2013年3月8日 (牧原)~台ケ原~教来石~蔦木~金沢~上諏訪~下諏訪
前回、日野春駅を後にしてからだいぶ日が経った。1月に一度再開する計画を立てたのだが、ちょうど出かけようとしていた日が大雪に見舞われ、延期せざるを得なくなった。その後なかなか日程が組めず、結局3月になってしまった。
所によりまだ雪の残るところもありそうだが、この日は3月にしては珍しく、汗ばむほどのいい天気となった。日野春駅で電車を降り、先ずは街道の牧原交差点までタクシーで標高差100mほどの急坂を一気に下って、そこから歩き旅の再開である。
少し先に行った大武川にかかる大武川橋の上からは、鳳凰三山がよく見えている。甲斐駒ケ岳は残念ながら山頂がやや雲に隠れている。
甲斐駒ケ岳に源を発した大武川は、ここで釜無川に合流している。
三吹地区
橋を渡ってすぐ左のわき道へと入って行くと下三吹地区になり、どっしりした旧家などあり、往時の趣がのこる道が続く。
途中、万休院の舞鶴松への案内標識があるが、数年前に枯れてしまって伐採されたと聞いている。観光案内などの写真で見ると、樹齢450年の素晴らしい形の松だったのだが、温暖化の影響でマツクイムシの被害が及んだらしい。残念だが万休院はパスし、万休院東口の石塔群前を通って先に進む。
それにしてもこのあたりは、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳を背に田圃が広がり、手前にポツンと水車小屋が何気なく建つなど、絵のような景観にしばし足をとどめてしまう。
しばらく行くと、万休院から下りてくる道との合流点には万休院西口の石塔群が立っている。この先は新屋敷の集落で、静かな街道が続く。
旧道は上三吹信号で国道20号を横断し、上三吹集落に入る。庭木の松が見事な屋敷や土蔵が建ち並ぶ趣ある道が続く。
少し行くと右側に、東屋風の休憩所があり、その先に旧甲州街道一里塚跡碑が立っていて、「甲府ヨリ七里ナノデ、七里塚トモ云ウ」と書かれている。七里塚碑というのは珍しい。
この先の尾白川橋を渡ると、すぐ左手に真新しい甲州街道古道入口はらぢみち碑があり、ここから尾白川(おじらがわ)に沿う農道の様な草道に入る。
はらぢみち(原路通)は釜無川の氾濫によって甲州道中が通行不能になった場合の迂回路で、韮崎から七里岩上を通り穴山、日野を経て台ケ原へ通じていた。古道に入ってすぐ右手に馬頭観音が三体祀られており、そこに横山の道標の説明板が立っている。馬頭観音の内二体は道標を兼ねており「右かうふみち 左はらぢ通 安永5年(1776)」と刻まれ、もう一体には「左はらみち
寛政4年(1792)」と刻まれている。
古道はこの先で木立の中に入る。途中で、小川を渡って右にいくところがあるのだが、道の案内板があらぬ方を向いていたため見落としてしまい、先に行ったところで行止りになって戻る羽目になってしまった。
木立の中を進むと先が開け、やがて尾白川の土手道をしばらく進んで行く。尾白川に架かる曲足橋の手前から舗装路になり、緩やかな上り坂の国見坂になる。国見坂の左手には馬頭観音や庚申塔が並んでいる。
国道にぶつかるところに、諏訪方面から来た人のための古道入口と刻まれた碑が置かれている。国道を横切って右へ入る所が台ケ原宿の入り口となる。
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◆ 台ケ原宿
台ケ原という地名は、「此の地高く平らにして台盤の如し、・・・」というところから名付けられたといわれ、釜無川と尾白川に挟まれた台地の上に形成された宿場で、甲州道中のなかでも最もよく宿場の面影を残し、日本の道百選に選ばれている。
宿入口には、道祖神、常夜燈などの石碑、立派な雲竜松の旧家などが続く。
秋葉大権現常夜石灯篭の建つところが本陣の小松屋跡。
その少し先に、大きな杉玉を下げた銘酒「七賢」の醸造元北原家がある。北原家は脇本陣でもあり、店の隣の建物の入口には明治天皇菅原行在所の石柱が立っている。
七賢の向かいは、明治35年の創業の金精軒という和菓子屋。山梨名物の信玄餅は金精軒が元祖だそうだ。ちょうど小腹が空いていたので、みたらし団子を買って店の前のベンチに腰を下ろして一休みしていたら、わざわざお茶を振舞ってくださった。
