調布~駒木野

2012年8月15日 調布~府中~日野~横山~駒木野(高尾)

前回、切り上げた布田五宿の調布から再開する。

調布駅を出て旧街道を西調布駅近くまで行くと、中央高速との立体交差少し手前に、三代将軍家光から寺領を受けた西光寺がある。仁王門横に、この地にゆかりのある新選組局長近藤勇の座像がある。近藤勇は天保5年(1834)ここ上石原村に生まれた。


この先、府中に向かう街道筋には、下染屋、上染屋、常久、八幡宿といった往時の村落の解説や銅板の絵を入れた石碑などが随所に置かれている。このあたりの地名には、独特のものが多い。
律令制下、この地域では、土地の生産物を納める税(租庸調の調)として、多摩川で布を晒して朝廷に納めたと考えられ、これが調布の名の由来とされている。
染屋は、調布の布田村で織った布をこの地で染めたことに由来すると考えられている。
飛田給(とびたきゅう)は、荘園を管理する役人であった飛田氏が領主からこの土地を給田として支給されたことに由来するという説と、多摩・入間両郡の境に置かれたといわれる悲田所(貧窮者、孤児の救済施設)の給地にちなむという説がある。

飛田給駅入口交差点を越したところに飛田給薬師堂と行人塚がある。ここの石薬師像は、元仙台藩士で諸国行脚の後この地に居を定めた松前意仙が、医業のかたわら仏道に志して人々を救済するため、自ら刻んだもので、尊像完成の後、傍らに穴を掘り、その中に入って鉦をたたきながら経を唱え、そのまま入定したと伝えられている。


常久(つねひさ)には、街道から奥のほうに小さな常久八幡神社があり、旧八幡宿村に入ると、地名の由来にもなっている武蔵國府八幡宮がある。
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◆府中宿
府中は、かつて武蔵国の国府が置かれ、武蔵の国の中心であった。鎌倉街道と甲州街道が交わるところであり、宿場としておおいに栄えた。今の宮町がかつての新宿、宮西町が番場宿で本町と合わせて府中三町により府中宿は構成された。

京王線の府中駅近くにくると、旧道沿いに大国魂神社の石柱と大きな鳥居が目に入ってくる。創祀年代は、景行天皇41年(111)とされ、その後、大化の改新(645)の時、当地に武蔵国府が置かれ、国司が巡拝すべき重要な六社を集めて祀り、武蔵総社または六所宮とした。


寛文7年(1667)に改築された本殿は都指定有形文化財で、宝物殿にある木造狛犬一対は鎌倉時代の運慶の作と伝えられ、国の重要文化財に指定されている。
大鳥居から北に延びる並木は、国の天然記念物にも指定されている馬場大門の欅並木で、源頼義・義家父子が前九年の役の途中、戦勝記念に千本寄進したのが始まりとされている。

大国魂神社の先、甲州街道が府中街道と交わるところには高札場がある。屋根のついた立派な札掛けの遺構が残されており、都の旧跡に指定されている。ここは、丁度2年前に鎌倉街道歩きで一度通ったところでもある。


京王線踏切を越して美好町に入ると、冠木門を構える大きな屋敷が目に入ってくる。これは、地元の名主の内藤家の屋敷で、冠木門は府中宿の本陣門を移築したものらしい。


旧道が国道20号と合流し、少し先で新府中街道を横切るとすぐのところに、熊野神社・武蔵府中熊野神社古墳がある。国史跡のこの古墳は、国内最大・最古の上円下方墳で、1段目と2段目が方形、3段目が円形を呈する3段築成の古墳である。折角なので、併設の展示館に入って1300年以上も前の時代の一端をしばし見学する。


JR南武線を西府橋で跨ぐと旧道は左に反れていく国道と分れる。しばらく進むと、街道沿いに谷保天満宮の大きな鳥居が立っている。境内は大きな木立に囲まれ、参道のところどころに何羽かのチャボがのんびりと遊んでいるのが何とものどかな感じである。石段を下ると拝殿の前に出る。天満宮は菅原道真がご神体で、湯島天神、亀戸天神と並んで関東三天神と称されている。


