二川~宮

2011/12/16~18 二川~吉田~御油~赤坂~藤川~岡崎~知立~鳴海~宮

12月15日、新宿発の深夜高速バスで豊橋まで行き、電車で5分ほどの二川まで戻って前回の旅の続きを再開し、二泊三日で宮宿を目指す。
二川到着は5:44。コンビニで買った朝食を摂り、夜明け前の二川駅前を6時半頃スタートする。
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二川宿のつづき
二川駅を出るとすぐ前が旧東海道で、この辺りは二川宿を抜けた加宿大岩宿になる。

火打坂信号のところで旧道は二手に分かれるが、岩屋観音に寄るため信号を左に行く。少し行くと岩屋観音への参道があり、行基によって開かれた岩屋観音堂が見えてくる。


山頂に建つ岩屋観音は、かつて東海道を往来する旅人に広く親しまれたといわれている。

飯村を経て国道1号に合流し、しばらく淡々と国道を進むと、瓦町交差点手前で寿泉禅寺の龍宮城を思わせるような山門が目に入る。境内には端正な三重ノ塔も建っている。


瓦町通1丁目歩道橋右手に瓦町不動院がある。ここは歴代吉田藩主の尊崇が篤く、藩の重要な祈祷を担当する祈願寺だった。

やがて東八町の大きな交差点に出る。旧道は歩道橋を渡って鍛冶町の方に進むが、右手に吉田宿東惣門前に祀られた大きな秋葉山常夜燈がある。


この辺りが吉田宿の入り口になっていた。
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34 吉田宿
吉田宿は吉田藩の城下町であり、東海道設定当初からの宿場であった。東西二箇所に惣門があり、曲尺手(かねんで)町という町名が残るように、旧道には曲がり角が多くなる。
明治になって吉田から豊橋と改名され、その後戦災で失われたこともあって、昔の面影などほとんど残っていない。

旧街道を少し外れて吉田城へ寄ってみた。
吉田城は、戦国時代初期の永正2年(1505)に今川氏の命により今橋城が築かれたことに始まる。その後、家康の領有となったが、天正18年(1590)家康の関東移封に伴い、池田輝政が入城し、城の拡張整備を行った。江戸時代には、数々の譜代大名が城主となったが、明治維新で取り壊され、城址は豊橋公園となっている。今は、ところどころに遺構が残るが、建物としては昭和29年に本丸跡に三重櫓だけが復元された。


このあと、城から近い吉田大橋で豊川を渡る。川を渡りながら吉田城を振り返り見ると、本丸は豊川に面し、切り立った石垣が組まれている様子がよく分かる。公園の中で見た瀟洒なイメージとは違って、戦国時代に築かれた堅固で凛々しい石垣は、さすがに見応えある。
旧東海道は、この橋よりすこし下流にあって、長さ120間(216m)の豊橋を渡った。鎌倉時代に豊川に架けられた豊橋は、当時は今橋と呼ばれていたが、江戸時代になって吉田橋と改名され、さらに明治に入ると豊橋に改名され、昭和に入ってから70m上流の現在地に移された。現在の豊橋の少し下流に旧吉田大橋(旧豊橋)跡碑が立てられている。
広重は豊川の畔に建つ吉田城と豊川に架かる豊橋を描いている。当時、城は修理中で、足場が組まれているという構図がリアルでおもしろい。

東海道は豊川を渡って川沿いに左折していくが、このあたりは戦災から免れて、旧道らしい雰囲気が残っている。右手の大きい旧家はヤマサン醤油の本社で、左手に工場がある。
さらにまっすぐ進んで豊川放水路を渡り、少し行くと道の脇に子だが橋の碑と説明板が立っている。昔、この先にある菟足(うたり)神社の大祭の初日に、最初にこの橋を通る若い女性を人身御供として生贄に捧げる風習があった。ある年、生贄を捕まえる人が待っていると、やってきたのは出稼ぎに行っていた自分の娘であった。彼は悩んだ末、「わが子だが仕方がない」と娘を生贄にした。その後、この橋を子だが橋と呼ぶようになったという話である。
菟足神社の創建は白鳳15年(686)と伝わっている。


