水口~京都

2012/4/9~10 水口~石部~草津~大津~京都三条大橋

東海道歩き旅もいよいよ今回でゴールを迎える。
4/8横浜発の夜行バスで草津へ行き、草津から電車で前回到達した三雲まで行って、7時半頃には歩き旅を再開する。初日は三雲から石山まで、翌日、三条大橋を目指す予定。
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水口のつづき
三雲駅を出るとすぐの交差点角に、微妙大師萬里小路藤房卿墓所と刻まれ、側面に妙感寺従是二十二丁と刻まれたた大きな碑が建っている。藤房は後醍醐天皇の側近で、元弘の乱で鎌倉幕府討伐をはかり、捕らわれて下総國に流罪となった後に出家し、ここから2kmほど行った妙感寺を開山している。
少し先の民家の前には、さらにひと際大きな明治天皇聖蹟碑が建っている。


線路を越えて吉永に入るとすぐ先に隧道が見えてくるが、なんと、この隧道の上には天井川の大沙川が流れている。天井川というのは、土砂が堆積して川底が上がり、土手を高くしているうちに川が高いところを流れるようになったものらしいが、滋賀県東部ではこの先でも見ることになる。


隧道を抜けた左側に土手に上る道があり、弘法大師錫杖跡の石碑と弘法杉の案内板があった。弘法大師がここを通りかかった時、眺めが良かったのでここで昼食をとり、その時使った杉箸を堤に挿したところ、これが成長して大杉になったと伝えられている。

この先、しばらく歩くと、立場で賑わった夏見の集落となり、趣ある立派な屋敷が多くみられる。


ここでもまた同じような隧道が見えてくる。これは由良谷川隧道で、上は天井川の由良谷川である。


隧道の先左側に、文化2年創業という北島酒造がある。鈴鹿山系の伏流水を使って御代栄という酒を造っている。


少し先の家棟川もかつては天井川だったが、昭和54年に河川改修されている。
しばらく行くと、綺麗なベンガラに塗られた家が目についた。白壁とベンガラのコントラストがひときわ鮮やかで、玄関に置かれた生け花が見事にマッチしていて、実に洗練されたお洒落な感じのお宅であった。


それにしても、このあたりの街道沿いには寺社が多く、また、道標、常夜燈、地蔵尊などがあちこちに置かれている。
柑子袋(こうじぶくろ)村に入ると、愍念寺、光林寺、養林寺と続き、光林寺の向いに八嶋寺地蔵堂道標がある。少し先の左手の上葦穂(かしほ)神社は、天智3年(664)の創建で延喜式神名帳に記載された古社である。

柑子袋村を過ぎるとまもなく落合橋が見えてくるが、この川を越えた先に石部宿木戸があった。やがて、道は石部宿に入って行く。
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51 石部宿
石部は幕府直轄の宿場で、伊勢参宮街道との分岐点として多くの旅人で賑わっていた。また京から9里程の距離にあり、京発ち石部泊まりと云われて、京を発って東海道を往く旅人は石部宿に泊まるものも多かった。

「これより石部宿」の立て札の立つ宿入口の近くに吉姫神社がある。ここの狛犬は木造で、南北朝時代のものだという。かなり歴史のある神社で、この先の吉御子神社と対の関係にあるという。

現在の石部は古い家や建物などほとんど見られないが、昔ながらの細い道がそのまま残り、塗壁の旧家があるなど、静かな街並みにどことなく往時の宿場の雰囲気が感じられる。
途中、左に石部小学校があり、たまたまこの日が入学式のようで、入学式に向かう親子連れが朝日の中でキラキラと輝いて見えた。

石部中央交差点左手には高札場跡があり、宿場を紹介する小公園が設けられていた。
その少し先に、石部本陣跡と刻まれた石碑が建てられている。この本陣は小島本陣跡で、間口45間、建坪775坪という、とてつもなく大きなものだったが、老朽化により取り壊されている。

街道を西に向かうと田楽茶屋休憩所がある。広重の東海道五十三次石部宿に描かれた立場の田楽茶屋を模して建てられたものという。


田楽茶屋のところを右に曲がり、突き当たりを左に曲がると石部一里塚跡がある。さらにその先に行くと西縄手跡となっていて、かつては松並木があり、道中を歩いてきた大名行列が、ここで隊列を整えて宿場に入っていった場所だそうだ。

