2015年12月3日
笠島~青海川~鯨波~柏崎
前日帰省していた柏崎から笠島まで電車で行き、そこから柏崎に向けて歩き旅の再開である。天気予報では、強風・波浪・雷など注意報のオンパレードだが、出かける時点ではまだ時折青空がのぞくまずまずの天気であり、様子を見ながら行けるところまで行くことにする。
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笠島から鯨波へ
笠島駅から線路に沿って坂を上って行くと、「米山三里」と「がけありキケン」の看板があり、その傍のブロックの囲いの中にたくさんの石仏がおかれている。米山山塊が海に落ちているこのあたりは、往時は親不知・子不知にも例えられるほどの険しいところであった。
少し先で細い坂を上り、崖沿いに曲がりくねっている街道に出てしばらく崖上の道を道なりに進んでいくと、その先で国道8号線に合流する。北陸自動車道入口の少し先で、国道を離れ右手の国民休養地の中を通って行く。再び国道に合流し、左手に「青海川海水浴場」の標柱が立っているところで国道から分岐して左へ進むと、すぐ先、左手にポツンと明治天皇青海川行在所碑が立っている。
再び国道に交わる手前左手、新茶屋という酒屋のところで、左手に下って行く細くて急な道がある。下り口に「旧北国街道 青海川駅」の標柱が立っており、その横に「牛頭大王」と刻まれた碑が立っている。牛頭天王は、京都祇園社(現八坂神社)の祭神である。
青海川駅は海に一番近い駅とも云われ、この一帯で見る日本海に夕陽が沈む光景は日本一美しいと謳われる。左下に見えるその青海川駅の方に向かって急坂を下っていくと、駅の方からくる道にでる。ちょうど朱色に塗られた米山大橋を真下から見上げるようになる。建設当時日本一の高さの橋脚と言われた米山大橋だけあって、さすがに迫力ある眺めだ。
右に進み、谷根川沿いに山側の高速道の下あたりまで行き、石仏群が置かれているところで大きくUターンして海側に向かって崖沿いの坂道を上って行く。
国道に出る手前で、青海川駅の方から急な崖を上ってくる道が合流するところに、「青海川駅 北国街道・六割坂」の標柱が立っていた。ひょっとすると、青海川駅あたりから海側の線路沿いに進んで、この絶壁を直登するルートが本来の北国街道だったのかもしれない。六割坂の標柱のすぐ横に「月山、湯殿山、羽黒山」と記された石碑が置かれている。出羽三山信仰の供養塚と思われる。
すぐ先には、ホテルシーポートやフィッシャーマンズケープがある。この一帯は、なかなか景色が良く、特に夏場の観光客で賑わうところだ。特に、岬の先端からの眺めは絶景で、私自身数えきれないぐらいの回数訪れている。
北国街道は、歩道橋を渡って岬と反対側の米山山荘の方へ坂を上っていき、自然休養村の周囲を回るようにして進む。途中、青海川の方を見ると、福浦八景の松ヶ崎のところに佐渡情話の悲劇の結末が語られるお弁の滝が見える。
「北国街道米山三里 松並木」の標柱が立つあたり、米山山荘前には「従是左 米山道」と刻まれた道標があるはずだが、たまたま山荘はリフォーム工事中なのか、工事用フェンスで囲われていた。往時、ここは頚城と刈羽の郡界で、桑名藩、高田藩の境界でもあり、出雲崎から江戸へ送る佐渡の金銀を桑名藩から高田藩へ引き継いだ場所でもあったらしい。
ぐるっと山荘を回り込むようにして進み、坂を下っていくと、左手に「右ハかみがた道」と刻まれた道標と「北国街道米山三里旧道道標」の標柱が立っている。
国道に合流して進むと、左側の線路を跨いだところが夏は海水浴客で大変賑わう薬師堂海水浴場で、海の中に二見岩が見える。
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◆鯨波宿
その先で道は二股に分かれており、国道から分岐して左の西鯨波海水浴場のほうへ進むと、右手に庚申塔や馬頭観音が立っている。
緩やかな坂を道なりに下り、鯨波駅手前の信号のところでJRのガードをくぐって、駅を右に見ながら線路に沿った坂道を上って行く。このあたりで振り返ってみると、麓の紅葉がきれいな米山がよく見える。
緩やかな坂を上ったところは御野立公園になっている。
このあたりは戊辰の役(1868年)で鯨波戦争という激戦があったところ。のちに、明治天皇北陸巡幸の折、ここで野立ちされ、風光を賞賛されたことから、御野立と名づけられた。
街道筋の新沢旅館の向かい側に、小さな薬師堂があり、横には二十三夜塔が立っている。
その少し先で、街道から外れて番神岬へ行ってみる。番神岬は、日蓮上人や浪曲「佐渡情話」所縁の地で、岬からは柏崎港と市街が眺望でき、近くの番神海水浴場は海水浴場百選に選ばれている。私自身、子どもの頃はもとより大人になってからも幾度となく訪れている思い出深い所である。
街道の左手に万延元年(1860)の題目石が立っており、その先に入って行くと番神堂(この時は雪囲いがされている)がある。佐渡から赦免された日蓮が、寺泊に向かう途中で嵐に遭遇し、着岸したこの地に三十番神を勧請して堂宇を建立したのが始まりとされている。
街道に戻る途中、左手に諏訪神社があり、境内の一角に、柏崎の船頭藤吉と小木の娘おべんの悲恋の物語として「佐渡情話」で語られているお光・吾作の碑がある。
