日本橋~調布

2012年8月3日 日本橋~新宿~高井戸~布田~調布

日本橋出立
街道歩き旅で日本橋を出立するのは、日光街道、東海道、中山道に次いでこれが4回目となる。
甲州街道は、日本橋から永代通りで皇居に向かい、日比谷通りで和田倉門から日比谷公園を回って、お濠沿いを半蔵門の方へ行くのだが、今回は、リフォーム工事完成間近の東京駅前から行幸通りで皇居外苑に入り、坂下門、二重橋を遠目に見ながら進んで、桜田門(二の門、一の門)を通って街道に出る。


桜田門を出ると目の前が警視庁で、そのすぐ先の憲政記念館のあたりが、大老井伊直弼が藩主だった彦根藩邸のあったところである。安政7年(1860)3月3日、この地で起こった幕末の壮絶な出来事に思いを馳せながら、内濠沿いに半蔵門に向かう。

半蔵門は、家康にこの門の警護を任されていた服部半蔵の名に因んで名づけられたもので、江戸の非常時には、ここから甲州街道で将軍を甲府へと避難させることになっていた。服部半蔵は、本能寺の変の時、堺にいた徳川家康を無事岡崎城まで送り届けたことで信を得ていた。


半蔵門前から旧街道はビルが林立する片側3車線の新宿通りを行く。


しばらく行った四ツ谷駅のところには、かつての四谷見附跡が僅かに残っている。


見附は、城外を見張る番兵を置いた城門で、江戸城では濠沿いに36ヶ所あったといわれ、中でも甲州街道にある四谷見附は、江戸城の西の玄関口として江戸城防衛の要所であった。

四谷4丁目角の四谷区民センター脇に、四谷大木戸跡碑と玉川上水記念碑が立っている。


江戸の水道は、多摩川の羽村堰で取水し、玉川上水を使って四谷大木戸までを開渠で通水し、四谷大木戸から江戸市内へは石樋・木樋といった地中の水道管で通水した。テレビの時代劇でしばしば見られる長屋の井戸は、実はこの水を汲み上げているのである。家康は天正18年(1590)江戸入府の折、城造りや町造りとともに水道の開設にも着手していた。

四谷四丁目交差点を過ぎると、国道20号となっている街道はトンネルに入るが、トンネルは歩行者通行禁止のため、区民センターの裏を通りぬけ、新宿御苑沿いに進む。
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◆内藤新宿
内藤新宿は、甲州街道の宿場のうち、日本橋から数えて最初の宿場で、現在の新宿一丁目から三丁目の一帯にあたる。当時の内藤家の敷地の一部が割かれて宿場が造られた為に、内藤新宿と呼ばれるようになった。
家康が江戸城に入城した際に、岡崎からの譜代だった内藤清成に授けた屋敷地は、四谷、代々木、千駄ヶ谷、大久保に及ぶ広大なもので、甲州道中、青梅街道、鎌倉街道中道が交差する要地であった。内藤氏7代目の清枚が、元禄4年(1691)に3万3千石で信州高遠城主となった時、神田小川町に上屋敷、今の新宿御苑は下屋敷となった。
四谷4丁目交差点の少し先に太宗寺があるが、ここは高遠藩内藤家の菩提寺である。境内に入るとすぐ右手に、江戸六地蔵の第三番として正徳2年(1712)に造立された地蔵がある。


新宿御苑を過ぎると、賑やかな新宿駅南口に出る。その先、甲州街道の頭上には、覆い被さるように高速道路が走り、あたりには新宿副都心の高層ビル群が望める。この先しばらくは、往時の街道の趣には程遠く、大都会の喧騒が続く。


環七通りの大原交差点を過ぎて少し行くと、街道左側に木々の茂った水路が現れる。これは羽村から四谷大木戸まで流れていた玉川上水である。


今ではほとんどが埋め立てられたり緑道になったりしているが、ここにはほんの少しだけ往時の姿が残っていて大変貴重である。
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◆上高井戸宿、下高井戸宿
高井戸宿は、下高井戸と上高井戸が半月交代で宿場役を勤める合宿であった。
京王線桜上水駅を過ぎたあたりの道路北側に宗源寺がある。境内にある不動堂が、かつては高台にあった為、高井堂と云われ、それが高井戸の地名の由来になっている。

少し先の鎌倉街道入口交差点を越した左側に、甲州道中一里塚跡(上北沢一里塚)の説明板がある。この先の高速道路の下に、日本橋から数えて4番目の一里塚があったという。
ここでようやく、頭上に重くのしかかるようにあった首都高速から解放される。

環八の少し先から旧道は左に分かれてゆく。この辺は上高井戸宿があったところだが、今は遺構など何も残っていない。旧道は千歳烏山の商店街を通り、給田で再び国道20号に戻る。

仙川二丁目交差点を越すと、国道北側に斜め右に入る旧道がわずかながら残されており、 馬宿・川口屋のあった旧道口には瀧坂旧道と刻まれた道標が置かれている。
この付近は新宿から八王子間の街道のうち最も急坂な所で、大雨が降ると雨水が滝のように流れる、ということからこの地名となったらしく、甲州道中で難所の一つであったという。

柴崎の調布警察署の先、旧甲州街道入口信号のところで旧道は右に行く国道と別れて左に進む。
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◆布田五ケ宿(国領、下布田、上布田、下石原、上石原)
国領、下布田、上布田、下石原、上石原を布田五ケ宿といい、五宿あわせて一宿の機能をもっていた。間の宿のような存在だったらしく、本陣、脇本陣はなく、旅籠だけの小さな宿場だった。

国領の先、布田の三鷹通りの交差点に常性寺という大きなお寺がある。創建は鎌倉時代で、本堂(薬師堂)、不動堂、地蔵堂があり、不動堂は布田のお不動さんとして知られている。


調布駅前通りひとつ手前の路地の入口に布多天神社と刻まれた石柱が立っている。ここは布多天神への参詣路入口で、北に向かって行き国道20号を渡ったところの電気通信大学の隣に布多天神社はあるのだが今回はパス。延喜式に記されている由緒ある神社である。
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甲州街道歩き旅の初日は、ここまでとし、京王線調布駅から帰宅する。
今日一日、東京の中心部を横切るような形で歩き、旧街道歩きというよりは、大都会の姿をあらためて目の当たりにする一日となった。