2012年12月14日 (竜王)~韮崎~(牧原)
今回は竜王から再開し、牧原まで行く予定。
この行程は、鳳凰三山、白峰三山、甲斐駒ケ岳など南アルプスの3000m級の峰々を間近に眺めながら、歩を進めるにつれて雄大な八ヶ岳に近づいていくという、大パノラマを満喫する歩き旅になる。
旧街道に出るため竜王駅から一旦国道まで行き、すぐに新町交差点で国道と分れて右に入る。すこし先に、大きな球形の石でできた丸石道祖神が置かれている。丸石神は山梨県とその他ごく一部にしか存在しない珍しい道祖神で、謎の多い文化と言われる。
JR中央本線の踏切を渡った先には、長くてまっすぐな赤坂という坂が目の前に延びている。その坂の中ほどに高さ4m超の巨大な自然石でできた赤坂供養塔がある。南無阿弥陀仏と刻まれ、建立は安政年間で、念仏講中が無縁者供養のため建てたものだという。なんと、明治時代に竜王川の石橋に一時転用されたこともあるという。
その先、右手に稲荷神社と並んでいるのが諏訪神社で、境内には御柱が立っていて、いよいよ諏訪が近くなっているように感じられる。
<赤坂台公園からの眺望>
ちょっと長い赤坂を登りきると、広々とした赤坂台公園がある。公園の奥のほうに何やらかなり高い塔が見えたのでちょっと行ってみると、エレベータで上る展望台からは360度の眺望が広がる絶景がそこにあった。北に八ヶ岳、南に富士山、西には白峰三山や甲斐駒ケ岳を背にする鳳凰三山、北東には茅ヶ岳や金ヶ岳など。
(赤坂台公園東側から西側を見る)
(南に富士山、北に八ヶ岳)
何気なく立ち寄ってみただけだったのだが、思いがけず素晴らしい眺望を目の当たりにし、朝から気分は最高である。
街道に戻ってそのまま真っ直ぐ進み、コンビニの先を左の方に下っていく。
下今井に向かって歩くと、少しずつ蔵のある家があらわれ、枡形のようなカーブを曲がると、寺町と呼ばれる地域になって、土塀の続く屋敷や長屋門を残す家など風情ある街並みとなる。
しばらく先、右手の自性院参道の石畳は、明和2年(1765)から続くというもので、参道入口に、車では入るな、という立て札が立っている。左には、二段重ねの丸石道祖神が置かれている。
趣のある寺町は下今井東の信号で終わる。中部横断自動車道の下をくぐり、中央本線の風格あるレンガ造りのガードをくぐった先は、中央線に沿って進んで行く。
塩崎駅少し手前の街道沿いに、泣き石という巨大な石が置かれている。
天正10年(1582)、高遠城が落城すると、武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に 自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り、涙を流したという言い伝えがある。
塩崎駅入口を過ぎ、少し進むと、鳳凰三山や甲斐駒ケ岳をバックに街道沿いには蔵を持つ大きな屋敷が続いている。この辺りの蔵は、街道に面して建ち、屋敷を取り囲んでいて防火壁の様になっていて、重厚で独特な趣がある。
双葉西小を過ぎた右側にちょっと変わった鳥居が目に入る。船形神社の石鳥居といい、柱が太く背が低いずんぐりとしたもので、室町期の遺構として第一に推すべき逸作、と説明にはある。
その先で六反川を渡るが、その手前を右に入ったところに芭蕉の句碑がある。
- ひる見れは 首すし赤き 螢かな -
この六反川には蛍がたくさんいると聞いてこの地を訪れたが、日中だったため、光る蛍を見ることができなかったと詠んでいる。
街道は田畑の交差点で右へ入っていき、金剛地という集落へ向かう。やがてY字路の真ん中に二十三夜塔が立つところで街道は左へと曲がって行く。
金剛地では、風情のある蔵や土塀が立ち並ぶ旧街道らしい家並みが続き、進むにつれて地蔵岳のオベリスクもよく見えるようになる。
