2012年11月30日 (駒飼)~鶴瀬~勝沼~栗原~石和~甲府柳沢~(竜王)
前回、笹子峠を越えて駒飼宿まで来たところで、最寄りの甲斐大和駅から一旦帰途についた。
今日は、甲斐大和駅から諏訪神社前を通って、国道に出たところから再開する。
このあたりは中央道笹子トンネルの京方口の直ぐ近くにあたるが、なんと、2日後の12月2日に、ここで大事故が発生し、報道で大々的に報じられることとなった。中央道上り線笹子トンネルで天井板のコンクリート板が約130mの区間にわたって落下し、走行中の車複数台が巻き込まれるという前代未聞の大事故であった。
そんなことが起こるなど想像だにせず、大和橋を渡って鶴瀬に向かっていくと、ちょうど登校時の子ども達が、見知らぬおじさんにも、おはようございます、と元気よく挨拶をしてくれる。朝から、真に清々しい気分である。
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◆鶴瀬宿
立合橋を渡ると、すぐ右に鶴瀬関所跡の標柱が建っている。鶴瀬の関所は甲州十二関の一つで、鶴瀬の口留番所といわれ、主に物資の流通の警戒と入り鉄砲に出女を取り締まる関所があった。
関所の先右手に鶴瀬地区の石碑と鶴瀬宿の標柱があり、「江戸より第三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁」とある。この場所が鶴瀬本陣跡でもあったそうだ。
国道から入った旧道はほんの僅かばかりの区間で、すぐに国道に出る。
国道を進んでしばらくすると、古跡血洗沢の標柱が石垣の上にあり、「この地は土屋惣蔵が、逃亡した跡部大炊介を追尾して斬り、この沢で血を洗い流したと言われています。」と説明がある。武田家の終焉の地が近いこの付近にはいろいろな伝説が残っている。
洞門を抜けて共和地区(横吹)にくると、西の方角にはなにもさえぎるものがなく、視界がパァッと開ける。前方の山腹にはブドウ畑が続き、その奥には勝沼の町がひろがり、さらに遠くに南アルプスの峰々が横たわる雄大なパノラマが広がる。
このあたりは、中央道を車で何度も通ったことがあるが、これまで見たことのない景観である。駒飼から勝沼あたりまでは、日川を挟んで北側の中腹を行く旧道(写真右側)に対して、中央道は南側の山裾(写真左側)を走っているためである。
天候にも恵まれ、南アルプスを一望するこれだけの絶景に巡り合えたのは運が良かった。ただし、折角の大パノラマも、難点は道路沿いの電信柱と電線。この景色をできるだけ邪魔するものの無いところで写真に残そうと、何度か道路脇の崖を上ったり下りたりしてみた。そうこうするうちに、大善寺手前で、たまたま柏尾山のぼり口の標識を見つけたので行ってみると、少し上っただけで白峰三山、鳳凰三山はもとより、南の方に荒川岳、赤石岳まで臨める絶好のビューポイントがあった。
街道に戻って柏尾橋を渡った少し先に大善寺がある。大善寺は、武田勝頼が落ち延びる途中、1泊した寺である。また行基が修行満願の日、夢の中にブドウを持った薬師如来が現れたことから、甲州ブドウ発祥の寺とされる。国道から少し入ったところに山門があり、そこからさらに長い石段を登ったところに国宝の薬師堂がある。
ここ大善寺では宿坊を経営しており、宿泊することも可能で、寛永末期に造られた日本三名園と言われる池泉鑑賞式庭園を見ながら食事ができるらしい。
柏尾交差点で、国道は左へ、旧道は右へ行くと勝沼宿に入る。
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◆勝沼宿
ぶどうの名産地で知られる勝沼は、戦国時代は武田信玄の父信虎の弟、勝沼次郎五郎信友が館を構えており、甲斐の戦略上、重要な拠点であったと伝えられている。
勝沼宿の江戸方口にある上行寺は、門前には勝沼氏館跡がある。
勝沼氏は、武田信玄の父信虎の弟の勝沼五郎信友のことで、子の信元の二代の館跡になる。信友は討死、信元は内通が露見して殺されている。地域の押さえとして館というより砦として造られている。発掘調査により建物や門、水路の跡等戦国時代の武田武将の暮らしぶりが明らかになり、国指定史跡として保存され、史跡公園として整備されている。
西に向かって歩くとすぐ右手に、勝沼宿脇本陣跡の標柱が立てられている。この辺りから勝沼宿の宿場中心街となるようだ。
すぐ先前方に形の良い見事な太い松が見える。「勝沼本陣 槍掛けの松」という標柱があり、説明によると、本陣に大名、公家などが泊まると槍を立て掛けた松だそうだ。