そういえば、田子の浦の六王子神社でも生贄にまつわる言い伝えがあった。

JR飯田線を小坂井踏切で越すと、この先、小坂井から白鳥までは国道1号に沿ってほぼまっすぐな道が延々と続く。
宿町交差点を越すと左手に明光寺があり、さらに先に行くと、慶応4年(1868)創業の山本太鼓店の店先に日本橋より数えて75番目の伊奈一里塚跡碑がある。太鼓の専門店というのは珍しい。

このあと、白鳥から国府までは、迂回路などで道がまことにややこしくなっている。事前にしっかり調べておかないと間違いなく迷ってしまうところである。
国府町を越えてしばらく行くと特徴ある白壁の塀に囲まれた大社神社が見えてくる。
そこから少し先、通称姫街道と呼ばれる本坂越え道と東海道の追分があり、常夜灯に並んで、「国幣小社砥鹿神社是より二里三十町」「秋葉山三尺坊大権現道」と刻まれた道標がある。ここを右へ行く姫街道は、東海道見附宿と御油宿を結ぶ東海道の脇往還で、女性の往来が多いことから姫街道と呼ばれていた。


追分の先の御油橋を渡ったところから御油宿が始まる。
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35 御油宿
御油宿に入ると、道沿いには千本格子を備えた家が軒を連ね、往時の面影が感じられる。
御油宿は隣の赤坂宿との距離が僅かに16町(約1.7km)と短く、お互いに張り合っていたという。御油や赤坂には飯盛女が多く、広重は、留女(宿の客引き女)が旅人の腕をつかみ強引に引き入れようとしている様子を描いている。
御油橋を渡ると、高札場跡や本陣跡などが見られ、少し先の東林寺には、世をはかなんで池に飛び込んだという5人の飯盛り女の墓が置かれている。
当時の御油宿は東林寺入口を過ぎた辺りが宿はずれだった。

音羽川に沿って少し行くと、見事な松並木が見えてくる。国の天然記念物御油松並木で、街道の両側には家康が約650本の三河黒松を植樹させた松並木が続く。戦争中、航空機燃料に供されるために伐採された松並木もある中で、ここ御油の松並木は旧東海道に現存する松並木のうちで昔の姿を最もよく残すものとして、昭和19年に国の天然記念物に指定され、保存された。それだけに、ここの松並木は往時の風情がたっぷり感じられ、実に素晴らしい。


松並木の途中に、弥次喜多茶屋というのがあったので、一休みする。
「膝栗毛」では、このあたりで狐に化かされる話があったようだが、そのころの松並木は両側が鬱蒼とした竹薮で昼でも薄暗い処であったらしい。

御油の松並木を抜けるともう赤坂宿である。
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36 赤坂宿
赤坂宿は御油宿からわずか16町という近さの宿場であるが大変な賑わいで、当初は1軒だった本陣も宝永4年(1711)には4軒となり、旅籠屋も亨保18年(1733)には83軒という大きな宿場に発展していた。しかし、明治以降は、東海道線から離れていたこともあり、急速に衰退し、その反面、街並みには当時の面影をよく残している。

赤坂宿に入ると、すぐ左手には関川神社が見える。かつてこの神社の前に赤坂宿の東の見附が置かれていた。境内には、夏の夜の短さと、赤坂と御油間の距離の短さを詠った芭蕉句碑がある。
  - 夏の月 御油よりいでて 赤坂や -

