2012/3/8~10
桑名~四日市~石薬師~庄野~亀山~関~坂下~<鈴鹿峠>~土山~水口
前回、宮宿に達したのは12月であった。
年は変わり、今回は七里の渡しを渡った桑名から二泊三日で水口あたりまで行く予定である。3月7日、横浜発の夜行バスで名古屋まで行き、電車に乗り換えて桑名に向かう。朝8時頃には桑名に着き、歩き旅の再開である。
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2012/3/8 桑名~四日市~石薬師~(加佐登)
42 桑名宿
桑名宿は七里の渡しの宮の対岸にあって、お伊勢参りの玄関口でもあり、大いに賑わった。また、関ケ原の合戦後、本多忠勝が10万石を領して桑名藩が成立し、その後は代々松平家が治める城下町であった。
幕末の藩主、松平定敬(さだあき)は会津藩主松平容保の実弟で、共に幕府を支える重要人物として幕末の時流に巻き込まれることとなる。ちなみに、我が郷里越後柏崎は、桑名藩の飛び領地だった関係で、鳥羽伏見の戦い後、定敬みずから柏崎に入り、新政府軍に対する抗戦の拠点としたため、戊辰戦争の只中に置かれることとなった。
桑名駅を出たところにある真新しい案内板に従い、まずは七里の渡し跡へ向かうと、途中左手に宝暦治水薩摩義士と門に記された海蔵寺がある。
宝暦3年(1753)、薩摩藩は幕府からお手伝い普請(幕府が設計・監督をして、費用と人夫は命ぜられた大名が出す)として木曽、揖斐、長良川の宝暦治水工事を命ぜられた。理不尽かつ困難な工事に払った犠牲は大きく、ここにはそのうちの24義士の墓がある。
後に宝暦治水事件と呼ばれるこの工事には、藩の収入の約3年分40万両におよぶ費用と80名余りの犠牲を払い、薩摩藩に大きな打撃を与えた。
七里の渡し
七里の渡し跡の手前に、かつての大塚本陣跡の料亭船津屋がある。この本陣では裏庭に直接船が着けられたという。隣の料理屋山月はかつての駿河屋脇本陣跡である。
街道を進むと伊勢神宮一の鳥居が見えてくる。ここが伊勢国の東の入口にあたるため、この鳥居が建てられた。
近くには桑名を象徴する蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が見える。七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルで、広重の桑名の画でもこの櫓を描いている。蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍のことで、蟠龍櫓は航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。
すぐ近くにあった桑名城は、元禄14年(1701)の大火や幕末の動乱で無くなり、現在は九華公園になっている。
旧道を進んだ右手に立つ春日神社の青銅鳥居は、寛文7年(1667)城主松平定重が鋳物師に造らせたもので、「伊勢の桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」と唄われた風格あるものである。
桑名はハマグリで有名だが、古くから鋳物の街としても良く知られていた。
この先、突き当りの南大手町橋袂から右に向かい、石取会館と桑名市博物館の間を抜けて京町の交差点を渡るとすぐに左に折れる。仏具屋が多い吉津屋町を過ぎると枡形道となっている吉津屋見附跡に出る。ここには門があり番所も置かれ
諸大名の行列もこの門の前後から本行列に整えて、桑名城下に進んだ。
新町に入ると十念寺、寿量寺、長円寺などのお寺がいくつも続いている。十念寺には、戊辰戦争での桑名藩の敗戦の全責任を負って切腹した森陳明の墓がある。
旧道は広い道路に合流するが、すぐ右に折れ、東鍋屋町に入ると右手に、本多忠勝が城建設のため作らせた鋳物工場跡がある。
すぐ右の天武天皇社は、壬申の乱の際、大海人皇子が臨時の宮をここに置かれたのに由来している神社だという。
西鍋屋町の明圓寺、教覚寺を通過して国道1号を渡ると、ずっと北の方に向かってのびている道路の真ん中に居座るように立坂神社一の鳥居が建っている。ちょっと珍しい。
矢田の立場
さらに進むと矢田立場に突き当たる。曲がり角には再建された火の見櫓が建っている。このあたりは桑名宿の京方口で、桑名藩の役人はここで西国からの参勤大名を出迎えた。
町屋川(員弁川)に向かう東海道はほぼ直線で、了順寺、城南神社、清雲寺 などの寺社が建ち並ぶ。途中、右手に大きな工場のあるところは、かつて江場松原といって、ここから先の安永にかけて両側に松並木が続いていたという。
