田切~黒井

2015年6月29日~30日
田切・二俣宿~関山宿~松崎・二本木宿~新井宿~高田宿~黒井宿

6月29日、いつも通り東林間を朝早く発つ。今回は、一泊して高田まで行く予定である。その後、時間の許す範囲で春日山から黒井の方まで足を延ばそうと思っている。

大宮から新幹線で長野に行き、在来線に乗り換えて、前回引き上げた妙高高原に向かう。長野から妙高高原までは、北陸新幹線開業に伴い、JRからしなの鉄道北しなの線に運営が変わっている。長野駅で待ち時間が結構あるので、久しぶりにぶらりと駅前に出てみると、新幹線開業に合わせて改装された新駅は、木のぬくもりを感じさせる大庇・列柱が印象的で、品格ある駅に衣替えしていた。

前回、田切の少し手前で引き上げたので、妙高高原駅からまずは旧道に出て、田切に向かう。旧道に向かって歩くにつれて、正面の妙高が大きく迫り、その中腹にはリゾートホテルの草分け、赤倉観光ホテルがよく見える。
今は梅雨時だが、幸い、今日ばかりは真っ青な空が広がり、高原を渡る風はカラッとしていて実に心地よい。

旧道の毛祝坂を下ったところの小学校の先で、国道の白田切橋が谷を越えているが、旧道はこの橋手前で国道を横断して西に下り、谷底で白田切川を渡っている。短い橋を渡った後、大きく東の方にターンし、国道の橋の下をくぐって、道なりにしばらく進むと田切宿の集落になる。
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◆田切・二俣宿
田切宿と二俣宿は合宿で、現在の街道沿いは当時を思い起こすような面影は少ないが、山間の街道だが両側は開けていて開放感がある。


静かな集落を進んで行くと、一本のひときわ大きな榎が目に入ってくる。珍しいことに、その木の根元に筆塚が置かれている。
郷田切川橋の手前右に郷田切川に下る田切古道入口の標識があるが、ほとんど人の通った気配がないので、そのまま郷田切川橋を渡って二俣宿に入る。
街道沿いには、黒姫、妙高を借景として、いろいろな花々に飾られた雪国独特の作りの洒落た家々が続く。
明治天皇小休所、西蓮寺など眺めながら先に進むと、アジサイの傍らに、多数の五輪塔が立ち並んでいる。これは、上杉謙信の跡目争い「御館の乱」で戦死した人を弔う無名戦士の墓だという。


上杉謙信は実子が無く、北条氏康の子で当時の北条氏当主・氏政の弟にあたる景虎と謙信の姉の夫・長尾政景の遺児景勝を養子としていた。天正6年(1578)3月13日、謙信は後継者を明確にしないまま急逝したため、景虎と景勝両陣営による家督相続をめぐる抗争が起こり、越後国内を二分する内乱へと発展した。
ちなみに、越後毛利氏子孫の北条氏と安田氏は、当時ともに上杉謙信に仕えていたが、勝利した景勝方についた安田氏と敗北した景虎方についた北条氏(北条高広)は、その後の明暗を分けることとなった。

二俣宿を抜け、しばらく国道を行くと、深い谷にかかる妙高大橋に差し掛かる。旧街道は大きく曲がりながら国道のはるか下のほうで大田切川を渡るのだが、今は工事中だから旧道は避けたほうがよい、という妙高高原駅前の観光案内所の人の薦めに従い、ここは国道を行くことにする。
妙高大橋の中ほどからは、雄大な妙高が眼前に広がって絶景である。


国道を進み、妙高山麓直売センターの先で左の旧道に入って行くと、関山宿になる。
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◆関山宿
関山宿は、妙高山山岳信仰の中心だった関山神社やその別当の宝蔵院があった事で、繁栄したが、今は往時の宿場の雰囲気は失われている。