手原
道なりにしばらく歩くと手原地区に入る。このあたりもところどころに旧家が残り、どことなく旧街道の趣が残っている。名神高速栗東ICへの道路の下をくぐると右側に黒塗りの大きな屋敷があり、壁に「東海道 手原村平原醤油店 塩谷藤五郎」と書かれた札が下げられている。

すぐ先の稲荷神社を過ぎると、「東経136度・子午線」と刻まれた石柱が立っている。東経136度は日本地図の中心線になるらしい。


この辺り、かなり立派な旧家が立ち並んでいる。


少し歩くと「東海道すずめ茶屋跡地」と刻まれた石碑に出会う。
その先を左折して行くと、上鈎(まがり)池の堤防がある。 堤防の中程に足利義尚鈎の陣碑と多数の歌碑がある。


足利将軍義尚は、近江に勢力を伸そうとしていた六角高頼を討とうと陣を張ったが、相手が逃出して、小競合い程度で終ったという。

葉山川橋を渡ってしばらく行くと左手に、シーボルトが訪ねたことがあるという善性寺がある。善性寺の僧恵教が植物学者として名が知られていたためという。
そこを過ぎると金勝川の土手にぶつかるので、右に行く。右側に見える地蔵院を過ぎて、緩く左へ曲っていく先は、目川という立場だった。菜飯田楽発祥の地として有名だったところで、元伊勢屋、古志ま屋、京いせやという3軒の茶屋の碑が建てられている。


私は、岡崎で菜飯田楽をいただいたが、東海道では吉田(豊橋)などでも名物料理として名が通っていた。

目川を出ると、草津川の堤防の上に出て、堤防に沿って右折する。新幹線の下をくぐって行くと、右側に 史跡老牛馬養生所跡の碑がある。和迩村の庄屋岸岡長右衛門は、年老いた牛馬を打はぎにする様子を見て、残酷さに驚き、老牛馬が静かに余生を暮らせる養生所をこの地に設立したという。

草津市の標識を過ぎて、土手の上の方に歩いて行く。草津川は天井川だったので、江戸時代の東海道は渇水期には川に降りて渡っていったそうだが、現在は、国道の先に架かる草津川橋を渡る。
渡ったところが草津宿の江戸方の入口で、右手の土手の上に地蔵堂、そして下に降りる道の途中に常夜燈がある。

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52 草津宿
草津宿江戸方の入口に建つ常夜燈の高さは4m程もあるもので、日野の豪商中井氏の寄進により、文化13年(1816)に建てられた。「左東海道いせ道、右金勝寺志がらき道」と彫ってある。

追分
坂を下って突き当ると中山道との追分である。草津宿は東海道と中山道との分岐点として栄えた。
追分に建つ道標兼常夜燈には「右東海道いせみち 左中仙道みのじ」と刻まれている。追分の右手には中山道のトンネルが口を開けている。上は旧草津川で、江戸時代は土手を上って向こう側に渡っていたが、明治中頃にトンネルが掘られ、土手を上らなくてもすむようになった。正面は高札場跡で、小さな高札が復元されている。左に曲がって行く道が旧東海道である。


左折してすぐ右側に、田中本陣が資料館として公開されている。田中本陣は、敷地1300坪、建坪468坪、部屋数30余もあり、国の指定史跡に指定されている。大名の宿札、大福帳、吉良上野介や浅野内匠頭、近藤勇などの名前も宿帳に残っている。


本陣のちょっと先左側の脇本陣跡は、今は観光物産館になっている。
その先の太田酒造は、江戸城を築城した太田道灌に繋がるそうで「道灌」という酒も造っていた。また草津宿の問屋場も兼ね、貫目改所も置かれ、太田家を中心とするこの一帯は草津政所と呼ばれていたとのこと。


商店街が終り、交差点を通過すると、角に立木神社がある。草津宿の鎮守で神護慶雲元年(767)の創建という古社。社名は、常陸国、鹿島明神がこの地に一本の柿の木を植えたことに由来するとのこと。その縁で狛犬は鹿が使われている。


神社を出ると草津宿も終りになって、新草津川に架かる矢倉橋を渡る。

古い家が残る静かな旧道を進むと右側に珍しい瓢箪を扱う瓢泉堂がある。この店は草津宿名物の「姥が餅」を売る店の跡で、餅屋は明治になって国道の方へ移転している。ここは東海道と矢橋街道の追分で、店の角に「右やはせ道、これより廿五丁」と刻まれたやばせ道道標が建っている。東海道はここから陸路を進む本道と、矢橋から琵琶湖を船で渡り、大津に出る道の二通りあった。


