三軒茶屋~二子

2020年10月2日 三軒茶屋~二子

田園都市線三軒茶屋駅の地上に出ると、玉川通りと世田谷通りの分岐するところに不動明王が乗った追分道標が見える。


この道標は寛延2年(1749)に建立され文化9年(1812)に再建されたもので、正面に「左相州通 大山道」、左側に「此方二子通」、右側に「右富士 登戸 世田谷通」 と刻まれている。
街道はここで矢倉沢往還の本道と文化・文政期ごろに開通した新道に分かれるが、今回は本道の世田谷通りを行くことにする。
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三軒茶屋~豪徳寺
三軒茶屋という地名は、追分に三軒の茶屋があったことが起こりと云われている。現在の三軒茶屋駅周辺はいつも大変な賑わいだが、江戸時代は、座敷があり、膳が整えられ、茶屋娘が接待する料理茶屋が、大山詣の旅人や多摩川行楽の人々の休み処としても賑わっていたそうだ。

しばらく街道を行くと、環七通りと交わる若林交差点直前の路地を左に入った公園の隅にひっそりと残された庚申堂があった。


なぜここに置かれているのかわからなかったが、堂宇の中の庚申塔2基、手前の馬頭観音とも端正なつくりで、丁寧に維持されていることが窺えた。

すぐ先で環七通りを横切り、左の方へ少し行くと駒留八幡宮が鎮座している。
駒留八幡宮に立ち寄った後、再び世田谷通を進むと、やがて松陰神社入口と記された信号のところに来る。このあと、街道から少し外れるが松陰神社と豪徳寺に寄ってみることにした。かれこれ40年ぶりになる。

<松陰神社>
街道を右折して商店街を進むと、まもなく松蔭神社に着く。


文字通り吉田松陰を祀る神社で、伝馬町の獄中で刑死後、小塚原の回向院に葬られたが、門下生の高杉晋作、伊藤博文らによりこの地に改葬された。その後、明治15年、松蔭神社が建立され、松陰の墓はこの地にある。境内に立ち並ぶ大きな燈籠の寄進者には伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎らの名前がずらりと並んでいる。

<豪徳寺>
松陰神社を出て国士舘大学、世田谷区役所などの前を通って西の方向に行くと豪徳寺に着く。


文明12年(1480)、世田谷城主吉良政忠が弘徳院として建立したと伝えられているが、その後、彦根藩・井伊家の菩提寺となっている。境内左手奥は井伊家墓所で、二代藩主直孝を始め歴代の藩主や大老井伊直弼などの墓があり国指定史蹟となっている。

豪徳寺~用賀
豪徳寺から旧街道へ戻る途中、世田谷城址があった。城跡が公園として残っている。南北朝の頃、足利一族の吉良氏が世田谷を領地としてもらい受け、築城したとされる。天正18年(1590)豊臣軍に敗れ、廃城になっている。
 
世田谷線上町駅の横を通って世田谷通りを横切り、そのまままっすぐ行くと突きあたりで旧街道に戻る。そこから少し左に行ったところに代官屋敷表門が見える。


ここは大場家7代目六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事で完成させた建物で、土蔵などもあるが表門と主屋は国指定の重要文化財となっている。ちなみに大場家は元文4年(1739)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官を世襲で務めており、その役宅として使われていた。

代官屋敷前の通りは、今日、ボロ市通りと呼ばれている。天正6年(1578)に小田原城主であった北条氏政が発した楽市掟書が起源とされる六斎市が代官屋敷前の通りで開かれていた名残で、明治中頃から古着が多くなってボロ市と呼ばれるようになっている。

世田谷通りにぶつかったら少し左に行き、桜小町交差点で左の路地に入って行くと、畳屋さんの前に大山道・登戸道の追分道標があるが、ここにあった元の道標は、先ほどの代官屋敷に設けられている郷土資料館前庭に移されている。
それにしても、このあたりの道路は複雑に交差している箇所が多くて、ちょっと面食らってしまう。

追分のすぐ先で、街道からちょっと外れて左に曲がって行くと実相院の山門が見える。


境内は緑が多く、きれいに整備されており、心が鎮まるような気分になる。開基は、先に歩いてきた世田谷城の城主であった吉良氏朝。氏朝は豊臣秀吉の小田原攻めで城を明け渡したが、後に世田谷に戻って実相院に閑居している。

街道に戻ってまっすぐな道を行くと、街道脇でちょんまげの旅人が一服している像に出会う。


大山詣もいつの頃からか帰りに江ノ島・鎌倉を巡る物見遊山の旅に変化したこともあり、そんな旅人がのんびりと一服している様子でなんとも面白い。
さらに進むと、街道際に馬頭観音と地蔵尊がぽつんと置かれている。しばらく淡々と進んで陸自駐屯地近くを通って行くと、やがて三軒茶屋で分かれた大山道新道が左側から合流する交差点に至る。そこには真新しい大山道追分道標が建てられている。
そのまま道なりに行くと、旧用賀宿に入っていく。

用賀~二子
用賀駅前を過ぎ、高速道路の下を通り過ぎると大山道の本道と新道の追分で、正面に安永6年(1777)に用賀村の女念仏講中によって立てられた延命地蔵が鎮座している。


こ追分は右の本道を行く。

この先、しばらくは住宅街の中を進み、丁字路に突き当たったら右へ曲ると笠付庚申塔が見える。


この庚申塔の先に見える真新しい仁王門は、徳治元年(1306)、法印定音の草創と伝わる慈眼寺で、もともとは崖下に作られた小さな堂宇であったが、天文2年(1533)に崖上の現在地に移されたそうだ。
この先は、慈眼寺坂を下っていくが、すぐ先右手階段を上った先に瀬田玉川神社が鎮座している。

街道に戻って坂を下って行くと、すぐ先で治大夫(じだゆう)橋を渡るが、この下を流れる川は次大夫堀と呼ぶ六郷用水である。


徳川家康が下流の六郷地方の米の増収を図るため五万石相当の土地を預かる代官・小泉次大夫吉次に命じて造らせた灌漑用水であることから次大夫掘と呼んでいた。
橋を渡った先の十字路に、地面から突き出ている石碑は筏道碑で、「右 むかし筏みちえ むかし 大山みち」と刻まれている。


しばらくまっすぐ進んで国道246号下を通り抜け、玉川高島屋横、二子玉川駅横を通り、東急田園都市線のガード下を通っていく。さらに、大井町線のガード下を通り、多摩川河原の方に向かって右の方に行くのだが、この一帯は、近年の大規模開発ですっかり様変わりしている。
堤をくぐっていくと人気も少なくなり、静かな河原に出る。そこにある玉川福祉作業所門前に二子の渡し跡碑がひっそりと置かれていた。二子の渡しは当初、二子村が請け負っていたが、天明7年(1778)に瀬田村にも渡し舟の許可が下り、この近くに船着き場が設けられていた。渡し舟は大正14年(1925)まで続いていたという。
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暗くなってきたので、今日はここまでとし、田園都市線二子玉川駅から帰途に就く。
駅のホームから見る玉川周辺には高層マンションが林立し、渡しが賑わっていたおよそ100年前には想像もできなかったであろう景色が展開している。