関山神社の創建は奈良時代に妙高山頂に開かれたのが始まりとされる。その後、妙高山麓の今の場所に遥拝所が設けられると、民衆にも広く信仰されるようになり、一帯には数々の社殿、堂宇、支院、分社などが軒を連ねるようになった。戦国時代に織田家越後侵攻により全山焼失ということもあったが、境内は広大で、江戸時代後期に再建された社殿も味わい深く、古社の雰囲気が感じられる。
宝蔵院は、関山神社の別当として祭祀を司ってきた寺院で、往時は妙高山信仰の最大の拠点として大きな影響力があった。境内には壮大な堂宇や庭園が設けられたが、明治時代の神仏分離令により関山神社の仏教色が一掃され、廃寺に追い込まれた。多くの建物は破却されたが、一部がこの後訪れる新井の東本願寺新井別院の庫裏として移されている。

関山神社から少し先の街道脇に、片側のみだが、北沢一里塚がしっかりと残されている。


関山宿を抜け、国道に合流したところに、一風変わった背の高い木が一本だけ立っているのが印象的である。そこから国道の先の方を見ると、すぐ近くに食事処が目に入る。街道歩きをしていると、特に旧道ではほとんど食事処などなく、食事にありつけないことがしばしばあるので、食事処を見つけるとホッとする。
食事後、再び静かな旧道に戻り、遠くの山々に囲まれてゆったりと水田が広がる中を、のんびり歩いて行く。


やがて、踏切を渡ると松崎宿に入る。
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◆松崎・二本木宿
松崎宿は、二本木宿と合宿で小さな宿場であった。現在の二本木宿は古い建物は少ないが、かつての面影を感じるものがそこここに残っている。
本陣はなく、宿場内にある安楽寺が本陣の代わりとなって、加賀の前田家も参勤交代の際、利用したとされる。


明治天皇小休所碑の立つ旧家の隣に白山神社がある。神社境内に置かれている一本の石柱には「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず、邑の内、咥きせる無用、二本木宿」と記されている。二本木宿に入ったら綱を放すな、馬に荷物をつけて通る者は馬に乗って通行してはいけない、村うちはくわえ煙草で歩いてはいけない、と結構細かな注意を記している。

少し先に行った二本木駅は、全国的にも数少なくなった現役のスイッチバックとして有名である。現在、えちごトキめき鉄道(旧信越本線)ではここだけがスイッチバック駅となっている。

新井に向かい、「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたを何時忘られよ。」と詠われた小出雲坂を下る。昔は坂の途中から高田平野や日本海が見えたそうだが、残念ながら今は見られない。
小出雲交差点のところにある、「左飯山道 右善光寺道」と記された飯山道分岐道標を過ぎると、やがて、新井宿に入る。
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◆新井宿
新井宿は、北国街道と信州の飯山とを結ぶ飯山街道の交差する交通の要所であった。往時、信州・江戸への荷物の運搬の拠点として栄え、佐渡の金の輸送は高田まで取りに行き関山宿まで運んだ。
街並みは上・中・下の三町からなり、中心となる中町には本陣・町名主宅・高札場・問屋などが軒を列ねていた。
現在も、旧街道沿いには古い町屋や東本願寺新井別院、康源寺、賀茂神社などといった社寺仏閣が点在し、往時の雰囲気を垣間見る事ができる。
上町の延命地蔵は、江戸時代、溜池から人の声が聞こえるので、池を浚ったら二体の地蔵が見つかったので、供養したものという。


このあたり、ところどころに往時の雰囲気を残す家が見られる。

下町にくると、歴史を感じさせる君の井酒造の建物がある。


その少し先に、東本願寺新井別院がある。頸南地方の末門や門徒を統轄するために、貞享2年(1685)に開基された。新井別院の境内は元々新井願生寺という大寺院があり広範囲に影響を及ぼしていたが、浄興寺(上越市)との教義異安心論争に敗れ、裁定を取り持った東本願寺の道場となった。この新井別院は、何度も風水害と火災に遭い、現在の本堂は明治28年に再建されたもので、庫裏は明治11年明治天皇北陸巡幸にあたり、関山にあった宝蔵院から庫裡を移築し行在所として利用されたもの。