本道を500mほど進むと、古来より和歌などにも詠まれる景勝地としても有名だった野路に着く。
国道を越えたところに一里塚公園があり、さらに800mほど歩くと野路の玉川跡が見えてくる。野路の玉川は、歌枕として著名な六玉川のうちのひとつで、ほかには井出の玉川(京都府)、野田の玉川(宮城県)、高野の玉川(和歌山県)、調布の玉川(東京都)、三島の玉川(大阪府)がある。
野路は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所で、都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。


玉川跡を過ぎると旧道は大きく右に曲がっていて、右手に大きな池が現れる。この池は弁天池と呼ばれていて、池の中ほどに弁天島があり、江戸時代の大盗賊、日本左衛門が逃げ隠れしていたとの伝説が残っている。


弁天池を越えると小さな狼川を渡るが、ここから先の旧道には昔ながらの細い道が今もそのままに見られる。

一里山
やがて左手に月輪寺と呼ばれているお寺が見えてくる。月輪寺入口には、たくさんの石碑や道標があるが、ここは明治天皇や14代将軍家茂が休まれた記録も残っていて、かなり格式の高い寺だったという。
左手の月輪池の傍らに東海道立場跡の石碑が立つ。このあたり、下月輪池、山ノ神池などの池が沢山集っていて、一里山と呼ばれる。月輪池の先は大きく左にカーブし、道なりに数分歩いた一里山2丁目交差点には月輪池一里塚が立っている。


一里塚から道なりに進み、大江4丁目を過ぎて右に曲がりながらしばらく行くと、正善寺のところで直角に左折する。しばらくまっすぐ進んで浄光寺のところで右折し、ゆるい坂を上がって行くと大きな道路にぶつかる。この道路を左に曲がるとすぐに高橋川にかかる赤い欄干の橋を渡る。
まっすぐ行くと、左側に近江国一之宮の建部大社がある。日本武尊を祀る延喜式内大社で、武運出世の神と知られ、源頼朝をはじめ多くの人々の信仰を集めていた。
少し先の丁字路を右へ曲がり、瀬田商店街を通り抜けると、そこは瀬田の唐橋の東側袂の常夜灯の前となる。

瀬田
唐橋は、琵琶湖から流れ出る瀬田川にかかる橋で、近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本3大名橋の一つである。擬宝珠が特徴的でどことなく優美さが感じられるが、たまたま橋の補修工事中で、ちょっと残念であった。橋の歴史は古く、日本書紀にも登場する。昔から瀬田にかかる唯一の橋で交通の要衝であったため「唐橋を制するものは天下を制す」とまでいわれ、源平合戦、応仁の乱など戦乱のたび焼け落ち、その都度架け替えられている。


旧道は、唐橋を渡り、京阪電車の踏切を横断し、その先の鳥居川交差点を右折するが、今日は、左に少し行った石山寺の近くの宿を予約している。
紫式部ゆかりの石山寺は、奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、良弁によって開かれた。広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石がそびえ、国宝の本堂・多宝塔をはじめ、経典・聖教類、仏像、絵巻など多くの国宝、重要文化財がある。
折角なので、とりあえず宿に荷物を置いて、桜咲く石山寺周辺の散策に出かける。知人の勧めで、このあたりは蜆めしが名物ということなので、散策後、門前の食事処で蜆めしを頂いて宿に戻った。


2012/4/10 (石山)~大津~京都三条大橋

早朝の静けさの中、宿の目の前の瀬田川で朝練習するボートの掛け声が、目覚まし代わりになってくれた。実に清々しく、気分が良い。


ここで素人句一句。
  - 瀬田川の うつろう景色に 蜆めし -
ここ石山では、瀬田川の川辺の柳や桜の混ざって日々変化する淡く微妙な色彩が、名物蜆めしの味を一層引き立ててくれた。

東海道歩き旅もいよいよ今日が最終日となる。
宿を出て、三条大橋に向けてワクワクしながら歩き始める。

晴嵐
石山駅横を通り、晴嵐交差点を過ぎると、まもなく膳所城下の入口になっていた南惣門跡碑が住宅の脇にちょこんと立っている。これから先は膳所城の城下町であり、枡形の道となっている。
京阪電車の踏切を渡ると、右手に見える若宮神社は仁徳天皇が祭神であり、ここの入口門は当時膳所城にあった城門を移築した物が使われているという。

