府中~掛川

2011年8月28日 府中宿~丸子宿~岡部宿~藤枝宿~島田宿
2011年8月29日 島田宿~金谷宿~日坂宿~掛川宿

今回は新幹線で静岡まで行き、旅の再開。

19 府中宿
府中宿は、家康が築いた駿府城の城下町として、また静岡浅間神社の門前町として大変賑わった。今も伝馬町・呉服町・両替町・七間町などの町名が往時を偲ばせるが、当時の面影を残すものは本陣、脇本陣等々の跡を示す石碑が随所に置かれるのみである。

折角なのでちょっと街道を外れて、まずは静岡浅間神社に立ち寄ってみる。
駅から北西に延びる御幸通りを行くと、右手には駿府公園があり駿府城址がある。途中から参道の浅間通りを行くと赤鳥居が見えてくる。
静岡浅間神社は、神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社の総称で、通称おせんげんさまと呼ばれ、駿河国総社として、また静岡の総氏神として広く信仰を集めている。また、徳川家康が、今川家菩提寺の臨済寺に人質として預けられ、14歳になった時に、この神社で元服していることでも知られている。
境内には多数の社殿があり、多くが国指定重要文化財となっており、絢爛豪華なさまは日光東照宮を彷彿とさせるものがある。

 


静岡浅間神社から駅の方に少し戻り、駿府公園に隣接した県庁の前で右に曲がって七間通りに入ると、東海道になる。伊勢丹の角、かつての高札場跡に札の辻跡碑がある。

やがて、東海道は安倍川に差し掛かる。橋の手前には昔からの名物安倍川餅の店が何軒かある。かつて、きな粉をまぶした餅を食べた家康が、あまりに美味しかったので「うい奴じゃ、安倍川餅と名付けよ」と言ったのが名前の始まりと言われている。


昔の安倍川は橋がなく、川越人足による渡しが行われていた。広重は東海道53次之内府中安倍川で、賤機山(しずはたやま)を背景に安倍川の川越風景を描いている。
安倍川橋の脇に安倍川義夫の碑というのが立っている。昔、ここの川越人足が大金の入った財布を見つけ追いかけて落とし主に届けたが、お礼を頑として受け取らなかったという話が美談になり、後世になって碑まで建てられることになったというもの。

安倍川を越えてしばらく行き、国道1号を横切って旧道を行くと丸子宿に入る。
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20 丸子宿
丸子宿は安倍川と宇津ノ谷峠の間にできた比較的小さい宿場で、丸子川に沿った細長い宿場である。昔からとろろ汁で有名なところだが、芭蕉が江戸に向かう弟子の乙州に贈った餞別の句、
  - 梅わかな 鞠子の宿の とろろ汁 -
が、丸子宿のとろろ汁を一躍有名にしたと云う。
丸子橋手前に、広重の丸子宿の画に描かれたのとそっくりな藁ぶき屋根のとろろ汁屋が目に入ってくる。これが慶長元年(1596)創業の丁子屋で、まるで広重の画から飛び出してきたかのような佇まいだ。静岡出身の知人から薦められていたこともあり、迷うことなく立ち寄って名物のとろろ汁定食を頂いた。


宇津ノ谷峠 / 蔦(つた)の細道
丁子屋の前の丸子橋を渡り、旧道を進むと、やがて広い国道1号とぶつかり、しばらく国道を歩く。この先、国道は宇津ノ谷峠をトンネルで抜けるが、旧道は峠を越していく。

ここで、国道1号から分かれて右手に入って行くと、少し先に建つ宇津ノ谷道標のところで旧東海道は左に分かれてゆく。宇津ノ谷集落の旧道沿いには昔の面影を残した家並みが続いている。
少し先に、お羽織屋という看板のかかる家がある。秀吉が小田原征伐に向かう途中、この家で休息した際、当家の主人が馬の沓を献上し、また戦いの勝利を占うような縁起のよい話をした。すると、小田原征伐で勝利した帰り道、秀吉はここに立ち寄り、羽織を与えた。これに因んでお羽織屋と呼ばれるようになったという。


宇津ノ谷峠を越える道は、もとは、伊勢物語にも登場する蔦の細道と呼ばれる道だった。この道があまりに険阻だったために、鎌倉幕府はこの道の北側に新道を開き、これが江戸時代に東海道となって、参勤交代の大名行列などは峠を埋め尽くしながらここを通った。


