2015年9月8日
黒井~潟町~柿崎~鉢崎~(笠島)
9月8日、いつも通り朝早く家を出る。これまでは、大宮から北陸新幹線を使っていたが、今回は上越新幹線で越後湯沢に行き、ほくほく線に乗り換えて、犀潟経由で黒井に向かう。富山・金沢方面への短絡線として1997年に開業したほくほく線は、上越新幹線の越後湯沢と直江津・富山方面とを特急「はくたか」で結んでいたが、今年の北陸新幹線開業に伴い、「はくたか」は廃止された。十日町、松代といった豪雪地帯を通るため、トンネルが多いが、犀潟手前の頸城を過ぎると急に、見渡す限りの田圃が広がる景色に変わる。右側の車窓からは、はるか向こうに独立峰米山がよく見えて、いい眺めだ。
今朝、家を出るときは雨が降っており、天気予報では台風接近のため雨模様だが、上越地方は幸い曇り空で、雨具の必要はなさそうだ。
犀潟で信越本線に乗り換えて一駅の黒井駅にたどり着いた。この駅は駅舎が無く、自由通路となっている南北をつなぐ路線橋の中ほどに切符自動販売機が置いてあるだけの珍しい駅である。駅周辺は広大な工場地帯となっていて、真に殺風景である。
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◆黒井宿
犀潟に向かって歩き始めると、しばらく街道は信越化学の工場わきを進み、往時の面影とは程遠い。黒井神社が見えてくるあたりから、漸く旧街道の雰囲気が感じられるようになって、黒井信号を右折すると、一変してかつての宿場雰囲気が残る街並みが続く。
黒井宿中心の本敬寺には、地元の俳人達が建てた芭蕉句碑がある。奥の細道の旅の途中、出雲崎に一泊した芭蕉は、7月5日(陽暦8月19日)柏崎を経て鉢崎に泊まり、翌6日、柿崎、潟町を経て黒井宿の旅籠屋伝兵衛で休息したあと、船で関川を渡って今町(直江津)に向かった。
本敬寺を過ぎると、上荒浜、下荒浜、遊光寺浜、夷浜、西ケ窪浜と続き犀潟に至る。海側に続く砂防林の南側を行く街道には、よく手入れされた庭木が見事な民家が数多く並んでいる。
下荒浜の八千浦小学校の向かい側に順徳天皇御駐輦之所碑が建っている。
順徳天皇は、後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府転覆を図った承久の乱に敗れ、寺泊経由で佐渡へ配流される途中でこの地に立ち寄ったとされる。駐輦(ちゅうれん)とは、天子の乗り物が停まることだそうだ。
まっすぐ伸びた街道沿いに、家並みは途切れることなく続き、西ケ窪浜を過ぎると犀潟となる。
黒井から歩き始めてまだ1時間ほどしかたっていないのだが、東林間を出る前に朝食を摂ってからすでに6時間以上経っている。空腹感を感じ、腹ごしらえをしたいのだが、旧道では食事処どころか商店など一軒もない。犀潟駅前なら何かあるかもしれないと、旧道を外れて行ってみると“もおにんぐ“というカフェのようなものがあったので、救われた気分で迷わず中に入る。月並みながら、ナポリタンを注文してみると、なかなかちゃんとした内容で美味だった。
犀潟から潟町にかけて、このあたり一帯は海岸に沿って延々と砂丘が連なり、その内部は低湿地が広がっていた。この低湿地の干拓は寛文元年(1661)に始まり、人工の川や用水路を何本も造ったが、それらは自然の川に水を落としていたため、洪水で決壊した時の被害が大きかった。そのため、新堀川は渋柿浜の砂丘を切り開いて直接海へ流すことにした。新堀川排水路は、宝暦6年(1756)から天保6年(1835)までの約80年間の長い年月をかけて農民たちによって造られ、流域内の農地や住宅、道路が洪水で浸水するのを防いでいる。
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◆潟町宿
土底浜の先、しばらく進んだ左手に火防地蔵尊がある。この地に語り伝えられた伝説にあるものだが、これまで見たことがない珍しいものである。
潟町郵便局の少し先右手に、古い構えの家の玄関脇に明治天皇潟町行在所跡碑が立っていた。
少し先の医院の隣の建物は、造りが少し変わっていて面白い。
