阪の中間にあって、工業都市として発展したが、戦時中、激しい空襲に会い、徹底的に破壊されてしまった。

街道の西側、奥に五社神社諏訪神社がある。諏訪神社を合祀するかなり規模の大きい神社であった。家康が2代将軍秀忠の誕生を祈願し、浜松城内にあった五社神社を産神として、現在地に遷座した。拝殿は家康らしい派手な極彩色の造りである。


このあと、早朝散歩から一旦ホテルに戻り、朝食を摂って再出発する。

再び東海道に戻り、しばらく歩いて成子交差点渡って右に曲がり200mほど歩くと左角に数体の石仏が並んで祀られている子育て地蔵尊の御堂が有るので、旧東海道はここを左に入る。

新幹線のガードを抜けると八丁畷と呼ばれる、まっすぐな道が八丁(約800m)程続く。かつては、松並木が続く美しい所だったのだそうだ。八丁畷というのは、川崎宿にもあった。

八丁畷の終わる東若林のところで道路は大きく右に曲がるが、その両側に道をはさんで二つの御堂が残されている。二つ御堂と呼ばれているものである。奥州平泉の藤原秀衡が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀衡死去の誤報を聞き、その菩提を弔うために阿弥陀堂を建立。一方、京の秀衡は病が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝を込めて向側の薬師堂を建てたと言われている。


二つ御堂を出た東海道は西に伸びるまっすぐな一本道となり、所々に松並木跡らしく、松が生えている。
高塚の先で国道と右に分かれて篠原立場へ入る。左手の旧家は、説明はないが立場本陣跡らしい。さらに行くと、篠原一里塚跡の説明板がある。
それを過ぎると秋葉常夜灯が頻繁に現れる。このあたりの秋葉常夜燈は袋井宿で見たような屋形に入っているものが多い。似たような形でもそれぞれに微妙に違っており味わいがある。

やや単調な国道を淡々と進み、右手に東本徳寺、西本徳寺と二つ並んでいる寺を過ぎると、その先の交差点の右角に春日神社が見えてくる。奈良の春日神社から勧請されたものらしく、真っ赤な社殿である。この先、舞阪宿に入って行く。
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30 舞阪宿
春日神社の前方には実に見事な舞坂の松並木が続いている。約700mの両側におよそ330本の松が残っているそうで、現在残されている旧東海道の松並木の中でも屈指のものといえるだろう。いかにも東海道らしい風情のこうした松並木を歩くのは、街道歩きの大きな楽しみである。


松並木を過ぎると舞坂宿に入る。舞坂宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋28軒の比較的小さな宿場である。現在、本陣跡には碑が立っている。
また、その近くには脇本陣茗荷屋が復元されて建っている。この建物は天保9年(1838)に建設されたものを修復・復元したものだそうだ。

脇本陣の先はもう浜名湖の堤防である。昔の東海道を行く旅人は、ここから船に乗り対岸の新居宿まで海上一里を渡ることになる。現在、渡船場の跡が残されている。当時は船の着く水際まで石が敷かれており、これを雁木(がんげ)といったが、そのうちの一つ北雁木が復元されている。また、近くには常夜灯も設置されている。


現代の旅人は渡し舟がないので橋を渡ることになる。弁天橋を渡ると弁天島海浜公園という景色のよい公園がある。ここからは湖水がよく見渡せる。遠くに浜名大橋が見えるが、ここで浜名湖は海とつながっている。昔は、ここは砂州で歩いて渡れたそうだが、地震や津波によってこの砂州は切れてしまい、海とつながってしまった。このことからこの地を「今切」と呼び、ここの渡船を今切の渡しといった。


この先も、今は中浜名橋、西浜名橋の歩行者専用橋を渡って新居関へ渡る。新幹線では一瞬のうちに通り過ぎてしまう浜名湖だが、歩いて渡ると結構距離がある。
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31 新井宿
広重は舞坂宿から新居宿への今切の渡しの舟と右手上方に新居関所を描いている。
渡し船で渡って着いたところが新居関で、否が応でも関所を通らなければ京へ上れない仕組みとなっており、箱根と並ぶ東海道の二大関所として睨みをきかせていた。正式には今切関所といい、慶長5年(1600)に設置され、当初は今切口近くにあったが、地震・津波により幾度も被災・移転し、宝永4年の大地震後現在地に落着いた。建物は安政2年(1855)に再建されたもので、現存する唯一の関所建物として国の特別史跡に指定されている。


関所を越えると新居宿に入る。
関所の少し先左側に紀州藩の御用宿であった旅籠・紀伊国屋がある。
その先のT字路の突き当たりには疋田弥五助本陣跡、飯田武平衛本陣跡、疋田八郎兵衛本陣跡と本陣跡が立ち並んでいる。

旧道をさらに進むと、道標「橋本・新居宿加宿」がある。後から新居宿に加えられた橋本というところである。鎌倉時代にはここから浜名湖が歩いて渡れたため、ここに宿が置かれ大いに賑わったという。
橋本宿碑からしばらく行ったところに道標紅葉寺跡があり、右側の高台に紅葉寺跡がある。室町幕府六代将軍足利義教がこの寺で紅葉を賞したので紅葉寺というそうだが、今は参道を残すのみ。
このあたりの道は、美しい松並木が続いていたが、昭和50年頃の松くい虫の被害で全部枯れてしまったという。今は、新しい松を植えなおし浜名街道として整備、復元されている。

