2011年7月15日 大磯宿~小田原宿~箱根湯本
2009年11月1日 箱根湯本~箱根宿
2011年7月17日 箱根宿~三島宿~沼津宿
一週間前に化粧坂から大磯の街に入ったところで一旦帰途に就いていた。今日はあらためて、東海道線で大磯駅まで行き、歩き旅を再開する。
大磯宿の続き
駅からまずは旧東海道の国道の大磯駅入口信号のところまで出て、大磯郵便局の少し先の路地を入っていくと延台寺がある。仇討ちで有名な曽我兄弟の兄・十郎祐成と結ばれた虎御前が開いたお寺で、境内には虎御前供養塔、虎御石などがある。
国道沿いに小島本陣跡碑が立つ先の路地奥に地福寺がある。ここには、島崎藤村の墓がある。梅の古木に囲まれて、ほっそりとした墓石が台座に立つモダンな感じの墓碑で、隣には静子夫人の墓がある。ここに葬られたのは、この地をこよなく愛した藤村本人の遺志によるもので、島崎家の菩提寺である中山道馬篭の永昌寺には、藤村の遺髪と遺爪が分骨という形で納められている。
街道を進むと、同志社大学設立に尽力した新島襄先生終焉の地碑が街道脇の植え込みの中に建てられている。大磯海岸の潮風が病気に良いとのことで療養に来ていた新島襄は、この地でその生涯を閉じた。また、そのすぐ先には湘南発祥の地碑がある。寛文4年(1664)、崇雪という人がここに草庵を結んだ折に建てた標石に「著儘湘南絶地」と刻んだのが湘南の始まりだそうだ。
さらにそのすぐ隣に、日本3大俳諧道場の一つと言われる鴫立庵(しぎたつあん)がある。西行法師が陸奥への旅の途中、この地の情景を詠んだ歌、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」にちなんで名づけられた。敷地内には西行歌碑をはじめ芭蕉句碑、その他たくさんの句碑や記念碑が建ち並んでいる。
鴫立庵を出て、少し先の旧島崎藤村邸への案内板に従って奥まった細い路地を行くと、割竹垣に囲まれた藤村邸があった。藤村は昭和16年からここに住んで、2年後の昭和18年にこの家で永眠している。閑居簡素な佇まいは、藤村が大変気に入っていたというだけあって、ここにいるとなぜか居心地が良い。他に訪れる人もないようなので、受付の方としばし藤村を偲ぶ話をする。(もしかすると身内の方だったのかも)
国道に戻ると大磯中学校のあたりから見事な松並木が続いている。当時、上方見附跡の説明板があるここまでが宿内であった。
この先、二宮、国府津を経て淡々と歩を進めていく。道の左手には海岸が続いているはずだが、残念ながら家並みに遮られてまったく見えない。
二宮を過ぎて、押切橋あたりでようやく海が少し見え始め、国府津駅の近くに来ると、大きな海原が眼前に見えてくる。
折角なので、西湘バイパスをくぐって海岸にちょっと出てみると、相模湾が広がっていてホッと一息つける。
一休みして再び国道を歩き始めると、やがて道は酒匂川に差し掛かる。酒匂橋から上流に目をやると、遠くに箱根の山々や富士山が見える。
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9 小田原宿
小田原は、戦国時代には、北条早雲から北条氏直までの北条5代にわたる城下町として繁栄し、北条氏滅亡後は、大久保氏など徳川譜代を領主とする小田原藩が置かれて、東国の要衝の地となった。
城下町でもあった小田原宿は、難所の箱根を控え、多くの旅人が宿泊する宿場町として大いに賑わった。最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べ、本陣4、脇本陣4の計8軒にのぼり、東海道でも屈指の宿場として栄えた。
酒匂川から少し先の山王川を渡ると右手に山王神社がある。天正18年(1590)、秀吉の小田原攻め時、この付近は山王川を前にした小田原城の出城になっていて、激しい攻防が繰り広げられた。
少し歩くと江戸口見付跡碑がある。小田原城下に入る東の出入口でここからが小田原宿内である。ここは江戸からちょうど20里にあたり、通りを挟んだところには山王原一里塚が設けられていた。
旧東海道は新宿交差点で左折し、すぐ先で右折して蒲鉾屋が軒を並べるかまぼこ通りを進むと、本陣、脇本陣や多くの旅籠があった宿の中心部を進む。
やがて国道に合流するところになりわい交流館という出桁造りの建物がある。ここは、かつて漁網問屋として栄えた商家の建物を改装し、お休み処となっている。
国道を進むと、お城のような風体の外郎家の建物が目に入ってくる。大永3年(1523)に建てられたものを再建したもので、棟の数が多いことから八棟と呼ぶ。室町時代から続く、神奈川県下で最古の商家で、別名透頂香(とうちんこう)と呼ばれる薬のういろうとお菓子のういろうを商っている。
