上田~善光寺

2014年10月19日~20日
上田宿~坂木宿~上戸倉、下戸倉宿~矢代宿~丹波嶋宿~善光寺

池袋発の高速バスで11時過ぎ上田駅に到着。まっすぐ柳町に向かい、そこから歩き旅を再開する。
上田市街には古い街並みがほとんど残っていないが、柳町には風情ある古い街並みが見られる。


柳町を北に向かい、角に湧水「保命水」があるところの老舗蕎麦屋大西でまずは腹ごしらえ。はす向かいの武田味噌菱屋のところから西に向かう道が北国街道だ。
今日も真っ青な空が広がる絶好の歩き旅日和だ。
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紺屋町~諏訪部
柳町を出てから、西に向かって紺屋町、鎌原、新町と、往時の面影を残した街並みが続く。
やがて黒塀に白い土蔵のある家に突き当たり、桝形を右に行って小さな橋を渡る。ここは諏訪部というところだが、矢出沢川沿いの古い屋敷と柳の木が見事に調和した景色は、なかなか風情がある。


秋和
生塚(うぶつか)信号を左折して国道18号に入り、すぐに右斜め前の道を入って行くと、右手に正福寺がある。その先すぐ右手に屋根で覆われた杉の切り株があり、「秋和杉並木の歴史」と記された案内板がある。真田昌幸が秋和村の北国街道沿いに267本の杉並木を植えたと伝えられているものだが、今はこの切り株しか残っていない。


少し先の長昌寺を過ぎると、右手に滝沢秋暁の生家がある。上田地方の文学発祥の舞台となった家だそうだ。


この辺りは、屋根に気抜きのある家が多い。年中、風が強いため桑の葉に虫がつきにくいので、蚕の飼育に適しているそうだ。
秋和公会堂前に「道程 北国街道」と題する案内碑がある。北国街道が追分から直江津に至る約35里の街道であること、真田氏が上田城下町をつくった際、防衛目的で、城下町を囲むようにしてつくられた村の一つが秋和村であることなどが書かれている。

上田バイパスの手前に北国街道一里塚公園があり、右手の小山の上に道しるべがある。「此道往還人」「右北国街道左さくば道」と刻まれている。「さくば」とは農道のことだという。


上田バイパスの高架下をくぐると、「北国街道」「信仰の道」「大名行列の道」「金の道」と書かれた木の標識が立っている。さらに、その先には「北国街道 蚕種の里」と書かれた木の標識もある。この辺りは道が分かりにくく、たまたま見つけたが、もし、この標識が無ければ、ここは路頭に迷うところだった。

上塩尻の手前、右手の山の上に養蚕の神を祭る座摩神社があり、その参道入口に相撲年寄信濃石品吉の碑がある。座摩神社では昔は八十八夜の祭典に、神社の土俵で奉納相撲が行なわれていた。四本柱の土俵の免許状を受けた座摩神社の辻相撲は格式高いものだったという。その奉納相撲を取り仕切ったのが相撲年寄であった。


上塩尻
上塩尻地区に入ると、街道右側から迫る虚空蔵山に沿うように狭くて曲がりくねった坂道が続く。そういうところに、塀をめぐらしている大きな家が立ち並んでいて、独特の雰囲気がある。

この地区は幕末から明治時代にかけて、国内最大の蚕種の産地として栄えた。蚕種というのは、蚕を飼育して、蚕の卵を販売する産業で、蚕の卵を「種」といったことからこう呼ばれる。この地域の風格ある建物群は、蚕室造りの民家の特徴である越屋根のついた大きな家が軒を並べていて、実に美しくて気持ちの良い家並みである。


海野宿は、まっすぐな道の両側に整然と間口の広い家が立ち並ぶという美しさがあるが、上塩尻はまっすぐの道は少なく、道も川も家の塀もくねくねと曲がっていて、不揃いな曲線の妙があって、それがこの町の魅力になっている。
地形に合わせて家や塀などが作られている様子は、どことなく、中山道の茂田井宿にも似たところを感じた。


たまたま、大きな屋敷から出て来た家人に出会ったので、この街の素晴らしさを話したら、「立派でもなんでもなく、昔の養蚕の名残の古い家ばかりで、今はただ大変なだけ。」と、つれない返事が返ってきた。通りすがりの旅人と、実際にそこで生活する人とのギャップが大きいとあらためて感じさせられた。

鼠宿
岩鼻というところで、これまで街道北側にずっと続いていた虚空蔵山の稜線が大きく切れ落ちる。


山裾を抜けてから一旦国道18号に合流するが、すぐに旧道にもどると鼠宿跡(上田宿と坂木宿の間)の説明板が立っている。本陣、脇本陣があったとあるが今は跡形がまったくない。近くに会地早雄神社があり、入口に万葉歌碑と芭蕉句碑らしい碑がある。