宿を抜けたところの住宅街に石塚の一里塚跡の碑があるが、その先、街道は大きな工場団地の脇を進み、往時の趣は全くない。
本日は、このあたりで街道から少し外れ、国道沿いのホテルで宿を取る。残念ながら風情のないロケーションにある。
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翌朝、早々にホテルを発ち、旧道に戻って高田を目指す。
道の両側には田んぼが広がるのどかな道が続き、時々振り返ると、いつまでも妙高山が見えている。

在来線の線路を渡り開通したばかりの新幹線高架下を進むと、旧国道に合流してとすぐに瀬渡橋で矢代川を渡る。橋を渡って旧道をしばらく行くと、左に真新しい上越妙高駅がある。かつての脇野田駅が、新幹線開業に伴って新駅となり名を変えた。
このあたりに短く残る旧道には、大和神社(今泉城跡)、弘法の清水、などが残っている。
再び国道に合流し、しばらく行くと、高田宿の南入口、高田新田交差点のところに伊勢町口番所跡碑、一里塚跡碑、髭題目が立っている。ここから、いよいよ雪国独特の雁木の雰囲気が漂う高田宿に入る。
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◆高田宿
高田は、戦国時代には春日山城を居城とした上杉謙信の本拠となった地域で、謙信の後を継いだ景勝が会津に移封させられると、越前の堀家により城(福嶋城)は直江津に移された。その後、慶長15年(1610)に家康の六男松平忠輝が信濃川中島から65万石で福嶋城に入り、さらに慶長19年(1614)に高田城を完成させ、高田藩を立藩した。その後は城下町と北国街道の宿場町として発展し、領内の中心となったが、江戸時代中期までは、短期間に次々と藩主が変わるなどで、要衝の地にありながら安定的な政治が行なわれず、寛保元年(1741)に榊原家が15万石で入るとようやく安定し現在の高田城下の基礎が築かれた。
戊辰戦争では、越後諸藩の中では比較的早く新政府側への恭順姿勢を見せたため、長岡や会津攻めの先鋒となって貢献した。維新以降、高田は政治の中心としての地位が低下するが、明治後期からは陸軍第13師団を誘致して軍都として歩みを始める。

高田城の外堀の外側は全て武家地で、武家地の北側を新潟方面に奥州道が、西側の直江津、信州方面に北国街道が通り、各街道沿いには商人町が形成された。西側の商人町(本町通り)のさらに西側には武家地(下級武士)が南北方向に町割され、そのさらに西側には同じように寺町が形成されていた。寺町には2つの通りがあり、現在でも66ヶ寺社がこの地区に集中し地方の寺町として最大規模のものとなっている。

現在の高田の町並みは、中心街こそ近代化されているが、雁木をもつ町屋が軒を連ね、当時の雰囲気を今に伝えている。雁木の総延長は16Kmに及ぶそうで、まさに高田のシンボルである。軒先を出して歩道にしているが、私有地を提供しているそうだ。


街道は南本町で左折するが、そこは古い商店街で、典型的な雁木通りが続いている。
商店街を進むと、途中で左に正輪寺の案内板がある。芭蕉句碑があるというので、立ち寄ってみる。 - 景清も 花見の座には 七兵衛 -
という句で、武士たちの花見の様子を見て詠んだものと言われる。

正輪寺から旧道に戻って少し行くと、高橋孫左衛門飴店の風情ある建物が目に入ってくる。


高田藩御用達だったようで、十返舎一九も訪れたそうだ。折角なので、お土産に、名物翁飴を購入する。
街道はこの先、本町通りを進んで行くが、ここで一旦街道から外れて高田城跡に立寄ることにする。街道歩き人と見るや、お店のご主人が奥から出てきて、お城への近道を丁寧に教えてくださった。

住宅街を抜けると、お濠を埋め尽くす蓮に目を奪われる。戊辰戦争や凶作により貧窮した高田藩の財政を立て直すため、外堀に蓮を植えレンコンを育てたことがはじまり。外堀19haを埋め尽くす蓮は、美しさ、規模ともに東洋一とうたわれている。残念ながら、見ごろは7月下旬から8月中旬で、毎年「上越はすまつり」が開催されるという。春には2200本の桜が咲き誇るらしい。