大きな道を横断した先には古い家も残っていて、やがて町屋川北詰へやって来る。ここには立派な常夜燈と道標が建つ。 ここの常夜燈は伊勢両宮の常夜燈と呼ばれ、文政元年(1818)に伊勢神宮祈願のために桑名、岐阜の材木商の寄進により建てられた。
江戸時代はこのあたりに町屋川橋が架けられ、また舟遊びの船着き場もあったので、大いに賑わったという。今は新しい橋を渡るしかないので、迂回して渡る。
町屋川を渡り、伊勢朝日駅前で踏切を渡ってしばらく行くと右側に浄泉坊がある。 徳川家に縁のある寺で山門や瓦に三つ葉葵の紋が入っており、東海道を往来する大名もこの門前で駕籠から降りて一礼をしたという。
国道1号の手前の右側土手の脇にポツンと多賀大社の常夜燈が建っている。周囲は田圃が広がるところのため妙に目立っている。
朝明川を渡ると四日市に入る。
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43 四日市宿
古くから四のつく日に市が立ったことから、商業の盛んな宿場町として発展していた。また、追分は伊勢参詣の分岐点にもなっていたので、東海道の旅人やお伊勢参りの旅人で賑わっていた。
朝明川を越え、松寺町を行くと、宝性寺がある。天平12年(740)聖武天皇の勅願によるものとされ、本堂は文化11年(1814)のもので、市の文化財に指定されている。
間もなくJR関西本線の踏切を渡り、左折してさらに名鉄のガードをくぐると、史蹟富田の一里塚阯の石標が建つ。
ここ富田町は富田の立場といっていて、かなり賑わっていたという。古い家の残る街並みを進むと、右手に八幡神社が建つ。ちょっと珍しい紡錘形の八幡神社址碑が建ち、左手に力石が置いてある。
右折した右手の富田小学校前に明治天皇御駐輦跡の石碑がある。
この辺りが富田の立場跡で、焼き蛤が名物だった。桑名と言えば焼き蛤が有名だが、桑名宿は時雨蛤が中心で、焼き蛤は富田の方が本場だった。この焼き蛤に対し、その手は食わないという洒落言葉で、「その手は桑名の焼き蛤」となったらしい。
少し先の十四川を十四橋で渡る。ここは桜の名所で、大正12年堤の両岸1.2kmにわたってソメイヨシノ約800本が植栽された。
やがて道は突き当たり、左に曲がる角に新設用水道碑と並んで力石が置いてある。明治の中頃、寺院の建設用に集めた石の一つを力競べに使ったのが由来とかで、小さい子供用も置いてある。
力石前を左折し突き当たりを右に曲がると「左四日市 右いかるが」と刻まれた道標がある。いかるがといっても奈良ではなくて、この先の南いかるが町のこと。
やがて米洗川を越えると羽津町にかわる。壬申の乱に際し、大海人皇子が神に供える御神酒を造るために、この川で麹の米を洗ったところに由来している。川底が砂で白く見えたところから、この名がついたともいわれている。
右手に地蔵堂があり、敷地奥に伊勢國八幡神社舊跡碑がある。かつてはここに八幡神社が鎮座していたが、明治41年、志氐(しで)神社に合祀された。
先に進むと松並木の名残りの松がある。地名の川原津からかわらづの松と呼ばれている。
この先右手の志氐神社は、天武天皇が伊勢神宮を遥拝した際に、幣帛(しで)を奉納したことが社名の由来になっている。天正年間(1573~92)豊臣秀吉が当社に戦勝祈願を行っている。
突当りを左折し、右に大きくカーブした先で国道1号に合流する。
少し先の三ツ谷町交差点先を斜め左の旧道に入ると左手に多度神社があり、突当りの海蔵川緑地公園にある三ツ谷一里塚跡碑は、日本橋より99里目となる。
旧道は海蔵川土手に突き当たるが、昔はこの位置に海蔵橋が架けられていた。今は右手に迂回して海蔵川を渡り、渡り詰を左折して旧道に復帰する。
三滝橋
旧道は浜一色町から京町に入り、川原町などを通過し三滝橋を渡る。 橋は平成6年完成の新しい橋だが、広重の四日市宿では突風の中、この橋を渡る旅人の姿が描かれている。
三滝橋を越えると四日市宿中心部に入り、すぐ左手にある笹井屋は、永餅で有名な老舗で、450年以上の歴史を誇っている。
先に進み、県道を横切って行くと、角に少し変わった道標がある。「すぐ江戸道 すぐ京いせ道」と刻まれているが、この「すぐ」とは「まっすぐ」の意味らしい。
一度国道に出て、信号で横断していくと、突き当たりに諏訪神社がある。
神社の前を斜めに続くのが旧道だが、ここは屋根付きのアーケード商店街になっている。少し先で、近鉄のガードをくぐる。
この先、日永の方に向かって淡々と歩いて行く。旧道にはところどころに古い家並みが残っていて、風情が感じられる。