このあと所々で国道に合流しながら北方向へ歩くのだが、寄り道しようと思って旧格致学校を探している内に、どうしたわけか、道を間違えてずいぶんと遠回りをしてしまった。なんとか中之条信号のところで国道に合流すると、国道沿いに非常に立派な表門と塀を構える坂城町営文化の館が目につく。日本古来の茶室の構造を中心とした造りの施設だという。


近くの道脇には、天領中之條陣屋跡の碑が立っている。
少し先に進んだところで、国道から別れて右の旧道に入って行くと坂木宿になる。
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◆坂木宿
宿場町としての歴史は長いが、現在は道筋や民家にかすかなおもかげを残すのみで、坂城の町名は明治以降のものである。
坂城は村上義清生誕の地であり、坂城駅近くに村上義清公墓所(田町十王堂の奥)がある。ここから10分ほど行くと、旧坂木宿本陣の表門が残っている。入口に「信州希代の名将 村上義清」の幟が何本も立っていて、建物は坂木宿ふるさと歴史館になっている。


宿内には名主坂田家の旧家ほか、切妻造り平入り、中2階建・2階建の間口の広い重厚な建物が立ち並んでいる。袖卯建を備えた家、養蚕業独特の越屋根を備えた家、千本格子を備えた家等などが残っていて見応えがある。


村上義清の居城・葛尾城跡はこの先北に2kmくらい離れた山頂(標高800m)にある。

坂木宿の枡形のところに善光寺常夜燈が立ち、そこをすぎると旧北国街道横吹道跡の説明がでている。この先山腹の断崖を旧北国街道が通じていたが、危険な細道で北国街道最大の難所だったらしい。明治10年に千曲川沿いに横吹新道が開通しており、しなの鉄道のガードをくぐった先から、千曲川と岩山に挟まれた新道(国道)を歩く。
すこし先に「笄(こうがい)の渡し」跡がある。川向うには、均整が取れていて印象的な形の岩井堂山が見られる。


*笄の渡し: 戦国時代に、東北信一帯を支配する戦国大名となった村上義清は、坂城を本拠地として、甲斐の武田信玄による信濃攻略に対し善戦したものの、天文22年(1553)葛尾城を放棄して上杉謙信を頼り、越後へ逃れた。これが川中島の合戦につながっていったといわれている。
葛尾城陥落の際、義清と奥方は別れ別れに城をあとにした。義清夫人は着のみ着のまま暗い山道を下り、千曲川を渡って上山田の荒砥城へ逃れようと船と船頭を探し、無事向こう岸の力石に渡ることができた。奥方は我が身の危険を顧みずに船を出してくれた船頭に心打たれ、お礼に髪にさしていた笄を手渡した。村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったという。
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◆上戸倉、下戸倉
右手に岩山を眺めながら国道をしばらく歩く。そして国道舗装記念の大きな石碑のところで国道から分かれ、小さな集落を通ると、北国街道上戸倉宿本陣跡の説明板が立っていた。他に問屋跡らしい家が2軒あったが説明板などはなかった。

国道にもどり戸倉の町に入ると明治天皇行在所址碑が建つ一角があった。たぶん本陣跡なのだろう。戸倉駅前にくると立派な萱葺き屋根の酒屋(坂井醸株式会社)があり、店頭に北国往還下戸倉宿 萱乃庵の木柱が立っていた。


戸倉宿は上・下戸倉宿に分かれていたが、月の前半は下戸倉宿が、後半は上戸倉宿が勤める合宿であった。

午後4時をまわったところだが、戸倉温泉のホテルを予約しているので今日はここまでとした。萱乃庵のところで戸倉駅に向かい、宿の送迎バスを待つことにした。
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2014年10月20日
早朝、朝食前に夜明けの千曲川堤の散歩にでた。
千曲川もこのあたりでは実にゆったりと流れている。


朝食後、ホテルの庭園から千曲川沿いの道に出て、大正橋を渡り、街道筋に戻る。旧道は、すぐに国道18号から分かれ、しばらくはしなの鉄道沿いに進んで行く。

◆矢代宿
矢代宿は、千曲川を越える「矢代の渡し」を控えたところに位置し、迂回路である松代道(北国東脇往還)への分岐点として、また加賀藩の定宿として隆盛を見せた伝馬宿である。
慶長16年(1611)北国街道開設とともに、古来からの名を付した屋代宿が作られたが、寛文(1661-1672)の頃、矢代宿と名前を変えている。そのため、現在も、地名は屋代と表記されている。
屋代南高校入口あたりに、巨大な筆塚と道祖神がある。


