追分~上田

2014年9月22日~23日 追分宿~小諸宿~田中宿~海野宿~上田宿
朝早く家を発って、池袋発の高速バスに乗ると、10時半頃には軽井沢駅前に到着。
賑やかな夏が過ぎ、平日ということもあって、駅周辺には人もまばらで、町は落ち着きを取り戻している。心地よい空気と抜けるような青空に迎えられ、旅気分は大いに盛り上がる。まずは、しなの鉄道で信濃追分まで行き、北国街道出発点の追分宿に向かうが、電車を待つ間に駅前の蕎麦屋で軽く腹ごしらえをする。
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◆追分宿
信濃追分駅から追分宿に向かうと、さっそく期待通りに街道沿いのコスモスが出迎えてくれる。
なぜか信濃路にはコスモスがよく似合っている。


中山道歩き旅で訪れたときのことを懐かしく思い出しながら追分宿の旧道を歩いていくと、やがて宿場はずれの桝形のつがるやのところで国道に交わる。その先の道標と常夜灯が立つ分去れで、中山道と北国街道は分岐し、中山道は国道を渡って左の旧道に入って行く。北国街道は国道に沿う右の道を行くが、すぐ先で再び国道に合流し、緩やかな坂をひたすら下って行く。


今日は真にいい天気で、時々右後方を見ると、雄大な浅間山が真っ青な空の中にくっきりとよく見える。


馬瀬口
国道沿いの「御代田町標高929m」の標識の少し先で旧道に入って、三ツ谷の集落を進んで行く。門構えの立派ななまこ壁の旧家があったり、民家の土蔵の陰に子育弘法大師立像が立っていたりしている。
国道を横切った少し先に、明治天皇馬瀬口御小休所の碑が立つ馬瀬口の高山邸がある。白壁の重厚な長屋門をもつ高山邸は、町の文化財になっている。


御代田のあたりは古来より信濃16御牧のひとつの塩野牧と呼ばれる馬の産地であった。2年前に訪れた中山道望月宿の望月牧は信濃16御牧の代表的なものであった。馬瀬口は牧の入口を意味しており、小諸と追分宿の間宿として、中牛馬の馬宿・牛宿が置かれていた。中牛馬は山間部で発達した個人運送業で、馬瀬口はその中牛馬を相手に栄えた集落であった。

平原
馬瀬口集落を過ぎ、国道に出て「小諸市標高780m」の標識を見ながら引き続き緩やかな坂を下って行く。国道下を通る上信越自動車道を横切ってすぐのところで左側の旧道を進んで行くと、畑の隅に馬頭観音と平原一里塚跡の標識がある。


右手の白壁の蔵造りの家の門に、見事に枝を横に張った松は、平原の長松と呼ばれる有名なもので、加賀侯にも賞賛されたという。


それにしても、ここ平原には、黒板白壁塀、生垣など実によく手入れされた大きな屋敷が多い。


しばらく行くと、国道への案内板が置かれた二股になっている。ちょうどいいことに、そこには藤棚の日陰に腰かけ石が置かれて休憩できるようになっている。ここまで3時間あまり、強烈な陽射しを浴びながら歩いてきたので、ここでしばし腰を下ろして休憩をとる。もうすぐ小諸だ。

一息ついて 二股を右に下って行くと、右に大きく曲がり、川を越えて国道に合流する。この大きな曲がり角は「曲沢」と呼ばれるところだ。坂の途中からは、稲架掛けが並んだ田圃越しに、相変わらず浅間山がよく見える。


四谷
しばらく国道を歩き、四ツ谷東信号で左斜め前方の旧道を進んで行く。やがて四ツ谷信号のところで、旧道は道路を渡った先のちょっと分かりにくい狭い坂道を下りて行く。突き当りは乙女分岐で、左角に乙女道標が置かれている。北国街道はこの突き当りを右に曲がり、すぐ左に曲がって緩やかな坂を上って行く。このあたりには、どことなく往時の街道の雰囲気が静かに漂っている。

国道に合流し少し行った唐松交差点のところのスーパーの片隅に、よく見ると唐松一里塚跡がある。ここも少しわかりにくいが、国道の右側の狭い道に入ってしばらく道なりに直進し、いよいよ小諸宿に入って行く。
坂道を上った交差点手前右手に、馬頭観音と並んで「浅間山別當真楽寺江」と刻まれた道標がある。小諸宿入口木戸があった与良町手前のこの交差点の地下には蛇堀川が流れている。