潟町駅へ向かう道の角に、「米山道」「左奥州道」と刻まれた道標が立っている。
九戸浜の日本海夕日の森入口の少し先にどんどの石井戸案内板がおかれている。この井戸はどんな炎天下でも枯れることなく水が湧き出ているという。いまでも一部利用されているが、昭和25年頃までは村人の飲料水として利用されていたという。万治3年(1660)潟町に北国街道の宿場が作られたときに、宿場の東端に清水が湧き出して水車のある酒店があった、と記されている。説明板の後方、道から奥まったところに井戸がある。
道路を挟んだ向かいに、コンクリートでできた用水がある。辨天池といい、昔からこの場所に湧いていて洗濯や食器洗い飲用水として利用されていた。真ん中に辨天様が祀ってあり毎年祭りのある時は、地域住民で賑わったそうである。
鵜の浜海岸に来ると、急に大きな旅館やホテルが立ち並んでいる。ここには、帝国石油が石油・ガスを試掘した時に温泉が噴出したという鵜の浜温泉がある。
みごとな黒松の砂防林が列なるところに、240年前に地主の藤野条助が苦労して植林をしたとの説明板がある。彼が私財を投じて始めた松の植林が、高田藩の奨励を受けて規模を拡大し砂防林の基を作った。
鵜の浜海岸には佐渡の娘と雁子浜の若者にまつわる人魚の伝説が残っている。人魚伝説公園に、この人魚塚伝説之碑が建っている。
柿崎区の標識を過ぎ、上下浜にくると、米山がぐっと近くに見えてくる。
さらに柿崎宿に向かって進んだ直海浜の光徳寺のところに、ライオン創始者の小林富次郎についての案内板と富次郎を讃える堅忍遺敬の碑がある。
富次郎は 嘉永 5 年(1852)、埼玉県で生まれた。4 歳のとき、父母の郷里である直海浜村(現・柿崎区直海浜)に戻り、16 歳まで祖父母に育てられた。その後、いくつかの事業を展開する中で何度も窮地に陥り、眼病にも悩まされたが、明治
24年、後のライオンの前身となる小林富次郎商店を開く。キリスト教を信仰した富次郎は、幾多の苦境から救われた恩を返そうと、社会福祉に積極的に取り組んだ、ということだ。
少し歩くと、黒松林の植林に勤めた藤野条助の比較的真新しい顕彰碑がある。これは川室某という個人が建てているものだった。
柿崎宿手前のこのあたりからは、米山がかなり近くに見えるようになる。
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◆柿崎宿
柿崎川を渡ると黒川神社があり、柿崎宿に入って行く。
戦国時代、この地に柿崎城を構えた柿崎氏は代々米山薬師を尊崇し、善政を行って領民に慕われた。上杉謙信に重用された柿崎景家は、謙信四天王の一人に挙げられる猛将で、春日山城の留守居役も任される一方で、関東の北条攻めや武田信玄との戦いなどに従軍した。また、斎藤朝信と共に奉行としても功績を残した。最期は、織田信長への内通を疑われて謙信に謀殺されたという俗説が知られているが、実際の死因は病死であり、楞厳寺(りょうごんじ)が菩提寺となっている。
柿崎家は「御館の乱」において一族で敵味方に別れて同士討ちという惨劇を繰り広げ、謙信の後継者となった景勝からその功を認められ、柿崎家自体その後も存続した。
宿場の中程に浄善寺という寺がある。宿を断られた親鸞が枕代わりに使って野宿した石を置いてあるという。本堂がインドのパゴダ洋式の造りが変わっている。
宿場の外れの枡形に、「右山みち 左奥州道」と刻まれた指で方向を示した石碑がある。矢代の渡しの先、見六橋のところにあった見六の道標でも見たが、このように浮彫りのものはかなり珍しい。
柿崎から先の北国街道は、鉢崎の手前までは国道8号線になっている。
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◆鉢崎宿
難所の米山三里の入口の鉢崎宿に入る。鉢崎というのは鯨波からここまで八つの岬があることから名付けられたのだそうである。