金精軒の少し先、本殿が二社並ぶ荒尾神社・田中神社は、お茶壺道中の由来がある。将軍御用達の宇治の新茶を茶壺に入れ、籠に乗せて運ばせたお茶壺様が中山道から甲州道中に入って、この田中神社で宿泊し、江戸に向かったという。お茶壺道中沿道の住人にとっては、大変迷惑なことであったようだ。
台が原宿のはずれには、一里塚跡の石柱があり、かつて旅籠だったつるや旅館や梅屋旅館など、往時の趣ある街並みが続いている。
旧道は、国道に合流する手前で右折し、台ヶ原台地の急坂を下って前沢集落へと向かって行く。
白洲小学校入口あたりの土蔵を構えた大きな旧家を眺めながら進むと、やがて見渡す限り広がる畑の中の一本道となり、南の方には甲斐駒ケ岳に連なる山々が雄大な姿を見せている。
遮るものが無く、非常にスケールの大きな景観が目の前に広がって、素晴らしい眺望である。
前沢の集落を抜け、前沢上信号で国道20号と合流し、神宮川にかかる濁川橋を渡る。
旧街道は、すぐ先でまた国道と別れ松原地区に入り、荒田の先で流川を渡ると次の教来石宿に入って行くのだが、お昼時になったため、このまま国道を進み、食事処を見つけることとする。
国道周辺には、サントリー製樽工場、サントリー白州工場、ウイスキー博物館など、サントリー関連施設が多くある。このあたりは、雄大な南アルプスで蓄えられ、花崗岩層でろ過された水が豊かで、流れている水はいかにも美味しそうである。
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◆ 教来石宿
教来石(きょうらいし)の名の由来は、ヤマトタケルが東征の折りに座った大きな石を、村人が「経て来石(へてこいし)」と呼んで村名にしたが、経を教と書き誤り、今の名になったといわれる。
明治天皇御小休所址碑や本陣河西家跡、諏訪神社などが見られる下教来石を通った旧道が、国道20号に合流するところは下諏訪方面からの分岐であり、上教来石の標識が置かれている。
この分岐の国道向い側の奥まったところに教慶寺がある。中国の宋から帰化した蘭渓道隆禅師の開山で、元禄元年(1688)に臨済宗から曹洞宗に改宗した。すぐ先の国道沿いにある教慶寺地蔵菩薩は、蘭渓禅師が村人の難儀を取り除くために鎮座させたもので、庚申塔、甲子塔、馬頭観音も一緒に並んでいる。
すぐ先の「清流と緑のふるさと白州」歓迎塔が立っている分岐で、旧道は国道から別れて右に入って行く。ここからが上教来石の集落で、国道と並行する静かな道が続いている。
しばらく行くと、右手に山口関所跡がある。甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張り、信濃と甲州の国境警備の役割を担った。天文10年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたと伝えられている。この番所では、天保7年、犬目の兵助主導の甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けるという出来事があったという。
関所跡から田圃の中を行くと、新国界橋手前で国道に出る。新国界橋は、甲州と信州の国境にかかる橋である。
国道の向こう側の旧コンビニ駐車場の脇に、教来石出身の山口素堂の大きな句碑がある。
- 目には青葉 山ほととぎす 初かつお -
本来の旧道はこの碑の脇を通り、奥へ向かうのだが、途中、高電圧の金網が張ってあって危険と言われているので、この新国界橋を渡って行くことにする。
下蔦木交差点の少し先で旧道は右の堂坂を上り、下蔦木集落に入って行く。
上り坂を進むとすぐ右手の敬冠院入口に髯文字題目碑があり、日蓮上人高座石の案内が出ている。
文永11年(1274)流罪を赦免された上人は身延に草庵を結び、甲斐の村々を回って布教につとめた。当時、下蔦木村では悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は三日三晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらたかにしたという。