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◆小諸宿
「ここは与良街 北国街道」の標柱に迎えられ、与良町に入ると、歩を進めるにつれ、どことなく往時の趣が感じられる家並みに変わる。
少し先の高浜虚子記念館のところにお休み処与良館があるので、ちょっと覗いてみると、地元の人たち数人が楽しげに世間話をしており、街道歩き人風情の私を見るや、どうぞどうぞと招き入れて、お茶と漬物で接待してくれる。また、そこにいた年配の方が、小諸についていろいろと親切に説明してくださり、大変参考になった。ひとしきりお話を伺ったところで、与良館裏手の神輿蔵、小諸城銭蔵、虚子庵などをひととおり見て廻り、与良館を後にした。


与良館と街道を挟んでななめ向かいに、元庄屋を務めていた小山家の屋敷がある。かつて.小諸城主もときおり訪ねた立派な門のある慶長年間の建物で、座敷の床の間には殿様が身を隠す為の隠し扉が今も残っているという。
すこし行った荒町の酢久商店・山吹味噌は、江戸後期の建物で、背の高い彫刻が施された屋根つき看板がひときわ目を引く。


北国街道は、荒町1丁目交差点の先の突き当たりで左折し、本町に入る。本町は小諸宿の中心部だったが、寛保2年(1742)の戌の満水で流失し、本陣などはこの先の市町に移った。
突き当りの右角にある光岳寺の山門は、小諸城足柄門を移設したもの。突き当たりの結城屋も江戸後期の建物。すぐ先右手のギャラリーつたやは、江戸時代から繁盛した旅籠商人宿で、高浜虚子の常宿だった。つたやの向かい、街道左手大塚味噌醤油店の母屋も江戸時代後期の建物だ。
この街には往時の建物が多いが、それらが皆、賑やかな現在の街の中に溶け込んで生き続けている。

北国街道は、本町信号の直前で右手の細い道に入り、蕎麦の丁子屋のところをすぐ左折、大きな道路を横切って味噌の富士屋のところを直進し、突き当りの養蓮寺を左折する。


複雑に折れ曲がった道に囲まれた中町といわれるこの辺りは、戦国時代に最初に造られた鍋蓋城の跡で、江戸時代には家老屋敷があった。
ここから街道は市町の方に向かうが、少し南に行ったところにある小諸城大手門に立ち寄ってみる。大手門は、慶長17年(1612)に藩主仙石秀久が小諸城を築いた時代のもの。実戦的な城門で、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建築は、東日本を代表する大手門建築の一つとされ、国の重要文化財に指定されている。


街道に戻り、市町に入ると、右手に旧脇本陣の粂屋がある。江戸時代後期の建築で、看板を下げるまねき屋根、二階の手摺り、出梁造り、登り梁など江戸期の旅籠の面影をよく残している。


その先右手の大きな切妻造りの建物は、山謙酒造で、江戸時代末期の建築である。

さらにその先右手が国指定重要文化財の旧小諸宿本陣兼問屋場の旧上田家の建物で、建築年代は18世紀末から19世紀初頭と推定されている。


このように小諸宿には往時の面影を留める建物がしっかり残っている。
このあと、陽が沈む前の小諸城跡(懐古園)に立ち寄る。

懐古園
入口にある小諸城三の門は二層の城門で元和元年(1615)創建、国の重要文化財になっている。正面に徳川家達の筆による「懐古園」の大額が架かっている。


小諸城は酔月城とも呼ばれ、武田信玄が山本勘助と馬場美濃守信房に命じて築城した。豊臣秀吉の時代から関が原の合戦後にかけて千石秀久が城主となり、その子忠政とともに小諸城と小諸城下町を完成させた。浅間山麓の傾斜した地形にあるため、城下町の方が高く、城の方が低い穴城という珍しいものである。黒門橋の下は人工的に造られた濠だが、白鶴橋の架かる南谷、酔月橋の架かる北谷、千曲川に面した西谷は深く急峻で、天然の要害となっている。
二の丸跡は、徳川秀忠が上田の真田父子にはばまれて関が原の合戦に間に合わなかった際、ここに20数日間逗留していたという。
仙石秀久は小諸城に桐紋の金箔押瓦で葺いた三重天守を築いたが、寛永6年(1629)に落雷によって焼失し、今は天守台だけが当時のまま残っている。