少し先の仲松屋跡は、江戸時代後期の東屋敷と明治時代の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重なものとされる。
勝沼はブドウとワインで有名なだけあって、街道沿いには実にブドウ園が多い。この辺りには蔵が多く建っており、江戸当時からブドウで栄えたことがうかがい知れる。
街道右手に旧田中銀行博物館の看板が掛かる洋風の建物がある。もともとは、明治30年ごろ勝沼郵便電信局舎として建築されたが、その後山梨田中銀行の社屋として使用された。
やがて、勝沼で最も急な下り坂が現れる。勝沼小学校入口の右側に「ようあん坂」と記された標柱が建てられている。近くに天野養庵の家が有ったことからようあん坂というそうだ。
しばらく行った等々力交差点で国道411号と合流。大きな屋敷の先に延命地蔵堂があり、その前に文政一三年と彫られた常夜灯が立っている。
ワイン醸造所の先で山梨市へ入り、上栗原交差点あたりから栗原宿に入る。
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◆栗原宿
江戸時代、宿場には毎月4と9の日に市が立ち、勝沼宿と共にこの一帯の農産物や織物などの集積地として栄えたといわれているが、現在では宿の跡らしきものは何も残されていない。
上栗原交差点からしばらく行くと、旧道は右の大宮五所大神の方に行くのだが、このまま真っすぐ日川橋まで川沿いの土手の道を行くことにする。
広い河原には黄金色のススキが煌く、電信柱や空を覆うような電線も無く、正面遠くに南アルプスが迎えてくれる。車も殆ど通らず、歩いていて実に心地よい。
日川橋を渡り、旧道はこじんまりした白山神社前を通って西に向かい日川の南岸を進む。
道は静かな田中の集落を抜けて行き、日川沿いに広がる桃畑を横目に笛吹橋の方向へ進む。
笛吹川の土手を歩いていくと、途中で国道に合流し、やがて笛吹橋を渡る。対岸に石和温泉の町並が見える。
笛吹橋を渡り、河岸に松並木が続く通りを行くとやがて笛吹権三郎の像の立つところに来る。
昔、笛の上手な権三郎は母親と二人で暮らしていたが、ある晩氾濫した濁流に二人とも流されてしまった。権三郎は助かったが、母親は権三郎の名前を叫びながら濁流に呑まれて行方不明になった。権三郎は毎晩母親の好きな曲を笛で吹きながら川下まで探し回ったが、ある日足を踏み外して川に落ちて死んでしまった。その日から夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえるようになり、村人はいつしかこの川を笛吹川と呼ぶようになった、と言い伝えられている。
笛吹川は、最上川、球磨川と並ぶ日本三大急流のひとつで、甲武信ヶ岳や国師ヶ岳を源とする東沢渓谷と、国師ヶ岳や奥千丈岳を源とする西沢渓谷が合流して笛吹川となり、更に鰍沢町で釜無川と合流し富士川となって駿河湾に注いでいる。昔から洪水に悩まされダムなどを作って砂防に努めているが平成3年にも被害が出ている。
像の前の通りは権三郎通りという。途中、数年前まで石和川中島簡易郵便局だったという土蔵のある旧家があるが、この先も、街道沿いには大きな屋敷がいくつも見られる。
少し先に行くと、大きな屋敷やブドウ畑が続く雰囲気に全く不似合いのところにテアトル石和という小さな映画館がある。いかにも唐突な感じだが、唯一現役で営業している映画館らしい。
やがて再び国道に突き当たり、市部本通りへ出る。右折すると石和宿の大木戸があったそうで、石和宿に入る。
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◆石和宿
武田信玄の父信虎が躑躅ケ崎(つつじがさき)に城を築くまでは、石和が武田氏の本拠地であり甲斐国の政治の中心地でもあった。
昭和36年、突然大量高温のお湯が湧き出し、今は、新興の温泉地として賑わっている。
宿としての石和はこの市部本通りへ曲がったあたりから始まる。
鵜飼山遠妙寺は、謡曲「鵜飼」で知られた寺といわれる。殺生禁断の石和川で鵜飼をしていた勘作が捕らえられて簀巻にされ岩落という所で沈められた。以来亡霊となって苦しんでいたが日蓮の法力で成仏するという話。
仁王門は、三間一戸、側面二間楼門重層入母屋造瓦葺で江戸時代末期の建築物で、石和市指定文化財となっている。
遠妙寺から数分の右側駐車場が石和本陣跡で、説明板によると、明治13年の火災で本陣建物が焼失。本陣土蔵だけが焼け残ったのだそうだ。
本陣跡のその斜め前方左側には高速バス停があり、その横に足湯がある。その後ろの小林公園は、アラビヤ石油などの社長をつとめた石和町最大の有名人小林中(いたる)の旧邸宅跡である。