旧道をさらにまっすぐ進むと、日野橋五叉路に到達する。この先、少しややこしいが、正面Y字路右の奥多摩街道線を進み、少し先で柴崎市民体育館の方に左折し、錦町下水処理場前の日野の渡し場跡に至る。今は日野橋で多摩川を渡るが、江戸時代にはもちろん橋はなく、渡し舟によっていた。渡し場のあった場所は洪水のためにたびたび変わったようだが、大体、現在の日野橋のあたりにあったらしい。下水処理場の角に日野の渡し記念碑等が建っている。


この先、頭上を多摩都市モノレールが走る立日橋を渡り、少し先の新奥多摩街道入口交差点を右折して日野宿に入る。
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◆日野宿
日野宿が宿場町として整備されたのは慶長10年(1605)のことで、物流拠点であるとともに軍事的拠点でもあった。

日野本陣は嘉永2年の大火で母屋は焼失。現存のものは日野宿最後の名主佐藤彦五郎が文久3年に作ったものだが、当時の建物が遺っている本陣として、東京都内で唯一のものだそうだ。彦五郎は、土方歳三の姉の夫であり、歳三とは従兄弟にあたる。本陣には道場があり、新撰組近藤勇や沖田総司が稽古に通っていたという。


JR中央線のガードの手前で分かれて左の日野坂へ向かう道が旧甲州街道で、左側には宝泉寺がある。
坂道を上ると火防の神飯綱権現社があり、その隣が坂下地蔵堂で、正徳3年(1713)建立の銅像地蔵菩薩坐像が安置されている。日野宿の西口に鎮座して、ここを通行する旅人を見守り、坂下地蔵として親しまれた。


旧道は、この先で中央線の線路に遮られてしまうので、少し先で階段を上って線路を越える必要がある。線路を越えてまっすぐ行くと大坂上通りにぶつかるが、これが旧甲州街道である。
すぐに国道と合流するが、右側には日野自動車の本社、工場が延々と続いている。

旧道は、八王子へ入ると国道16号のガードをくぐってすぐ細い道に入り、再び国道と合流して大和田橋をわたると横山宿(八王子宿)に入る。
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◆横山宿
八王子宿は、横山宿など15宿から成り立ち、現在の新町から八木町まで2.5km位の宿であった。街道に沿った宿ばかりではなく、街道の左右にも宿が発達していた。中でも横山宿が一番大きかったことから、八王子宿は横山宿という。
宿の東端になる新町の竹の鼻公園に竹の鼻一里塚跡碑がある。この先、国道に合流するところで右折し、横山町に入る。

八王子駅入口交差点のところに市守・大鳥神社が鎮座する。当時賑わっていた市の平穏無事を守り、人々に幸せを与える守護神として創建された。現在でも毎年二月には「市守祭」と呼ばれる例祭がおこなわれている。また、毎年十一月の酉の日に商売繁盛を祈願するお酉さまや酉の市と称されて賑わっている。
街道を追分に向かって歩くと、横山町、八日町、八幡町と旧宿名に由来する町名が続いている。ビュータワー脇に八日市宿跡碑が立てられている。


八王子宿の中心は、この横山宿と八日市宿で、両宿には人馬継ぎ立ての問屋があり、2軒の本陣と4軒の脇本陣がおかれていた。また、江戸時代には、4のつく日には横山宿で、8のつく日は八日市宿で市が立ち、あわせて月に6日の市が立った(六斎市という)。

国道の少し先に、甲州街道と陣馬街道の追分がある。
この追分で右の陣馬街道を行くと、すぐに八王子千人同心屋敷跡記念碑が建っている。八王子の街づくりや甲州街道を整備した大久保長安は、有能な人材を輩出した事で知られる千人同心も組織している。八王子千人同心は、武田家に仕えていた家臣で、武田家滅亡後、徳川家に仕えた人たちが中核となっていた。創設期には戦に出陣したが、戦がなくなってからは日光東照宮の警備が主な任務で、幕末まで続いた。
甲州街道は、追分から先は千人町となるが、このあたりから街道の両側には立派なイチョウ並木が続く。これは、次の並木町、多摩御陵参道入口と続き、JR高尾駅の少し手前まで延々と4km近くも続いている。
並木町を過ぎると、多摩御陵への参道が右手に見える。この参道には見事なケヤキの並木が続いている。


少し先の多摩御陵西信号の所から右へ入るのが旧道で、黒塀の家などどっしりした旧家が残り、旧街道らしい風情が残っている。


やがて再び国道と合流し、左手にJR高尾駅が見えてくる。
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本日の歩き旅はここまでとし、高尾駅から家路につく。