沼津~府中

2011年8月18~19日 沼津宿~原宿~吉原宿~蒲原宿~由比宿~江尻宿~府中宿

私の東海道歩き旅は、これまでは日帰りを繰り返して進んできたが、ここから先は泊りがけで進んでいく。

12 沼津宿
かつて城下町として栄えた沼津の街には、蛇行する狩野川に沿う形で枡形の道が残っている。しかし、戦前、兵学校があったことで激しい戦災を受け、古い建物等は何も残っていない。

街中を抜けると、やがて旧東海道は千本街道と西間門で斜めに交差するところに「左千本松原・右旧東海道」の道標がある。そこから先、旧道と千本街道がほぼ並行するが、その千本街道に沿って、沼津から田子の浦に至る長大な千本松原が続いている。


旧道から外れるが、折角なのでこの松原の中を行くことにする。松原の中にはきれいな遊歩道が整備されていて、歩くのに実に心地よい。海側の防潮堤の上に出てみると、左に駿河湾、右に見事な松原が延々と続いている。
この先の街道筋は、天気がよければずっと富士山や愛鷹山がよく見え、すばらしい道中となるはずだが、あいにくこの日はうす雲がかかっていて富士山はほとんど見えなかった。

延々と続く松原の道を歩いて、途中から旧道に戻った。しばらく行ってJR東海道線の踏切を渡ると、その先が原宿になる。
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13 原宿
このあたりは富士山を背に愛鷹山が目前に迫り、広重の原宿の画では、富士山が枠からはみ出すほど大きく描かれている。
愛鷹山の裾野が駿河湾に臨む一帯は浮島ヶ原と呼ばれる湿地帯で、原の名はこの浮島ヶ原を略して呼ばれるようになった。
原宿は小さな街の割に寺社が多く、なかでも浅間神社がいくつも見られる。

桃里地区にある浅間愛鷹神社の鳥居のそばに改称記念碑が立っている。浮島ヶ原の開拓に尽力した鈴木助兵衛の名をとって、このあたりは助兵衛新田とよばれていたが、その後、鈴木家からの申し出により、地名は桃里に改められた由。
桃里を過ぎると田子の浦の方まで、沼田新田、田中新田、柏原新田、檜新田、大野新田といった地名が続く。こうした新田の開拓に携わった多くの人々の苦労が偲ばれる。

旧道がJR東海道線の南側に移ると、東田子の浦駅のすぐ近くに六王子神社がある。

昔、沼川、和田川、深井川が合流し深い淵となっている所に龍が住んでいて、毎年お祭りに少女を生贄にして捧げるしきたりになっていた。あるとき7人の巫女が京都へ向かう途中、この生贄のくじを一番若いおあじが引き当ててしまった。残った仲間6人は国元へ引き返す途中悲しみのあまり浮島沼に身を投げてしまったため、村人が6人の亡骸をここに弔ったという。

すぐ先に立圓寺がある。境内に尾張藩の侍医がここから眺める富士山を賞賛して建立した望嶽の碑が立ち、そのとなりに、インドネシアのゲラテック号遭難記念の錨が置かれている。


JR東海道線吉原駅の手前で東海道線の線路を渡り、本吉原に向かう。周辺には製紙工場が多い。ここ田子の浦は万葉集でも知られる風光明媚の地だったのに、高い煙突が林立し、勢いよく煙を吐く光景は、どうもいただけない。
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14 吉原宿
吉原宿は、もとはJR吉原駅付近(元吉原)にあったが、延宝8年(1680)の津波により壊滅的な被害を受け、内陸部の現在の本吉原に移転した。これにより、海沿いを通る東海道は吉原宿の手前で内陸部に大きく湾曲し、道の左側に富士山が見えるところとなった。
広重の吉原の画には、この富士山が描かれている。旧道をしばらく行くと、左富士神社のすぐ先に名勝左富士の碑と老松が一本立っている。東海道は、このあたりで富士山に一番近くなる。


少し歩くと平家越え橋を渡る。橋の脇には平家越の碑が建てられている。昔、このあたりに陣取った平家の大軍が水鳥の一斉に飛び立つ羽音に驚いて、戦わずに敗走したと伝えられている。この辺まで富士川の支流がのび、付近には水草もたくさん生い茂っていたらしいが、今は見るべくもない。