石仏石塔群が並ぶ敬冠院入口の向かい側に三つ辻柳由来説明板が立っている。
下蔦木小唄の一節「川路下りょか逸見路にしよか いっそ蔦屋に泊まろうか ここが思案の三つ辻柳」と唄われた三つ辻柳はこの堂坂の上り口にあった。川路は甲州道中、逸見路は七里岩の上を通行して韮崎に出る原路(はらじ)で、甲州道中の迂回路になる。ここにあった三つ辻柳は情趣豊かな大木で、村民から親しまれていたが、強風で倒れてしまったため、今は若木になっている。
坂を上って行くと道は大きく左にカーブし、そこに杉の木立に囲われた真福寺がある。日蓮上人の霊験で、真言宗から日蓮宗に改宗した寺で、二階部分に鐘が取り付けられた鐘楼造りの山門が珍しい。
寺を過ぎて行くと、右に石仏石塔群が並んでいる。応安の古碑と刻まれた真新しい石碑の後方にある小さな方形の石碑が応安の古碑で、宝篋印塔の台石と考えられている。手前には子乃神や九四天と刻まれた石塔が並び、後方には道祖神、五輪塔等多くの石仏が祀られている。
坂道を下ってゆくと次の宿、蔦木宿に入る。
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◆ 蔦木宿
宿入口には、蔦木宿の大きな看板が立っており、江戸より四三番と書いてある。小さな川を渡ると左手に常夜燈や石の祠、および道祖神がまとめて並んでいる。
蔦木宿は信州に入って最初の宿で、慶長16年(1611)に計画的に作られた為、宿の両側に枡形道が残されているなど宿場としての形態が整えられている。数度の大火に見舞われ、ほとんどの家屋が焼失しているが、今も旧宿場町の風情が感じられる。
東の枡形を抜けるて国道に出るとほぼ一直線に広い宿場通が続いている。右手には武田信重が父・信満の為に建立した三光寺への案内が立っているが、街道からかなり奥まったところにあるのでパスして先に進む。
三光寺のすぐ先に十五社大明神があり、石鳥居をくぐった先の段上に社殿が鎮座している。この神社は諏訪神社と同様に、七年に一度御柱祭が執り行われ、社殿にはその際に使用するめどでこが奉納されている。めどでこは、棒に縄の輪をくくり付けたもので、御柱の先端に取り付けられるものだそうだ。
上蔦木信号を越えた角に、蔦木宿本陣であった大阪屋源右衛門の跡碑とその江戸末期建築の本陣表門が残る。本陣跡碑の隣には明治大帝駐輦跡碑が立っている。
上蔦木のはずれで国道を離れ、左に曲がる所に「枡形道址」の石碑がある。道は、すぐ右へ曲がり、さらに右へ曲がって国道に出る。
しばらく国道を進み、岩田屋建材のところで国道を離れて採石場の中を通るような形で国道と釜無川に挟まれる道を進んで行くのだが、一見どこが道なのか少し迷ってしまい、建材店の事務所に伺って漸く道が分かった。
田圃の中の道を進んで行くと、再び国道に合流し汀川歌碑公園の看板のある駐車場の片隅に甲子塚、庚申塚、道祖神がまとめておかれている。
この先、しばらく国道を行くが、通り過ごしてしまいそうな国道脇に、日本橋より数えて46里目の平岡の一里塚がある。
やがて、「机」という交差点で、国道を離れ右折して行く。街道を歩いているといろいろ珍しい地名に出くわすが、この机というのも、なかなか珍しい。
交差点から急な上り坂を登るとT字路になり、これを左に上って行くと、瀬沢大橋を渡る。渡ったら川に沿って左へ入り、すぐ先を道なりに右折し、突き当たりを右折すると瀬沢集落に入る。
旧道は上り坂になり、正面右手に火の見櫓がある。左手の瀬沢郵便局の右隣には紅殻塗りの旧家がある。その隣の家の軒下には大きなめどでこが吊り下げられており、傍らには本宮御柱御用と記された木札が掲げられている。
坂を上って行くと左手に天保13年(1842)建立の諏訪神社常夜燈がある。
この先いくつかのY字路があるが、全て左方向に上り坂を行く。小川を渡った先のT字路を右折していくと更に勾配が強くなる。
街道は大きく左にカーブし、上り坂の林道になる。すでにだいぶ上ってきているため、このあたりから徐々に街道沿いの残雪が多くなる。
右手に目を転じると八ヶ岳の山容がよく見える。もう少し晴れていたら、さぞ素晴らしい眺めであろう。