赤坂紅里交差点のところは小公園になっており、高札場が復元され、赤坂宿図も掛けてある。右手の古い商家尾崎屋の軒先には、行灯型の看板が出ており、現在でも民芸品の製造、販売を行っている。
尾崎屋の筋向いに、街道筋で有名な旅籠大橋屋がある。創業、慶安2年(1649)で、現在でも築300年の建物で旅館業を営んでいるという大変貴重な宿である。玄関先に下げられている大きな提灯は、見るからに年季が入っている。


広重は赤坂宿で、旅籠の内部の様子を描いているが、大橋屋はそのモデルとも言われている。
今日は運よく予約が取れたので、ここに泊まることにしているが、まだ時間が早いので一旦大きな荷物だけ預けて先に進むことにする。

先に進むと御休処よらまいかんという古い町屋を模した休憩所があり、駐車場前に赤坂陣屋跡の案内板がある。赤坂宿付近は、江戸時代幕府直轄の天領で、三河代官の出張陣屋があった。
長沢集落を過ぎると、昔の面影を残す狭い道路が残り、なかなか風情がある。
旧道はやがて国道に合流し、しばらく行くと国道のわき道に本宿碑と冠木門がある。


さらに少し歩くと国道と別れ左に曲がっていくが、入り口に本宿説明板と「右国道1号 左東海道」と刻まれた道標が設置されている。

本宿
本宿は赤坂宿と藤川宿の間の宿として設置された。立場茶屋も二か所あり、旅人の休息の場として栄えた。
本宿に入るとすぐ左側に法蔵寺が見えてくる。 ここは徳川家の祖である松平家ゆかりの寺と言われ、大宝元年(701)行基によって開かれたと伝えられている。


奥には松平家の墓が並んでいたので、当時の大名行列はかならず下馬して参詣していったという。家康が幼いころ手習いや漢籍を学んだとされ、徳川家康の霊を弔う東照宮が建っている。

本宿は間の宿ではあったが、旧道には本宿本陣跡や陣屋屋敷、味噌工場などが残る。
本宿を過ぎると旧道は国道と合流したり分かれたり繰り返しながら進む。
名電山中駅を過ぎるとふたたび国道に合流し、しばらく国道を行くと、ふたたび旧道は左に分かれ、藤川宿の東の入口である東棒鼻跡のところに来る。そこには「従是西 藤川宿」と記された木柱が立っている。棒鼻とは、大名行列が宿場へ入るとき先頭を棒先で整えた場所ということで、宿の入口を指す。広重は藤川として東棒鼻を描いている。

本日はここまでとし、電車で赤坂まで戻り、今回の旅で一番の楽しみにしていた大橋屋に向かう。
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<大橋屋>
宿についた時にはすでに陽は落ちており、年季の入った大きな提灯にぼんやりとした灯がともっていて、まるで江戸時代にいるような錯覚に陥る風情である。


通されたのは、街道に面した2階、襖で仕切られた3間続きの部屋。嘗て、芭蕉も泊まった部屋だそうな。

 


襖仕切りのため、現在は一日に一組(人数に拘わらず)しか泊めないとのこと。
従って、一人旅の私は、これら全部独り占めすることと相成った。(別棟の方に、もう一組泊まれる部屋があるが、そちらは近代になって作られたもの)
江戸時代初期の慶安2年(1649)創業だが、大火を受けて宝永2年(1705)に立て替えたのが現在のもの。外見は少し薄汚い感じがするが、中に入るととてもしっかりしたもの。300年びくともせずに在り続けるのは曲がった梁。