集落の家並みを過ぎると道は山道になる。少し先で「明治のトンネル」に行く道との分岐になる。旧東海道は右に進み、少し先でやや急な坂道になるが、竹林の中の趣ある心地よい峠道である。やがて峠を越えると、「明治のトンネル」を越えてきた道と合流する。
ちなみに、国の登録有形文化財として保存されている「明治のトンネル」は、明治9年に開通し、明治11年に明治天皇が北陸、東海を巡幸された際にここを通っている。

旧東海道を進むと、少し先に髭題目の碑が建っている。これは天保6年(1835)に建てられたものである。その先で、蔦の細道を経てきた道が旧東海道に合流する。
さらに進むと坂下地蔵堂があり、その先で旧東海道はトンネルを抜けてきた国道1号に合流する。

国道1号を少し行くと信号があり、旧道はここで右に分かれてゆく。しばらく道なりに進んで行くと、旧国道1号に合流し、やがて岡部川を渡って岡部宿に入ってゆく。
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21 岡部宿
岡部宿は、西に大井川、東に宇津ノ谷峠を控えた小規模な宿で、宿駅としての業務を全うするのもままならないような宿場だった。宿場内に昔の面影はあまり残っていない。
宿に入るとすぐに、岡部宿大旅籠柏屋資料館がある。国の登録有形文化財に指定された昔の旅籠の建物を活用して宿場の歴史資料館としたものである。


その先に、岡部宿本陣跡碑が建ち、少し行った右手には創業寛永12年(1636)という銘酒初亀の蔵元の初亀酒造がある。

旧道は、初亀醸造先で県道から離れ、斜め左の石畳の道に入っていく。
すぐ先で、うっかりすると見落としそうな小さな「姿見の橋」がある。絶世の美人小野小町は、晩年東国に下る途中岡部にも泊まった。この橋から景色に見とれていたが、ふと水面に目を移すと旅に疲れた自分の顔が映っていて、過ぎし日の面影を失った老いの身を悲しんだという。

しばらく歩くと、岡部の松並木が見え、その先に藤枝バイパスが見えてくる。
国道の藤枝バイパスのガード下をくぐり、その先で右の細い道に入ると藤枝宿に入って行く。
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22 藤枝宿
藤枝宿は田中城の城下町であった。徳川家康はこの田中城で鯛の天ぷらを食べ、それが原因で命を落としたと言い伝えられている。また塩の産地であった田沼意次の所領相良に至る田沼(塩街道)街道への分岐点として大いに栄えた。

旧道入口には岩村藩領傍示杭跡と書かれた杭が立つ。すこし先の慈眼寺を過ぎると、まもなく朝日奈川に架かる横内橋を渡るが、往時はここは人足による徒歩渡しが行われていた。
橋を越えると旧道には名残の松がすこし見られる。

仮宿の交差点から旧道は左手の静かな道に入って行く。左手には従是田中藩領傍示石跡の杭があり、ここから田中城下ということになる。
国道にちょっと合流して、すぐ旧道に入ると松並木の名残りの松が点々と続いていて、のどかな雰囲気の道行となる。

葉梨川にかかる八幡橋を渡り、右に曲がってしばらく行くと鬼島と呼ばれるところになる。ここはかつて立場だったところで、茶屋跡に木製の常夜燈と梯子形の半鐘櫓が造られている。前に立つ石碑には弥次喜多道中の一節が刻まれている。


しばらくすると、須賀神社が見えてくる。ここの境内の大楠木は天然記念物に指定されていて、根回15.2m、高23.7mという見事な枝ぶりだ。カメラに収まりきらない大きさだ。


その先の松並木を過ぎ、旧国道1号を横断して枡形になっている旧道をしばらく歩くと、東海道藤枝宿左車町の標識があり、この辺りが藤枝宿の東木戸であったようだ。右手に藤枝成田山が見える。藤枝宿は、左車町木戸から西入口の川原町まで19町12間(約2km)の長さで、県下の宿場の中でも有数の規模を誇っていた。今は賑やかな商店街となっている。

少し先の大手口交差点から左方向に行くと田中城址があるのだが、今回は寄り道せずに先に進む。
大手口から少し先に秋葉常夜灯が立っている。その後ろの寺は、一の谷の戦いで平敦盛を討った熊谷次郎直実所縁の蓮生寺である。直実が出家をして蓮生法師となり、京都で修行した後、郷里の熊谷の地に戻る途中、縁あった藤枝の長者の帰依を受けて開いたお寺である。中山道熊谷宿に所縁の寺があるが、思わぬところで直実所縁の寺に出会った。