福祉施設しらかば園の先で小川を渡り、とちの木村(富士見)に入ると、さらに見晴らしがよくなり、家々の間からずっと八ヶ岳が見えている。
とちの木村の外れに尾片瀬神社があり、少し先の街道沿いに4本の石柱と小さな石祠が鎮座し、祠の後ろには複数の双体道祖神が置かれている。
引き続き緩やかな上り坂を進んで行くと、やがてとちの木風除林(富士見町指定天然記念物)の赤松の並木が現れる。
この辺りは風当たりが強く、五穀は実らず、無住の地だった。そこで寛政年間(1789~1800)にとちの木の村民が高島藩へ願い出て、防風林として赤松を植樹した。
その先右手に重修一里塚の北塚を残している。塚平の一里塚とも呼ばれ、江戸日本橋より数えて47里目で、木の根元に重修一里塚碑と道祖神がが祀られている。
この先で、街道はT字路に突き当たる。突き当りを右に行くとJR中央本線富士見駅が近い。旧甲州街道は本来は真っ直ぐなのだが、現在、三菱マテリアルの敷地になってしまって通れないため、左折してその先を右折して迂回して行く。
舗装路から砂利道に変わった道を進み、ふたたび舗装路に出ると、そこは原の茶屋という。重修一里塚のT字路から真っ直ぐ来ると、ここに合流するはずの地点になる。このあたり、人家がなく不便であったので、明和9年(1772)松田新田の与兵衛が茶屋を始めて以来人家が増えたという。
近くに、甲州道中最高点965mの看板が建っている。瀬沢大橋の標高が813mなので、かれこれ150mほど上ったことになる。
旧原之茶屋村を進むと右手に富士見公園がある。富士見の地名は下諏訪方面からの旅人がこの地に来て、初めて富士を見たことに由来している。伊藤左千夫が当地を訪れ、ここは自然の大公園だと絶賛したところから、左千夫の監修で富士見公園が出来上がったと云う。公園を入ってすぐのところに芭蕉句碑
- 眼にかゝる ときや殊更(ことさら) 五月不二(さつきふじ) -
があり、公園内には伊藤左千夫歌碑、松丘句碑、斉藤茂吉歌碑、島木赤彦歌碑などがある。今回は、公園でのんびりというわけにいかないが、このあたり標高1000m近い所だが、街道の両側は広々としていて開放感のある処であり、もう少し季節柄のいい時にあらためて訪れてみたいところである。
公園の少し先、右手に明治天皇御膳水碑があり、碑の前の水路には、きれいな水が流れている。
御膳水の先の右手には金毘羅神社常夜燈が建っており、常夜燈脇が金毘羅神社参道となっている。
金毘羅常夜燈の向いの旧家は、多くの文人や歌人が集ったことで有名な旅館桔梗屋跡である。
金毘羅神社常夜燈の少し先右手には、百番供養塔、庚申塔、道祖神そして真新しい男女双体道祖神等がある。
御射山神戸集落に入ると道はゆるい坂道となり、左の方に目をやると富士見パノラマスキー場がよく見える。
カゴメ工場の前を通り、火の見櫓の先をまっすぐ下って行くと左手に形の良い赤松があり、そこに金山大権現が祀られている。金山大権現は、鍛冶にまつわる守護神で、槌のやり取りから夫婦和合の神とも云う。さらにその先には、半ば雪に埋まっているが、無数の石塔石仏が集められ並んでいる。
道は急な下り坂が続き、石仏石塔群の先の民家の角地に庚申塔、千庚申塔、筆塚が並んでいる。
急な洗坂を下り切ると国道20号に突き当たり、甲州道中は左にヘアピン状に曲がる。そこはかつて間の宿御射山神戸(みさやまごうど)の南枡形跡だったところになるが、国道拡幅のため往時の姿は失われている。
神戸八幡交差点の左に少し行ったところにある神戸八幡神社は、1200年以上の歴史を持つという本殿があり、その脇には推定樹齢390年以上という大ケヤキがそびえている。
境内の芭蕉句碑には
- 雪ちるや 穂屋のすゝきの 苅のこし -
とある。
穂屋(ほや)はすすきの穂で作った御座所で、御射山祭の際、諏訪上社から二神をここに迎える。芭蕉はこの穂屋を作るために刈り取り、刈り残したすすきの原に雪が舞っている様を詠っている。
神戸八幡交差点に戻り、国道を横断したずっと先の方にJR中央本線すずらんの里駅が見えている。