塩川に架かる塩川橋を渡れば韮崎市で、甲州街道は塩川橋西詰の交差点で右折し、線路沿いの道を行く。ここから韮崎駅のある中心部へは1.2km程の直線道路が続く。
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◆韮崎宿
韮崎宿は、甲府街道と富士川水系の水運の物資の集散地として発展した。地名の由来は、韮の葉のように続く七里岩の台地の先端にあるとか、台地上に野生の韮が多かったからとか、ニラミの略で七里岩の出崎と船山と睨み合っているが如きから、とかの説がある。
宿に入ると、下宿交差点のところで南に入る狭い道があり、鰍沢横丁の案内が立っている。ここは身延へ行く道との追分で、釜無川には鰍沢河岸という船着き場があって、舟運で賑わっていた。
下宿の先、本町信号のところで右に入って駅に向かう国道は佐久往還ともいう。すぐ左手は丘陵になっており、ここから28km続く七里岩の南端にあたる。
そこに雲岸寺があり、裏手の崖の途中に弘法大師の開基になる窟観音堂が岸壁からせり出して建っている。崖に掘られた洞窟に聖観世音菩薩、弘法大師御尊体、千体地蔵尊のほか多数の石仏が安置されている。
街道へと戻って再び甲州道中を進むと、十六石と刻まれた石柱が立っている。武田信玄が、まだ晴信といわれた頃、釜無川の水害から村を守るため治水工事を行い、その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石のことを言う。
少し先で旧道は国道と別れて右へ分かれているが、その分岐に水難供養塔という石碑が立っている。この辺りは、かつては釜無川の氾濫との戦いが続いた地区で、多くの犠牲者の供養に立てられたものらしい。
街道は祖母石という集落に入って行くが、街道の東側は水田が広がり、七里岩が続いているのが良く見える。七里岩は韮崎を先端に、蔦木付近まで7里も続いている。
今から20万年ほど前に八ヶ岳が噴火し、その土石流が韮崎に向かって下り、甲府盆地を埋め尽くし、その後釜無川など侵食され、延々と断崖が続く七里岩を形成したという。
祖母石の集落に入ると、蔵が点在する風情のある街道となる。
静かな旧道を更に進むと、やがて国道と合流するが、国道を少し戻って桐沢橋東詰信号で右折し、桐沢橋で釜無川を渡る。昔は、このあたりで釜無川を渡り対岸の折居へ街道は向かっていたことになっている。
国道に合流する手前に九頭竜大神、秋葉大神、道祖神ほか石塔が5基ほど祀られている。釜無川の水難ほか如何にこのあたりに災いが多かったのかがうかがい知れる。
桐沢橋の途中から眺めると、遮るもののない河川敷の向こうに、富士山がくっきりと見える。
眺めの良さの一方で、釜無川は大きな石がごろごろしており、この川の繰り返しの氾濫がいかに住民を苦しめたかよくわかる。
橋を渡りきると正面に青木鉱泉の案内板があり、これを見ながら、右へと進む。案内板には鳳凰三山ドンドコ沢登山口とも記されている。そういえば、2009年に鳳凰三山に登った時は、夜叉人峠から登り、青木鉱泉の方に下山した。
途中、県立射撃場を横目にしばらく道なりに上って行くと、突き当りに再び青木鉱泉への案内板があり、左手には原山神社が見える。この神社の拝殿も本殿も荒れ果てているが、両部鳥居というのはなかなか見かけない珍しいものだ。
元の突き当りの方に戻り、橋を渡って折居方面へ向かう。
折居集落は小さな集落だが、蔵や松などが並び、風情がある。ここは高台になっているため、前方には八ヶ岳の姿が実によく見える。
集落に入ると、徳島堰という水路が街道の左手に続いている。今から340年前江戸の徳島兵左衛門の私財により工事が始められ、その後の変遷を経て完成したもので、これにより美田の開発が進み、地域農民の生活は飛躍的な発展をとげたという。