高田城本丸に通じる極楽橋を渡り、三重櫓へ向かう。


高田城跡に整備されている高田公園の広大な敷地内には、かつて新潟大学教育学部高田分校のあったところに、現在は上越教育大学キャンパスがある。
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<高田城>
高田城は、慶長19年(1614)に越後松平忠輝の居城として築城された。天然の地形(関川、青田川)を効果的に利用した平城で、築城期間4ヶ月と短いのは、大坂の陣を控えて豊臣の重臣(加賀の前田、出羽の上杉)を牽制し、江戸の背後を固めたものといわれている。このためか天守閣も石垣もなく、代わりに平成5年に復元された三重櫓が城の象徴になっている。
高田城は寛文5年(1665)の高田地震、寛延4年(1751)の宝暦地震、享和2年(1802)の火災、弘化4年(1847)の善光寺地震で大きな被害を受けたが、当初の高田城を石高的にも維持出来ず、その都度縮小し現在見られる姿になったとされる。明治3年の火災により廃城をまたずして多くの建物が焼失し、さらに明治41年に第13師団が高田城の本丸に設置された事で城郭の一部(土塁の切り崩しや水掘の埋め立て)が変更されている。
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公園から西方向の街道筋にもどる。本町通り商店街には、新しくりっぱな雁木風アーケードが続き、賑わいを見せている。本町通りから少し外れたところにある高田駅は、上越市中心街の玄関口として大いに伝統を感じさせる特徴ある駅舎である。
街道筋と並行した下職人町には、江戸時代後期に建てられた町家(旧今井染物屋、旧金津憲太郎桶店、等)が立ち並んでいて、往時が偲ばれる。


寺町の方も見て廻りたかったが、この先、春日山の方に寄り道したいため、時間がないので今回は残念ながらパスする。

あちこち見て廻るうち、本町七丁目の交差点にくると、交差点付近の宇賀魂神社境内には、江戸時代に建てられた加賀街道と奥州街道の分岐点を示す道標が残されている。


道標には、「右おゝしう道 左かゝみち」と記されており、ここで左に加賀街道、右に奥州道へと別れる。加賀街道は北陸道とも呼ばれ、新潟に向かう奥州道は北国街道とも呼ばれる。もともとは、本町7丁目交差点にあったものが昭和10年頃に今の場所に移されたとのことで、初めは、交差点周辺を探し回ったが、なかなか見つからなかった。仕方なく角の商店に入って尋ねたら、こちらにどうぞと店の中を通って裏口に抜け、この店の裏側にある神社にわざわざ案内していただいた。最近、時々同じように尋ねてくる人がいるので、慣れているんです、とのこと。

ここから、春日山に向かう加賀街道を進んで行くが、先ほど追分道標の所在を教えてくれた人のお薦めの北本町の拉麺店で、まずは昼食を摂る。

食事後、加賀街道を進むと、土橋のところで、たまたま風情ある建物を見つけた。
後に調べたら、創業文禄元年(1592)の翁飴大杉屋惣兵衛の本社・工場。今も、江戸時代からの遺構を残す建物で当時と変わらぬ製法を守り続けているとのこと。そういえば、本町5丁目商店街に歴史を感じさせる雰囲気の翁飴の店舗があったが、この大杉屋の店であった。


南本町にあった十返舎一九所縁の高橋孫左衛門商店は創業寛永元年(1624)なので、こちらはそれよりもっと創業が早い翁飴の老舗である。
木田新田のところの追分地蔵を見落としたようだが、富士新田の先、春日山町交差点のところで街道筋を離れ、春日山城址に向け坂道を上って行く。

春日山神社の階段下まで来たところで少々体調不良となったため、残念ながら神社参拝、本丸跡などは、今回はパスして山を下ることにした。
途中、長尾家の菩提寺・林泉寺に立ち寄り、春日神社の前を通って街道筋に戻った。

