2020年11月6日 (愛甲石田~) 市米橋~こま参道
このページでは、矢倉沢往還で咳止め地蔵の鎮座する市米橋に至ったあと、矢倉沢往還から離れて大山に向かう青山通り大山道について記す。
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市米橋~石倉橋
渋田川に架かる市米橋の手前までくると、右手に咳止め地蔵を祀る地蔵堂が見える。 市米橋を渡って市米橋交差点で県道63号を渡って右に向かい、ヤマト運輸倉庫前で左に折れる。その曲がり角になんと二子宿で見かけた納太刀の図が掲げられていた。
柿などの栽培畑が広がる中を少し行くと、「一服おやんなせぇましょ!」と書かれたベンチが並べられている。かつてここに3軒の御茶屋があり、旅人はここで一服したそうで、今でもこの辺りを三軒茶屋という。なんとものどかな雰囲気で、つい一休みしたくなった。
その先の峰岸団地入口交差点は大山道と平塚・伊勢原方面から来る津久井道とが交差する場所で、多くの人が行き交う賑やかな場所であった。
交差点を通り過ぎ次の三叉路を左に入る。街道はこの先で東名高速に突き当たるが、すぐ左にトンネルがあるのでここを通って高速道の向こう側へ抜けて行く。
トンネルを出ると目の前に東〆引道標と道祖神が見える。「右 いゝやまみち 七五三引村 左ひなたみち」と刻まれているが、七五三引村は 「しめひきむら」と読む。
この道標の右側を行く大山道は、道路脇を用水が流れる土道の旧道となり往時の趣残る街道歩きとなる。脇を流れる用水は千石堰用水と呼ばれ、この先に上杉定正の屋敷があった頃、有事の際
空掘りに水を入れるための用水であった。
ほどなく十字路に差し掛かるが、ここに建つ三所石橋造立供養塔は用水に掛けられた台久保橋、石倉橋、川上橋を供養するためのもので、享和2年(1820)に建てられたもの。
大山道は十字路を真っ直ぐ進むのだが、ここでは右に曲って洞昌院に寄り道する。
洞昌院は、太田道灌が関東官領上杉憲実の弟・道悦和尚のために建てた寺と伝わっている。洞昌院に山門が無いのは、上杉忠正の居館で暴漢に襲われ洞昌院まで逃げた道灌だったが、山門が閉じられていたため中に入れず落命したためという。
本堂の隣に太田道灌公霊廟、墓地の外れに太田道灌墓所が設けられている。
また、道灌公墓所から100mほど西側の十字路際に七人塚と呼ばれる墓がある。
道灌が上杉定正居館で暴漢に襲われたとき上杉方の攻撃を一手に引き受け、討ち死にした家臣7名の墓だが、明治末の開墾で破壊され一つだけ残った伴頭の墓石がここに安置されている。
その先は境内に巨大なケヤキやクスノキが沢山聳えている上粕谷神社前を通り、しばらく道なりに進んで行く。
ほどなく変則4差路のところで再び青山通り大山道に復帰し、左に曲がってすぐの突き当たりで田村通り大山道と合流する。この道を右へ行くとすぐに真新しい県道を石倉橋信号で渡るが、そのまま大山阿夫利神社に向かう道になる。
石倉橋~こま参道入口
石倉橋信号周辺は遺跡発掘工事の柵で広範囲に囲まれているが、少し脇のスペースには、旧い道標や地蔵尊が並べられている。この周辺では各地から発した大山道が集中しており、道標にはそれが分かる文字が刻まれていたのだそうだが、今は風化して殆ど読めなくなっている。
ここから100mほど先を左に入った川沿いに大山道道標が置かれている。この道標には「右 い世原 田むら 江乃島 道」「左 戸田 あつぎ 青山 道」「此の方・・・」と刻まれている。元は石倉橋交差点のところにあったものが工事のためここに移設されたというが、それにしても鉄パイプでガッチリ補強された姿はちょっと痛々しい。
大山道に戻りしばらく歩くと、地元の人たちに子易明神と呼ばれる比比多神社が見えてくる。
その先の地蔵院易往寺のところで、旧道は左に曲がる。曲った先の這子坂は、かつては這って上るほどの急坂だったとか。
旧道に戻ってしばらく行くと暫く進むと、諏訪神社があり、その先には街道を跨ぐように三の鳥居が立っている。江戸火消し「せ組」が建てたことから「せ組の鳥居」ともいわれ、現在の鳥居は昭和61年に再建されたもの。
やがて親柱に擬宝珠が乗り、朱色鮮やかに塗られた新玉橋が見えてくる。この先にも橋が幾つかあるが、それぞれの橋の親柱には擬宝珠が乗り、朱に塗られている。
三の鳥居を過ぎたあたりから門前町となり、隙間がないくらいびっしりと玉垣に囲まれた先導師の宿坊が軒を並べ始める。江戸時代には玄関先に講の名前が記された板まねきが並び大変な活気だったそうだ。
街道は数分先の加寿美橋を渡って旧道へ。
大山阿夫利神社詣の最初は神社全体を管理している麓の社務局からである。ここには能楽殿や祈祷殿があり、下社から御霊を迎えるお下り(おくだり)や火祭薪能などが行われる。
社務局を出て川沿いの道を上っていくと朱鮮やかな愛宕橋が見える。
その手前の愛宕滝は、禊の滝の一つで、江戸時代にはこの滝で身を清めてから入山したという。
愛宕橋から進んで次の良弁橋を渡ると開山堂があり、その隣の良弁滝では龍の口からこんこんと水が流れ落ちている。
東大寺初代別当であった良弁(ろうべん)僧正が天平勝宝7年(755)に雨降山・大山寺を開山したが、その際、最初に水行を行った滝がここだったという。
その先の旅館専用橋を渡ったら車道を横断して昔ながらのたたずまいが残るとうふ坂へ。江戸時代の参詣者は手の平に乗せた豆腐をすすりながらこの坂を上ったのだとか。
ほどなく新道に合流するが、その先は土産物店が並ぶこま参道。こま参道正面の階段を上っていくと、いよいよ大山登山の開始だが、この日はここまでとし、日を改めて頂上を目指すこととする。
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今日一日、街道を歩き進むにつれ、関東各地を発した大山道が徐々に一筋の道に束ねられ、大山に向かう上り坂も徐々に傾きを増すと、びっしり玉垣に囲まれた宿坊が所狭しと並び建つようになって、いよいよゴールの阿夫利神社まであと一歩というところまで来たことを実感し、心なしか気分の高まりさえ感じるようになった。
赤坂御門を発って以来、街道の行く先々で色々なエピソードと出会ってきたが、それらはすべて長い長いプロローグだったような感さえする。
楽しみ方が格段に多様化している現代でさえそんな調子なのだから、江戸時代の人たちはさぞや私が感じたのより何倍もの昂揚感をもってこの場の雰囲気を楽しんでいたのであろう。コロナの影響もあってか、人影は少ないものの、ここまで来ると、大山詣での客で賑わう当時の様子が目に浮かんでくる。