天白橋の先の日永神社には、明暦2年(1656)建立という東海道最古の道標がある。元は日永の追分にあったものが、追分の鳥居の脇に立派な道標が建てられたのに伴いここに移されたという。
この少し先に、日本橋からちょうど100番目の日永の一里塚跡碑があるはずだが、見落としてしまった。だが、旧道はやがて国道1号に合流し、合流点にある現在のキロメートルポストには399.3kの表示があった。往時の測量技術レベルの高さがうかがえる。
この合流点のすぐ先で日永の追分となる。
日永の追分
日永の追分は、お伊勢参りの伊勢参宮道と京へ上る東海道の分岐になっている。現在、ここには伊勢神宮遥拝鳥居、道標、常夜灯などが建っている。大きな道標には、「右京大坂道 左いせ参宮道」と刻まれている。
東海道は追分から右手に入り、近鉄内部線の踏切を渡って左へ続いているのが旧道で、小古曽という所に入る。
しばらく行って、内部駅近くで病院の横を通って広い道を横切ると、内部川に突き当たる。昔は旧道が突き当たった所に采女橋と呼ばれる橋が架かっていたが、今はないので新しい内部橋を渡るが、ちょうど橋のあたりが工事中ということもあって、内部橋はちょっと複雑になっていて、旧街道が非常に分かりにくくなっている。たまたま交番があったので駆け込んで、やっと何とかなった。
杖衝坂
采女町に入り、直角に左折、右折しながら行くと、一度国道1号に合流する。国分町信号で左折して行くと、坂道になっている。
日本武尊が能褒野に向かう途中でここを通った時、けがをしていて剣を杖にして登ったという伝説の杖衝坂である。左手の芭蕉の句碑は、貞享4年(1687)江戸から伊賀に帰る途中、急な坂のため、馬の鞍とともに落馬したという。そのときに詠んだ季語のない有名な句である。
- 歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな -
杖衝坂途中のうつべ街角博物館に立ち寄ってみたら、ここのおばあさんがお茶を出してくれた。この一杯のお茶に、身も心も温められたことが、妙に記憶に残っている。
杖突坂を下りると東海道は国道1号と合流する。采女の一里塚を過ぎ、国分町に入ると東海道の南の方には伊勢国分寺跡の史跡が広がっている。この先の国分町信号で旧道が左に分岐する辺りには延命地蔵尊がある。
その先、木田町大谷交差点で再び国道に出るので、地下道を横断して国道の右側歩道を進む。
すぐ先で、再び国道から分かれるところが石薬師宿の入口になる。
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44 石薬師宿
宿外れにある石薬師寺の門前町として発展し、元和2年(1616)に正式な宿場に指定された。手前に商業地の四日市宿、先に鈴鹿峠を控えた関宿があるため、宿場としては大きくなかったが、門前町として賑わったといわれる。
自由ケ丘交差点先のY字路を右に入ると、石薬師宿入口に「東海道 石薬師宿」と記された石標が立ち、隣に北町の地蔵堂がある。
街並みは静かで人の気配もないが、「信綱かるた道」といって、この宿出身の佐佐木信綱の歌碑が宿内いたる所に建てられている。
宿の中程の右手に小沢本陣阯が建つ。この宿の本陣は小沢家が勤めた。建物は明治に建て替えられたものだが、貴重な文書も多く残り、元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見えるとのこと。
その先には、佐佐木信綱の生家がある。信綱は幼年期をこの家で過した。信綱は唱歌「夏は来ぬ」の作詞で知られる歌人で国文学者であり、宿内の処々には歌を記した信綱かるたが掲示されている。
少し先で国道1号を跨ぐ瑠璃光橋を渡る。金色の擬宝珠と薄いブルーの欄干が付いた橋は、歩道橋としては珍しい。
石薬師寺
広い国道を歩道橋で渡ると、やがて石薬師寺が見えてくる。石薬師宿はこのお寺の門前町でもあった。聖武天皇の時代、泰澄という高僧が開いた寺で、弘法大師が薬師尊像を彫刻し、開基した。
石薬師寺からしばらく歩き、蒲川に架かる蒲川橋を渡ったすぐ左側に石薬師の一里塚がある。碑と常夜燈が建つ。
旧東海道はこの先JRや道路の造成の為、分断されてわからなくなっているが、どうにか加佐登駅へたどりつけた。
加佐登付近に宿はないため、この日は電車で亀山駅へ行き、ビジネスホテルに泊まる。
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2012/3/9 (加佐登)~庄野~亀山宿~関宿~坂下宿