天守台の先の東屋の横を通って奥に行くと、「小諸なる古城のほとり雲白く遊子かなしむ」で始まる「千曲川旅情の詩」の碑があり、その先に、千曲川が見下ろせる水の手展望台がある。鏡のような水面にちょうど夕陽が反射し、黄金色に輝いている。


島崎藤村は小諸と縁が深く、園内には藤村記念館がある。
小諸義塾校長木村熊二の招きで明治32年から38年まで国語と英語の教師を務めたが、この時期に「千曲川旅情の詩」は発表された。同時期の作品「千曲川のスケッチ」を読むと、文字通り、一帯の景色やそこに住む人々の様子が水彩画に描かれているかのように目に浮かぶ。

本日の宿は、小諸城跡(懐古園)の入口のところに位置しており、実に便利がよい。懐古園をゆっくり眺めて、出るとすぐに宿に入れる。
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2014年9月23日
翌朝、例によって朝食前の散策に出て懐古園に行く。まだ5時半頃だが、弓道場だけは明々と電灯がともっている。早朝の懐古園は、昨夕来た時とはまた雰囲気が違って、静かで清々しく趣がある。


今日は、海野宿や上田宿など、見どころの多い所を訪れるので期待が膨らむ。
宿を出てまず本陣跡のところまで行き、しなの鉄道を横切って上田方向に向けて急な坂道を下って行く。まことに小諸は坂の街というだけのことはある。

西原、片羽、牧家、加沢地区
しばらく行くと、諏訪神社のちょっと先に大きな布引観音道標がある。案内板の表示がちょっと紛らわしいが、北国街道はここをまっすぐ行く。ここを左に行くと「牛にひかれて善光寺」の伝説の舞台となった布引観音堂になる。行基創建という天台宗の名刹で、断崖絶壁にかかる観音堂(重文)に安置されているのが、牛に化身して、強欲な婆さまを善光寺に連れていき改悛させたという布引観音である。


青木一里塚跡の先でしなの鉄道の踏切を渡り、国道に出ると街道はすぐに右に入って行く。
このあと街道は国道と所々で交差・合流しながら進んで行く。
途中、街道左手の千曲川の方に黄金色に輝く田圃が開けているところで、遠くに目を凝らしてみると、なんと穂高、常念、槍ヶ岳など北アルプスの山々が微かに臨める。


片羽区の大石沢川を渡ると、赤岩石碑群と刀匠山浦真雄邸案内板があり、そこに剣持双体道祖神が置かれている。双体道祖神は信州でよく見かけるものだ。


昔ながらののどかな道には、往時の街道風情たっぷりの旧家が立ち並んでいる。


左手、千曲川の方には、ところどころ、すでに稲刈りが済んだ田圃に、稲架掛けも見られる。そのずっと後方に美ヶ原、王ヶ頭などが臨めて、眺望が実に素晴らしい。


滋野駅近くの牧家集落の先、道脇に「力士雷電之碑」という新旧二つの碑が立っている。古い方の碑は佐久間象山の書になるものだが、この碑を欠いて身に付けると、立身出世するとか勝負事に勝つといった迷信が生まれ、打ち欠いて持ち帰る者が多くて碑文が読めなくなった。そのため、明治中期に象山夫人や勝海舟等により新しい碑が建てられ、二つになった。


立派な門を備えた白壁に囲まれた屋敷や長屋門のある家等、大きな家が立ち並ぶ加沢地区を通り、懸諏訪神社を過ぎて行くと、間もなく田中宿入口の常田南交差点のところに出る。
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◆田中宿
田中宿に入ると、それまでの街道とガラッと雰囲気が変わる。もともと、寛保2年(1742)の「戌の満水」の大水害と慶応3年(1867)の大火により、かつての宿場の面影はほとんど失われていたが、近年、電線が地下化されている広い道路が整備され、街並み全体がきれいな新しい町に生まれ変わっていた。
歩道に設置されている標識に田中宿と記されていたり、「田中宿脇本陣跡」のおおきな看板を掲げたお店があったりで、辛うじてここがかつての宿場だったことが分かる。


しばらく行くと、こんどは海野宿への案内標識が急に増える。すぐ先の田中小学校のところで左の遊歩道の方に進んで行く。線路沿いのカラー舗装された遊歩道をしばらく歩き、踏切を渡ると海野宿と記された大きな石碑に迎えられる。
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◆海野宿
海野宿に入るとすぐに白鳥神社の横に出る。白鳥神社は海野氏の氏神であり、古くから近在の人々の産土神(うぶすながみ)として信仰を集めてきた。