橋を渡って道なりに進み、岳南鉄道線の吉原本町駅に出る。この先、吉原本町通り商店街を歩いて行くが、吉原宿は現在地に所替えになった後、何度も大火があり、昔の雰囲気を伝えるものはほとんど残っていない。
少し先の吉原宿道標の立つところで左に曲がって行くが、その少し手前に本日の予約をしている鯛屋旅館がある。まだ宿に入るには早いので、とりあえず挨拶だけして先に進む。

身延線の柚木駅横を通って行くと、やがて富士川橋が見えてくる。
富士川は、南アルプスの甲斐駒ヶ岳の西麓を源流とする釜無川と笛吹川が合流して、甲府盆地の水を集めて駿河湾に流れ込む川である。昔から急流で知られ、渡るためには渡舟を利用した。渡舟場は3ヶ所あり、流れの状態に応じて使い分けたという。
橋の上からは雄大な富士山が望めるはずだが、残念ながらこの日は、少し霞んでいて微かに見えるだけである。

富士川を渡ると、少し上流に渡船場常夜灯と門倉了似碑が立っている。


門倉了以は江戸初期の豪商で、幕府の命でこの碑の立つ岩淵川岸から甲州鰍沢(かじかざわ)河岸までの70kmに及ぶ富士川開削工事の大工事を行った。水路が完成すると、甲斐-岩淵-蒲原湊の船による交易が盛んになり、岩淵はその中継点として栄えた。

この渡船場あたりから河岸段丘の急坂を上ると、そこが、かつての間の宿岩淵のあったところになる。右手に岩淵宿小休(こやすみ)本陣がそっくり残されており、国の有形文化財に指定されている。


少し先で道が大きく右に曲がるところに岩渕の一里塚がある。これは道の左右にほぼ完全に残っている貴重なものだ。


しばらく道なりに進んだところで、旧道は右に曲がるのだが、そのまままっすぐに行くとJR富士川駅に出る。

今日はここまでとし、電車で富士まで戻り、バスで吉原の鯛屋旅館に向かう。
鯛屋旅館は、創業天和2年(1682)という吉原宿の時代から営業している老舗旅館で、清水次郎長や山岡鉄舟の常宿として知られている。玄関を入ると山岡鉄舟直筆の看板がおかれていた。

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2011年8月19日 蒲原宿~由比宿~江尻宿~府中宿
翌朝、鯛屋旅館を出立する際にご主人が火打石を打って清めの鑽火(きりび)で送り出してくれた。なんとなく、次郎長の気分になった。


今日は、蒲原から再開し、難所と言われる薩堙峠を越える。

15 蒲原宿
蒲原宿は、広重の「東海道五十三次 蒲原夜の雪」で有名な宿場である。富士川を控え、川止めの時などは大変な賑わいを見せる交通の要衝であった。元々は現在の場所よりもう少し海に近いJR東海道線の南側にあったが、元禄12年(1699)の大津波で宿場が流され、山側の現在地に移転している。
宿場の古い街並みが大事に保存され、情緒ある街並みを今も見ることができる。

黒塗りの壁、なまこ壁の白と黒のコントラスト、寄棟造りの家は佐野屋という商家だった家で、一寸のすきもない重厚感に溢れた趣だ。今でも住居として使われている。


佐野屋を通り過ぎた先に問屋場跡説明板があり、その向かい側の路地を入って行くと、広重の蒲原夜の雪記念碑が建てられている。広重はこのあたりから見た風景を描いたのだという。「夜の雪」は広重の東海道五十三次の中でも傑作と謂われる。

旧道の少し先、旅籠和泉屋は、天保年間(1830~44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れた。国登録有形文化財で、2階の手すりや看板掛けなどに江戸時代の面影を残している。
和泉屋の向かいには、黒塀のどっしりした西本陣(平岡本陣)跡がある。


大正時代の洋館は、旧五十嵐歯科医院の建物で国登録有形文化財。町屋を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれるもので、外観は洋風で内部は和風というユニークな建物。
その先に、今では珍しい蔀(しとみ)戸のある家が残っている。志田家は、味噌や醤油の醸造を営む商屋で、安政の大地震直後に建てられた。蔀戸とは、日光や風雨を遮る戸のことで、上下2枚に分かれており、上半分を長押(なげし)から吊り、下半分は懸金(かけがね)で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下の戸は取り外せるという。