街道をしばらく行くと瀬戸川を渡るが、その少し手前の右側に本願の松で知られる正定寺がある。笠状に枝を張った松は、享保15年(1730)に田中城主土岐頼稔が植えたものと伝えられている。
この近くに藤枝宿の西木戸があった。

瀬戸川を渡ってしばらく行くとJR藤枝駅に通じる分岐の青木交差点に出る。旧東海道はこの交差点をまっすぐ進んで行くが、本日の旅はここまでとし、交差点を左に入ってJR藤枝駅前のビジネスホテルに宿をとった。
この日は、歩いている途中から、どうもお腹のあたりが苦しくなったため、夕食を簡単に済ませて早々に床に就いた。これまで経験したことのない違和感がある。翌日、旅を続けるかどうかは体調次第とする。
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2011年8月29日 島田宿~金谷宿~日坂宿~掛川宿
一晩ゆっくり休んだら体調が戻ったため旅を続けることにするが、街道を外れたところにある蓬莱橋にぜひ行ってみたいのと、本日の行程には小夜の中山の峠道も控えているため、時間と体力節約のため、JR島田駅まで電車で行き、蓬莱橋に寄ってからその先で旧道に復帰することにした。

見渡す限り河原が広がる大井川に架かる蓬莱橋は、全長897mの世界一長い木造歩道橋としてギネスに認定されている。対岸の牧之原台地に向けて、ひたすらまっすぐ延びている木橋は、大自然に溶け込んだ見事な景観を呈している。


明治に入り牧之原台地に茶畑を開拓した旧幕臣たちの想像を絶する苦労と大井川の水との闘いの中この橋を造った苦労とが重なって思い起こされ、この橋を包み込む景観全体が格別素晴らしいものに見えて来た。

ここから、大井川に沿って旧道に戻る。
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23 島田宿
遠くにJRの鉄橋や大井川橋を見ながら淡々と堤に作られた遊歩道を歩いていく。車を気にすることなく、人に出会うこともなく、広大な景観を独り占めしたような気分で歩ける。
やがて、大井川橋手前に朝顔の松碑が建つ公園に至る。すぐ横に島田市博物館がある。ここで東から来る旧東海道に復帰するが、ここは大井川川越遺跡の出口にあたる。
大井川川越遺跡には、川越業務を管理運営する川会所、人足がたむろする番宿、人足頭が会合に使った立会宿、人足が川札を賃金に替えた札場などの建物が復元されている。
朝顔の松は、盲目の娘、朝顔が川留めのため恋人に会えず、身を投げたが助けられる。その時奇跡的に目が見えるようになり、最初に見たのがこの松と云い伝えられている。

大井川
「箱根八里は馬でも越すが越すにこされぬ大井川」と歌われた大井川は、東海道で最大の難所であった。ひとたび川が増水すると何日も川留めになり、島田宿や対岸の金谷、手前の岡部辺りまで宿泊客で潤った。
川越の方法は、川会所で川札を買い、川越人足にこれを渡して肩車、蓮台などで川を越すというもので、値段は川の水位によって分けられていた。

今は、この大井川を大井川橋で渡る。橋には左側に専用歩道が設置されており、自転車もここを通る。昭和3年に架設されたこの橋は、当時の技術力を結集して作られた最大級の道路橋だそうで、最近の橋には見られないいかにも鉄橋というがっしりした造りの橋だ。


歩いて渡ると結構時間がかかり、大井川の川幅の広さを実感する。往時、ここを川越するのは、さぞ大変だったことであろう。
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24 金谷宿
金谷宿は、東に大井川を控えた宿場で、島田と同じく川留めになると大いに潤った宿である。
宿場を西に抜けると、金谷坂の石畳道を上り、菊川坂の石畳道を下って菊川の里に入る。さらにその先には小夜の中山峠が待っている。このあたり一帯は、牧ノ原台地の茶畑が見渡す限り広がっており、その中をひたすら歩くことになる。

大井川橋を渡り、土手を下流方向に少し行くと旧道の入り口がある。右に曲がり土手を降りた先にある「大井川 川越の図」が往時を偲ばせる。


すぐ先の八軒屋橋を渡ると金谷町の町並みに入るが、まっすぐに続いている旧道に、宿場の面影はあまりみられない
大井川鉄道の踏切を渡った先、佐塚書店前に本陣跡・佐塚屋の表示、その先の植え込みの中には本陣跡・柏屋の表示が置かれている。
道はJR金谷駅の手前で左のガード下を曲がるが、ここに金谷の一里塚跡がある。

