鶴間~厚木

2020年11月03日 鶴間~厚木

小田急江ノ島線の鶴間駅から再開。
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鶴間~国分
鶴間駅を出て大山街道を行くと矢倉沢往還の真新しい道標を要所で見かける。
西鶴寺のところで斜め右の道に入るが、ここにも現代版道標が立っている。この日、西鶴寺は工事中で全体が工事用ネットで覆われていた。

少し行くと国道246号にぶつかるので右に迂回して相模向陽館高校交差点で横断する。分断された大山街道に復帰する五差路の交差点に、大山街道と辰街道分岐の標柱が立っていた。

辰街道は、相模原市の橋本付近から小田急相模原駅付近を通って座間・海老名・綾瀬・大和を経て藤沢に至る街道で、「八里橋なし九里坂なし」といわれる広大なさがみ野台地を北西から東南へ縦断する道であった。
辰街道と交差した大山街道は北東から南西へ向かうまっすぐな道で、この先、道が碁盤の目状になっている市街地では、大山街道はすべて斜めに交差するため、変則五差路のような箇所が連続する。

現代版大山街道碑が立つさがみ野2丁目交差点を通り、相鉄線の踏切を斜めに横切って左からの道に合流して進む。しばらく進んで大塚本町交差点に来ると、道は複雑に交差する。
この交差点角の万年屋横に、ほとんど風化している小さな石塔が置かれていた。この辺りにかつて大塚宿があって賑わったらしいが、今その趣はほとんど残っていない。

緩い下り坂を淡々と歩いて行くと、かしわだい動物病院のところに立つひときわ大きな巨木が目に入ってくる。病院脇の細い道を行くと富士塚と庚申塔があるということで行ってみようとしたが、畑の先は宅地化されていて見つけられなかった。
街道の少し先に銀杏の大木が立ち、その下に不動明王が乗った赤坂道標があった。道標はかなり風化が進んでいる。


赤坂道標の先から緩い上り坂となるが、左に道が分かれるところに細長い道標が建っており、「左 大塚 原町田 右 国分 厚木」と刻まれている。その横に崋山ゆかりの道と書かれた案内板が置かれ、「 天保2年(1831)、渡辺崋山は少年期に世話になったあこがれのお銀様を訪ねたのであった」とある。左へ曲っていくこの道は古東海道といわれているということなので、ここは崋山ゆかりの道の方に寄り道することにした。


<寄り道>
しばらく住宅地の中を進み、厚木街道を横断したところで階段を上がって少し行くと正面に車止めが置かれている。この車止めから先に古東海道の草道が残っているというので進んでみると、短い区間ではあるがまるで獣道のような道となっていた。


これが、かつて、奈良の都を出た役人や旅人が歩いた道なんだろうかと半信半疑で藪の中を進むと、やがて一般道に出るところに宝暦6年(1758)の小さな道祖神がひっそりと立っており、ここが古道であったことを教えてくれる。その先に古東海道の説明板も置かれていた。


古東海道を出て左の方にしばらく行き、突き当たりを左に曲がると地蔵堂が見える。本尊の木造地蔵菩薩坐像は室町後期頃の作と云われている。


地蔵堂の少し先、JAさがみ早園支店の先の公園の一角にお銀様の墓がひっそりと立っていた。


お銀様は田原藩主・三宅康友の侍女であったが、康友に寵愛され、友信を生んだ。その後、友信は藩主になれず隠居し、友信につかえていた渡邊崋山は、江戸藩邸から故郷へ戻った友信の実母であるお銀さまを訪ね、大山街道を通ってここまで来たのであった。

<大山街道に復帰>
お銀様の墓を後にして厚木街道の望地(もうち)交差点まで戻る。文字通り、ここからは大山が真正面に望める。
大山街道はこの交差点から左に入っていく。最初の丁字路を右に曲るところに真新しい小さな馬頭観音が建っていた。

街道は馬頭観音の先から道成りに坂を下っていく。厚木街道を渡ってすぐ先の川沿いのところにかつて目久尻川にかけられた石の橋の跡を示す標柱が立てられており、街道に戻って目久尻川を渡って右へ曲るとフェンス越しに石橋供養塔が見える。ここは当時としては珍しい石橋が架けられていた場所にあたり、宝暦(1751~1764)の頃、重田七三郎なる人物が浄財を募って架けたもの。その徳を偲んで供養塔が建てられたという。
すぐ先の伊勢山公園前交差点の片隅には小さな道祖伸が3基置かれている。また、交差点を渡ったポケットパークには石橋に使われ、関東大震災で落下した石柱が展示されている。その横には大きな史跡逆(さかさ)川碑が建てられている。傍らの説明碑によると「大化の改新が行われたころ、潅漑と運送用に掘られた川」で平安時代まで使われていたという。


