柏崎~出雲崎

2016年4月5日
出雲崎~尼瀬~石地~椎谷~宮川~柏崎

昨年暮れに北国街道歩き旅の残る区間、笠島~出雲崎を完歩するつもりだったが、激しい防風雨に見舞われて、柏崎まで来たところで一旦中断を余儀なくされた。
年が変わり、冬の天候が厳しい北陸にも春が訪れて、歩き旅にもいい季節になったので、あらためて柏崎~出雲崎間の歩き旅を再開する。
今回は、新幹線で長岡まで行き、バスで出雲崎まで行って、そこから柏崎に向けて歩くことにする。軽井沢から北国街道の旅を始めて以来、これまでは出雲崎に向かって歩いてきていたが、今回だけは逆方向である。ちなみに、芭蕉の奥の細道の旅はこの方向である。
家を出るときは雨が降っていたが、北陸地方は好天という天気予報どおり、長岡に着くと青空が広がり、春の柔らかな陽ざしと心地よい風が迎えてくれて、絶好の歩き旅日和に気分もワクワクする。
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◆出雲崎宿
長岡からのバスは海岸沿いの出雲崎の街中に入る手前、小高い丘の上に建つ良寛記念館入口で停車する。ここで降りて記念館に向かうと、道路わきでスイセンとつくしんぼが春の訪れを告げている。


記念館には良寛の遺墨、遺品などが展示されているほか、庭に良寛が永く住んだ五合庵を模した耐雪庵などもある。記念館横の「良寛と夕日の丘公園」には、子どもと遊ぶ良寛像があり、遠くに弥彦山や佐渡が、また眼下に出雲崎の街並みが一望できる景勝地となっている。


北国街道の宿場だった出雲崎は、江戸幕府の直轄地(天領)で、佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港もあっておおいに栄えた。街道沿いの妻入り家屋が有名で、平成8年に建設省の歴史国道に選定され、新潟県景観形成推進地区にも指定されて、往時の街並の景観保全に地元の力がそそがれている。

良寛記念館から崖に作られた急階段を下って国道に出ると、左手に上杉謙信ゆかりの多聞寺があり、そのあたりで民家の間を縫う路地を通り抜けると、宿場内を通る旧街道に出る。今日は、ここから海岸沿いの旧道を柏崎に向かう。

すぐのところに良寛(1758~1831)の生家橘屋跡があり、良寛堂が建っている。良寛は出雲崎の名主橘屋の長男としてここに生まれた。橘屋は江戸初期に栄えたが、良寛の時代には尼瀬が台頭して、橘屋が一手に引き受けていた金銀の荷受け業務も尼瀬の京屋に移っていった。こうした中、良寛は18歳で家を出て修行の道に入った。良寛堂のうしろに座す良寛像は、海の向こうに見える母の生地・佐渡を正面に臨んでいる。


良寛堂の先、交差点のところで山側を見上げると良寛の生家が神官を務めた石井神社が見える。
狭い路地奥に見える円明院前を通り旧道を少し行くと、左側に芭蕉園がある。敦賀屋跡が公園になっており、芭蕉像と「銀河ノ序」を刻んだ碑などが建てられている。元禄2年(1689)7月4日(陽暦8月18日)、芭蕉は奥の細道行脚の途中この地に立ち寄り、かの有名な「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を残した。芭蕉は「奥の細道」では越後路での出来事をほとんど記していないが、「銀河ノ序」では出雲崎と「荒海や・・・」の句に込めた思いが記されている。


長い板塀を巡らせた廻船問屋泊屋跡を眺めながら進むと、無料休憩所となっている妻入り会館がある。ちょっと覗いてみると、伝統的な妻入り住宅の内部が再現されており、飾り雛がきれいに飾られていたりして、なかなか風情がある。

ここで、いろいろな種類の紙風船が販売されていたので、お土産に購入。先般、NHKのあさイチで紹介されていたが、国内で作っているのはほとんど出雲崎だけという。素朴で懐かしさを感じる伝統工芸品である。

会館のすぐ先には、長い板塀の熊木屋跡がある。熊木屋は敦賀屋、京屋、泊屋とならぶ出雲崎を代表する廻船問屋であった。
左手路地の先に養泉寺があるが、その入り口に「堀部安兵衛住居跡」の案内板が立っている。新発田藩士中山(のちの堀部)安兵衛が江戸へ出府する途中、一時ここに住んだという。
その先右手、海岸に通じる狭い小路に「御用小路(金銀小路)」の案内板が立っている。江戸時代、佐渡金山から大量に産出された金銀は、すべて小木港より出雲崎港に陸揚げされ、車馬に積み替えて「御用」の札を立て、この小路より北国街道を経て江戸幕府に上納された。

