二子~荏田

2020年10月27日 二子~荏田

今回は、電車で二子新地駅まで行き、多摩川を渡った側の二子の渡しのところから歩き始める。
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二子・溝口宿
二子新地駅を出て左に行くとすぐに大山街道に出る。交差点角の建物に大山街道説明板が掲げられており、交差点を二子多摩川方向に少し行った二子橋袂のポケットパークには二子橋旧親柱が残されている。


橋の完成は大正14年(1925)で、それまでは渡しが唯一の交通手段で、河原に茶屋・蕎麦屋などがあり船待ちの人、川遊びの人などで大いに賑わっていたそうだ。

二子の渡し跡のところに行くため、土手沿いに少し上流に行くと岡本かの子文学碑の看板とモニュメントが目に入ってくる。このモニュメントは息子の岡本太郎がデザインしたものだそうだ。


そのあたりで土手沿いの国道246号を渡って河川敷に下りると、少し下流の草むらに隠れるように二子の渡し碑が置かれていた。

河川敷から岡本かの子文学碑まで戻ったところに鎮座するのは、二子村の村社二子神社である。
駅方面へ少し戻って大山街道に出たら、交差点を右に行くと二子宿から溝口宿に向っていく。二子宿は多摩川から高津交差点までで、その先から栄橋交差点まで溝口宿が続き、二宿が連続して繋がる形となっていた。
街道沿いの電信柱には「大山街道」の看板や木刀を担いで阿夫利神社に奉納する納太刀(おさめたち)の図が随所に取付けられている。


街道沿いの商店街挙げた力の入れようであることが窺える。ちなみに、江戸時代中期から盛んになった大山講では大きな木刀を担いで阿夫利神社に奉納する納太刀という風習があった。

街道を進むと、公園入口に「大貫家の人々」と記された案内板が立てられている。ここは岡本かの子の生家跡で、実家の大貫家は二子村名主をつとめたほどの商家であった。向かい側の光明寺は大貫家の菩提寺である。


この先の街道筋には、江戸時代から続く老舗商家がいくつも見られる。
高津図書館入口横の蔵造り店舗は、江戸時代から続く老舗の田中屋呉服店。その先の府中街道との交差点角に建つ秤の田中屋は、江戸幕府から度量衡販売の免許を交付されたという老舗。田中屋の先の旧灰吹屋薬局は、江戸時代中期創業の薬屋。


少し先の右手に大山街道ふるさと館がある。常設資料館が設けられており、歴史マップなども用意されている。旧街道に関する商店街の取り組みを見ても、この地域における強力な情報発信基地的存在となっていることは間違いないように思われる。
ふるさと館前に置かれている道標は、府中街道と大山街道の交差点に建てられていたもので、文政12年(1829)の建立。「是より北高幡不動尊道 南川崎道 東青山道 西大山道」と刻まれている。

そこから少し行くと大石橋という常夜燈が建つ橋が架かっている。下を流れる川は、徳川家康の命を受けた用水奉行・小泉次大夫が慶長2年(1597)から14年の歳月を掛けて完成させた二ケ領用水で、稲毛領と川崎領の二ケ領を潤し新田開発に大きく貢献した。


大石橋の右側に問屋跡の説明板が立てられている。名主・丸屋七右衛門が取り仕切った二子・溝口宿の問屋場があったところで、家業の煙草や麦など卸問屋業も大繁盛だったという。
橋を渡った左側は天保年間(1830~43)創業という稲毛屋金物店。本家稲毛屋からの分家だそうだが当初は薪・炭・米を扱い江戸の大名屋敷に納めていたという。

駅入口信号の先、右奥の溝口神社は、江戸時代は溝口村の鎮守・赤城大明神と親しまれた赤城社であったが、明治維新後の廃仏毀釈で宗隆寺と分離し溝口神社と改称している。


宗隆寺は神社から少し奥に入ったところにあり、本堂横の祖師堂下に芭蕉句碑がある。
  - 世を旅に 代かく小田の 行きもとり - 
灰吹屋薬局2代目二兵衛によって文政12年(1729)に建立された句碑である。