そのすぐ先の箱根口交差点を右に少し入った三の丸小学校の傍らには、国指定史跡の箱根口門跡の土塁が残っている。
我が家は小田急沿線にあり、小田原に出るには比較的便利なため小田原城にも何度か来ている。この先に小田原城があるが、今回は立ち寄らずに行くことにする。(写真は別の日に撮ったもの)
国道に戻り、少し歩いてJRのガードをくぐると、左手に大久寺、右手に居神神社と並んで光円寺がある。大久寺は天正18年(1590)、初代小田原藩主大久保忠世が開基した寺で、大久保家の菩提寺である。
光円寺は、徳川家光の乳母春日局が開基した寺で、その前の交差点のところが板橋見附跡であり、小田原宿の上方口(板橋口)になる。
板橋見付で国道を右に折れ、新幹線ガード下をくぐって旧東海道(板橋街道)に入って行く。旧街道と並行している一本奥の細い道に行くと、北条氏時代に造られた小田原用水が流れている。この用水は、当時から城下での飲用水として使われていた。
しばらく行くと、上板橋で国道に出るが、その手前に地元で親しまれている山王神社板橋の地蔵尊がある。永禄12年(1569)、香林寺九世の文察和尚が、湯本宿の古堂に祀られていたものを現在地に移奉した。本堂右手には直径1.5mほどの一木から彫られた恵比寿様が祀られている。
すぐ先で、箱根登山鉄道のガードをくぐり、国道に合流するが、国道の反対側に小田原用水取水口があり、そのずっと後方に太閤一夜城があった石垣山が見える。天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城を包囲し、本陣を構えたときに総石垣の城を築いたので石垣山と呼ばれるようになった。
しばらくは国道を歩き、小田原厚木道路の高架をくぐったところで箱根登山鉄道の踏切を越えて再び旧道に入って行くと、間もなく道祖神と風祭一里塚跡がある。
風情ある静かな旧道をしばらく進むと、やがて右手に紹太寺の広々とした参道が延びている。紹太寺は、春日の局とその子で小田原城主となった稲葉一族の菩提寺である。開基当時は東西14町70間、南北10町16間という広大な寺域に七堂伽藍が配置されていたという。
箱根登山鉄道の入生田駅先の踏切を渡り、一旦国道に合流してすぐに線路沿いの狭い階段を上って人ひとりやっと通れる道を100mほど進む。この道をおわると再び旧道に入るが、400mほどですぐに国道と合流する。合流点に、山崎古戦場跡碑がひっそりと立っている。慶応4年(1868)、幕府軍と官軍の先鋒小田原藩との間で激しい戦闘が行われた場所である。
やがて道の左側に三枚橋が見えてくる。これを渡ると箱根旧道の入り口だ。橋から早川上流方向を見ると、小田急の箱根湯本駅はすぐ近くである。
今日はここまでとして箱根湯本駅から電車に乗り帰途についた。次はいよいよ天下の険箱根の峠を越える。
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旧東海道の箱根東坂については2009年に訪れた時の記録をもとに記す。
箱根湯本~
箱根路は、時代によって、碓氷道(上古道)、足柄道(中古道)、湯坂道(近古道)、旧東海道(近世道)、新道(国道1号)、箱根新道と新しい道が拓かれている。また、旧東海道の小田原宿から三島宿までの箱根八里のうち、箱根峠までの江戸側4里は箱根東坂、峠から三島までの4里は箱根西坂と呼ばれる。
旧東海道の箱根路は、小田急箱根湯本駅から国道を少し戻ったところの三枚橋を渡り、県道を行く。道は急な上り坂となり、しばらくすると右側に戦国大名北条早雲の菩提寺の早雲寺がある。大永元年(1521)に2代目氏綱が建立したもので、山門を入った右手の清楚な茅葺き屋根の鐘楼に下がる梵鐘は、秀吉が小田原攻めのとき石垣山一夜城の陣鐘に使用したものである。
早雲寺から少し先の正眼寺には、父の仇工藤祐経を討ち取った蘇我兄弟を供養する曽我堂がある。
県道をさらに進み、箱根新道の須雲川インターの先の須雲川集落外れに鎖雲寺がある。ここには、飯沼勝五郎・初花の墓がある。父の仇を捜して諸国を遍歴するうちに勝五郎の足が不自由になってしまったが、妻の初花が夜な夜な滝に討たれて回復を祈ったところ、その一念が実り、勝五郎は見事に仇討ちを果たしたと伝えられている。
このすぐ先に須雲川自然探勝歩道という案内板がある。このまま県道を行くのが旧東海道だが、折角なので自然探勝道の方を歩くこととする。