金谷坂・菊川坂
旧道はやがて急な上り坂になり、坂を上り切って車道を横切ると、金谷坂石畳道入り口となる。この坂と次の菊川坂は、地元の熱心な取り組みにより石畳道が復元されている。


石畳に入ると右手に石畳茶屋があったが、この日は残念ながら定休日(毎週月曜)であった。
石畳の少し先右手にすべらず地蔵尊が安置される六角堂がある。旅人の足元を守るため、石畳に滑らない山石を使っていることにちなんだお地蔵さんだが、その名前にちなんで今は受験生の守護仏になっている。


石畳を上り詰め、舗装路に合流すると、街道左手には茶畑が広がっている。
少し先の右手に諏訪原城跡がある。天正元年(1573)、武田勝頼の家臣馬場美濃守氏勝が築いた山城である。
このすぐ先で県道234号線を横断し、東屋の横で菊川坂石畳に入る。

菊川坂を一気に下っていくと、菊川を渡った先で間の宿菊川に着く。鎌倉時代には、この菊川の里は宿場として栄えていたというが、今は人と出会うこともなく、こじんまりした静かな集落となっている。
歴史を感じる落ち着いた趣の集落を抜けていくと、茶畑が果てしなく続いている。丘の斜面という斜面がすべて茶畑という圧巻の景色である。


道標には、この先は「歴史ロマンコース」とある。

小夜の中山峠
この先、旧道は急な上り坂になる。昔から小夜の中山峠道として東海道の難所の一つに数えられていた。今は、道は整備されていて、歩きにくいことはないが、上りの坂道が続くので結構しんどい。
峠の頂上には久延寺(きゅうえんじ)がある。ここは、掛川城主の山内一豊が茶室を設け、関ヶ原に向かう家康を接待したところとして知られる。


久延寺のすぐ先の小夜の中山公園入口には、
  - 年たけて また越ゆべしとおもいきや 命なりけり 小夜の中山 –
の西行の歌碑がある。

金谷坂からここに来るまで、石畳の山道や茶畑の中の道が続いており、水分補給のために自販機を探すが、それが全く見つからず熱中症の危機に瀕してしまった。街道歩きをしていると、旧道には食事処やコンビニなど全くないということがよくある。それでも飲み物の自動販売機だけはたいていのところにあるのが普通なのだが、ここではそれが見つからなかった。如何に人気のない所かを物語っている。
ちなみに、牧の原台地は明治期になって、江戸を追われた幕臣などの士族を中心に開拓に励み、現在の大茶園が形成された。農家一戸あたりの耕作面積は広いが、人口密度は希薄で、車社会になる前はバス停から二里も歩かなければならないところもあり、きわめて不便なところであったという。
ともあれ、峠の頂上に来たところでようやく飲料にありつけて、小夜の中山公園のベンチでやっと一息つくことができた。公園には木陰があり、聞こえてくるのはセミの声のみ。峠を越える風がなんとも心地よく、生き返った気分になれた。


これから先、道は緩やかな下り坂で、茶畑と山並みの景色が素晴らしく、まっすぐに続く尾根道をのんびりと歩ける。しかも随所に和歌や俳諧の碑が続き、まさに歴史ロマンの道行である。
しばらく行くと見渡す限りの茶畑の中に、小さなお堂の白山神社がある。そこから少し行った涼み松広場に芭蕉句碑が置かれていた。
  - 命なり わずかのかさの 下涼み -
佐夜の中山は、照り付ける陽の下、日陰といえば笠の下ほどわずかにあるだけで、西行ではないが、まさに命なりけりだ、というような意味。
熱中症になりかけた私も、ここでは西行や芭蕉と時代を越えて思いを共有することとなった。

さらに下ると、左側道路下に夜泣き石跡碑が見える。夜泣き石は、元々はこの場所にあったという。小夜の中山といえば、「夜泣き石」の伝説がよく知られている。昔、妊婦が山賊に襲われ殺されてしまったが、近くの大きな石に霊がこもり子供を思って夜な夜な泣く声が聞こえるという伝説の石である。この石のあった跡に碑が建てられている。
沓掛では、うっかりすると転げ落ちそうになるような急坂となる。広重の日坂小夜の中山の画がまさにその様子を表現している。

