2015年5月27日
牟礼宿~古間宿~柏原宿~野尻宿~関川宿~田切宿
いつも通り、朝早く家を発つ。大宮から新幹線で長野に行き、在来線に乗り換えて牟礼に向かう。長野から先は、北陸新幹線開業に伴い、JRからしなの鉄道に運営が変わっている。
前回、善光寺から牟礼まで行って、牟礼宿の十王坂下まで行っていたのだが、今回あらためて牟礼宿入口から歩き旅を再開する。
牟礼駅から線路沿いに牟礼宿入口に向かうと、駅の少し先で「信濃物産鎌工同盟會創立記念碑」という大きな石碑が目に入る。牟礼から古間、柏原にかけては古くから信州鎌の生産が盛んで、この先街道沿いの随所に所縁のものが見られる。
「北国街道牟礼宿」碑が立つしなの鉄道(旧信越本線)ガードをくぐってすぐの鳥居川を渡り、左の牟礼宿に入って行く。ここは、牟礼宿東の枡形となっている。
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◆牟礼宿
牟礼宿は、加賀と江戸の中間地点にあたる宿で、加賀の前田候は、参勤交代の道程の半分が無事終わったことを、牟礼宿から江戸と金沢へそれぞれ飛脚を立てて知らせたという。
牟礼宿には、古い建物はほとんど残っていないが、街道右手の本うだつの上がる旧鎌問屋の立派な建物は目を引く。
飯綱町役場の向かいの交番横が本陣跡で、建物は新しく往時の面影はないが、家の前に大きな石燈籠が置かれている。
その先、右手に徳満寺の鐘楼門がある。門前に文政13年(1830)の石燈籠があり、門をくぐると、中に徳満寺堰と呼ばれた用水が流れていて趣がある。往時は宿内の街道中央を徳満寺堰の水を取り入れた用水が流れていたという。
街道突き当りの證念寺の前には、「北国街道牟禮宿十王坂」と記された大きな自然石の碑がある。證念寺は、善光寺地震で大きな被害を受けた際、非常時のために富くじが許可され、この資金で本堂が再建されたという。
道はここで左に曲がって十王坂となり、その先で右折する枡形となっている。下から坂を見上げると、右に続く證念寺の石垣と土塀が見事で、なかなか絵になっている。
坂の途中の十王堂には、「十王とは私たちが亡者になって仏様の世界に入ってゆくとき、生前の罪行の軽重を裁判し、次ぎに生まれて来る世界を決定する冥土の10人裁判官である。そして、亡者は供養によってこれらの仏様に救われて仏界に送られるという。現世に於いても、人々は心に恥じることのない日常生活を送るべきである」と説明がある。
枡形を右折する左手高台には古い石仏石塔群が立ち並ぶ観音寺があり、 このあたりから坂下を振り返った眺めが、これまた絵になっている。十王坂下の證念寺、石垣と土塀、坂上の十王堂、観音寺といった十王坂を挟んだ枡形一帯は、真に風情がある。できれば、證念寺の枝垂桜が咲くころ、再度訪れてみたい。
武州加州道中堺
観音寺の先、三叉路になっているところを道なりに進んだ。
しばらく行くと、右の小さな公園になっているところに、武州加州道中堺碑がある。加賀前田藩の参勤交代の道中120里の中間点に当たるところだ。ここには、12代加賀藩主前田斎広の正室真龍院の歌碑も置かれている。
ここで、期せずして、この先の小玉坂古道のガイドマップが入手できた。地元の小玉古道会作成のもので、小さなポストのようなところに置かれている。それとなく置かれているこのような地元作成ガイドマップは、街道歩きには大変参考になり、有難いものだ。
このマップには、牟礼からの道も記されており、先ほどの観音寺の三叉路のところでは、一番右の道を選ぶのが正しいことが分かったが、後の祭りだ。
ここから左手、遠くの線路の向こう側には小玉神社が小さく見える。
国道の牟礼橋の横の跨線橋で線路を跨ぎ、右の旧道の方へ進む。ちょっと分かりにくい道だが、先ほど入手のガイドマップが早速役立つ。
玉蓮寺の手前に立つ真新しい高札は、小ぶりだがこの土地で大切にされているように感じる。すこし先の二股を「北国街道」の標識に従って右に行く。このあたり、各家々には、いろいろな花がさり気なく咲いていて、歩いていても心地よい。
小玉坂に差し掛かったところで振り返ると、牟礼宿の眺望が眼下に広がる。
小玉坂古道
やがて二股になり、「古道と新道の分岐」の案内板がある。左手の新道は明治9年に新設された迂回路なので、右手の江戸時代の旧道を行く。小玉坂の古道は、「美しい日本の歩きたくなる道500選」に選ばれた昔ながらの林間の道だ。