東電の畑宿発電所辺りで、須雲川を渡ると自然探勝歩道は一旦県道に出て、そこから少し先で箱根旧東海道・石畳道に入る。ここは曽我の仇討ちにまつわる伝承がある割石坂で、途中「これより江戸時代の石畳」という標識がある。
少し先で、旧道は一旦県道に出て、再び「箱根旧街道」の標識の旧道に入る。この先、座頭ころがしの坂ともいわれた大澤坂辺りの石畳が、江戸時代の頃の状態を一番残している。石畳の構造を説明した解説板もあり、排水などにも配慮している事がわかる。
畑宿
旧道が県道にぶつかるところが立場として賑わった畑宿で、急坂を喘ぎながら上ってきて漸く休憩できるところとして貴重な存在だった。ここに畑宿本陣茗荷屋跡という碑が立っている。
現在の畑宿は、箱根名物寄木細工の生産地として知られている。
畑宿で再び旧道に入ると、畑宿一里塚が迎えてくれる。石畳の両側に残る塚は発掘調査にもとづき復元したもので、東海道中唯一その形態を留めるものだという。山の斜面にあるこの塚は、周囲を盛土、切土と石貼で平坦面をつくり、直径9m円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って頂上に植樹している。
一里塚の先の石畳道を上って西海子(さいかち)坂を過ぎると一旦県道に出て、七曲がりの車道をしばらく行くと、橿木(かしのき)坂に行き着く。坂と言っても長くて急な石段で、箱根旧街道で一番きついところである。
天下の険を実感する長い橿木坂を上りきって木橋を渡ると、見晴茶屋のところに着く。
甘酒茶屋~元箱根
これから先、県道を歩道橋で渡ったり、県道に沿って歩いたりしながら旧道を行くと、県道脇に創業300年余りの甘酒茶屋がある。ここは箱根旧街道資料館ともなっていて山駕篭,合羽、腰付弁当箱など当時の旅の用具が展示されている。
甘酒茶屋を出て、於玉坂の緩い上りをしばらく行くと、県道を横切る。ここから白水坂、天ヶ石坂と石畳の上りがしばらく続く。
天ヶ石を過ぎたところが東坂の最高点(標高805m)で、この先は元箱根の近くまで石畳の下りが続き、お玉ヶ池への分岐である車道を横切って権現坂の急な石畳を下ると芦ノ湖畔の賽の河原のところに至る。
国道を少し行ったところに葭原久保一里塚があり、ここから箱根旧街道杉並木を進んで行くと、やがて箱根関所跡に着く。
関所の南門を出ると国道1号に出る。この辺りが箱根宿の中心で、箱根ホテルや夕霧荘は箱根宿本陣の跡地である。
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2011年7月17日 箱根宿~三島宿~沼津宿
小田急電車とバスで箱根まで来て、歩き旅再開。
今日は箱根宿から箱根峠を越え、三島宿まで西坂を下って、沼津までの旅である。
10 箱根宿
東海道の小田原、三島間は、箱根峠を越える街道屈指の難所であった。そのため、徳川幕府は元和4年(1618)、旧来の湯坂道に代わる道を拓くとともに、中間地に箱根宿を設け、関所を置いた。
小田原と三島の中間点に宿場を計画したとき、すでに現在の元箱根には宿があったが、箱根権現の門前町であったため、少し離れたところに宿場を新設した。こうして新しい宿ができたのでそれまでの門前町は元箱根と呼ばれるようになった。
箱根峠旧道入口~箱根峠
関所の先、芦川交差点で国道から分かれて右に入って行くと、芦ノ湖西遊歩道看板の左手が旧道の入口で、右側に石仏が並び、その少し先から向坂の石畳道が始まる。
向坂に続く赤石坂・釜石坂・風越坂・狭石坂といった坂を経ると、国道に出る。国道を少し歩くと、標高846mの箱根峠に至る。
箱根峠の駐車場の「箱根旧街道」と書かれた冠木門を通り、芦ノ湖カントリークラブへの道を少し行くと、左手の笹薮に箱根西坂旧道入口がある。そこには、案内板や「是より京都百里、是より江戸25里」と彫られた道標がある。このあたりは茨ケ平で、ここから箱根西坂の始まりとなり、笹竹のトンネルが心地よい兜石坂を下って行く。
やがて国道が左に大きく曲がっているところで、旧道は国道にぶつかる。その右側に旧道入り口があり、接待茶屋の案内板が立っている。昔ここに無料で人や馬に食べ物を施す茶屋があったという。
旧道を少し入った所に兜石がある、この石は兜を伏せた様な形をしていることから、かぶといしと言われている。また秀吉が小田原征伐の時、ここで休憩し、兜をこの石に置いたことからかぶと石と呼ばれるようになったとの説がある。もともとは兜坂にあったものが国道の拡幅で現在地に移された。
この先、石原坂の下りとなる。途中、念仏石と呼ばれる大きな石がある。旅の途中で行き倒れた人を、山中城跡にある宗閑寺で供養して碑を建てたものと言われている。