街道に戻って進むと道は二股に分かれているので、左の細い道を直進する。左手に普通の民家のような地蔵堂があり、多数の石仏が安置されていた。
二股に分かれた道が再び合流するところに「貞心尼剃髪の地、閻王寺跡」の説明板が立っている。貞心尼は、良寛の弟子で、加賀の千代女、京都の連月尼とともに幕末女流三大歌人と言われている。柏崎には貞心尼所縁のものが多くある。剃髪の地と言われる閻王寺の跡は順之木稲荷神になっていて、遺構は残っていないが、ここには文政2年(1819)と寛政6年(1794)の名号碑が立っている。
このあたりから、天気予報通り、傘もさせないような雨混じりの強風が吹き始める。ここからは、登山用のレインウエアでしっかり身を固めて先に進む。
中浜の緩やかな坂道を進むと、「弘法大師御茶ノ池」と記された石柱が立っており、細い路地を少し入ったところに弘法大師御茶ノ池がある。弘法大師がこの地まできて水を所望し、飲み残しの水を庭にまいたところ、そこから水が湧き出したという言い伝えがある。
少し先右手に勝願寺がある。
柏崎は桑名藩の飛び領地があったところで、鳥羽伏見の戦いの後の混乱時に藩主松平定敬がこの地にやってきて、勝願寺を本陣として戊辰戦争を戦った。
ここで、街道から少し外れて信越本線の南側にある極楽寺と洞雲寺に寄り道する。
極楽寺への途中、山門が特徴的な西光寺は極楽寺とともに戊辰の役の際、桑名藩士が分宿した寺である。
極楽寺は、本堂をはじめ、山門、経蔵、庫裏、鐘楼などが国の登録有形文化財に指定されており、いかにも歴史を感じさせられる佇まいの寺である。
不求庵(ふぐあん)時代の貞心尼が、ここの静誉(じょうよ)上人にお世話になった縁で、歌集や遺墨などが残されている。
また、ここには、遠く離れた柏崎の地で任に当たった桑名藩士の墓石群がある。
極楽寺からさらに南の国道を渡ったところにある洞雲寺には貞心尼の墓がある。切通の道の先の山門をくぐると、苔むした境内はまるで塵界を脱した仙郷のような趣ある空間となっている。上杉謙信も近くを通るときは必ずここで休憩して、その景色を愛でたという。
貞心尼は寛政10年(1798)に長岡藩士の娘として生まれ、23歳の時柏崎で仏門に入り、明治5年75歳でその生涯を閉じた。文政9年(1826)29歳の時に良寛を知り、和歌を通じて細やかな師弟の交際を続け、良寛没後も山田静里や極楽寺の静誉上人などと親交があり、多くの歌を残している。
雨風が激しくなる中、道に迷いながらもなんとか洞雲寺まで行き、再び北国街道に戻ったところで、虚空蔵寺に立ち寄る。ここの境内には青面金剛像4基、庚申塔3基、二十三夜塔2基などが祀られている。
この先すぐの鵜川を渡ると、いよいよ柏崎の街中に入る。
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◆柏崎宿
鵜川橋を渡り、その先で左折して進むと、右手に香積寺がある。ここの本堂は中越沖地震で崩壊してしまったため、現在再建工事中である。境内には柏崎の最初の長といわれ、謡曲「柏崎」に登場する柏崎殿といわれる柏崎勝長邸跡碑などがある。
*謡曲「柏崎」については北国街道歩きで訪れた「善光寺~牟礼」のページに詳しく記している。
香積寺から本町通りに出て右折して行くと、左手に「ねまり地蔵」がある。これは延命地蔵菩薩で、別名火よけ地蔵とも呼ばれている。江戸期以前の作と思われており、以前は西本町付近にあったが、明治天皇の北陸巡幸の際、現在地に移されたという。
その先、左手に「立地蔵」がある。これは左に日光菩薩、右に月光菩薩を脇侍とする薬師三尊石像で、ねまり地蔵と同様に明治天皇の北陸巡幸の際、この地に移転した。
少し先の左手に石井神社があり、その横にひっそりと、松尾芭蕉の宿泊を断ってしまった天屋跡の標識が置かれている。かつては、このあたりが柏崎宿の中心になっていたところである。
その先で街道を離れて左折していくと、かつて市立図書館があったふるさと人物館のところに古い道標がある。道標には「右 三国街道 小千谷十日町道」「左
奥州道」と刻まれている。道標は二本あるが、一本は崩れ落ちそうで鉄枠で補強されて辛うじて立っている。もう一本は新しく復元されたもののようだ。
道を挟んだ向かい側の柏崎小学校の校庭に、明治天皇柏崎行在所の碑が立っている。そこから海側に少し行くと、右手に生田万の供養塔が立っている。国学者だった生田万は天保8年(1837)の大塩平八郎の乱に刺激されて貧民救済を目的として蜂起したが、鎮圧されて柏崎の海岸で自刃したという。
またここには、戊辰の役の鯨波戦争や長岡戦争で戦死した官軍の忠魂碑と各藩士墓が並んでいる。
ここから少し先にソフィアセンターがあり、その海側の小公園に、子犬を連れた托鉢貞心尼像がある。幕末女流三大歌人と呼ばれた貞心尼は、良寛との思い出を胸に心満ちた一生を柏崎の地で過ごしたという。
市役所側に行くと、貞心尼が住んでいた釈迦堂跡が整備されている。釈迦堂は我が実家の菩提寺である常福寺の末寺で、常福寺には釈迦堂に有った良寛図が残されている。
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暴風雨がますます激しくなり、今回はこの先に進むのを断念。