この方が真っ直ぐのものより丈夫だそうな。その代わり、曲がった梁に合わせるため、障子戸の寸法をまちまちにするなど、いたるところに手間が掛かっているという。
訪れたのは、ちょうど寒気に見舞われ、寒風吹きすさぶ日であったが、隙間風一つ入ることもなく、実に見事な匠の知恵と技にただ感心至極。また、ご主人の話では、全体に暗くてよく見えないけれど、一つ一つ細かいところまで手を掛けた工芸品も多数あるらしい。
マスコミや有名人がしばしば訪れている割に、ご主人と女将さん夫婦は控えめで穏やかな人柄が感じられ、全体的に良心的な印象が残る宿であった。
とかく、歴史的建物などを訪ねても、見るもの、学ぶもの、という感じがあるが、今回は、その中に身を置き寝泊まりすることができ、いにしえ人と同じ時を刻むことができたような気がした。
その流れで、素養の全くない私が真似事で一首。
  - 蕉風や いにしえ時を想いつつ 同じ流れにいる我をみる –
建物の素晴らしさに加え、名物のとろろご飯を中心に、鮎の塩焼き、むかごのから揚げ、鶏ささみの味噌和えほか、素朴だが種類もふんだんな食事が、これまた素晴らしいものだった。
*大橋屋さんは平成27年3月に廃業し、同年9月豊川市に寄付されている。
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2011年12月17日 藤川宿~岡崎宿~知立宿
大橋屋での一泊は、これまで街道歩き旅をしてきたなかで、最高の経験であった。すっかり頭の中は江戸時代にいるような気分になり、後ろ髪を引かれる思いで大橋屋さんを後にした。
今日は、いよいよ家康生誕の地岡崎をめざし、電車で藤川まで行き、歩き旅を再開する。

37 藤川宿
東棒鼻を過ぎると宿場に入り、静かな佇まいの街並みが続いている。昔の面影を残す家はほとんどないが、やがて問屋場跡碑が見え、その先に本陣跡、脇本陣跡の碑が続く。元脇本陣だった所は、現在は藤川宿の資料館として利用されている。

少し先の藤川小学校前に西棒鼻跡の小公園がある。「従是東 藤川宿」と記された木柱が立ち、片側だけだが棒鼻の石垣も再現されていた。


左隣には歌川豊広の歌碑が建っている。
  - 藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし -
ゆでたこは藤川の名物だったそうで、この先の吉良道から持ってきたものであった。

西棒鼻跡の斜め向かいには十王堂と名物むらさき麦を詠んだ芭蕉句碑もある。
  - 爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた -
むらさき麦とは、5月になると茎から穂先までほのかな紫色になる麦のことで、その頃の三河の名物であった。このむらさき麦の復活栽培が平成6年に成功し、今では藤川小学校前の畑で毎年収穫しているという。

旧道をしばらく行くと、やがて名鉄の踏切が見えて来るが、踏切手前で旧道と分かれる道路の分岐点には吉良の道標がある。吉良道は、西三河湾に通じる道で、大名行列や、茶壺道中、海産物などを運ぶ重要な役目を担った街道であった。

踏切を越えると、何とも見事な藤川の松並木が続いている。


旧道はやがて国道に合流し、しばらく歩くと再び国道から分かれ左手へ入っていく。
やがて乙川を渡り、大平地区に入ると、大岡越前の陣屋跡が残っている。

旧道を先に進むとやがて左手に日本橋から80番目の大平の一里塚跡が見えてくる。
大平を出て国道1号に合流すると、インターチェンジあたりでかなり複雑な道になっている。
岡崎西交差点で高架橋を潜り、すぐ先で右の旧道に入って更紗川に架かる筋違橋を渡り、右手に法光寺を見る道を行く。
そのまま進むと、やがて岡崎城下に入っていく。
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38 岡崎宿
岡崎は家康の生誕地であり、先祖の松平家の本拠地でもあったので、岡崎城を中心に城下町として発展した。
家康が江戸へ移った後、田中吉政が岡崎城に入り城下町の整備をした。その際、乙川の南にあった東海道を城下に通すにあたって、城の防衛のため二十七曲がりの道筋を設けた。
二十七曲がりの道筋は、二十七曲がり記念碑を右折した所から始まり、伝馬町、籠田町、連尺町、本町、材木町、下肴町、田町、板屋町、八帖町を経て矢作川を越えるところまで続く。
この複雑な道には、要所に道標が置かれ、容易にたどることができるようになっているが、今回は旧街道を少し外れて家康所縁のところを何か所かじっくり見て廻ることにした。
街中に入って、名物のみそ煮込みうどんを食べようと入った店で、たまたま相席になった年配の方といろいろ話していたら、大樹寺まで案内してくださることになった。
大樹寺まではバスで行き、そのあと松応寺に立ち寄って岡崎城まで歩く。