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元々の計画では、すずらんの里駅から電車で宿泊予定地の上諏訪まで行くつもりであった。ところが、駅にあと一歩と言うところで、目の前を電車が出て行ってしまった。やむなく、急な階段を上ってホームの待合室で待つことにしたものの、時刻表を見ると次の電車まで一時間も待つことになる。駅周辺は人気も何もないし、いったいどうしようかと思案した結果、隣の青柳駅までわずか2km程と分かったため、どうせならそこまで行って待とうという気分になった。
疲れた身体に鞭打って、線路と街道に挟まれた川沿いの草道を早足で向かって青柳駅にたどり着いたら、程なく電車が来た。
上諏訪まではそれほど時間もかからず、予約している上諏訪ステーションホテルに急ぐ。今回、上諏訪に宿を取った理由の一つが、片倉館の湯に浸かることであった。昭和初期に建てられた洋風の立派な館で、ローマ風呂風の円形風呂のある温泉で、国重要文化財に指定されていると言うもの。ただし、ここでは宿泊は出来ないため、ここの湯に浸かった後、湯冷めしないで戻れるすぐ近くのホテルを取っていた。
片倉館は、意外に空いていて、大きな円形風呂にゆったりつかることができた。建物もローマ風呂も想像以上に立派なもので、実に貴重な経験となった。一見、バブリーな感じだが、バブル期よりもずっと昔にこれだけのものを作った人がいたとは驚きである。それにしても、この建物が温泉銭湯とは・・・。
片倉館の湯につかり、心身ともにリフレッシュしたあと、一端ホテルに戻り、夕食に出かける。元々、上諏訪での夕食は、わかさぎのてんぷらと決めていた。片倉館の受付のおばさんに紹介してもらった店に行くと、馬刺しもメニュに載っており、地元の美味しいいお酒とともに、わかさぎの天ぷら、馬刺し、ほか名物料理をしっかり戴くことができた。
今日一日、無事に旅を終え、諏訪大社上社を参拝し、上諏訪の温泉と食事も堪能できて、大満足で床に就いた。
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二日目の朝、朝食前にすぐ近くの諏訪湖畔の散歩にでる。旅に出て、宿に泊まったときの早朝散歩は、いつものことだが、清々しくて気分がいい。
6:30から朝食だと思って戻ったら、6:45からだと分り、時間がもったいないので片道15分ほどで行けるという高島城に急遽行ってみる。城に向かう途中、諏訪湖越しの遠くには、白銀の頂を輝かせる穂高が見えていた。じつに清々しい。
高島城は、瀟洒な印象で、全体に綺麗に整備されている。お濠にまだ雪が多く残っているのは、この地ならではの景色だ。
ホテルへの帰り道、何やら趣ある古い建物が見える。丸高味噌・醤油の古い看板がかかっているのは、100年を越える丸高蔵で、並んでいる長い建物は醸造所であろう。こうした建物が、街並みに溶け込んでいるところが、なんとも良い。ちなみに、丸高蔵は神州一味噌発祥の蔵だとのこと。
ホテルに戻ってすぐに、急いで朝食にする。良くあるバイキングスタイルだが、とろろと麦飯があるのには感心した。また、セロリを酒粕に漬けたものも珍しいもので非常に美味であった。朝食が意外に良かったため、何となく得した気分になった。
気分良く駅に行くと、朝食の時間を勘違いしたため、列車の時刻が思っていたより遅くなり、待たされる羽目になる。やむなく、土産物屋でおばさんと雑談し、時間をつぶす。
漸く来た列車に乗ったら、これがなんと、すぐ隣の茅野駅どまり。結局、考えていたのより2本後の列車で漸く青柳にたどり着いた。朝は、列車の本数も1時間に何本かあるので、このロスは何とかカバー可能の範囲だと、気を取り直して歩き始める。
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◆金沢宿
元は青柳宿と称して、北西の権現原平にあったが、度重なる宮川の氾濫や大火などの災難に見舞われ、現在地に移り、金沢宿と改称した。宿場は伊那道を通じて高遠、飯田方面と通じ、塩や雑穀などの流通上重要なところであった。
国道を少し歩き、金沢交差点を横断した左角の明治天皇行在所跡碑のあるところが本陣跡ということだが、色々な看板に紛れていてつい見落としてしまった。