亀山から加佐登まで電車で戻って、歩き旅を再開する。
私の歩き旅は、これまで天候に恵まれて晴れる日がほとんどであったが、あたかも広重の「庄野宿・白雨」に合わせるかのように、今日は珍しく雨模様である。
45 庄野宿
寛永元年(1624) 、東海道では最後に設置された宿場で、石薬師宿から約3kmと東海道の中では2番目に短い宿間距離である。宿場の規模はかなり小さく、四日市宿や関宿にはさまれていたため、宿泊よりも休憩だけの旅人が多かったといわれる。
加佐登駅を降りて、亀山方面の踏切を渡ると、左手に電柱を作る工場があり、その脇の道を通って行くと庄野宿入口になる。入口に東海道庄野宿の標柱と案内板が立っている。
街並は、昔のままの細い道が続き、ひっそりとしているが、古い家もちらほらと見受けられる。
左手に庄野宿資料館がある。旧小林家住宅で、連子格子の風格を感じる家だった。
建物前に広重の「庄野・白雨」の画の案内板が立つ。道行く人が夕立にあい、あわてて走り出してゆく様が生き生きと描かれており、広重の最高傑作の一つとして知られている。
右手庄野集会所の前に「庄野宿本陣跡」と書かれた石標がある。本陣は沢田家が勤めた。
本陣のすぐ先右手角に高札場跡の表示板がある。また、右手常楽寺の先に式内社川俣神社がある。境内にあるスダジイは県指定天然記念物で、高さ11m、幹周り5m、樹齢300年の巨木である。
この先右手に入口にあったものと同じ「東海道庄野宿」の新しい石柱が立っていて、そこが京方の入口で、宿はあっけなく終る。
中富田町へ入ると、二つ目の川俣神社のところに中冨田一里塚跡、神戸・亀山領界石が並んで建っている。
和泉橋
さらに行き、西富田町の道標を過ぎ、安楽川手前、三つ目の川俣神社の前をクランク状に曲がり、和泉橋を渡り和泉町へ入る。
広重の庄野の白雨に描かれている竹薮は この地では随所に見られるが、特に和泉橋から見る安楽川堤あたりの景色は、周りに建物などもなく、広重の画を彷彿とさせるものである。白雨ではないが、今日はちょうど雨も降っているため、あたかも自分自身が広重の画の中にいるような気分になった。
和泉橋を渡って旧道を行くと、やがて右手に地福寺がある。結構古い歴史を持ち、昔は七堂伽藍の備わった大寺で東海道を行き交う多くの人々の信仰を集めていたという。
旧道は地福寺の先で左斜めに下り、道路を横切って向かい側の砂利道に入って行く。
ここで右手の踏切を越えて行くと、能褒野御墓への道となる。日本武尊は能褒野の地で亡くなり、その御陵が神社の中にある。能褒野御墓は街道からかなり外れるので今回はパス。
井田川駅手前の無人踏切を渡り、駅前を通って川合町北で国道を横断する。川合椋川橋を渡り、亀山バイパスをくぐって行くと、その先で東海道から旧神戸道に分れるところに和田の道標があり、「従是神戸白子若松道」と記されている。
すぐ先で国道に接近した後、右に曲がって亀山に向かい西の方に坂を上って行く。丘の上にかつては壮大な伽藍を有していたと伝えられる石上寺が見えてくる。
石上寺を過ぎて坂を登りきると、やがて和田一里塚がある。
ここから約700m程のところに能褒野神社二の鳥居があり、その脇に従是西亀山宿札がある。ここが亀山宿の東の入口である。
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46 亀山宿
亀山は宿場町であるとともに城下町であるため繁栄したが、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通る大名達は亀山宿に宿泊するのを遠慮したといわれ、宿場の規模は大きくなかった。街並みは曲がりくねった複雑な道や坂道が多く、城下町らしい特徴のあるものとなっている。
亀山宿に入り本町の町並みを進んで行く。旅籠はこの本町と隣の東町に集まっていた。街並みには、古い民家や屋号が書かれた木札もいくらか見られる。
本町の先で左へカーブして、右折すると東町に入る。江戸口門があった場所で、案内板が立っている。ここには番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。
右折した先は東町商店街で、しばらく行くと右手に交番がある交差点に出る。ここには亀山城の大手門のあった場所で、昔はこの大手門付近まで堀があったので、東海道はここで左に曲がるが、商店街をそのまま真っ直ぐ歩き、街道を外れて亀山城址に寄り道した。この先の旧東海道は、出口の京口門までは枡形道が幾つも続いている。
亀山城