かつての旅籠を思わせる藤屋旅館の先、街道突き当たりにある須須岐水神社の手前から矢代宿の町並みに入る。


須須岐水神社は古い情緒ある神社で、本殿は天保14年(1843)の矢代宿大火で類焼し、嘉永5年(1852)再建されたもの。須須岐水神社の先は、右折してすぐ左折し、枡形になっている。
その先の高見町交差点で松代道が右に分岐している。
少し先の屋代田町バス停手前に北国街道信濃矢代宿脇本陣跡がある。


脇本陣の先には、明治天皇御小休所趾、その向かいには門構えの立派な旧家がある。

矢代の渡し
道はその先、国道18号に突き当たり、右折して少し合流してから、国道を右に分け、左前方に進む。
往時の北国街道は、この先、千曲川に突き当たり、矢代渡しと呼ばれる渡し船で千曲川を渡った。今は、上信越道や長野自動車道、長野新幹線などがかなり複雑に交差する下の道を繰り抜けて、しなの鉄道のさらに東にある篠ノ井橋まで大きく迂回しなければならない。
篠ノ井橋を渡って、左折し、土手伝いに西の方にある対岸の矢代の渡し場に向かう。


しなの鉄道の踏切を渡り、新幹線の高架をくぐってようやく、矢代の渡し場のところにある軻良根古神社にたどり着いた。古くてなかなか情緒ある神社だ。


篠ノ井
軻良根古神社前から北に向かうと、やがて、北国街道と北国西脇往還の分起点の篠ノ井追分に至るのだが、道を少し間違えてしまった。ちなみに、分岐を左の方に行くと、道は洗馬に通じている。

篠ノ井追分より手前で右に行き、篠ノ井橋北交差点で北に向かって、見六(みろく)橋交差点で篠ノ井追分から来る道に合流。この見六橋交差点に置かれているみろくの道標には、善光寺方向を指さす図柄が石の道標に彫られていて、なかなか珍しい。傍には、馬頭観世音や筆塚も置かれている。


岡田川を見六橋で渡って、すぐ先の二股を左に行くと、香福寺入口に筆塚がおかれている。その先、宝昌寺では、境内の中に筆塚がある。このあたりには、大きな筆塚が非常に多くみられる。


少し先、御幣川五差路のところに歯瘡医殿がある。歯槽に苦しんだ行者が、他の者にはこの苦しみを味あわせたくないと誓願を立て、行人塚に生きたまま入定したことに由来している。同じ悩みを抱える者の一人としては他人事ではなく、とりわけありがたさを感じる。
ここの五差路は、前方に二つある道の右の方を行く。


旧街道の静かな道を暫く行くと、左手篠ノ井駅に通じる道と交差する。ここを直進して緩やかに右に曲がっていく道もあって、少し迷った。道路工事中の人にも聞いてみた結果、地図どおり直角に曲る枡形と考えるのが正解のようであり、右折、左折した道を行く。
ここから川中島町までは、しばらく真っ直ぐな道が続く。
途中、芝沢バス停の前に秋葉神社と天神さんの小さな祠がある。


高田交差点を通過、篠ノ井高田簡易郵便局の先に、石造地蔵菩薩坐像・石造薬師如来坐像の標識が立つ古い建物がある。いずれも室町時代の制作と考えられるそうで、長野市指定文化財となっている。


原村役場跡があるあたりには、たいそう立派な門構えの旧家が多い。


蓮香寺から少し行くと、明治天皇原御膳水碑が立つ門構えが立派な連子格子の旧家がある。
旧昭和村の昭和小学校を過ぎ、北原に入ると、左右に門構えの立派な家、土壁の家、煙出しのある家など情緒ある家並みが続く。中には、入り口にミニクーパが停められている茅葺屋根の屋敷などもあって、珍しい組み合わせだが妙に様になっている。


北原仲町バス停の所に天満宮がある。「北原区薬師堂遺跡地の案内」と書かれた案内板によると、この場所に、節婦おせんの顕彰碑、徳本念仏塔、三界萬霊塔、庚申塔、馬頭観世音碑、大輪坊の墓などがまとめておかれている。


荒屋信号で19号バイパスの高架下をくぐって先に進むと、川中島駅入口信号がある。犀川と千曲川に挟まれたこのあたり一帯が、かつて12年間に5回にわたる武田信玄と上杉謙信の戦いの場だったところになる。