松並木の終わり近くに立場跡碑が建てられており、すぐ先の右手に東新寺がある。その先の右手段上に金毘羅神社が祀られており、右隣に木造屋形の秋葉山常夜燈が並んでいる。


次いで大倉戸の集落を出る手前に、柵に囲まれて明治天皇御野立所趾碑があり、そこを過ぎると、いよいよ遠江国の一番西端にある宿場白須賀宿に入って行く。
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32 白須賀宿
新居町から白須賀に入ると、右手高台に鎮座している火鎮(ほずめ)神社は、元白須賀宿の鎮守であった。現在の元町辺りにあった白須賀宿は宝永4年(1707)の津波により壊滅的な被害を受け、翌年潮見坂上の現在位置に移転した。

浜名湖カントリークラブの大きな風力発電の風車を過ぎると、人家の前に一里山旧址碑と高札建場跡碑がある。この辺りでは一里塚を一里山と呼び、標石には一里山址と刻まれている。白須賀(元町)の一里塚跡で、江戸日本橋より数えて70里目。
十字路を越すと右手に白壁に囲まれた内宮神明神社があり、社殿は段上に鎮座している。内宮神明神社の隣には堂々とした内藤家の長屋門がある。


案内標識に従って右に入ると高台に曹洞宗蔵法寺がある。慶長3年(1598)の創建で、家康より23石の寄進を拝領した。
街道に戻り、数分歩くと街道の正面に国道42号高架が現れ、道が二手に分かれる。
この分岐ポイントには左新道・右旧道と刻まれた小さな道標と大きな夢舞台道標「白須賀宿 潮見坂下」がある。旧道はここを右折し、潮見坂の長い急な上り道となる。
往時はこの坂を上ったところで振り返り見ると、広大な海が眼下に広がる絶景が眺められたらしいが、今は、残念ながら木々の間にちらっと遠州灘が見えるだけとなっている。


坂を登り切ると左側におんやど白須賀という無料休憩所があり、休憩室の他に白須賀宿に関する展示室がある。
おんやど白須賀を出てしばらく歩くと、かつての宿場街に入って行く。白須賀宿は、鉄道からも国道からも離れている為、ひっそりと古い街並みが残っている。
宿場入口は、曲尺手(かねんて)と呼ばれる枡形の道となっている。宿場を進んでいくと、往時の旅籠屋跡や商家跡には屋号を記した看板があちこち掛けられており、本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡には跡碑が置かれている。
白須賀宿のはずれに、境宿・白須賀宿加宿道標がある。境宿は文字どおりに遠州と三河の境付近にあり、元白須賀に宿場があった頃は間の宿として賑わっていた場所だった。
このすこし先に境川という小さな川があり、ここがかつての三州(三河)と遠州(遠江)の国境、現在の静岡県(湖西市)と愛知県(豊橋市)の境界になる。

やがて、旧道は国道1号に合流し、二川までしばらくは車の往来が激しい単調な道を淡々と歩くことになる。
新幹線のガードをくぐって、すぐ先の梅田川にかかる筋違橋(すじかいばし)を渡ると、二川に入ってゆく。
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33 二川宿
二川宿は、筋違橋の先で東海道線の踏切を渡って左に少し行ったところから始まる。
梅田川と落合川の合流点付近にあることから名付けられた二川宿は、街並み保存に熱心に取り組んでいるため、現在も旧道の両側に旧家が多く残り、往時の宿場の雰囲気が色濃く残る。

宿場入口右側の旧旅籠川口屋は、今は観光案内所となっている。
少し先右手にある八幡神社は、旧二川村の氏神様であった。
二川宿は、開設当時は二川村と大岩村の二つの村がそれぞれ宿場として人馬の継ぎ立て業務を行っていたが、小さな村でしかも二つの村の間が1.3km離れていたため、村はかなりの負担を強いられていた。そのため、正保元年(1644)二川村を西に、大岩村を東に移転させ、二川宿と加宿大岩宿として再出発している。

右側に商家の東駒屋が見える。商家としてはここで最も古い建物で、江戸時代から味噌・たまり醤油を造り、現在でも赤味噌を製造販売している。


宿中央部には広大な敷地に立派な本陣が残されている。文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、現在は改修復元工事をされ、一般に公開されている。 主屋・玄関棟・書院棟・土蔵等などがあり大名や公家など貴人の宿舎の様子を現代に伝える。


東海道では、草津宿の本陣と並び、現存する本陣の遺構として貴重な文化財として管理されている。

本陣の向かいの西駒屋は、先に通った駒屋の分家で、味噌や溜まり醤油を販売している。こちらも、商家の雰囲気をよく残している。

さらに進むと、枡形に入り、その南側に高札場跡の石碑、小さな社が建っている。かつて、ここにあった高札場は、現在、二川宿資料館の中に復元されており、石灯籠の常夜灯は宿入口にあった八幡神社に移されている。

ここで二川宿を抜けて、加宿の大岩宿に入る。
今回の旅はここまでとし、JR二川駅から帰途についた。
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白須賀宿を経て、ようやく長かった静岡県の旅を終えた。箱根西坂を下り、三島宿から白須賀宿まで歩いた静岡県内の宿場の数はかれこれ22、日本橋からでは32の宿場を歩いたことになる。
白須賀宿の先の境川を渡って国道1号にぶつかる一里山交差点の近くの一里山一里塚は、日本橋から数えて71番目。三条大橋に最も近い御陵一里塚が124番目なので、一里塚で53を残している。
三条大橋はまだ遠い。