本陣の小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論(山の所有地や入会権をめぐる争い)で町民の先にたって働いた四代三郎左衛門は、高島藩に直訴したところ、伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され家は悶所断絶した。地元では、義民として三郎左衛門は宿内に手厚く葬られているという。
すこし先が旅籠屋松坂屋武右衛門宅で、二階に連子格子を残している。
宮川にかかる金沢橋の手前には、仏像や石碑などが多数並んでいる。刑場がこのあたりにあったというので、その供養碑かも知れない。
金沢橋を渡ると道は枡形道になっており、再び国道20号と合流する矢の口交差点の右側に、権現の森がある。この森の西北約400mがもとは青柳宿だった。参道正面には承応3年(1654)建立の石祠などがあり、森は信仰の場、憩いの場として今も江戸時代の名残をとどめているという。石祠の左右には、御嶽座王大権現、不動明王、摩利支天、牛頭天王などの石仏が多数並んでいる。
権現の森を過ぎると再び国道をしばらく歩く。左手の川向こうに49里目の木船一里塚があるというけれどわからず。国道右手の自動車工場のようなところの手前のヘアピンカーブになっている坂を上って行くと、大きな石碑があり、簡単な鳥居と御柱が4本立っている。
中央本線を跨線橋で渡ったらすぐ左折し線路に沿って下って行く。JRの変電所前を通り、のぞみ大橋の下をくぐってしばらくは宮川に沿った田圃の続くのどかな道を進んで行く。眼を前方に向けると、はるか遠くには穂高が臨める。
小早川橋を渡って行くと、左手に南無阿弥陀仏碑が立っている。JRのガードをくぐり、線路に沿ってしばらく歩くと、やがて国道と合流する。合流点の宮川坂室交差点手前右側には「文化十三年」の銘のある古い石碑と石仏、秋葉山常夜灯が並んでいる。
宮川坂室交差点の先で右折して行くと酒室神社がある。酒室神社は、御射山祭りに濁酒を作り、山の神に供える前夜祭をとり行った神聖な地に祀った神で、酒解子之神を祭神とする。
酒室神社を出た後、国道20号を真っ直ぐ歩き、途中、中央高速のガード下を通って、宮川の三叉路では真ん中の道を行く。
すぐ先左側に神社が二社並んでいる。鈿女(おかめ)神社と三輪神社で、ちょうど祭りの日らしく、大勢の人が駐車場広場に集まって屋台や太鼓の準備をしている最中だ。
鈿女神社の祭神は、天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った天鈿女命(あまのうずめ)で、後には猿田彦神と共に道祖神として祀られるようなった。
三輪社の歴史は古く、今から約810年前、大和の国の三輪神社から分社あり、宮川・茅野地区の産土神になっている。
上川にかかる上川橋を渡り、いよいよ茅野市街地に入っていく。橋の上からは、遠くに穂高連峰が臨め、反対側を見ると八ヶ岳が迫っている。
茅野駅に近づくと、諏訪神社上社参拝道の大鳥居が見えてくる。
上社は街道からちょっと離れたところにあるが、折角なのでぜひ参拝したいとかねてから思っていた。ここは、時間の関係もあるので、茅野駅前でタクシーを拾っていくことにする。
駅前には登山者の姿が多く見られたが、タクシーの運転手に聞くと、八ヶ岳に向かう人たちだと言う。茅野駅は八ヶ岳に向かう人たちの集合地点の一つなのだ。
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<諏訪大社>
信濃國一之宮の諏訪大社は、全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つである。
歴史は大変古く、古事記では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと記されている。
諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がなく、代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝している。古代の神社には社殿がなかったとも言われており、諏訪大社はその古くからの姿を残し、山岳崇拝の色濃く残る神社である。前宮は古くは上社摂社であった関係で本殿を有している