大樹寺
大樹寺は、松平家、徳川将軍家の菩提寺で、松平八代の墓、歴代将軍の位牌などが祀られている。
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたとき、今川軍についていた家康が、大高城からこの寺に逃れた。先祖の墓の前で自害を図ろうとした家康を思いとどめさせたのが、この寺の住職であった。
家康は遺言で、「遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行ない、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」と残している。


松応寺
家康の父松平広忠は、天文18年(1549)3月、岡崎城中で家臣に刺殺され、亡骸は能見ヶ原の月光庵に埋葬された。同年11月、家康は今川方の人質として熱田から駿府へおもむく途中、月光庵に参り、その墓上に小松を植え、松平一族の繁栄を祈願した。
桶狭間の合戦後、岡崎城主となった家康は、非業の死を遂げた父の菩提のため、月光庵の地に寺を建立した。家康は、かつての手植えの松が緑深く伸長したことと、人質の身であった自分が城主として再び三河の地に帰れたことを喜び、「我が祈念に応ずる松なり」として寺号を松応寺と名付けた。


岡崎城
岡崎城は康正元年(1455)、三河国守護代の西郷頼嗣により築かれたのが始まり。大永4年(1524)、家康の祖父松平清康がここを攻め落とし、松平家の居城となった。そして、家康がこの岡崎城で生まれたのは天文11年(1542)のこと。
家康がこの城を居城としたのは、桶狭間の合戦後の永禄3年(1560)から、浜松城に移る元亀元年(1570)までの10年間である。
元亀元年、家康は本拠を遠江浜松に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代とした。
天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移封されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いて以降は譜代大名にここを守らせた。


八帖町
岡崎公園を出て西に進み、鉄道の高架下を通り過ぎると、路地に味噌蔵が建ち並んでおり、独特の雰囲気がある。このあたりは昔から八丁味噌の産地として有名で、創業延元2年(1337)のまるやと、創業正保2年(1645)のカクキューという2軒の蔵元が旧東海道を挟んで建ち、今も変わらない製法で八丁味噌を作っている。岡崎城から西へ八丁の距離にある八帖町(旧八丁村)でつくられていたことから、八丁味噌と呼ばれるようになったと言われている。この味噌で育った家康は、江戸までわざわざ味噌を運ばせたほど好んだという。
戦国時代に、徳川軍が鎧の帯に携帯食料として巻き付けていたのが原型らしいので、もしかして土産品にあるかもしれないと期待し、工場や蔵の見学に参加したが、残念ながらメニュにはなかった。

矢作橋~
八帖町から矢作川沿いに右に行き、少し先で国道1号に合流して矢作橋を渡る。
広重は「岡崎」で、矢作橋を渡る大名行列と川向こうに見える岡崎城を描いている。当時、橋の長さは208間(約374m)といわれ、東海道一の大橋だった。慶長年間(1596-1615)に初めて土橋が架けられ、広重に描かれたのは第10代(1810~30年代)のもの。現在、昭和26年に完成し、高度成長期の物流を支えてきた第15代矢作橋が解体工事中であった。

矢作橋を渡ると、旧道は右手の静かな道に入って行く。すぐに右手に家康の長男信康(織田信長から、武田方と内通したとの疑いを受け自刃した)ゆかりの勝蓮寺がある。
少し先の右手に義経の愛妾浄瑠璃姫ゆかりの誓願寺(十王堂)がある。寿永3年(1138)、矢作の里の兼高長者の娘浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作って弔った。