宿の中ほどに、たわら屋六郎兵衛の家の標石がある。柏崎で宿を断られた芭蕉が泊まった家である。季節は今の8月後半、当日は雨が降ったり止んだりしていたらしい。出雲崎から柏崎まででも7里近くあるのに、そこから4里近く難所を憤慨しながら上り下りして来たのだから、さすがの芭蕉もへばったであろう。翌日からも雨が降ったり猛暑になったりで体調を崩してしまった。「奥の細道」にこのあたりの記述は何もない。
鉢崎関所は、慶長2年(1597)上杉家により設けられ、江戸時代には徳川幕府の全国53関所の1つとして領内出入りを取り締まり、越後頸城地方の三関(関川・鉢崎・市振)として重要な役割を持たされていたという。
同じ頃、この鉢崎は北国街道の宿場町としても栄え、また、佐渡からの金銀輸送の継送に際し御金蔵が置かれ、金箱が納蔵されると、その夜は番頭を中心に70人もの人で警備にあたったという。この輸送は年に数回もあって、宿場側にとっては大きな負担になったという。
ここから坂を上って聖ケ鼻へ向かう。上り道の途中からは、鉢崎宿がよく見え、その景観は中山道の碓氷峠の途中の覗で見える坂本宿と雰囲気が良く似ている。
聖ケ鼻へ上って行くと、展望広場になっていて、弥彦、佐渡が遠望できる。ただし、ここから先の道は平成19年の中越沖地震で崩落し、行き止まりになっていて歩けなくなっている。
広場には、樺太探検家松田伝十郎の顕彰碑がある。鉢崎の出身で松前奉行所に籍を置き、文化5年(1808)部下の間宮林蔵を連れて樺太に渡った。彼らは二手に分かれて樺太を北上したが、最初に北端に近いラッカ岬に着いたのは伝十郎だった。
展望広場から引き返し、国道に出て、米山トンネルで抜けて上輪集落へ向かう。
国道に出る手前に鉢崎の地蔵尊で知られる蓮光院がある。江戸時代の北国街道はこのあたりでは海沿いを通っていたため、冬の荒れる日本海では命がけだった。そのため通行安全を願って大小数多くの地蔵尊が祀られていたが、明治29年に信越本線がこの地を通る際、岩に刻まれたご本尊は移転できなかったため、爆破してしまった。それ以降、工事中に事故が相次いだため、散逸した仏体を拾い集めて新たにここにお堂を建立したところ、工事は順調に進んだという。
国道に出るとすぐに米山トンネルに入る。車ではあっという間に通り過ぎるトンネルでも、歩くとなると横を車が通るたびに恐怖感を感じる。
本来の旧道は、米山トンネルを抜けてすぐ先で国道から分岐して左へ下ったところになるのだが、トンネルを出たところで胞姫神社への案内板が目に入ったため、そのまま国道を進んだ。
胞姫橋を渡ってすぐの上輪大橋手前で右に胞姫神社への道があった。
胞姫神社の「胞」とは、胞衣(えな:胎児を包む膜や胎盤のこと)を意味する。縁起では、その名の由来を源義経の嫡男出産伝承との関連で説明している。義経一行は直江津から海路奥州へ下向の折、嵐に遭いやむなく当地へ上陸した。この時、急に北の方(正室)が産気づき、嫡男亀若丸を出産した。同行の弁慶は無事出産の礼に当地鎮守境内に亀若丸の胞衣を納め、併せて源氏の氏神である諏訪・八幡の両神を祀ったと云われている。付近には、産所跡の亀割坂や弁慶が金剛杖を突いて湧出させた弁慶の産清水(うぶしみず)などの地名・遺跡も残っている。
歩道がない上輪大橋を恐る恐る渡り、上輪新田信号のところで国道から別れて上輪集落に向かうと、左から来る旧道と合流するところに六宜閣がある。
国の登録有形文化財になっている六宜閣は、江戸時代末期に建てられ、明治11年には明治天皇の休憩所となった由緒ある建物で、今は、料亭として昼時のみ営業しているらしい。
六宜閣から笠島方面に行くと、牛ケ首が見える。牛ヶ首では、折れ曲がった暗色の地層が水平な地層に挟まれている褶曲地層がよく見える。これは500万年前に出来た層内褶曲と言うもので、米山周辺に多く見られるものだそうだ。
笠島は、米山山塊が海に落ち込む断崖のわずかな土地に造られている。集落の中心は北国街道に沿っており、海側の一段と低いところには鉄道が通る。旅人にとっては、険しい米山三里の中でも、親知らず子知らずに例えられるほどの難所であった。
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今回の歩き旅はここまでとし、信越本線で柏崎の実家に向かった。