街道に戻り数分歩くと榮橋交差点に差し掛かり、向こう側にさかえ橋親柱が置かれている。橋名の由来は諸説あるが、かつて、平瀬川と根方掘(二ケ領用水)が交差したこの場所に橋が架かっており溝口村上宿と下作延村片町の境にあったので境橋と呼ばれ、いつの頃からかさかえ橋となったという。

南武線の踏切を越えた先に建てられている片町の庚申塔は、文化3年(1806)に建立されたもので道標を兼ねており側面に「文化3年 東江戸道 西大山道」、背面に「南加奈川道」と刻まれている。


街道はその先から緩やかな上り坂となるが、坂の途中から左に分かれるねもじり坂は結構きつい上り坂となる。牛車・荷車などにとっては、別名はらへり坂とも呼ばれる難所であったという。
街道はこの先も多摩丘陵の起伏の多い所を通るので難所となる坂が多い。

坂を上り切った左側の建物は笹の原の子育て地蔵堂で、西国百巡礼した夫婦に子供が授かったお礼に建てた地蔵だと伝えられ、今も地元の住民によって大切に護られている。


少し先の道路際に「西荏田方面 東二子橋方面」と刻まれている小さな道標が立ち、その後ろの祠には庚申塔が祀られている。

やがて国道246号にぶつかり、梶ケ谷交差点を大きな歩道橋で渡って、その先を左手に入って行く。
しばらく歩いて、宮崎中信号で左斜めに入って行くと、民家の間に宮崎大塚古墳と呼ばれる小さな塚がある。高さ4mほどの方墳だが説明板が無いため詳しいことは分からない。


特に案内板などもなく、住宅地の中にあるため、初めはどこだかよくわからず少し探してしまった。階段を上ってみると馬絹大塚供養塔と書かれた立派な石碑があった。

街道に戻って先に進むと、宮崎団地前信号から右手の庚申坂という真っ直ぐな急坂を下りて行く。さらに、道なりに進んでコンビニのところから左へ下りる急坂は八幡坂という。このあたりは大規模宅地開発のため旧街道の風情はなくなっているが、往時の坂道はしっかり残っている。
坂を下って行くと、東急田園都市線の線路脇へ出て、さらに下ったところに宮前平駅が見える。宮前平駅前まで来ると右手に長い階段があり、ずっと上の方に八幡神社と小台稲荷神社が鎮座している。


宮前平駅の先でガードをくぐり、レンタカーの脇から竹林の横の坂道を上がって行く。いやはや、今度は小台坂という長い上り坂だ。
500mほど上った先で右折すると、その先は緩い上り坂で、ほどなく下り坂となり鷺沼駅前に至る。
街道は、鷺沼交番前交差点を過ぎて銀行脇を左に曲がっていく。左に曲がり八幡坂を下ると国道246号に突き当たるので、右に曲るとそこに元禄元年(1688)建立の阿弥陀石仏をおさめたお堂がポツンと置かれている。


大規模な宅地開発で旧道は分断されたり消滅したりしているが、横断歩道のある交差点の方へ回って国道を横断し、坂道を上っていくと峠に近い辺りで再び旧道に復帰する。
この辺りは高台で日当たりもよくすこぶる眺めも良い。


旧立場の皆川園前を通り、うとう坂を下って行くと、やがて横断歩道のない県道を横切った先で横浜市営地下鉄の高架下をくぐる。

しばらく道なりに行くと、不動の滝と呼ばれる水場がある。今は竹樋から僅かな水が流れ落ちているだけだが、かつては滝だったのだろうか。霊泉の滝と書かれた説明板によると「雨の降らない時、ここで雨乞いすると必ず降りました」とある。滝の後ろの老馬鍛冶山不動は、今から300年ほど前、大久保家の守り本尊として祀られた不動明王なのだそうだ。