下ったところで、国道1号バイパスをくぐり、旧国道1号を横断すると日坂宿に入る。
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25 日坂宿
日坂宿は、西に掛川宿、東に金谷宿という大きな宿場にはさまれた幕府直轄の宿場だが、東海道の宿場としては鈴鹿峠を控える坂下、駿河の由比に次いで三番目に小さな宿場であった。日坂(にっさか)の地名は、小夜の中山の西坂からきている。

日坂宿に入ると、すぐに日坂宿本陣跡があり、本陣扇屋の大きな看板が立てられている。少し先に行くと脇本陣格だった旅籠川坂屋がある。江戸時代の面影を残す建物がそのまま残されている。
近くに立派な高札場が復元され、たくさんの高札が掲げられている。


日坂宿場口の道標を過ぎると事任(ことのまま)八幡宮がある。坂上田村麿が興したと伝えられ、由緒のある八幡宮で、ここにお参りすれば願い事が「ことのまま」にかなうという。


事任八幡宮を出ると、旧国道1号をほぼまっすぐ南の方に行く。やがて、旧国道と一旦分かれ、少し行くと、江戸より57番目の伊達方一里塚跡碑が建てられている。


再び旧国道1号に戻り、掛川宿を目指し西に向け淡々と歩いていく。
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26 掛川宿
掛川宿は、山内一豊が掛川城を整備・拡大した城下町。山内一豊以降、掛川城は徳川譜代の大名が回り持ちしていたことから、遠州地方の政治・経済の中心地としても栄えた宿場であった。宿場よりも城下町としての性格のほうが強く、規律も厳しかったので「飯盛り、遊女なし」といわれ、旅籠も30軒と小さかった。旅人も堅い宿をきらって、さっさと通り過ぎたようである。

旧国道1号の本村橋交差点へ来たら夢舞台道標に従って左に入る。
しばらく淡々と歩き、逆川に架かる馬喰橋を渡ると、左側に江戸から58番目の葛川一里塚碑が建てられている。ここから少し行くと、 東伝寺入口の三叉路のところが七曲がりの入り口で、「東海道七曲」と記された小さな看板が角に立てられている。


「東海道七曲」を左に曲がり、すぐに右に曲がると突き当たりに秋葉常夜灯が有るのでそこを左に曲がる。次の突き当たりのかねも茶工場を右に曲がり、再度突き当たったら、もう一度右に曲がる。塩の道道標を右に見たら道なりに歩き、交差点で左に曲がると旧東海道の宿場通りで、今は掛川商店街となっている。

掛川信用金庫を右に行くと掛川城の大手門だが、本日は左に行って掛川駅から帰途に就く。
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今回の旅は、絢爛豪華な静岡浅間神社に始まり、丸子のとろろご飯、宇津ノ谷峠にまつわる歴史、大井川の雄大な眺め、牧之原台地をめぐる歴史とロマン、などなど歩き旅ならではの実に変化に富んだ楽しみ多き道行であった。

難所で名高い小夜の中山峠も、牧野が原台地の見渡す限りの茶畑の眺めは圧巻で、峠を渡る風の心地よさが印象に残るところであった。強い日差しを受けて峠を上る疲れも、頂上に着くと涼やかな風にふかれて忽ち飛んで行ってしまった。
また、この道筋には古くからの歌碑や句碑がいたるところにあり、特に歌心のある人には自然の素晴らしさとともに魅力あるところだと思う。

それにしても、今回の旅では全く想定外の経験することとなった。
丁子屋で美味しいとろろご飯を食べた後、歩きながら何となくお腹の違和感を感じ始めた。とろろご飯を食べてすぐに歩き始めたのが良くなかったのかな、などと思いながら、とにかくこの日の予定宿泊地藤枝までたどり着き、駅前のビジネスホテルに宿をとった。この日は暑い中歩いた疲れもあり、お腹の違和感はさらにひどくなっているため、早々に休むことにした。
翌朝になったら違和感もなくなったため、二日目の歩き旅を再開し、予定していた掛川まで行ったところで帰途に就いた。
ところが、帰宅後、再びお腹にただならぬ違和感を感じ、翌日、近くの病院に行ったところ、鼠経ヘルニアと診断され、即入院手術のはこびとなった。
生まれてこの方、およそ病気に縁がないものだったため、いきなり入院手術などと言われてびっくりしたが、結果的には手術は難なく終わり、経過も順調で数日で無事退院と相成った。
あとで考えてみると、二日目のルートは、金谷から先は金谷坂と小夜の中山峠が続き、人里離れて交通手段もない所となり、もし体調が悪くなったりしたら本当に大変なことになるところであった。