やがて、丹波島信号を過ぎると、丹波嶋宿に入って行く。
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◆丹波嶋宿
丹波嶋宿入口のところにある於佐加神社の前に「丹波嶋宿の遺産マップ」と書かれた案内板がある。慶長16年(1611)松平忠輝は、それまで松代通り(北国脇往還)が正式の北国街道であったのを、善光寺、丹波島から矢代宿へのコースを正式の北国街道とし、丹波島宿を伝馬宿に指定したという。
於佐加神社のところは枡形になっており、そこから東の枡形まで東西6町に渡って、丹波島宿があった。
右折してすぐの家の屋根に鍾馗様がある。さっきの案内板によると、丹波島宿にはここを含め4箇所の鍾馗様の飾り瓦がある。


宿の真中付近に冠木門の旧家があり、「明治天皇丹波島御膳水」と刻まれた碑がある。説明板には問屋柳島家とある。
さらにその先左手の門構えの立派な旧家の前に「明治天皇御小休所」と刻まれた碑がある。説明板には本陣柳島家とある。


東の枡形を左折したところの蔵の屋根にも鍾馗様が観られた。
丹波島宿は、枡形と枡形の間のまっすぐに伸びた道の両側に間口の広い屋敷が整然と立ち並んでいて、古い屋敷はきれいに維持されている静かな街並みであった。
その先犀川に突き当たる手前に入口にあったのと同じ「丹波嶋宿の遺産マップ」と書かれた案内板が置かれている。案内板によると、突き当りが丹波嶋の渡し場跡になるが、道は旧枡形を右折する。この枡形の辺りに宿の枡茶屋があり、「旅人はその茶屋で休み、船が出る時急いで腰をあげ、国役土手をのぼって川原に降りて、渡し船で犀川を渡ったものであろう」と記されている。


今は、堤防伝いに東の丹波島橋まで行って、丹波島橋を渡る。
橋の左手の歩道を歩いていると、随所に案内板があり、渡し舟の時代(慶長16年)から舟橋の時代(明治6年)、木橋の時代(明治23年)、鋼橋の時代(昭和7年)へと、変遷がよくわかる。「渡し舟」については、慶長16年(1611)北国街道に善光寺宿、丹波島宿、矢代宿が開かれるとともに「犀川の渡し」が置かれ、渡し場は、川の状況によって位置を変えていたそうだ。
薄暮の犀川は、遠くの山並みと河原ののどかな景色が広がり、なかなかの情緒がある。


丹波島橋を渡り終えた所に、安政6年(1859)と記された大きな永代常夜燈がある。


橋を渡った先で、北国街道は、この広い自動車道の一つ東側の細い道を行く。

長野駅方向に向かって行く途中、吹上地蔵堂、観音寺など、歩く先々に寺社が見られる。
新しくできたようなガードをくぐって線路の反対側に出ると、北国街道は、この先善光寺に向かっている。
このあたりから、あいにく、雨が降り始めて来た。
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◆善光寺
善光寺表参道に入ると、参道脇には「十八丁」から始まって、「十七丁」「十六丁」と順次善光寺までの里程を表す石碑が置かれている。
参道の左右には、西光寺、栽松院、十念寺、など寺社が並んでいる。
七丁のところには北野文芸座があり、江戸時代は門前町に芝居小屋が軒を連ねていたという。すぐ先、左手には西本願寺長野別院がある。
善光寺交差点手前右の風格ある建物は本陣跡藤屋で、今も現役ホテルとして営まれている。
横町の善光寺交差点を右折するのが北国街道だが、今回の街道歩きはここまでとし、善光寺詣りをしていったん帰ることとする。

境内に入ると、まず見えてくるのが仁王門。仁王門前、左は大本願、右には宿坊が立ち並ぶ。境内入口から山門まで続く約400mの参道には、7777枚あるといわれる石畳が整然と敷かれている。


山門(三門)は、寛延3年(1750)完成、二層入母屋造りで重要文化財に指定されている。


山門をくぐると、いよいよ本堂が眼前に現れる。創建以来十数回もの火災に遭ったが、そのたびに全国の信徒によって復興され、現在の本堂は宝永4年(1707)の再建で、江戸時代中期を代表する仏教建築として国宝に指定されている。


甲州街道歩き旅の途中、立ち寄った甲斐善光寺は、武田信玄が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、御本尊をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したものだった。その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田信長・徳川家康・豊臣秀吉らのもとを転々としたが、慶長3年(1598)ようやく信濃に帰座したという。
善光寺が辿ってきた歴史の一端を物語っている。
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無事、善光寺参拝後、近くの権堂で高速バスに乗り、帰途に就いた。