右手に観音平(かんのんびら)と馬頭観音の案内板がある。この辺りの地名を観音平といい、かつては馬頭観音をまつった観音堂があったという。現在その跡に、周辺に散在していた馬頭観音などの石仏が集められている。
小玉坂は、鬱蒼とした杉木立が続く。北国街道では碓氷峠に次いで難所とされていたというが、それほど険しくなく、楽に歩ける。ただし、クマ出没注意ということを聞いていたため、全く人気のない山道を一人で歩くのは、やや心配があったため、あらかじめ準備していた熊よけの鈴を思いっきり鳴らし続け、周囲に注意を払いつつ緊張しながら早足で峠道を歩く。
途中、左手から来た新道と合流する。
すぐ先、左手に小玉一里塚跡の案内板があり、隣接して茶屋跡と黒柳清八翁の大きな頌徳碑がある。かつて上杉謙信が名付けたという馬止清水が沸く茶屋があったそうだ。黒柳清八というひとは、小玉の鎌鍛冶元祖の一人という。
緩やかに下った先、左手に明治天皇御野立所跡の案内板があり、左に少し入った所には北陸御巡幸御野立之趾碑がある。北陸御巡幸の際、天皇の御休憩所となった玉堂のほか、岩倉具視らの随行員棟まであったそうだ。
森を抜けて視界が開けて来るあたりが、落影集落の入口になる。小玉坂は結構上りだったが、峠を越えるとほぼ平坦で、あたりは田畑が広がる高原地帯になる。はるか遠くには飯綱、戸隠、黒姫などが見られる。
少し先で国道と合流、右手の高原ドライブインの前には、一茶の句碑が置かれている。
この先、柏原に近づくにつれ、いたるところで一茶の句碑に出会うことになる。
小古間
「北国街道(小古間)」の矢印に従って、国道を右に分け、左手林間の道に入って行く。緩やかに下りながら右に曲がると、小古間集落入口となり、右手に小さな庚申塔がある。しっかりした屋根で覆われ、とても大切にされているようだ。
すぐ先、右手奥の方に入って行くと、大悲院、延命地蔵、子育六地蔵、小古間神社、の案内表示があるが、ここはパス。
下り坂に沿った小古間の集落は、あっという間に終わり、T字路に突き当たると、ここに「歴史の道 北国街道(小古間)」の矢印と小古間の案内板がある。天保5年(1834)頃書かれた「信濃奇勝録」にも「飯縄・戸隠・黒姫・妙法の四山が一望できる」眺めのよい所として紹介されているそうだ。この四山に斑尾山を加え、信越五岳と呼ばれる。このあたりは、見渡す限り水田が広がっていて、実に気持ちがよい。
ー やせ蛙 負けるな一茶 是にあり ー
の一茶の句碑とカエルの置物を置いた民家を横目に眺め観ながら進むと、「松尾」の看板の架かる造り酒屋の古い建物のところに来る。「人情細やか古間の里は 鎌と酒とで名が高い」と古間音頭で唄われたこのあたり、きれいな水に恵まれたところのようだ。
少し先に、古間一里塚跡の案内板が上り坂の右手にある。文政4年(1821)一里塚に植えられていた松の木が雪の重みで折れ、その下にいた人馬が圧死する事故があった。一茶がこれをあわれんで次の句を詠んでいる。
ー 一声に 此世の鬼は 逃るかな ー
その横に、一茶の句と白飛の句を刻む石碑が立っている。
その先、自動車道を横切って、坂道を下り、古間宿に入って行く。
夏は霧、冬は豪雪に見舞われる牟礼・古間の間の峠越えは、信越国境一番の難所であった。
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◆古間宿
古間宿入口にあたる民家の壁に、北信五岳と思われる絵が描かれ、「ようこそ古間へ」という街道案内図の下には、一茶の句碑が置かれている。
左手に旧家があり、古間宿本陣跡の標柱と古間宿案内板があり、上杉氏によって開かれたこと、江戸時代は隣接する柏原宿と合宿となり、月のうち半分だけ人馬の輸送を行ったこと、信州鎌(古間鎌)の製造が盛んだったことが記されている。
この地には、白飛、雪居という熱心な弟子がおり、一茶もしばしば立ち寄っていたことから、古間宿案内板の末尾には一茶の句が添えられている。また、その傍には句碑もある。
少し行ったところで第4北国街道踏切を渡り、道なりに曲がって行くと、鳥居川手前に古間鎌を発展させた人たちを顕彰した大きな彰徳碑がある。
鳥居川を寿橋で渡ると柏原宿に入って行く。
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◆柏原宿
