2020年11月16日 市米橋~渋沢
今回は、小田急線で伊勢原まで行き、大山街道で大山まで行った時に通った市米橋交差点から矢倉沢往還の旅として再開する。
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市米橋
市米橋交差点から矢倉沢往還に入ってすぐのところに耕雲寺がある。
この寺の山門を入ると左側に石仏・石塔が纏められて並んでいるが、その中に享保13年(1728)造立の庚申塔道標がある。この道標は、もともと咳止地蔵の所にあったもので、側面に「左おふや満みち
右ひなたみち」と刻まれている。
街道を進んでしばらく先で国道246号に合流すると、すぐ近くに伊勢原大神宮が鎮座している。創建は江戸時代初期の元和年間(1615~1624)というから比較的新しいが、内宮・外宮が並ぶ二社殿形式のつくりは珍しい。
伊勢の国出身の山田曾右衛門が伊勢神宮を勧請したもので、伊勢原という地名の由来となっている。
伊勢原大神宮を出て国道を10分ほど行った中屋敷交差点角に、レトロな郵便ポストと庚申塔道標、道祖神が並んでいる。
矢倉沢往還はその先でわずかばかり残る旧道に入るが、すぐに国道に合流し、白根交差点で国道から分かれて右へ曲って行く。
その先は、大きく反時計回りに行って鈴川橋を渡ったところで国道に戻る。途中、吉川醸造のすぐ先の丁字路を右に行くと相模國三之宮の比々多神社に至るのだが、ここは丁字路を左に向かって国道246号に戻った。
このあとしばらくは国道を淡々と歩き、鶴巻温泉への分岐のところで東名高速をくぐる。
やがて信号のある坪ノ内交差点で左に曲がり旧道へ入る。
最初の交差点で右に行くのが旧道だが、ちょっと左に行くと民家の塀のしっかりした囲いの中にお地蔵さまが鎮座していた。もとに戻って旧道の方に進むと、すぐ先の三叉路には愛鶏供養塔と地蔵2体が塀にしっかり囲われて置かれていた。
このあたりでは、古くからのこうしたものが地元の人たちの生活に溶け込んで大事にされている様子が窺われる。
供養塔の右側を進むと人家が疎らになり、旧道の雰囲気が徐々に深まっていく。
すぐ先の三叉路では左の山中の道へと入っていくと、ほどなく神代杉の説明板が立っている。古代、この辺一体の大森林が洪水で埋まり炭化したうもれ木があるという。
この先も、雑木林の木漏れ日の中を歩いたり、みかん畑の横を歩いたりと、なかなか気持ち良い旧道歩きとなる。ただし、「クマ出没注意」の看板が随所に立てられているので、熊よけのベルを鳴らして一応用心しながら歩く。
やがて大きな石のところに「太郎の里つくり協議会」の夜泣き石の説明板が立っている。その昔、旅人がこの石の辺りに誰助けることなく倒れていたそうだ。以来、夜中になると助けを求める声が聞こえたという。このすぐ先には石塔群があった。
この先しばらくクマに用心しつつも、心地よい古道歩きになった。
やがて三差路に至り、そこに立つ標識に従って左の草道を行く。矢倉沢往還旧道はハイキングコースとなっているので、要所には標識がしっかりと設置されている。
つぎは、右へ下ると集落への道になるところで、旧道は左の草道へと入っていく。
ほどなく三叉路に差しかかると、「この農道は通り抜けできません」という看板が立っている。地形的には、このまま農道を進んで行くのが矢倉沢往還の善波峠への最短ルートのように思われるが、ここは素直にそれにしたがって国道246号に向かって右へ下っていく。
やがて国道との合流点に至ると、すぐ先に新善波隧道が見える。
<善波峠>