尼瀬
このあたりから尼瀬地区にかけて、妻入り街並みがよく残っている。妻入りというのは、切妻造りの建物の妻側に入り口を設けて正面とするもの。当時の出雲崎の人口は小高い丘と日本海に挟まれたわずかな平場に約2万人もいたと言われ、人口密度は越後一だった。そのため、多くの人が居住でき、また間口の広さに掛けられる税金対策にもなることから、間口が狭く奥行きの長い妻入り家屋が軒を連ね、妻入りの街並が形成された。


尼瀬地区に設けられている北国街道ポケットパークの先、左にすこし入った右手高台に出雲崎代官所跡がある。出雲崎は元和2年(1616)江戸幕府の財政を支える佐渡金銀荷揚げ港として、越後で初めて七万石の代官所が置かれた幕府直轄の天領地となった。初代代官高田小次郎は、民衆の力の強かったこの町を「出雲崎」と「尼瀬」の2つに分け、それぞれに名主(橘屋・京屋)を置いた。以後、代官所は幾度か移転し、文化5年(1808)にこの地に移された代官所が最後のものとなった。

出雲崎の家並みが尽きる荒谷橋のあたりに「北国街道」の標柱が建っている。「小諸まで55里(220km)、江戸まで97里(388km)とあり、ここから北国街道、中山道を経て江戸まで送られた佐渡金銀の道のりを示している。
左手に「南無地蔵菩薩」と記された赤い幟の立つ「出雲崎代官所尼瀬獄門跡」がある。代官所の付属機関としての刑場であった。天明3年(1783)建立と言われる立派な供養塔と刑人の霊を慰める地蔵堂がある。今でも毎年9月1日には尼瀬の人達によって、この地蔵堂の前で百万遍講が行なわれているという。


まもなく旧道は国道に合流し、勝見集落に入る。合流地点は、良寛が旅立つとき家族・友人に別れを告げた旅立ちの丘と呼ばれ、良寛の詩碑などがある。


遠くに佐渡を眺めながらしばらく海沿いの道を進むと、左手に勝見の源九郎稲荷がある。義経の兜の守り神である源九郎稲荷咤枳尼尊天を安置したのがはじまりといわれている。それほど大きくないお堂だが、見事な彫り物が見られる。
横に元治元年(1864)の米山塔が立っており、奥には瀟洒な趣の法持寺が隣接している。


海岸線を延々と歩いて勝見集落を抜けると、石地集落に入る。
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◆椎谷宿 
石地集落北部の海辺に、豪壮な長屋門を構える日本石油創業者内藤久寛の生家がある。内藤家は、先祖が上杉氏に仕え、主家の会津移封時に当地に残住した郷士といわれる。久寛は19歳で戸長となるなど、地場産業の振興に力を尽くしていたが、もともと古代より石油が採れているこの地で石油産業振興のため明治21年日本石油を設立し、明治24年(1891)尼瀬油田で日本最初の機械採掘に成功した。明治32年に日本石油本社は柏崎に移転し、その後の日本の石油産業発展の礎となった。


この先左手に、延々と御影石の敷かれた長い参道があり、ずっと奥に御島石部神社がある。ここは延喜式内社で、創建は不詳だが現在の建物は弘化3年(1846)に建立されたもので、社殿の壁面は見事な彫刻で飾られている。神社裏の高台には椎の樹林がうっそうと繁っており、椎の原生林としては日本海側の北限になるという。新潟県の天然記念物に指定されている。


石地海岸フィッシングセンターの左手に、安産・縁結びの神社羅石尊がある。ここには観音堂や地蔵尊、馬頭観音等が立ち並んでいる。


その先で国道から分岐して左へ進むと、左手に馬頭観音をはじめとした石仏が3基、米山塔が1基、その横に六地蔵がある。この道はすぐに国道に合流する。

大崎集落あたりでは、冬季の厳しい風に対する対策として家の周囲に板囲いをしている家を数多く見かける。海沿いの家々が、冬の日本海からの風をまともに受ける壮絶さは想像に難くない。


大崎から長浜集落を進むと、椎谷岬トンネルになる。


トンネル手前右が旧道になり、入口が小公園になっている。多くの石塔の中に一際高い「帆立観音堂」碑がある。46代孝謙天皇の時代(718~770)に泰澄大師が建立したという観音堂があったが、中越沖地震で観音堂は被災し取り壊されて、現在は石碑だけが残っている。


この先、旧道は中越沖地震で崖が崩落し、道路が寸断されたため、閉鎖されて通れなくなっている。
やむなく新たに作られたトンネルのほうにまわって進んで行くと、トンネル出口の右手で旧道が合流している。その旧道をすこし戻って観音岬に向かっていくと、右手に観音堂への道が伸びている。椎谷観音堂はちょうど椎谷岬トンネルの頂上あたりにある。
岬の小公園からの景観を眺めて国道に戻ると、道路の反対側に観音堂への道に繋がる仁王門が石段の上に建っている。