さらに、大枯木坂、小枯木坂と石畳道を下って行く。
国道とぶつかる右側に雲助徳利の墓がある。杯と徳利が彫刻された墓標である。説明によると、元西国大名の剣術指南をしていた松谷久四郎が酒でしくじって国外追放となり、箱根で雲助仲間に入った。腕も立ち、読み書きもできて雲助仲間から親分の様に慕われていたという。
国道に出て少し行くと、山中城跡への登り口に駒形諏訪神社の大鳥居がある。神社の上部一帯が山中城跡になる。山中城は戦国時代に北条氏が築いた山城であるが、秀吉軍に攻められわずか半日で落城してしまったという。現在は当時の空掘、本丸跡などの遺構が復元されている。
ショートカットの道を歩き国道を横断すると再び石畳道となっており、ここを下ると一旦国道に出るがまた石畳道となり下ってゆく。次に国道に合流したところが富士見平である。
ここには芭蕉の句碑がある。
- 霧しぐれ 富士をみぬ日ぞ 面白き -
芭蕉はさぞ残念なことだったのだろうが、私は幸い見事な富士山を眺めることができた。ここから見える富士山は本当に見事で、箱根の峠を越えてきたことも相俟って、気分は最高である。
芭蕉句碑からちょっと国道を上って横断し階段を下ると上長坂の石畳道となる。
さらに歩いてゆくと笹原新田・上長坂の道標。この辺の石畳もよく整備されている。その先の下長坂はこわめし坂とよばれた急坂で、昔はここを上ってくると背負っていた米が汗と熱でこわめしになってしまうということから名付けられたという。現在は舗装道となっている。
こわめし坂を下ると三ツ谷新田の集落に入り緩やかな下り坂となり、途中、松雲寺がある。
さらに市山新田、塚原新田の集落に入り、だらだら坂を下って行くと国道1号に合流し、合流点に箱根路と刻まれた大きな石碑がある。
国道に合流すると、久々の松並木が待っている。松並木の右側に初音ケ原石畳遊歩道が整備されており、松の木陰が気持ちよい。
しばらくすると錦田一里塚の小山と大木が見えてくる。道の両側に一対の形でほぼ昔のままの姿を保っており、国指定の史跡となっている立派なものである。
初音ケ原石畳の終わったところに箱根旧街道の石碑がある。長かった西坂が終わり、この先は国道から分かれて右に入って行く。
愛宕坂を下り、東海道線の踏切を渡ってさらに今井坂を下る。 その先の新町橋を渡るといよいよ三島宿に入る。
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11 三島宿
三島宿は、元々三島大社の門前町として古くから発展していたが、慶長6年に正式の宿場として制定されると、箱根越えする人々で大いに賑わった。また、富士山からの湧水が市内いたる所で見られ、水と景観の町として発展している。
大場川にかかる新町橋を渡ると、まもなく三島大社にたどり着く。三島大社は、伊豆国一宮で道中の安全の守り神として旅人の尊敬を受けていた。
やがて伊豆箱根鉄道・三島広小路駅の脇の踏切を越えるが、これまで、ほとんど人と出会うことのない箱根西坂を延々と下ってきたこともあって、このあたりの商店街は大変賑わって見える。
旧道をしばらく歩くと、宝池寺境内に江戸から29番目の宝池寺の一里塚が見える。きれいに整備されたこの塚は近年復元されたものであるが、道路の反対側にある玉井寺境内にある塚は原型を留めているという。
旧道に戻り、しばらく行くと松並木が少し残っている。少し先で黄瀬川を渡るが、昔はこのあたりは立場であり休憩する旅人で結構賑わったという。
さらに行くと、道は狩野川沿いとなるが、道からは堤防で川が見えない。
堤防を下り沼津の市街地に入ったところで、沼津駅から帰宅。
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小田急沿線に住む我が家からは箱根はとても身近なところで、馴染み深いところと思っていた。しかし、今回初めて箱根西坂を歩いてみて、これまで何度も行っていたのは箱根東坂周辺観光地であって、それは箱根の半分でしかないということが分かった。
箱根峠から三島までの西坂は、小田原からの東坂に比べ、険しい急坂もなく、全体的に穏やかな感じがする道である。石畳道を始めに全コースよく整備され、大変快適に歩くことができる。また、東坂は鬱蒼とした木立の中の道が多いのに対し、西坂は両側に笹竹が生い茂るような所が多く、見晴らしも良くて明るい感じである。
途中からは、裾野が広がる富士山や駿河湾などが眺望でき、実に快適な旅となった。
ちょっと大げさかもしれないが、箱根西坂を見ずして箱根を語ることなかれ、という感じである。