街道はこの先で右に曲がり早渕川を渡っていくのだが、今は橋が無いため200mほど下流の鍛冶橋を渡っていく。
橋を渡ってすぐの公園の端に庚申堂があり寛政5年(1793)に荏田村下宿の婦人たちによって建てられた庚申塔が祀られている。


庚申堂の先から荏田下宿だが、明治27年(1894)の大火で当時の面影はほとんど失われている。

荏田宿
鎌倉街道と矢倉沢往還が通るこの地は、交通の要衝であったことから鎌倉時代に荏田城が築かれ、城下集落として発展した。宿駅に指定されたのは江戸時代初期。文久3年(1863)には三軒の旅籠と三十軒近い商店が軒を並べていたという。江戸から七里という距離であったことから江戸を早朝に発った旅人の最初の宿泊地であった。

往時の面影少ない荏田宿だが旧中宿(国道246号の手前)に文久元年(1861)に建立された秋葉常夜灯が残されている。


荏田宿は文政4年(1821)に大火に遭っていることから火伏せの神である秋葉大権現を勧請して建てられたのだそうだ。

街道は国道246号を横断した先の上宿で左に曲がっていく。その右手に見える山は鎌倉時代に築城された荏田城址で、太田道灌に攻められた小机城の支城と云われる。

この先で国道246号に合流したら、すぐに旧道に入っていく。ほんの僅かな区間だが、ひっそりとした道で、なんとなく往時の面影を感じさせてくれる。交通量の多い国道から一歩入っただけということもあり、時代の断層のような感じがする。


すぐ先で東名高速の高架下を通り田園都市線のガード下を抜けて行ったら、今度は田園都市線江田駅コンコースを通って線路の南側に出て、国道沿いを少し行ったところで再び線路北側に出て線路沿いを進んで行く。このあたり、国道、東名高速、田園都市線などが立体交差する大規模工事で、旧道はズタズタになっている。

線路沿いの道はやがて線路から離れて行き、しばらくすると千日堂と呼ばれている市ヶ尾竹下地蔵堂の下に出る。階段の上り口にはお地蔵さんがずらっと並べられている。


竹下地蔵堂のちょっと先のダイビングショップの角を左へ下る猿田坂という坂道がある。坂を下ると交差点にぶつかるが、ここは旧日野往還との交差点で、そこに見える二階建ての古民家は旧旅籠綿屋だった。明治15年(1882)頃の建築ということだが明治末期まで営業していたという。


かつての街道は鶴見川を三文橋(旧川間橋)で越えていったのだが、今は道も橋も消滅しているため、ちょっと上流の川間橋を渡っていく。江戸時代には太鼓橋が架かっており、橋を渡るのに3文取られたので三文橋と呼ばれたのだそうだ。
川間橋を渡った先、右手にNTTのビルが見える二叉の所は大難の辻と呼ばれていたあたりで、昔は急坂で大雨が医薬神社方面(西南方向)から土砂崩れが起こり、現在のNTTの周辺の田畑も土砂に埋没したという。

柿木台交差点を渡って坂道を上りきったところで右手に見えるのは医薬神社。元々は安土桃山時代の創建と云われる医王山薬王院東光寺であったが、明治初年の廃仏毀釈で宗旨替えして医薬神社になったのだという。
この先は柿木台からゴルフ場横を通り、もえぎ野の住宅地の中を通って青葉台方向を目指す。
途中、再勝橋で国道246号を横断し、坂道を下って行くと青葉台駅の近くに出る。
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今回はここまでとし、青葉台駅から帰途に就いた。
今回歩いた地域は、宮崎台あたりから宮前平、鷺沼、荏田、市ヶ尾、藤が丘、青葉台、ととにかく結構急で長い坂が多く、また大規模宅地開発のため旧道はほとんど消滅し、マンションが林立する街となっている。