海野氏は、この地を本拠とした東信濃の古代からの豪族で、平安時代には祢津氏、望月氏と共に滋野三家と呼ばれ、信濃御牧の新張牧・望月牧を管理するなどで、この地域にその基盤を築いた。
平安末期以降、源氏とのつながりが強く、境内に立つ「木曽義仲挙兵の地」の説明によると、義仲は治承5年(1181)平家追討のため、ここ白鳥神社前に広がる千曲川河原の白鳥河原で挙兵している。

海野宿は、寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設された。東西に置かれた枡形の間が約6町(650m)で、街道のほぼ中央には用水が引かれ、両脇には昔ながらの旅籠屋や伝馬屋敷が建ち並んでいた。明治期になると宿駅制度が廃止され、宿場としての役割を終えたが、家々は宿場時代の建物を利用して養蚕業や蚕種業を始め、大いに栄えたという。

現在の海野宿には、宿場時代の旅籠屋造りの建物と明治期以降に建てられた蚕室造りの建物とがうまく調和しながら混在して残り、その美しさと歴史的価値によって、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。中山道の奈良井宿や妻籠、東海道の関宿などでは間口の狭い家がほとんどだったが、海野宿の建物の間口はとても広い。道の中央には用水路が流れており、街並みの美しい景観の要素となっている。また、2本の通し竪子と上部を切り欠いた2本の竪子が交互に並び、2本の横子(貫)がこれらを結んでいる海野格子は、海野宿独特なもので、本卯建、袖卯達とともに、家並みを優雅で美しく、品格すら感じられるものにしている。


さらに、この素晴らしい街並みにも拘わらず、お土産店が建ち並んでいるわけでもなく、大型バスで観光客が押し寄せることもない静かな佇まいが素晴らしい。少し時間が早いが、折角なのでこの雰囲気の中で昼食を摂ることにする。食事処も少ないので、宿場入口近くにあったそば処に入る。信州は蕎麦で有名だが、とくにこの地方では名産品の胡桃を使うくるみそばが有名ということで、胡桃おはぎ・そばセットを注文した。


千曲川
海野宿を抜け、しばらくすると左側に千曲川の流れが見えるようになる。大家駅のあたりでは、千曲川が街道のすぐ左を流れている。神川が合流したあたりからは、街道が千曲川に最も接近したところになり、しばらくは千曲川の川堤を歩けるようになっている。


千曲川沿いをしばらく歩くと、信濃国分寺址への案内標識が出ている。そのあたりに来ると、新幹線が千曲川を渡っている。
街道は新幹線に沿って少し行き、上堀交差点のところで国分跨線橋を渡ったあたりからいよいよ上田の街に入って行くと、山邉麹店など往時の雰囲気が漂う建物が見られ、町名を示す標識には六文銭が記されている。
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◆上田宿
信州大繊維学部前を左に折れ、信濃国府の総社といわれる科野大宮社をすぎると上田市の中心街に入る。
上田は真田氏ゆかりの土地で、これにちなむ町名説明札が各所に立ち、所々に「城下町東の防衛線/横町、鍛治町」、「上田城下最古の町/海野町」といった説明板もでている。海野町は、真田幸村の父昌幸が天正11年(1583)上田の地に城を築くに際し、先祖の地、海野郷から住人を移住させて町並みを作らせたのが起源である。
旧街道沿いの横町、海野町などは現在賑やかな商店街となっており、往時の面影がほとんど残っていない。商店街を抜けたところで、旧街道を外れて上田城跡に向かう。

上田城址
上田城は天正11年(1583)真田昌幸が築城した平城で松尾城ともいわれている。小城だが取巻く太郎山と千曲川が天然の要害となっている。真田昌幸が二度にわたる上田合戦で徳川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせた。数ある城郭のなかでも、二度もの実戦経験をもち、輝かしい戦果をあげた城は他に例がない。関ヶ原の合戦後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって寛永5年(1628)に復興された。


柳町
上田城址を訪ねた後、二の丸入口前の観光会館で話を聞くと、少し行った柳町には、卯達や越屋根、蔵造りなど宿場情緒が保存されている、とのこと。
柳町の方に行ってみると、入口に旧北国街道柳町の案内がでている。ここは、2階建て平入りの町屋が並び、軒や屋根の高低差が少なく、整然と揃った宿場時代の町並みの美しさを感じさせてくれる一角となっている。

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上田城址、柳町を散策したところで今回の旅はここまでとし、北国街道を戻るような形で上田駅まで行って帰途に就いた。