社殿の四隅に御柱と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えている。
前宮・秋宮・春宮では一之御柱・二之御柱は正面を向いており、拝殿に向かって右手前が一之御柱、左手前が二之御柱となっているが、本宮では南方の守屋山の方向を向いている。
上社前宮
茅野駅前からまず向かったのは上社前宮。
前宮は、本宮の南西約2kmの地に鎮座し、諏訪の祭祀の発祥地とされる。拝所は林の中に佇んでおり、その周りを御柱が囲んでいる。他の3社に比べると瀟洒な感じで、訪れる人は少ないが、山岳信仰の原点を見るような気がする。
前宮から本宮へ向かう道はゆるく登っていて、見晴らしがよく、前方には、北アルプスが時々見え隠れする。後方には、八ヶ岳が遮るものなく臨まれるので、ときどき振り返りながら歩いていく。
上社本宮
前宮のほうから東参道を経て入口御門から入ると、まず長い廊下のような布橋をまっすぐに進む。布橋の途中には、左に大國主が鎮座している。布橋を渡り終えたところで左の小さな門を入り、さらに左に回りこんだところが拝所になっている。
重文の幣拝殿は工事中だったが、拝所から垣間見ると薄暗いところに大きな写真があって、まるで本物と見間違えるほどであった。
本宮はどこか重々しく格式高い印象がのこった。
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上社前宮と本宮の参拝を済ませ、ふたたび街道に戻るためタクシーを呼ぶ。運転手さんに、街道歩き途中での参拝なので、旧道まで戻りたいと伝えたところ、たどり着いたのは桑原というところであった。
道の真ん中に、巨大な燈籠と道標があり、「左江戸みち 右大明神江」と刻まれている。道標は諏訪方面を向いており、諏訪からは左方向が江戸になる。諏訪湖へ下る方を「大明神江」というのだろう。
蔵のある旧道を行くと右手に足長神社がある。この神社は、御柱祭で参道石段を登りながら柱を引き上げるので知られている。
足長とは八岐大蛇神話の足摩乳命のことで、上諏訪駅近くには手長神社もあり、手摩乳命のことという。
足長神社の先、旧道細久保、旧道赤羽と続き、再び国道に合流するが、その手前の公民館前に秋葉山の石柱と並んで大きな双体道祖神がある。
ここで、国道に合流する辺りから上諏訪宿に入る。
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◆ 上諏訪宿
上諏訪宿は、高島藩の城下町で甲州街道最後の宿場である。温泉の町、諏訪大社上社のある町として知られているが、街道沿いには酒蔵が建ち並び、それらの多くが今も現役で活動している。
清水町に入って左側にある呉服のかねさは、蔵造りでいかにも老舗の風情が漂う。
元町にはいくつもの酒蔵が建ち並んで、旧街道の雰囲気を醸し出している。
宮坂醸造は、創業寛文2年(1662)で真澄で有名だが、神州一味噌の製造元でもある。
麗人酒造は、創業は寛政元年(1789)で麗人という酒を造る。
舞姫酒造は、創業は明治27年で、蔵造りの重厚な趣の蔵元。
旧道は、上諏訪駅手前の諏訪1丁目交差点のところを右に曲がって行くのだが、このあたりは、上諏訪駅に近く、ちょうどお昼時でもあるので食事処を探そうと思ったら、なんと目の前に昨晩夕食を摂ったいずみ屋があった。夜と昼で雰囲気が違っていたので、まさか同じところに来ているとは気づかなかった。いろいろメニュがあるようだったので、あちこち歩き回って探さずにここで食べることにする。みそ天丼なるものがお昼のお薦めのようなので、それを注文。上品な味噌タレのなかなか美味なものであった。
諏訪1丁目交差点のところで国道と別れて行くとすぐに見事な松が目に入る。吉田の松は、諏訪市の天然記念物で、樹齢は300年くらい。高島藩士吉田式部彦衛門が、元禄3年大阪城守備の任務から帰ったときに持ち帰ったと伝えられる。
しばらく歩くと、街道が直角に右へ曲がった先で道は二つに分かれる。角の公民館脇にいくつもの大きな石碑と並んで屋根に覆われた大きな地蔵が鎮座している。
ここを右へ行くと温泉寺があるが、甲州街道は左方向へ行く。