中庄、本丸町と進むと、街道沿いには今も古い家が残っていて、いかにも城下町という風情が感じられる。
郵便局手前の交差点を左折した所には膳所の鎮守だった膳所神社がある。ここの門もやはり昔の膳所城の城門を移築した物が使われている。膳所城は明治になって廃城になったが、城門などはあちこちの神社に移築されている。

交差点を膳所神社と反対方向に行くと、琵琶湖畔に出る。そこは膳所城が建っていた場所で現在は膳所城跡公園になっている。膳所城は天守閣や石垣、白壁の塀などが琵琶湖に浮かぶ大変美しい城だったという。


街道に戻って進むと、和田神社がある。檜皮葺の本殿は重文で鎌倉時代の様式をよく表し、表門は膳所藩の藩校、遵義堂(じゅんぎどう)の門を移築したもの。左折した先の響忍寺の山門は膳所藩の武家屋敷の長屋門を移設したもの。西の庄の石坐神社の本殿は、鎌倉時代の社殿として県指定文化財となっている。その先、鍵の手の右手に膳所城北総門跡碑と、往時の名残が続く。

義仲寺
福正寺前を通り、しばらく歩いたところに義仲寺がある。寺名は木曽義仲を葬った塚があることにちなんでいる。義仲は、源頼朝軍に追われ、今井兼平とともに粟津が原で戦死した。義仲の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことに始まると伝えられる。
ここには、義仲に傾倒していた芭蕉が、その遺言によって義仲の隣に葬られている。狭い境内には、多くの芭蕉の句碑、巴御膳の塚などがある。


義仲寺を出て、大津警察署の裏を通り、京阪線の踏切を渡ると、左手に平野神社がある。この神社は蹴鞠の神様である精大明神を祭神にしているという。創建は天智天皇が近江京に遷都した668年頃にさかのぼり、藤原鎌足の創建になるのだそうだ。

平野神社を出るとまもなく京町4丁目あたりから大津の宿に入る。
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53 大津宿
大津は歴史が古く、天智天皇が大津京を開き、壬申の乱の舞台となった。その後、琵琶湖湖岸に開けた商業地として発展を遂げ、東海道、中山道、北陸道の宿駅とも重なっていて、さらに琵琶湖の港町、三井寺の門前町などの性格も合わせ持っていて、多くの人々が集まって繁栄した。

宿の入口は現在の京町4丁目付近から始まる。大津の街は完全に市街地化しているが、旧街道は狭い道が続き、今も古い家が見られる。京町3丁目、2丁目、1丁目と続いて、2丁目あたりが最も旅籠屋が多かった所といわれる。
左手に見える滋賀県庁が何となく風格を感じさせるのとは対照的に、旧街道沿いにはすだれ老舗や傘提燈店といった相当旧い商店が立ち並んでいる。

しばらく行くと、左手に露国皇太子遭難地碑がある。この碑は明治24年5月11日ロシアの皇太子が来日の折、警備の巡査津田三蔵に斬りつけられるという事件(大津事件)があった場所である。その後の司法の独立を確立し、三権分立の意識を広めたという重要な事件となった。


路地入口の片隅に置かれたロシア皇太子遭難の碑は、それだけを見るとほとんど見過ごしてしまうようなものだが、あらためて大津事件を調べてみると、大津事件でロシアとの国交が悪化するのを憂慮し、自らの死をもって国の危急を訴えた畠山勇子というひとの存在など、ポツンと置かれた碑の裏に、これまで全く知らなかった話もあって、歴史の重みにあらためて心動かされる。

真っ直ぐ進むと交差点にぶつかり札の辻という。直角に左折するのが旧東海道だが、そのまま西に直進していく道が小関越といい、逢坂の関を通らないで京へ行ける抜け道となっていた。
ここで桜の名所でもある三井寺に寄り道するため、小関越の方に向かう。三尾神社手前で、琵琶湖疎水の取水口から第一トンネルまで開水路が真っすぐ伸びている。


三井寺
三井寺は天台寺門宗の総本山で、境内に天智・天武・持統の三天皇の御産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)があることから、御井(みい)の寺と称され、後に三井寺と通称されるようになった。35万坪に及ぶ広大な境内には、国宝、重要文化財の堂塔伽藍が建ち並び、古来より近江を代表する景勝の地として、また桜の名所として親しまれている。
総門まで来たものの、境内はあまりにも広大なため、ここで引き返すことにする。