旧道は少し先で国道1号と合流し、尾崎東で再び国道から分かれて右手の松並木の残る旧道に入る。しばらくすると、熊野神社入口左手には尾崎の一里塚跡碑があり、さらに行くと宇頭茶屋というところには、雲龍松が有名な永安寺がある。

今日はここまでとし、新安城から予約しているホテルのある岡崎まで戻る。
この日の宿は岡崎城のある岡崎公園そばのホテルをとっている。夕食は公園内のお城のすぐ横にある八千代本店で名物なめし田楽定食をいただくことにした。岡崎公園はこの時期でもまだ紅葉がきれいで、ライトアップされた光景は日中とは違って一段と風情が感じられた。
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2011年12月18日 知立宿~鳴海宿~宮宿(熱田)
今日は、新安城から再開し、七里の渡しを目指す。

39 知立
旧道に出て先に進むと、高架陸橋の下を潜ることになる。
その先の旧道には見事な松並木が続いている。この松並木は知立の松並木と呼ばれて、長さ500mほどに170本もの松が残っている。


松並木が終わる手前には、馬市の址、馬市句碑、万葉歌碑なども作られている。広重の池鯉鮒にも画かれている馬市は、陰暦の4月25日から5月5日にかけて池鯉鮒宿の東側の野原で開かれ、4,500頭の馬が繋がれ、物売りや遊女も多数集まり、大層な賑わいであった由。

知立の松並木が終わり、複雑な交差点で地下歩道を通って国道を横切ると、知立宿に入って行く。名鉄三河線の踏切を越え、細い道を進んでいくと、今は商店街になっているところがかつての宿場だったところで、池鯉鮒宿問屋場之跡碑が立っているあたりが宿場の中心だった。

少し先に、知立古城址の大きな碑が見えてくる。知立城は今川方の永見氏の居館であったが、桶狭間の戦いで落城した。その後再建され、将軍の上洛時などに使用された。現在は小公園となっている。

池鯉鮒宿を出ると、やがて、三河と尾張の国境だった境川を渡る。
国道から旧道に入るとすぐに阿野の一里塚がある。これは道の両側に残っている貴重なもので国指定史跡となっている。

しばらく旧道を歩き、競馬場前駅手前で国道と合流すると、すぐ先に桶狭間古戦場跡の標識がある。ここを左に曲がって行くと桶狭間古戦場跡で、公園の中には今川義元の墓がある。


東海地方で勢力を拡大していた駿河の今川義元は、永禄3年(1560)、2万5千人の大軍を率いて尾張に侵攻し、丸根・鷲津の2砦を攻略した。これに対し、尾張の織田信長は、3千人程の軍勢で桶狭間に陣取った今川本陣を急襲し、義元を討ち取って今川軍を退却させた。この戦いを契機に、今川氏は没落への道を歩み、信長は天下統一の一歩を踏み出すこととなった。

国道に戻って少し行くと旧道は右のほうへ分かれ、その先が絞りで有名な有松である。
有松は鳴海宿の手前の立場として賑わったが、有松絞りは街道名物として大変人気があったという。現在でも昔ながらの伝統と技法で作られており、有松・鳴海絞会館で展示販売なども行われている。旧道沿いには古くからの絞問屋の建物などが残っており、独特の景観が見られる。代表的なものは、服部家住宅(井桁屋)、竹田家住宅、小塚家住宅などでいずれも絞問屋としての伝統的形態を踏襲した建物である。

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40 鳴海宿
有松の街並みを抜けると道は鳴門宿に入っていく。今は、旧道には古い家もいくらか残っているが、鳴海宿の跡を示すものはあまりない。

天白川を越えてしばらく行くと、笠寺の一里塚が見えてくる。これは日本橋から数えて88番目のものだという。塚には根の張り出した見事な枝振りの榎が植えられている。
少し行くと、笠寺観音と呼ばれる笠覆寺(りゅうふくじ)がある。聖武天皇の頃の創建と伝えられるがその後荒廃し、再建された。江戸時代には参詣する人でかなりの賑わいだったという。