亀山城は、天正18年(1590)、豊臣秀吉に従った岡本良勝が入城後、天守、本丸、二の丸など、その後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。三層の天守閣は優美な蝶が舞うように見えたところから粉蝶城とも呼ばれた。寛永13年(1636)には城主となった本多俊次の手で大改修が行われ、天守台に多聞櫓が築造された。
現在は、黒板張りの多聞櫓と石垣が現存しているはずだが、なんとこの時は残念ながら補修工事中らしく多聞櫓には覆いがかぶせられていた。
城址から南の東海道に戻る途中には、亀山城二之丸御殿跡、西の丸庭園や侍屋敷遺構がある。東海道は東町から西町になっていて、東町商店街とは異なり、街並には旧道の面影が残っている。
枡形の道を進むと梅厳寺の門前脇に京口門跡がある。江戸口門と同様に、石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構えていた。広重の「亀山 雪晴」はここの風景が描かれた。
京口門を過ぎると街道はこの先寺町となり、野村の一里塚、大岡寺畷(だいこうじなわて)を経て関宿に入ってゆくのだが、先を急ぐため近くの亀山駅から関駅まで電車で行くことにした。
JR関西線の関駅から先は、鉄道は東海道から全然別の方向へいってしまい、鈴鹿峠を越えた先は、水口あたりまで交通機関や宿がなくなってしまう。旅の途中何があるかわからないので、万が一のことを考えると今日中に少しでも先に進んでおかなければならない。
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47 関宿
関宿は古くから交通の要衝で、奈良時代に鈴鹿の関が置かれ、関宿の名前もそれに由来している。江戸時代、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐することもあって、旅人で大いに賑わった。
関宿の東の入口になっている追分付近には、常夜灯や一里塚跡が残り、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっている。
宿内は古い街並みがよく保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
街並み
街並みは東から、木崎・中町・新所の三つの地区で形成されている。
関駅から旧道に出たあたりは木崎から中町に変わるところとなる。東の追分の方には、二階の壁がしっくいの塗籠造で窓は虫籠窓という浅原家など、趣ある木崎の街並みが続いている。
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すぐ近くには御馳走場跡がある。御馳走場とは宿役人や宿の亭主が衣服を整えて大名行列を見送ったり、出迎えたりする時に使われた場所のことをいう。宿内の銀行の第百五銀行は、保存地区に配慮してか、塗り込造の町屋風な造になっている。
中町のほうには、さらに多くの趣ある建物が立ち並んでいる。
すぐ近くに川北本陣跡と伊藤本陣跡があり、隣の百六里庭(眺関亭)は無料の休憩所となっている。
右手にあるのが、関宿を代表する大旅籠だった玉屋で現在は関宿旅籠玉屋歴史資料館として公開されている。慶應元年(1865)建築の木造二階建、塗籠造で宝珠を形取った虫籠窓が印象的である。
玉屋の隣に高札場が復元されており、その後ろの関郵便局は古い街並みに溶け込んでいる。玉屋の向かいが、銘菓「関の戸」で有名な深川屋で、屋根から突出た庵看板が特徴的。
右へ入った所に福蔵寺には、女性の身でありながら亡き母の遺志を継ぎ、父の敵討ちをした仇討烈女として名高い関の小万の墓がある。この先の地蔵院前にあった旅籠山田屋(現会津屋)の養女となっていた小万は、亀山藩の道場で武芸を磨き、天明3年(1783)亀山城大手前付近で無事本懐を遂げたという。
関宿のほぼ中央に位置する地蔵院境内の本堂、鐘楼、愛染堂の3棟の建物は国の重要文化財に指定されている。天平13年(741)、行基によって創建されたと伝えられる古刹で、本尊地蔵菩薩座像は、わが国最古の地蔵菩薩と言われている。
地藏院前には山菜おこわと街道そばの店会津屋がある。元々は鶴屋、玉屋とともに有数の大旅籠で、関の小万はこの会津屋の前身の山田屋で育った。
地蔵院から西の追分へ向かう新所地区には、嘉永年間建築の田中家などの旧家が続いており、静かで趣のある街並みとなっている。
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西の追分