椎谷集落に入っていくと、すぐ右手空き地に明治天皇椎谷御小休所の碑が立っており、その少し先左手に馬市跡の案内板がある。建物は馬市居小屋を復元したもので、最盛期の馬市に集まった馬は8000頭、博労は1万人を数えたという。椎谷の馬市は安芸の広島、奥州の白河と共に日本の三大馬市と言われた。


椎谷陣屋跡の案内板に従い、左の路地を道なりに入っていくと、突き当りの民家が点在する一帯が椎谷藩堀家の陣屋跡である。藩祖である堀直之は大坂の陣の功により1万石の大名となり、正徳5年(1715)5代直央の時に現在地に椎谷陣屋を築いた。陣屋は3000坪の規模で藩主邸、勤番所、馬場、砲術稽古場、井戸、土塁、表門、裏門、長屋、武家屋敷などの施設が建てられていたという。
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◆宮川宿
椎谷集落を抜けると宮川に入る。
現在は寒村だが、かつては北国街道の宿場で北前船寄港地でもあったことで、賑わっていた。
宮川村の起こりは古く、15世紀の初め鎌倉覚園寺の所領が存在したとする記録がある。今回、訪ねていないが、県道23号をすこし東に進んだところに宮川神社がある。創建は延暦元年(782)と古く、文治年間(1185~1190)には源義経が奥州平泉へ下向する途中に立ち寄り、武運長久を祈願し本殿、花表、御橋などを寄進したと伝えられている。現在の本殿は文政12年(1829)に建てられたもので国登録有形文化財に、宮川神社を中心とした周囲一帯の森は神域として古くから植生が守られ「宮川神社社叢」として国指定天然記念物に指定されている。
(下の写真は、後日あらためて訪れた時のもの)


宮川集落を出るとまもなく旧道は大湊集落に入るが、今は、国道で柏崎刈羽原発を迂回していく。
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◆柏崎宿
原発の山側を迂回し、荒浜で旧道筋に戻って延々と続く松の防風林に沿って進む。
途中、「柏崎から椎谷まで間に荒浜、荒砂、悪田の渡しがなきゃよかろ」と三階節に唄われた鯖石川を渡り、諏訪町を通って東本町交差点で右折し、柏崎の中心部に入る。


現在の東本町郵便局あたりに、往時柏崎宿の東の大木戸があった。道向いにある閻魔堂は木戸の門外で、旅人や浮浪者の宿に利用されていたという。


毎年6月に開催されるえんま市は閻魔堂の縁日で、全国各地から集まった500軒以上の露店が並んで大変な賑わいとなる。およそ200年前に馬市として始まったものが、文政年間に露店が立ち並ぶ現在のような形態になったといわれている。
幼少の頃、えんま市の季節になるとワクワクする一方、いい子にしてないと閻魔様に舌を抜かれるよとか、人さらいに連れていかれるよ、などとしばしば言われたこともあって、何となく妙な気分になったものだった。

柏崎一帯は、平成19年の中越沖地震で甚大な被害を受け、閻魔堂のあたりも被害が大きかったが、周辺商店街の復興工事が漸く本格化している様子であった。ここに来る途中、椎谷の観音岬を通る街道は地震で閉鎖されてしまったが、代わりにトンネルが新しくできていた。前回訪ねた香積寺では、本堂の再建工事がようやく本格化している。昨年暮れには、築80年でボロボロになっていた旧公会堂喬柏園をリニューアルし、中越沖地震メモリアルを兼ねた市民活動センターがオープンしている。


わが実家も大きな被害を受けたあの地震からすでに8年以上経っているが、引き続き復興に向かって前進している様子がうかがえた。

実家近くから米山を眺めると、幼少のころからいつも見ていたのと変わらぬ姿を見せてくれる。

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北国街道歩き旅を始めた2014年9月から随分と時間が経ったが、今回漸く完歩できた。かなり間を置いて歩いたこともあるが、わが故郷を通ることもあってじっくり巡りたいという思いが働いたこともあった。結果的には、地元に居ながら知らなかったことも多く、今回の歩き旅を通してあらためて様々なことを知ることができた。また、これまで何度か行ったことがあるところでも、歩いてみることで全く違った景色に出会うこともできた。

それにしても、厳しい冬を越えて待ちに待った春を迎えた越後路の歩き旅は、かくべつ心地よいものであった。うららかな日和のもと、柔らかな風に乗ってほんのり漂う磯の香を味わえるのも、歩き旅ならではのことである。