柏原宿は古間宿と合宿で、月の前半を柏原、後半を古間宿で分担して、人馬の輸送を行っていた。また、柏原宿は戸隠神社奥社・中社に続く戸隠山道との分岐点だった為、善光寺参りだけでなく戸隠神社への参拝客も利用していた。現在、宿内は国道となっており、古い町屋などが失われ、宿場町の風情は失われつつあるが、小林一茶のふるさとでもあり、街道脇の一茶の句碑が一層数を増す。
左に曲がりながら上り坂を行くと、坂を上りつめた所には、柏原宿の鎮守の森で寛永11年(1634)頃には創建されていたという諏訪神社が鎮座する。神社の入口のところに立つ句碑は、数ある一茶の句碑のなかでも最古のものという。
ー 松陰に 寝てくふ 六十よ州かな ー
すぐ先のナカムラフォトの店先にも句碑がある。
街道右側に見える茅葺の家が一茶旧宅で、そこには
ー 門の木も 先つゝがなし 夕涼 ー
と刻む句碑がある。晩年の一茶が暮らしたのは、この奥の方の茅葺屋根の土蔵であった。
*小林一茶は、宝暦13年(1763)柏原に生まれ、15歳で江戸に出て、俳句修行のため各地を巡り漂白の生活を続けた後、50歳で帰郷した一茶は、52歳でようやく妻を迎え、4人の子供をもうけたが、次々に亡くなり、妻にも先立たれた。その上宿場の大火で類焼し、文政10年(1827)焼け残った土蔵で65歳の生涯を閉じた。家庭的には恵まれなかったが、2万句にもおよぶ俳句を残している。
広いバスステーションとなっている柏原物産館前には大きな小林一茶之像がある。
その先の信号のある交差点のところに、馬頭観世音と並んで「従是戸隠山」と記された道標がある。戸隠山道案内板によると、この道は、戸隠神社奥社・中社に通じる山道であった。
すこし先の右手には柏原宿本陣跡がある。今は標柱と案内板が残るだけだが、代々中村六左衛門家が世襲し、俳句をたしなむ家族は一茶と親しく交友した。本陣には御門や御殿が設けられ、御殿の天上は格天井で加賀藩前田家の家紋である梅鉢紋が施されていた。
本陣跡から街道を北に少し行くと、右側に中村家住宅という案内板が置かれる茅葺の建物がある。
この地では戦国時代から打刃物の技術が伝えられ、この中村家では明治から平成まで古い形の鍛冶場が営まれていた、という。さらに、街道の先、左手に文部省唱歌「村の鍛冶屋」の歌碑がある。
一、
暫時(しばし)も止まずに 槌打つ響
飛び散る火の花 はしる湯玉
鞴(ふいご)の風さへ 息をもつがず
仕事に精出す 村の鍛冶屋
二、
あるじは名高き いつこく老爺(おやぢ)
早起き早寝の 病(やまい)知らず
鐵より堅しと 誇れる腕に
勝りて堅きは 彼が心
三、
刀はうたねど 大鎌小鎌
馬鍬(まぐわ)に作鍬(さくぐは) 鋤(すき)よ鉈よ
平和の打ち物 休まずうちて
日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)の敵と
四、
稼ぐにおひつく 貧乏なくて
名物鍛冶屋は 日日に繁昌
あたりに類なき 仕事のほまれ
槌うつ響に まして高し
<文部省唱歌『村の鍛冶屋』1912年初版>
今回、牟礼、古間、柏原と歩いてきて、随所で多くの信州鎌所縁のものを見かけたことで、幼少の頃意味も分からず何気なく聞いていたこの歌が、とても身近に感じられるようになった。
柏原宿内は、街道は国道となっていて車の交通量が結構多いが、この先も野尻宿手前まで国道を歩くことになる。
柏原宿を出てしばらく行くと、信濃町史跡・野尻一里塚がある。この一里塚は国道を挟んで両側とも残る珍しいものだ。
一里塚公園の案内板に、北国街道は「中山道追分宿から分岐して越後出雲崎宿に通じる街道を北国街道といい、脇往還を含めると三九の宿場がありました。」と書かれている。高田で北陸道と合流するので、どこまでを終点とするか諸説あるが、この案内板では出雲崎を終点としている。また、案内板には参勤交代の道として、
ー あとどもは かすみ引きけり 加賀の守 ー
と、一茶の句が紹介されている。
この一里塚公園で、用意していたおにぎりで簡単な昼食を摂り、先を急ぐ。
長野国道事務所野尻除雪ステーションの先で国道を別れ野尻宿に入って行く。
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◆野尻宿
国道から別れて宿場に向かって少し行くと、秋葉神社がある。傳九郎神社ともいわれ、傳九郎堰と呼ばれる堰を開削した功労者である問屋傳九郎の名をとっている。
秋葉神社の道を挟んで向かい側の逆向きの二股に「従是飯山・川東道」道標が建っている。左手、野尻湖の湖畔沿いに飯山・川東に通じる道があったと案内板にある。