嵯峨天皇の時代に開創されたという観音院を越えると下り坂になり、関宿の出口になっていた西の追分が見えてくる。西の追分も昔はとても賑わった場所だったというが、今は静かでその面影は見られない。ここは大和街道との追分けで、大和街道は加太峠を越えて大和、奈良方面へ出て行く。角に道標を兼ねた大きな髭題目碑が立つ。
市瀬
関宿の西の追分を出てしばらくは国道1号を歩き、鈴鹿川の手前で右に入ると市瀬集落である。
集落の出口まで来ると、荒削りの独特な形をした常夜灯に出会える。
この先で国道を横断すると、同じような常夜灯がもう1基ある。
2基目の常夜灯の先から再び国道1号に合流。右側に渡り、国道をしばらく行くと、右手に筆捨山の入口を示す細い道があって、案内板が立っている。この奥に見えるのが有名な筆捨山で、狩野元信がこの山を描こうとして筆をとったが、どうしてもうまく描けないのでついに筆を投げ捨てた、と言い伝えられている。
国道は先で大きく左へ曲っていて、曲り終えたあたりで細くなった鈴鹿川を渡ると、その先、国道左側の斜面の上に坂下市瀬一里塚跡碑が無造作に立っている。
沓掛
その先で右手に入っていくと、そこは沓掛集落で、静かな通りに古い家が並んでいて、趣が感じられる。この付近は交通の便があまりにも悪く、このような形で古い家が残っているのだそうだ。振返った先に見えるのは筆捨山のようだ。
沓掛集落をしばらく歩いていくと、旧道沿いに東海道五十三次の木柱が並んでいて、左手にはドーム型の馬子唄会館がある。そのすぐ前には、どこか懐かしい雰囲気の漂う旧坂下尋常小学校が残されている。
やがて河原谷橋に出るが、昔はこの橋を渡れば坂下宿だった。
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48 坂下宿
鈴鹿峠の上り口にある宿場町で、峠を越える旅人で大変賑わった。元々10町ほど峠寄りの元坂下に設けられていたが、慶安3年(1650)の大洪水により、壊滅的な被害を受け、現在地へ移転を余儀なくされた。
宿としての規模は山間部にしてはかなり大きく発展していたが、その後、宿の役割を終え、山間の小さな集落と化してしまった。宿場時代の遺構もほとんど残っておらず、本陣跡等を示す石碑が残るのみとなっている。
松屋本陣跡碑の立つところが、バス停になっており、雨をしのげるので都合がよい。ここで予約している関ロッジに電話をして迎えに来てもらうことにした。予約の際、街道歩きの話をしたら、適当なところで電話をすればマイクロバスで迎えに出てくれるということであった。交通の便の悪い所なので、このサービスは大変助かる。
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2012/3/10 坂下宿~<鈴鹿峠>~土山宿~水口宿
今日は、鈴鹿峠越えからはじまる。
前日、迎えに来てもらったところまで宿のマイクロバスで送ってもらい、歩き旅を再開する。
ちょっと歩くと大竹屋本陣跡、梅屋本陣跡の碑が立っている。この辺が坂下宿の中心地であったということになる。大竹屋は「街道一の大家」と称えられたほどで、旅人は一度は泊まってみたいと願う宿であったという。
梅屋本陣跡対面の法安寺山門は松屋本陣の門を移築したもので、たいそう立派な門だが、このような立派な門構えの本陣が3軒もあったとは信じられないほど今は静かな里に変わっている。
しばらく歩くと国道1号に合流するが、案内看板に従い、国道に沿った道を歩く。
国道沿いを500m程進み、右手に入って行くと、片山神社の石柱が建っていた。このあたりが洪水前の、坂下宿 があった所で元坂下宿という。
すこし山道を行くと、片山神社の鳥居が建っている。江戸時代には鈴鹿大権現とも呼ばれた由緒ある神社だったが、本殿は火事で焼失したということで、現在は荒れ果てている。
鳥居の横には鈴鹿流薙刀術発祥の地の碑が建っている。
神社の脇からは、一部石畳が残る山道となる。急坂を上っていくと、途中に芭蕉の句碑がある。
- ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山 -
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峠の案内板には、八町二十七曲がりと言われる険しい峠道で、山賊に関わる言い伝えが多く、箱根峠に並ぶ東海道の難所であったという。
鈴鹿峠頂上