笠寺を出て名鉄の踏切を渡ると、道は呼続(よびつぎ)という地区に入る。このあと、高速道路やJR東海道線、名鉄などが入り組んで徐々に賑やかになり、熱田橋を渡ると宮宿に入る。
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41 宮宿
宮宿は熱田神宮の門前町であり、脇街道の佐屋街道や、大垣を経由して中山道垂井宿に向かう美濃路、また桑名へ渡る七里の渡しもあって発展した。その繁栄ぶりは東海道随一とも謳われたほどであった。

七里の渡し跡
旧道沿いの伝馬町商店街を抜け、広い通りを横断して少し歩くと七里の渡し跡に着く。ここは、現在は公園になっていて、常夜灯、鐘楼などが復元されている。昔はここから先は海になっていて、海上七里の船旅で桑名まで渡っていた。当時、順調にいって大体3時間くらいの船旅だったという。


熱田神宮
熱田さんと呼ばれる熱田神宮の祭神は熱田大神であり、三種の神器の一つである草薙剣を神体としている。格式が高く、古くから朝廷や武将の崇敬を集めていた。


織田信長は桶狭間に向けて出陣の折、ここで必勝祈願を行った。そして見事大勝したため、そのお礼として奉納した築地塀は、信長塀と呼ばれるとてつもなく重厚なものである。

二川からの2泊3日の旅はここまでとし、名古屋から新幹線で帰途に就いた。
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今回の旅の行程はなんと言っても徳川家に縁の深いところが多く、ある意味で安土桃山から江戸時代にかけての風情が色濃く感じられるところ、というのが全体的印象である。
お城や寺社などはもちろんだが、見事な松並木がところどころに残されていて、松並木大好きな街道歩き人にとっては、まことに気分良く歩ける道行きであった。藤川や池鯉鮒の松並木もなかなかだが、やはり御油の松並木は特に風情があって印象に残っている。

赤坂は、大橋屋がなんといっても素晴らしかった。東海道では唯一と言われる江戸時代そのままの旅籠で、しかも芭蕉が泊まった同じ部屋に泊まれたというのは、大変貴重な経験となった。残念ながら、その後廃業し、豊川市に寄贈されて、建物は一般公開されているらしい。東海道以外でも、建物の老朽化や後継者問題で旧街道に残るこうした貴重な旅籠が数少なくなっているようで、豊川市のように地元自治体が承継維持してくれるケースはありがたい。

岡崎では、岡崎城はもとより家康ゆかりのものが色々あり、見所もたくさんあるので、時間をかけてじっくり見て廻りたいところだ。お昼にうどん屋さんでたまたま相席になって、大樹寺まで案内してくださった年配のかたは、三味線のお師匠さんということだった。旅先で地元の方と触れ合って、いろいろ話をする機会が持てると、旅の楽しみが増幅する。
夕食は、岡崎公園内のお城のすぐ横にある和食の老舗で、名物の菜飯田楽定食をいただいた。ライトアップされた夜の公園内は格別な風情があり、八丁味噌を使った田楽は素朴ながらも一段と味わい深く感じられた。

鳴海(有松)には立派な建物が多く残っており、街ぐるみで旧家保存に力を入れている様子がうかがえるが、観光地化していて、地域おこしに活用しようとする意図がやや目についた。

宮では、熱田神宮参拝後、楽しみにしていた熱田蓬莱軒のひつまぶしを食べながら、今回の旅を無事に終えた満足感に浸った。
実は、この旅では、新しくしたシューズが合わなくて、途中で足を痛めてかなりしんどかったのだが、ゴールの宮まで行けば蓬莱軒のひつまぶしにありつける、という一念で頑張った甲斐があった。