宿はやがて左折して県道と合流するが、そこに西木戸跡碑が設置されている。
少し先で高速道路の高架下をくぐり、左手の旧道を行けば由比宿に入って行く。
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16 由比宿
由比宿は、海と山に狭められた海岸沿いの小さなのどかな宿で、かつては、越後の親不知子不知と同様、山が海に落ち込む地形の険しい道であった。今は、狭隘な土地に鉄道、国道、高速道路がひしめきあい、台風接近の様子を報じるテレビ放送でよく見かけるところである。
由比港の桜えびの水揚高は日本一で、名物桜エビのかき揚げを食べに、何度か来たことがある。

旧道をしばらく行くと由比本陣公園がある。本陣跡が公園になっており、その中に物見塔、東海道広重美術館、由比宿交流館などがある。本陣の塀に沿ってある馬の水飲み場は、他所では例を見ない珍しいもの。


本陣公園の向かいに正雪紺屋という染物屋がある。江戸時代から400年も続いており、由比正雪の生家といわれている店である。現在でも土産用の暖簾、手ぬぐいなどを商っている。
この先で由比川を渡るが、昔の由比宿西木戸は川の手前にあった。
橋を渡った桜えび通りには、桜えびを食べさせてくれる食事処や鮮魚類を売る店が立ち並んでいる。

先に行くと東海道線由比駅の前を通る。旧道は県道にぶつかるが、これを渡って古い集落の残る旧道に入って行く。
この辺は倉沢集落で、昔からの雰囲気がよく残されており、途中に往時の面影が残る小池邸がある。
この先、西倉沢地区に入る。西倉沢は薩堙峠を控え、大変賑わった間の宿だった。駿河湾の眺めが評判で、茶屋は海側に軒を連ねていた。
西倉沢集落のはずれに藤屋という古くからの店が残っている。望嶽亭と呼ばれた有名な茶屋で、多くの文人墨客で賑わった。明治元年、官軍に追われてここに逃げ込んだ山岡鉄舟を、藤屋の主人は漁師姿に着替えさせ、船で清水まで送り、清水次郎長に身柄を託したという。


薩埵峠
望嶽亭の前に、一里塚跡の碑が立っている。ここから薩堙峠に向けて急な上り道になる。
この一里塚を左折し海岸に出て、波の合間を利用して、波打ち際の岩の間や浅瀬を通る道が下道である。まさに越後の親不知・子不知と同じような難所であった。東海道として開削されたのが中道で、一里塚跡の所から右に上って薩堙峠を越えていく道である。急坂の峠道からは駿河湾の眺望が開け、あたりはミカン畑になっている。
峠の途中で、静岡県庁経営企画課の職員という人に声をかけられた。薩堙峠を歩いて通りがかった人にアンケート調査をしているとのこと。こんなところでアンケート調査をするということに驚くが、それくらいに、静岡県は旧東海道の整備、観光に力を入れているんだと、つくづく感心した。

やがて突当りの薩堙峠駐車場のところに出る。駐車場の隅には薩堙峠山之神遺跡碑がある。駐車場からは正面に駿河灘、左手には富士、愛鷹山そして西伊豆、右手には美保の松原の景色が広がる。
駐車場の文学碑脇から下り坂に入ると、土道の峠道になる。景色を楽しみながら進むと、木組みの展望台がある。ここが広重の薩堙峠嶺の写生地と云われる。ここからは、駿河湾の海岸線の向こうに真白な富士山が聳えていて、まさに広重の画そのままの絶景が望める。


峠下にはJR東海道本線、国道1号、東名高速が密集している。越後の親不知では山が海に迫る狭い平地帯に、北陸自動車道・国道8号・旧国道・JR北陸線がひしめく交通難所になっているが、ここも似た景色になっている。

展望台の先に行くと東屋や薩捶峠碑などがあり、そこからは下り坂になる。切通しや階段を下って行くと薩捶中道と上道の分岐の十字路になり、この十字路を左の薩捶中道に進むと、白髭神社、海岸寺を経由して国道1号に合流する。