三井寺から東海道に戻り、路面電車が走る道を進んで行く。
路面電車は札の辻の途中で、道路から別れて右へ入っていってしまう。
電車が曲がる左側の労働基準署隣には明治天皇聖蹟碑がある。この碑がある場所が昔の大津本陣のあった跡で、今は何もないが八町通りの由来碑があって、この付近には本陣を初め多くの旅籠屋が連なっていたらしい。

JRの陸橋を越えると関蝉丸神社(下社)が見えてくる。ここは、鳥居のすぐ手前の京阪線の踏切を渡って入って行く。


蝉丸とは、小倉百人一首の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」という歌で有名な人物であるが、素性はよくわかっていない。盲目で琵琶の名手であったといわれ、音曲・芸能の祖とされて碑も建っている。蝉丸を祀った神社は、この先にも上社、分社と三カ所も並んでいる。

東海道に戻るとすぐに逢坂碑があり、その先で国道1号と合流する。線路沿いに続く国道を歩くとまもなく名神高速道路が横切っている。その先の右手には関蝉丸神社の上社があるが、神社は長い階段を上った奥にある。


逢坂の関跡
関蝉丸神社の上社の先で街道は大きく右に曲がるが、その右手の歩道の上に逢坂の関の碑と常夜燈が建っている。逢坂の関は、京に近く交通の要所であったので、不破関と鈴鹿関と共に三関の一つとして重要であった。


ここから旧道に右折して入って行くと、ちょうど旧道に入ったあたりに江戸時代から営業しているというかねよといううなぎ屋がある。
かねよの先にはまた蝉丸神社の分社があるが、ここには昔の車石跡が保存されている。車石とは石に溝を刻んだ車輪用のレールの様なもの。江戸時代、街道では車の使用が禁止されているが、唯一例外として京都周辺で牛車が使用されていた。牛車で京都大津間の峠を越えるのが困難で、車石を敷詰め、峠の通行に役立たせた。

神社の先でふたたび国道に合流し、その先に「月心寺・走井」と記された軒行灯が下がったお寺がある。広重の「五十三次大津宿」には、茶店の左下に旅人の喉を潤した井戸(走井の井筒)が描かれているが、その井戸が月心寺の門内にあって今も清水がこんこんと湧き出しているらしい。

月心寺の先左手に「右一里町 左大谷町」と記された小さな道標があり、この付近に一里塚があったという。国道を下って行くと、名神高速道路の高架が見えてくる。くぐってすぐ佛立寺の裏を通っている旧道へ入って行く。

追分
旧道を進むと、やがて道標が立つ分れ道に来る。ここが別名山科追分と呼ばれる髭茶屋追分で、京都三条大橋に向かう東海道と伏見のほうに向かう大津街道(伏見街道)の分岐点である。現在の滋賀県と京都府との県境にあたる。左折すると伏見方面で、東海道は真っ直ぐ進む。


旧道を下りて行くと、右手の閑栖寺の門前と境内に車石が置いてあり、石の形態がよくわかる。このあたり、街道の左半分を人馬用の敷き砂利道、右半分は車石を二条敷いて牛馬車用とした。また車道は一方通行になるので、午前午後で分けたという。
やがて国道にぶつかり、右側の歩道橋を渡り、大回りをして対面の旧道へ向う。

山科
少し行ったところに三井寺観音道と刻まれた道標がある。大津、札の辻から小関越をしてくると、ここで合流することになる。


道標を越えて行くと、ここより京都市の標識が見えてきて、いよいよ京都へ入る。
京阪電車の四宮駅入口を過ぎると、徳林庵六角堂が見えてくる。左手の井戸は往来する牛馬の水飲み場として使われていたもので、石組に「京都、大阪、 名古屋、 金沢、 奥州、上州 宰領中」と刻まれている。宰領とは、荷物の運搬または旅行者の集団の取り締まりをいい、徳林庵の前を通る東海道が主要な街道であったことが偲ばれる。


山科駅を右に見て西へ旧道を進むと、左手に史跡五条別れ道標が立つ。「右三條通、左ハ五条橋」と刻まれている。


そのまま右に道なりに行くと、三条通にぶつかる。
右折してJR東海道線のガードをくぐると、右側に天智天皇御陵入口がある。大化の改新を断行した天皇は667年、近江に遷都して大津宮を作り、この地に葬られた。