小林公園の斜め前の石和八幡宮は、武田氏の祖・信義の子信光(石和五郎)が建久3年(1192)、鎌倉の鶴岡八幡宮をこの地に勧請して郷の産土神としたもの。武田家滅亡の折り、織田信長により焼失してしまうが、翌年家康により再興されたといわれる。
甲運小学校入口のバス停の所に和戸町の由来の解説がある。和戸町は、平安期この付近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)の遺称である。郷とは奈良時代、50戸を持って編成された行政村落のことであり、古くから存在していたことが解る。あたりには道標らしきものや球形の道祖神も置かれている。道の向側には蔵を持つ古そうな旧家も見られる。
国道は城東通りとなり、十郎川を渡り、山崎三叉路へやってくる。三叉路の右からの道は、青梅街道で、新宿の追分で分かれた青梅街道がここで合流する。この街道はかなりの難路であったが、鶴川の川越人足が旅人をゆするので、こちらを通る人も多かったといわれる。また、この場所は大きな刑場跡で、日蓮宗の信者だった法悦が建てたと伝えられる南無妙法蓮華経の大きな供養塔が立っている。
城東通りを西へ進み、出光のガソリンスタンド付近で右へ分岐する道の三角地帯に「日本武尊御舊蹟」、他面に「酒折宮」と刻まれた石碑が立っている。
その先、箱根駅伝で有名な山梨学院大学の近代的なキャンパスを眺めながら進むと、善光寺入口交差点から右の中央本線のガードをくぐった真っ直ぐな道路の先に善光寺が見える。
甲斐の善光寺は、永禄8年(1565)、信玄が川中島合戦の折り、寺が戦火に焼かれるのを恐れて本尊以下諸仏をここに移したのがはじまり。その後本尊は長野に戻されたが、今の本尊も建久6年(1195)の銘を持つ阿弥陀三尊で国の重文である。規模はとても長野には及ばないが、風格のある朱塗りの山門、本堂は、ともに見た感じが長野のものと瓜二つで国の重文でもある。
善光寺から街道に戻り、身延線のガードをくぐると、枡形を通り過ぎて甲府宿に入る。
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◆甲府栁町宿
甲府の市街は武田信玄の父信虎が石和から移って甲府駅の北部、躑躅ヶ崎に居館を構えたことから始まる。武田滅亡後、家康は現在の「舞鶴城公園」の地に城を計画し、繁栄は南部に移った。江戸時代にはここを下府中といい、武田時代の駅北部を上府中、あるいは古府中と呼んだ。宿の正式名称は、宿場の中程にある柳町に問屋場などの機能が集約されていたことに由来し、甲府柳町宿という。
身延線を過ぎた、最初の枡形の所から甲府宿が始まる。
道を曲がり終わると、重厚な感じの石川家住宅が右手に見える。明治から大正にかけて建てられた住宅や蔵、塀などが現存していて、繭糸問屋だったという当時の商家の様子を今に伝えている。黒い建物は、塗籠土蔵造という建築様式によるもので、江戸時代の代表的な町屋造りという。
国道は城東通りと名を替えて真っ直ぐな通りが約900m程続き、この先何度かの枡形が続くが、桜町南交差点に出ると、枡形道も終わり、大通りを右に行くと、相生歩道橋交差点に出る。相生歩道橋上から甲府駅方面を見ると、広くて立派な甲府市のメイン通りが伸びており、県庁をはじめ市役所、警察署など官庁が建ち並んでいる。
駅の南口には武田信玄公之像や舞鶴城公園があるが、今回は先を急いでパスする。
相生歩道橋を渡ると、ここから美術館通りといい、ミレーの画で有名になった県立美術館がある通りとなる。
立て替え工事中の荒川橋を渡り、すぐ先の小さな貢川橋を渡って行くと、街道沿いに大きなサイカチの樹がある。天然記念物「上石田のサイカチ」は湿った地に生える木で、貢川河川近くであったかつての自然の一部を残したもので、樹齢は300年と推定されている。
美術館通りを歩いているとほぼ正面に鳳凰三山が迫ってくる。ただし、折角の景色なのに、電信柱と電線が邪魔くさくてしょうがない。そのため、街道から少し北側の日川沿いの道を行くことにした。こちらは遊歩道として整備されていて、電信柱や電線のような邪魔なものはなく、車も通らないため、実にのどかで快適なルートである。この道は竜王まで通じており、本日は竜王まで行ったところで帰途に就くこととする。
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竜王に向かって進むにつれ、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳が目前に迫り、右の方には八ヶ岳も見えてくる。後ろを振り返ると、ちょっと霞んでいるが大きな富士山がドーンとある。