少し先の先宮神社の創立は古事記の「国ゆずり」に起源があり、建御名方命が諏訪神社に鎮座する以前の産土神であったが、命に屈服したため、他の場所へ移ることを許されず、境内前の小川には橋も架けられなかったと伝えられている。
神社横の道祖神は御柱で囲まれていた。
この先、酒屋の脇に珍しい大ケヤキがあって、幹の太い葉の落ちたケヤキが左手に見える。根元には甲州街道の石柱があり、目通りには注連縄が巻かれている。このケヤキ、中身が空洞で表皮だけで生きているらしい。
やがて諏訪湖の湖面が眼前に広がる。結構アップダウンの激しい道を進む。
左側に、江戸時代の面影がそのまま残る橋本屋茶屋がある。
明治天皇駐輦跡の碑と石投場の碑が並んで立っている。駐輦(ちゅうれん)とは天子が車をとどめることという意味で、明治天皇が巡幸の折、諏訪湖の眺望をこの場所に車を停めて楽しんだと言われている。また、往時ここは諏訪湖が足元まで迫っていたので、湖面に向かって石を投げた場所ということで石投場というそうだ。
地図で見ると、街道はこのあたりで諏訪湖に一番近い。
甲州道中最後の富部の一里塚跡にやってきた。ここは江戸から53番目の塚で、両塚であったが、全く失われ、跡に石碑が立っている。あと11町(1100m)で賑やかな下諏訪に着き、中山道とつながる、とある。
やがて街道は右に曲がって、諏訪大社下社秋宮の前に出る。
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◆下諏訪宿
ここは甲州街道の終点であるとともに、中山道の宿場でもある。昨年の9月1日に中山道を歩いてこの地に来ており、下社も訪れている。
再び下社秋宮を参拝し、無事、甲州街道歩き旅のゴールインができたお礼とご報告をする。
秋宮を出てすぐのところ、御宿まるやと、桔梗屋旅館、聴泉閣かめやに囲まれた空き地に甲州道中・中山道合流之地碑がある。
ここには中山道問屋場跡碑に並んで、綿の湯の碑もある。
往時、下諏訪宿は中山道で唯一温泉のある宿場としても人気があった。宿内には旦過の湯、児湯、綿の湯の三ヶ所があったが、子宝の湯と云われた児湯と旦過の湯は地元専用だった。当時、旅籠に風呂は無く、旅人は綿の湯に浸かった。
綿の湯は、今はなく、旦過の湯及び児湯は温泉銭湯になっている。ちなみに、下諏訪には10箇所ほどの温泉銭湯があり、どこも大人220円の入浴料で入ることができる。実にありがたい。
もともと、下諏訪に来たら温泉につかるのを楽しみにしてきたが、その前に春宮参拝のほうが先決だ。温泉はそのあとゆっくり湯につかることにする。
秋宮から少し先の春宮まで急いで行き、無事参拝して、今朝、上社前宮で入手した真新しい御朱印帳に4社目の御朱印をいただく。
ここでは、御朱印帳とともに小さな菓子箱のようなものを差し出された。無言で渡されたため、どういうことなのか分からず、ちょっと戸惑ったが、何かご褒美をもらったような気分になり、ありがたく頂戴した。後で知ったが、この4社で御朱印をいただくと、御神紋入り落雁を頂けるということだそうだ。兎にも角にも、この日、上社前宮・本宮、下社秋宮・春宮、4社を参拝して御朱印をいただき、甲州街道歩き旅ゴールインに花を添えることができた。
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いよいよ楽しみにしていた温泉に向かう。
昨年、中山道/和田峠越えの後、寛いだのは比較的駅寄りの菅野温泉。入り口が非常に分りにくいところにあるが、大きな楕円形の湯船にたっぷりの湯。洗い場の蛇口はお湯しか出ないが、それで何の不都合もない。全体的にレトロな趣も相俟って、心から寛げた。
今回は、甲州道中・中山道合流之地碑にほど近く、歴史ある児湯で汗を流すことにした。遊泉ハウス児湯は、下社秋宮からも近いところにあるので、観光客も利用しやすい。一番大きな共同浴場というだけあって外観は今風で立派だが、一歩中に入ると外湯の雰囲気そのもので、ここまで歩いて来た疲れをすっかりとることができた。
下諏訪駅からあずさ28号に乘って帰途につくと、車窓からは夕陽の中に甲斐駒や鳳凰三山が臨め、また来るよ、と心の中で声をかける自分がいた。