国分宿
伊勢山公園横の緩い坂道を上ると、そこは大山街道と藤沢街道が交わる国分の辻で、その向こうに石塔群が見える。


この辺りは国分宿の中心地で、石塔群対面の火の見櫓がある場所は高札場跡だが、明治以降も近くに村役場や駐在所などの公共施設とともに料亭や旅籠が軒を並べて賑わっていたそうだ。今はその面影が全く無い。
国分の辻を過ぎた街道右手の草地のところは元温古館があったところで、そこから国分寺跡が望める。温古館は、元々は国分の辻にあった大正7年(1918)建築の旧海老名村役場で、郷土資料館として資料の展示を行っていたが、耐震問題が生じたため平成23年に修復して現在地へ移築されている。

街道を進むとやがて海老名の大ケヤキが見えてくる。かつて、船つなぎ用の杭として打ったものが発芽しこのような大木に成長したのだという。
大ケヤキ脇の参道を左に進み階段を上ると国分寺薬師堂である。


相模国分寺は9世紀以降、衰退の一途をたどり、ついには戦火でほぼ焼失した。しかし高台にあった薬師堂は焼失を免れ、室町時代に現在地に移転し、国分寺の法灯を守っているのだそうだ。薬師堂左手の鐘楼に国指定重要文化財の梵鐘が吊るされている。鎌倉時代の末ごろ、海老名氏の一族国分季頼が当時の名工・物部国光に鋳造させ正応5年(1292)に寄進したものだという。

大ケヤキまで戻り、街道を渡って少し行くと、史跡相模国分寺跡が広がっている。
相模国分寺は、天平13年(741)、聖武天皇の詔勅により建てられた寺で、東西160m、南北120mという大きさは多くの国分寺の中でも最大規模であったという。
国分寺跡の向かい側に建つ温古館に復元模型が展示されていた。


街道に戻り、坂を下りて国分坂下交差点を右折して、海老名駅前通りをまっすぐ進む。この真っ直ぐな道は古代の条里制の名残で、国分坂下から河原口迄の約2kmの道路は「一大縄」(いちおおなわ)と呼ばれ、東西の基準線となっていた。これを基準に、律令で水田は6町間隔に整地された。ちなみに海老名の道路は碁盤の目になっているが、海老名耕地から有馬耕地にかけての水田地帯の大規模な方形の区画割りの痕跡。
小田急線海老名駅周辺は近年賑やかな商店街にすっかり変わっているが、歴史は古い。

すぐ先でJR相模線の踏切を渡り、しばらく歩くと厚木街道は大きく左に曲がって行くが、大山道はまっすぐに進んで河原口の七曲りへと入っていく。最初の四つ角右側にかなり古くなっている道祖伸がひっそりと残されていた。その交差点を左に曲がり、すぐに右に曲がって行くと海老名市歴史資料収蔵館があり、そこを左に曲がって行った曲がり角にかなり風化が進んだ庚申塔道標が置かれている。


庚申塔を右折し、突き当りを左折してもう一度右折すると高速道路の高架下を通って、その先は相模川で渡しがあった河川敷にでるのだが、周辺は工事中のため河川敷に出ることができなくなっていた。右の方に目を向けると、相模川に合流する中津川と小鮎川が見える。

かつては渡舟で厚木宿に入ったのだが今は少し下流のあゆみ橋を渡っていく。
橋を渡って渡舟場のあった上流へ行く途中にじょう橋碑が川に向って建てられている。明治41年(1908)に常設橋が架かり、常に在る橋、常に渡れる待望の橋、ということから歩み橋は「じょう橋」 という愛称で呼ばれることとなった。
そこから少し上流の厚木村渡船場跡には渡し跡碑や渡辺崋山来遊記念碑などが建てられている。説明板には、ここは矢倉沢往還や八王子道が相模川を渡る渡舟場で、常時5艘の舟が備えられていたことが記されている。


厚木宿
渡船場跡から南へ歩くと厚木宿上宿となり、その先に中宿、下宿と続き、天保の頃、すでに街道の真ん中に用水掘りが掘られ両側には豪商が軒を並べていたという。小江戸と呼ばれた厚木宿は明治以降もその賑わいが続いたが、近年はシャッターに華やかな時代の商家の風景が描かれる街となっている。


厚木東郵便局の裏手には、烏山藩厚木役所跡碑が置かれている。ここは下野国烏山藩の飛び地管理のために設けられた陣屋があった場所である。
道路を挟んだ隣は天延年間(973~975)創建と伝えられる厚木神社で、神社の鳥居を出た街道沿いに慶応元年(1865)創業の岩崎人形店が今も現役で頑張っている
その目と鼻の先の歩道際に渡辺崋山滞留の地碑が立っている。天保2年(1831)、お銀様を訪ねた渡辺崋山は厚木まで足を伸ばし、旅籠萬年屋に2泊して地元の著名人と交流を深め、斉藤鐘助なる書家の願いに応じて厚木六勝を描いた。
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今日はここまでとし、最寄りの小田急線本厚木駅まで行って帰宅の途に就いた。