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<春日山>
春日山城は今から約600年前の南北朝時代に築かれ長尾為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の4代の居城となった。石垣の代わりに自然の起伏を生かした空堀・土塁などによって多くの郭を守っていた。そのため天守閣を持たず、周囲の山々に砦を築いてより大きな城としての機能をもたせていた。こうした城の造りは戦国時代の山城としての特徴をよく表しているという。
上杉景勝が会津に移った後、引継いだ堀秀春が慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城の役目を終えている。
春日山頂上の本丸跡から下ったところに、謙信を祭った春日山神社が建っている。
林泉寺は明応6年(1497)に上杉謙信の祖父長尾能景が長尾氏の菩提寺として創建。上杉謙信は7歳から14歳までここで文武の修行を積んだという。惣門は春日山城から移築したといわれ、山門は鎌倉時代の様式を取り入れた大正14年建立の名作とある。
境内には、上杉謙信や、歴代藩主の墓碑、川中島の戦いの戦士者の供養など多くの史跡がある。
春日神社は、今から千年以上前の天徳2年(958)の創建。越後国々府内全域鎮護の神として、奈良春日神社の分霊を勧請し、蜂ヶ峰上に祀ったことからこの山を春日山と称するようになった。永徳年間(1381)長尾高景が春日山城築城に際し、それまで春日山山中にあったのを、現在地に移し、春日山鬼門鎮護の神として祀った。その後、春日山城から福島城(春日新田)、高田城(本町一)とこの地の支配者が変わるたびに城の付近に分霊されている。
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春日山から加賀街道に戻り五智国分寺の方に向かう。
国道8号線の国府交差点の手前付近にくると、大きな松の木が何本か見えてくる。久しぶりに見る街道の松並木だ。途中、加賀街道松並木の説明板がある。


松並木は江戸時代からのものとのこと。昭和10年頃は100本以上あったそうだが、今では20数本しかないようだ。松の多くは樹齢170~200年くらいだそうだ。

国府交差点で国道8号を右に行き、加賀街道を離れ、再び北国街道の方に向かう。
関川を渡り、高田の方から来る国道18号と交わる下源入交差点を左折、春日新田に向かう。(春日新田交差点あたりはえらく殺風景であったが、後日、正しくは1つ手前の下門前交差点で左に行くべきだったと分かる。)
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◆春日新田宿
春日新田は、福島城時代は城下町として賑わっていたが、高田城築城後は北国街道の宿場町として多くの旅人が利用したという。

慶長19年(1614)、松平忠輝(徳川家康の6男)による高田城築城により、それまで春日新田にあった福島城が廃城となり、多くの施設が高田へ移った。また、関川に掛かっていた橋も壊され奥州方面から今町(現直江津)に行く旅人、北陸方面から直江津を通り北に向かう旅人も全て高田を通るように街道が設けられ、それ以後、高田を起点とした街道が設けられた。
善光寺方面から北国街道を来ると、高田の本町7丁目の追分で北本町の方の加賀街道へ進む道と、追分から東本町を通り稲田橋を渡って奥州道へ進む道に分かれる。奥州道は、関川を渡り、稲田、富岡、藤野新田、下門前、春日新田から黒井に向かっていた。
松平忠輝の高田城築城以前、謙信死去のあとの御館の乱、景勝の会津お国替え、堀秀治の新城主、その後の福島城への移城と、頚城地方は時代の推移と共に大きく変わっている。

春日新田を通過し、黒井宿を目指すが、途中には信越化学の大きな工場などがあって、往時の趣が感じられるようなものは全く見られない。
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◆黒井宿
高田を出てから春日山などいろいろ廻って、漸く黒井駅にたどり着いた。この駅は、自由通路となっている南北をつなぐ路線橋の中ほどに切符自動販売機が置いてあるだけの珍しい駅で、駅周辺には商店など何もなく、真に殺風景である。

奥の細道では、出雲崎に一泊した芭蕉は、7月5日(陽暦8月19日)柏崎を経て鉢崎に泊まり、翌6日、柿崎・潟町を経て今町(直江津)に入る前に、ここ黒井宿の旅籠屋伝兵衛で休息している。このあと、芭蕉達は船で関川を渡リ、今町(直江津)に向かった。
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往時の黒井宿の趣が残るのは、ここより犀潟寄りの海岸沿いのようだが、今回の歩き旅はここまでとし、いつものように信越本線で柏崎に向かった。