杉木立の中のつづら折りの道を登って行くと、あっという間に頂上に到着した。難所と覚悟していた峠道が存外にあっけなく終わってしまい、急にパッと明るく開けたところは一帯に茶畑が広がっていて、何か狐につまされたような感じである。
頂上には「近江の国」と「伊勢の国」の境界石が立っている。ここが三重県と滋賀県の境界なのであった。少し歩くと、巨大な石積みの常夜灯が見えてきた。万人講常夜燈といわれるもので、江戸時代に金毘羅宮参りの講中が旅の安全を記念して建てたもの。高さ5.4m、重さ38トンもあるそうだ。
常夜燈を過ぎると右手に鈴鹿トンネル見える。この先は緩い坂道を下り、国道1号を地下道で右側に横断し、国道に沿って西へ向かってしばらく歩く。
山中
途中、山中交差点先左手に熊野神社鳥居を見ながらしばらく歩くと、国道右に石灯籠がポツンと置かれた小公園のようなところがあり、そのすぐ先、国道左側には十楽寺が見える。
少し先の山中西交差点手前で、右の旧道に入ると、「東海道 鈴鹿 山中」碑と石灯籠があり、右側には「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と刻まれた鈴鹿馬子唄碑がある。
坂下宿で晴れていても、鈴鹿峠では曇りで、土山宿は雨というように、鈴鹿峠を境に気象ががらりと変るという意味である。
そのまま旧道を行った大平地区を過ぎ、名神高速道をくぐるとすぐに国道に合流するが、そこは山中一里塚公園となっている。中に「 いちゐのくわんおん道
」と刻まれた熊野観音道道標があり、奥に馬子唄の碑と馬と馬子の石像がある。
国道を歩き、やがてかつて立場だった猪鼻地区に入るが、ここは、すぐに国道に戻り、少し行って榎島神社(白川神社の末社)が見えたらその先を右に入って坂を下りて行く。
蟹が坂
ここらあたりを蟹が坂といって、昔蟹の化物が出て、旅人を苦しませていた、という伝説が残る。坂の入り口に蟹が坂の案内板がある。街道歩き人に対して東海道の旧道を示す非常に分かりやすく丁寧な案内板である。
工場の脇を通り抜けると、右に小さな蟹坂古戦場跡碑がおかれている。
先に進み、田村川に出る。
架かっている海道橋は、平成17年に竣工したもので、当時の板橋を再現したという。橋の手前に当時の高札が再現されている。
高札の解説によると、田村川板橋は土山宿住民が中心となり金を出し合って安永4年(1775)に架けられ、その時から東海道の道筋は田村神社境内を通るように変えられた。昔の橋は、渡り賃は武士、百姓は無料、一般の旅人は3文だったという。
海道橋を渡ったところに、広重が東海道53次で土山宿を描いた春の雨の解説がある。
雨の中橋を渡る大名行列の様子で、田村板橋を渡り、田村神社の杜の中を宿場に向かっている風景だと言われている。
田村神社は弘仁3年(812)の創建と伝えられる古い神社で、蝦夷征討で功績のあった坂上田村麻呂と嵯峨天皇、倭姫命を祀っている。また厄除け神社としても地元の信仰を集めている。本殿は、元文4年(1739)に焼失した社殿を再建したもので、築後260年以上になるという。
田村神社の参道を歩き、国道1号を渡ると目の前が道の駅で、その左側から道の駅裏に回り込むと土山宿碑がある。
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49 土山宿
土山宿は、宿駅制度制定前から伊勢参道・多賀大社参道として賑わい、宿場に制定されてからは一層の賑わいとなった。
今は寂れてしまったが、地域の人々により宿場保存の努力がされており、今でも当時の趣を残す街並みが残っている。
しばらく歩くと、道標と地蔵堂があり、道標には「従是 右京都へ十五里 江戸へ百十里」とある。
少し先、右側の民家前に「東海道一里塚跡」と刻まれた土山一里塚跡碑が建てられている。
さらに行くと、瓦葺き屋根の白壁造りの来見(くるみ)橋に到着。小さな橋だが、なかなか趣ある造りで、白壁には広重の絵などのパネルが貼り付けられている。
来見橋の先が土山宿の旅籠街で、江戸時代の跡地標識や屋号が掲げられている。
街並みの中ごろに来ると、東海道や宿・伝馬制度をテーマにした東海道伝馬館がある。
伝馬館からすぐのところに土山本陣跡がある。建物は黒漆喰塗りの壁に、籠目格子造りと呼ばれる旅籠独特の造りの二階建で、現在も調度類、宿帳、関札など、当主の土山氏によって管理・保存されている。
しばらくして交差点を渡ると、右側に大黒屋本陣跡、問屋場跡、高札場跡の3本の石碑が建てられている。大黒屋本陣は、土山本陣が諸大名の宿泊で収容しきれなくなったため、土山宿の豪商大黒屋を控本陣として指定したもの。