信越国境に位置する野尻宿は、佐渡の金銀を江戸へ運ぶ輸送路にあたる重要な宿場で、柏原・古間・野尻の三宿の村役人が御金荷の警固を務め、牟礼宿まで運んだ。
弘化4年(1847)の大地震、嘉永元年(1848)、明治2年(1869)の大火により、今は、往時の面影はほとんど残っていないが、旧跡や史跡が点在し、落ち着いた静かな町並みが続く。
また、野尻宿は俳諧が盛んで、湖光・関之・魯堂など俳句をたしなむ者が多く、一茶はしばしば野尻宿をおとずれていた。松尾芭蕉の130回忌にあたる文政6年(1823)には、一茶門人によって芭蕉句碑が建てられている。
仲町信号すぐ左手に明治天皇野尻御膳水碑、右手には野尻宿本陣跡の標柱、歴史の道北国街道野尻宿と記された案内図がある。すぐ先、明治天皇野尻御小休所阯碑が立つ場所は、野尻宿脇本陣跡だ。
今回立ち寄っていないが、池尻川を渡った先に行くと、安養寺がある。
佐渡で採掘された金銀は、北国街道を通り、11日間かけ江戸へ運ばれていたが、野尻宿では金銀を一晩保管するための御金蔵が安養寺の敷地にあり、野尻・柏原・古間の宿場の村役人30人がその警護にあたったという。
野尻宿を出ると、その先、野尻坂峠の上りの山道になる。
峠を越えると、右のトンネルを通って来る国道18号に合流し、その先は下り坂になる。しばらく下っていくと前方が開けて妙高山がよく見えるようになる。
右手関川の関所を表す道路標示があり、右斜め前方に道が続いている。随所にある雪除けのスノーシェードをくぐり、右に左に曲がりながら下って行く。
ヘアピン状のカーブを右に曲がってなおも下って行くと、赤川一里塚跡がある。この一里塚跡の右手高台には、一茶が52歳で迎えた妻きくの実家常田家がある。
橋を渡った左手高台に赤川神社が鎮座し、鳥居の先に小さな石の祠がひっそりと佇む。
その先、左に曲がると関川に架かる木の太鼓橋に差し掛かった。情緒あるこの太鼓橋を渡った向こうに関川関所跡がある。
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◆関川
関川は、古来信越国境の要地として重視され、上杉謙信は関門を設けて管理した。江戸幕府も北国街道の整備とともに関川を重視し、関所を置いた。加賀藩前田氏をはじめとする北陸諸大名の参勤交代に加え、佐渡産金の輸送路としてとりわけ重要だったためだ。
関所を出て、自動車道を横切ったところにに浄善寺がある。ここの住職は一茶の門弟で、一茶から後妻の世話を依頼された程親交があったという。住職の階位昇格を祝って詠んだ一茶の句碑がある。
ー いたれりや 佛の方より 花衣 ー
関所を出て自動車道に突き当たって、右折するとすぐ右手に明治天皇関川行在所阯碑が立つ関川宿本陣跡の大石家ある。大石家の庭園は兼六園を模した立派なものであった。
関川宿のすぐ北に隣接して上原(うわはら)宿があった。二つの宿は、村が異なるだけの連続した町並みで、半月交替で問屋業務を務める合宿だった。右手、北国街道案内標識の立つ石垣に囲まれた豊田家が本陣跡がある。
関川宿・上原宿が終わり、少し行くと、左手に天神社がある。その前、街道右手には見事な茅葺の家がある。天神社の拝殿の前に推定樹齢1000年国指定天然記念物の大杉がある。「下町天神社の大杉」としてあがめられてきたもので、堂々とした巨木だ。
その先、左手にスキー神社という珍しい神社がある。
スキー神社の近くの薬師堂には、市指定文化財薬師如来座像が祀られている。案内板によると、鎌倉時代後期に定朝の流れを受けた関東在住の仏師によって制作されたものと推定され、上越地方では稀に見る古い仏像だそうだ。
毛祝(けわい)坂集落に入ると、左手に、加賀藩主前田家が参勤交代の都度、参拝を欠かさなかったという神明神社がある。
口伝では、石田三成の孫直重が関ヶ原敗戦の後、越前北庄藩主松平忠直の庇護をうけ、忠直の長男光長の国替えで高田入封に随伴した。その後、毛祝坂付近の新田開発を命ぜられてこの地に定住したため、石田家代々の墓がこの近くにあるという。
おりしも、NHK木曜時代劇「かぶきもの慶次」では、徳川の世に入った時代における前田、上杉、石田の関係を背景にした話を取り上げており、興味深い。
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このあたり、どこからでも妙高が臨める地で、田切宿はもうすぐそこだが、本日の街道歩きはここまでとし、最寄りの妙高高原駅に向った。