やがて、唐沢橋を渡ると、入戸野という集落に入る。入戸野は小さな集落だが、蔵があちこち残っている。街道沿いに滔々と流れる徳島堰の先には八ヶ岳が臨まれる。
この辺りで道を間違えてしまい、かなり遠回りをしてしまった。
結局、入戸野を抜け、一端県道へ出て、戸沢橋を渡らず手前で左折し、徳島堰に沿って行くのが正解だと分かる。
堰に沿った道は山へと入って行き、舗装も途切れて砂利道となる。その先、戸沢川がせせらぎのようになっているところで、下円井側へ渡渉する。
渡って急坂をUターンするように上がって行くと、下円井の集落。ここもこじんまりした集落だが、土塀や石塀が多く、風情がある。道は火の見やぐらのところで軽く枡形になっていて、途中に秋葉山常夜灯が残っている。その向こうに、立派ななまこ壁の門を持つ家が建っている。
やがて行く手にかかしの里と描かれた大きな看板が現れ、そばには黄色の大きなモニュメントがある。ここは平成かかしカーニバルの会場となるところで、毎年9月に200体ものかかしが、この看板の下の田んぼに並ぶとのこと。
その先、国道の下をくぐるトンネルを抜けると上円井の集落へ入って行くが、少し手前に徳島堰を解説した案内板が置かれている。
<徳島堰由来>
この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰、徳島堰)中、随一と言われている。330年前、江戸の住人徳島兵左工門がこの地方の開発を計画し、幕府(甲府藩)の許しを得て、寛文5年(1665)に工事を始め、同7年に上円井より曲輪田の大輪沢まで約17kmの堰を造ったが、何故か兵左工門は同年秋工事から手を引いた。その後甲府藩では有野村の郷士矢崎又右工門等に命じて全区間の不良箇所の修復をさせ同10年に完成したので、この堰を徳島堰とその功をたたえたが、兵左工門は工事に私財を使い果たして生活は困窮した。
上円井集落に入って左手の小路の角に「徳島翁のおはかみち」と刻まれた石碑がある。なまこ壁の残る道を入ると、突き当たりが妙浄寺で、前述の徳島堰を作った徳島兵左衛門の墓がある。
上円井集落の中は静かな旧道が続き、途中、明治天皇の小休所となったなまこ壁の立派な内藤家が残されていたりして往時の面影が色濃く残っている。
上円井集落を抜けて、上円井信号のところで国道20号と合流したあと、何度か国道と合流したり分かれたりしながら宮脇地区を経て牧原に入る。
牧原地区に入ると、立派な旧家が建っていたりして風情があるが、切り立つような七里岩を上ったところにある日野春駅までどれくらい時間がかかるか見当もつかない。日が沈まないうちに何が何でも日野春駅までたどり着かないとまずいので、ここはのんびりというわけにいかず、どんどん先を急ぐ。甲州街道は、ところどころで鉄道と離れている区間が多く、エスケープルートなど、行程の選択肢が少ない点が困りどころである。
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静かな旧道から国道に合流するとすぐに牧原交差点がある。地図で見ると日野春駅までの道がどうなっているのか少々不安になり、確かめるため交差点近くにあった武川駐在所に駆け込んだ。駐在さんは親切丁寧に日野春駅までの道を教えてくれる。駅は、七里岩の上のほうにあるので、ここから30分ほどの登りとなる。荒々しい釜無川を渡った先は、一日の終わりとしては結構きつい上りだが、坂の途中から、今日一日の旅にずっと道連れになってくれた富士山や甲斐駒、鳳凰三山のシルエットが一段と大きく見える。
そうこうするうちに駅にたどり着き、なんとか無事に家に帰れそうだと、漸くほっとする。日野春駅ホームからは八ヶ岳が良く見える。