宿の街並みを出ると国道1号と合流するところに、東海道土山宿の標識が立っている。
かつての東海道は国道を横断して北へ迂回する経路をたどるのだが、現在その経路は野洲川に寸断されているため、国道を少し歩いたところに立つ手書きの道標に従い、左の道に入って歌声橋で野洲川を渡る。
歌声橋を渡ってしばらく歩くと、民家の前に江戸から110番目の市場一里塚が立ち、その先の東海道反野畷碑が立つところから市場の松並木がはじまる。この松並木は大日川掘割(反野畷)跡といい、水害で甚大な被害を受けていた市場村が、元禄12年(1699)から4年間かけて野洲川へ流す延長504間の排水路を掘割した跡である。
国道1号を横断し、国道沿いの道を歩いて、今宿碑と常夜灯の立つところで再び国道を横断したら、この先は水口宿となる。
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50 水口宿
水口宿の歴史は古く、室町時代に伊勢参宮の宿村として開け、慶長6年(1601)には東海道の宿駅に指定されて宿場町として栄えた。 また、徳川家光上洛時の宿館として水口城が築かれた後、水ロ藩の居城となり、城下町としても栄えた。
今宿を過ぎ、しばらく旧道を淡々と歩く。県道307号線を横断して100mほど行くと東見付(江戸口)跡に冠木門が設置されており、再び県道を横切って少し先には、道の分岐点に復元された高札場がある。
旧東海道は高札場の左手の道で、町名碑が次々に置かれている街並みをしばらく歩く。
近江鉄道水口石橋駅の踏切を渡ると、城下町によくある枡形の多い道となっている。水口城址は左手の方向にあるが、先を急ぐため城址はパス。
やがて宿の西端に来ると五十鈴神社があり、境内の端には林口一里塚跡碑がある。
一里塚跡碑の前を左に曲がり少し歩くと交差点となるが、ここが水口西見付跡である。
水口の街並みを抜けると、北脇畷と呼ばれるのどかな農村風景が広がる。田んぼの中の一本道で両側は松並木になっていたという。現在では松並木はないが、まっすぐな道が続き、その先には、泉の一里塚跡がある。
一里塚から少し進んで大きな道路に出ると大きな常夜灯が見えてくる。このすぐ後ろには野洲川(横田川)が流れており、横田の渡しがあった。巨大な常夜灯の高さは10.5mもあり、東海道中でも最大級のものとされている。
今は、少し下流の横田橋を渡り、対岸の三雲に向かう。
野洲川を渡ってすぐのところに、JR草津線の三雲駅がある。
今回は、ここから彦根まで行って帰途に就く。
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今回は事前の入念な準備が功を奏して、足回りのトラブルもなく、順調に歩を進めることが出来た。
一日目は、夜行バスが早めに着き、天候にも恵まれ、朝8時に桑名を発ってから快調に距離を稼ぐ。
四日市の杖衝坂では、うつべ街角博物館にいたおばあさんにご馳走になった一杯の茶に、身も心も温められたことが、妙に記憶に残っている。
二日目は、冷たい雨の降る天候になったが、用意していた山行用雨具で完全防備。広重の画のような白雨ではないけれど、冷たい雨の中、スケールの大きな竹藪の醸し出す庄野独特の景色を堪能できた。街道歩きは、普通なら天気のいい方がいいに決まっているが、庄野に関しては絶対に雨が降っているときに限ると思う。
関宿は、事前に聞いていたとおり、地域の人々が一丸となって町全体を昔のまま保存していて、一見の価値がある。大型バスで訪れる観光客で賑わう中町あたりは、観光化しすぎていてやや興ざめであったが、新所地区に入ると旧家が建ち並ぶ静かな街並みが続いて、旧街道の趣が残っている。
関から坂下に向かって雨の降る国道を歩くときは、すぐ横を通る大型トラックの恐怖に加え、タイヤで跳ね飛んでくる水を浴びせられるのには閉口した。
三日目の鈴鹿越えは、気温3~4℃と寒いうえ、道は狭くて薄暗く、今にも山賊が出てきそうな雰囲気で、つい急ぎ足になる。ただ、難所の峠越えを覚悟していたら、思っているほどのこともなく、あっという間に峠を越えてしまった。
土山宿では、旧街道を感じさせてくれる建物が多く残り、落ち着いた街並みが続いている。吹きすさぶ北の風が向かい風となってちょっと歩くのに大変だったが、なんとか予定していた水口宿まで進むことができた。
今回の行程では、観光客の多い桑名宿や関宿を除くと、ほとんど人と出会うことがなかった。だが、近代化の波に取り残されたところでは、かえって街道歩き人にとっては往時の街道の雰囲気を静かに楽しめる。