三条通を渡ったこのあたりに日ノ岡に向かう旧道があるはずで、いかにもそれらしき冠木門があるので入ってみると、どうも様子が違っている。しばし、旧道への入口がわからず、うろうろと迷った末に、それらしき道を入って見ると、民家の門前に車石が置いてあり、やっとのことで旧道に入れた。
ここは、せめて旧道入口に標識がほしいところだ。

日ノ岡
旧道は、急坂となり、三条通とは対照的にかなり細くなっている。これが京への最後の難所日ノ岡峠で、それなりの風情があるところなのだが、こんな狭い道にもかかわらず、抜け道なのか、車が驚くほど沢山通る。その上、結構スピードを出して走るので、危なくてしょうがないが、このような古い道が今も普通に使われているところが、古都らしくもある。


やがて再び三条通に合流すると、車石の轍の上に米俵を積んだ大八車のモニュメントがある。


蹴上
蹴上の地名は、浄水場辺りにあった清水が蹴上げる程の水量があったとか、義経が旅の途中でこの地を通りかかった時に、従者の馬が泥を蹴り上げて義経の着物を汚してしまい、怒った義経が従者たちを斬り殺してしまったとか、近くの刑場に向かうのを拒む罪人を蹴上げたところだとか、に由来しているらしい。
広い道を淡々と道なりに下り、少し先に行くと京都市蹴上浄水場に沿って進む。
すると突然、道の右側に蹴上の桜と人の賑わいが目に飛び込んできた。狭くて急な坂道の日の岡峠を越え、広くて殺風景な三条通を下ってきたところで、あまりの落差に驚きを感じながら、いよいよ京に来たんだ、という気持ちの高ぶりを禁じ得ない。ここで、素人句ひとつ。
  - 日ノ岡を 越えて蹴上は 桜どき -


折角なのでインクラインに立ち寄り、大勢の花見客に混じって、しばし満開の桜を楽しむ。

再び三条通りに戻り、あとはひたすらゴールを目指す。白川橋を越えると三条大橋はもうすぐだが、三条大橋で落ち合うことにしていた京都在住のIさんが、待ちきれなかったようで、私の方に向かってわざわざ出迎えに来てくれた。

三条大橋
やがて、ゴールの三条大橋に到着し、長かった東海道歩き旅は終わった。


橋の西詰に立つ弥次喜多像の前で、わざわざ名張から駆けつけてくれたAさんも合流し、早速、春爛漫の京の街に繰り出すことと相成った。
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今回の旅の日程を組むに際し、どうせならば桜満開の時期に合わせて京都入りし、京都の桜を大いに楽しみたいと思っていた。
また、記念すべきゴールインに合わせ、旧知で京都在住のIさんと久しぶりにお会いしたいと、事前に連絡をとっていた。すると、Iさんは、三条大橋ゴールイン後の最も効率的な時間の過ごし方をいろいろ考えてくださるばかりか、見どころの下見や予約手配まで、完璧にやってくださっていた。

名所平安神宮神苑見物に始まり、ゆったりと岡崎さくら回廊十石舟めぐり、南禅寺・水路閣を見物し、門前の「順正」で豆腐会席料理と美酒をいただきながら、しばし積もる話に盛り上がる。お酒をいただいてすっかりいい気分になったところで、二条城の夜桜見物と、とことん京の桜を堪能させていただいた。
とりわけ、岡崎さくら回廊十石舟めぐりは、当日Iさんがわざわざ朝早くから並んで予約を取ってくださったもので、普通ではなかなか経験できない価値あるもの。人込みを見ることなく、水面に乗り出して枝を張る満開の桜を舟から眺めるというのは、実に素晴らしい。


この岡崎桜回廊は、琵琶湖疎水の分線である。恥ずかしながら、これまで琵琶湖疎水のことをほとんど何も知らなかったが、旅から帰って少し勉強してみたら、大津の三井寺のところで見た疎水と、岡崎回廊、蹴上のインクライン、南禅寺の水路閣、哲学の道などがみんな琵琶湖疎水でつながっていると知り、あらためてその凄さに感動したりしている。

二条城の夜桜見物後、タクシーで祇園白川の賑わいの中一路京都駅に向かう。
三条大橋ゴールイン後の僅かな時間であったが、Iさんのおかげで、実に密度の濃い充実した時間を持つことができた。本当に感謝感謝。

東海道歩き旅完歩と京都の桜を堪能し、満足感いっぱいに京都を後にした。