矢倉沢往還の旧道はトンネル手前で左の道に入って行くらしいが、ルートがはっきりしないので新善波隧道を通っていくことにした。ここは、新善波隋道の手前を曲り、旧善波隋道で峠の向こうに出るという手もあるが、どちらにしても旧街道の峠道は新旧隧道の上を越えることになる。
新善波隧道のトンネルを抜けて少し先の十字路を左に曲り、少し行くと十字路の角に左に曲がる峠道への案内板が立っている。案内に従い、峠への道を上って行くとやがて善波峠切通しに至る。
善波隋道は昭和初期に完成したのだが、それまではこの峠道が唯一の交通手段であった。
そこにはかなり風化が進んだ5体の石仏が並んでおり、古道の雰囲気がタップリの道である。
もと来た十字路まで戻ったら、旧道はそのまままっすぐ坂道を下って行く。
乗馬クラブの厩舎を左手に見ながら進むと、街道からの眺望が素晴らしく、眼下には秦野市街が、遠くには箱根連山が一望される。
この先は住宅地を通るやや単調な道がしばらく続く。
秦野曽屋高校横を過ぎると、名古木(ながぬき)交差点のところで国道に一旦合流し、すぐに分岐する県道を曽屋宿へと入っていく。
曽屋宿
金目川に架かる入船橋を渡ると馬頭観音などの石仏群が柵の中にまとめて置かれている。
その先の緩い坂道を上って行くと旧曽屋村に入っていくのだが、その入口付近に道標を兼ねた嘉永4年(1851)建立の庚申塔がポツンと立っている。
宿場時代の面影がほとんど無くなってしまった曽屋宿だが、バス停の名前には、下宿・仲宿・上宿の名残がしっかり残っている。
街道の奥に見える上宿観音堂は寛政年間(1789~1801)の創建と推定されている。本尊は行基の作と伝わる千手観音菩薩だが拝観出来るのは12年に一度の御開帳法要のときのみという。
旧矢倉沢往還はこの先、緩い坂を下って水無川に架かる秦野橋を渡り、右へ曲って行く。
かつては、大雨の時以外はほとんど水が流れていなかったという水無川だが、今は僅かながら流れがある。
秦野橋を渡った先は、緩くて単調な上り坂がどこまでも続く。
しばらく進むと、幼稚園の前に大きな矢倉沢往還碑が置かれている。古道解説には、先ほど通ってきた曽屋村と、この先の千村で人馬継ぎ立てを行っていたとある。
街道は次の三叉路を右に曲っていくのだが、三角スペースの中に比較的新しい夫婦道祖神が置かれていた。
夫婦道祖神といえば信州・安曇野が有名だが、矢倉沢往還にも結構多くの夫婦道祖神があることを今回の街道歩きで知った。
淡々と歩いていくと、やがて渋沢駅近くの稲荷神社前交差点に至る。この交差点は、真っ直ぐ進む千村経由の矢倉沢往還、左へ曲がって篠窪を経由する平安・鎌倉期の矢倉沢往還との追分であった。
かつてこの交差点にあった大きな追分道標が、今は交差点を右へ行った稲荷神社横に移設されている。寛政8年建立の道標で、正面「左 小田原 い々すミ 道」、右側面「右 ふじ山 さい志やうじ道
左十日市場 かなひかんおん道」、左側面「左 大山道 願主富村 江戸屋喜平次」と刻まれている。い々すミは小田原飯泉観音、さい志やうじは大雄山最乗寺、かなひかんおんは平塚金目観音。
神社の鳥居の前の大木は秦野市指定の天然記念物稲荷神社の大公孫樹(イチョウ)で、その木の下に置かれている大山道矢倉沢往還碑によると「ここは、東西に走る矢倉沢往還と南北に走る小田原道が交差した賑わった場所。旅籠も何軒かあった」という。
本日はここまでとし、小田急線渋沢駅からいったん帰宅した。
次回は、稲荷神社前交差点から平安・鎌倉期の矢倉沢往還を辿っていくことにする。