興津川を浦安橋で渡ると、やがて興津に出る。
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17 興津宿
興津川を渡って少し先は身延道追分である。身延道はここと身延山久遠寺を結ぶ街道だが、鎌倉時代には、この道は駿河と甲斐信濃を結ぶ重要な街道であった。戦国時代、甲斐の武田信玄が駿河国に侵攻した時もこの道であった。
追分には身延道の道標と並んで、南無妙法蓮華経と刻まれた大きな髭題目や常夜灯、その他、無縁仏の供養塔などもある。


興津駅前を過ぎたあたりには、かつての宿場の中心を示す東本陣、脇本陣、西本陣などの石標が立っているが、昔の面影はまったく残っていない。

さらに少し行くと、右手の山腹に清見寺が見えてくる。天武天皇の代、この地に蝦夷に備えて清見関が設置され、この関所の鎮護の関寺として清見寺が建立された。以来、時代の変遷の中で、足利尊氏、今川義元、徳川家康の庇護を受けた名刹。


旧道からすぐのところに清見寺山門があるが、なんと山門と本殿との間に東海道線が走っていて、陸橋で渡るようになっている。

この先、国道を淡々と歩き、やがて辻町交差点で国道から分かれ、旧東海道は右に入って行く。その分岐のところに細井の松原の道標がある。昔はこのあたりに200本ほどの松並木が続いていたという。


ここから江尻宿に入る。
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18 江尻宿
江尻宿は巴川河口にできた宿で、巴川の河運と徳川幕府の湊、清水湊により発展した。駿河では府中に次ぐ大きな宿で、宿の中心は巴川沿いの現在の清水銀座あたりだが、きれいな街並みに往時の雰囲気は残っていない。また、江尻宿といえば有名なのは清水湊と清水次郎長というように、大正13年、清水町、江尻町、入江町等が合併して清水市が誕生してからは江尻は町名を残すのみとなっている。

清水江尻郵便局の先を右折すると清水銀座商店街で、すぐ左に夢舞台東海道道標があり、江尻宿と書かれている。
巴川を渡ってしばらく歩くと、元禄8年(1695)創業の追分洋かん本店がある。格子戸に赤く大きな暖簾としっかりした店構えの店で、店の横にあるのは東海道と清水港への「志ミづ道」の分岐する追分道標である。
この先左手に、都鳥吉兵衛の供養塔が立っている。文久元年(1861)、清水次郎長が子分森の石松の仇、都田(都鳥)吉兵衛をここで討ったが、敵役吉兵衛の菩提を弔う人がいなかったため、土地の人が憐れんで供養塔を建てたという。次郎長のお膝元ならではお話だ。

なぜか、東海道線の踏切手前の左に、ひっそりと追分道標が置かれていた。この道標の意味は不明だが、この踏切は地元では追分踏切と呼ばれている。

ちなみに、今の静鉄清水線は東海道線と並んでいるが、静鉄開通当初は今歩いている旧東海道の上に軌道が敷設されていたらしい。

東海道線の踏切を越えて、緩い坂を上って行くと久能寺観音道道標がある。この地から有度山麓を通って久能寺(鉄舟寺)へ至る道標である。


久能寺は、もとは久能山にあったが武田信玄が久能城を築いたため、現在の清水市北矢部に移築されたもの。1300年ほど前の推古天皇時代に国主久能忠によって創立された古刹だったが、明治になり荒れ果てて廃寺になってしまった。これを惜しんだ山岡鉄舟が明治16年に再興したので、久能寺を鉄舟寺と改め現在に至っている。

草薙の一里塚碑を過ぎ、さらに進むと、草薙神社の大鳥井が見えてくる。草薙神社の祭神は日本武尊で、武尊がこの地で賊に襲われ、野火を放たれた際、武尊は剣で草を薙いで逃れた、という言い伝えがある。

府中宿はもう少し先だが、天候急変が気になるため、今回は、このあたりで帰途に就くことにした。
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草薙で電車に乗ったとたんに、急に雲行きが怪しくなり、あたりが暗くなってしまった。何か悪い予感がしてくる。そのうち車掌さんのアナウンスがあり、富士川上流でのゲリラ豪雨により、富士川の水かさが増して危険なため、富士川の手前で足止めを食らうことになった。よりによって現代版の河留めに遭うとは・・・・。
動かぬ電車の中で回復をじっと待つ。