渋沢~矢倉沢

2020年11月30日 渋沢~矢倉沢

今日は、渋沢駅近くの稲荷神社前交差点から歩き旅を再開し、二つあるルートのうち渋沢峠を経て松田に抜ける平安・鎌倉期の矢倉沢往還を辿って矢倉沢まで行く予定。
朝から天気が良くて、駅北口に出てみると、大山がきれいに見え、西に目を向けると富士山もよく見える。いよいよ富士山が近くなったと実感する。
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駅南口を出て、前回訪れていた稲荷神社、追分道標前を通って交差点に出た。稲荷神社前交差点から交差点の先で緩い坂を上り、いったん下ったら堂坂の結構な上り坂となる。
坂の途中で振り返ってみると、大山をはじめに丹沢の山並みがきれいに見えて素晴らしい。


何度か振り返ってカメラに収めながら歩いているうちに、途中から旧道に入るところを見過ごしてしまい、渋沢隧道のところまで来てしまった。旧道の渋沢峠はこの隧道の上を通っているはずなのだが、ここまで来たら引き返す気にはならず、この先のどこかで旧道と合流するしかない、と諦める。

県道を歩いていると、右手に旧道が通っていると思われる尾根が続いている。いかにも展望がよさそうで、道を間違えたことが悔やまれた。
渋沢隧道を抜けてから20分ほどすると、県道708号線は右にヘアピンカーブとなり、坂を下って行く。やがて左に大きく曲がるところで、渋沢神社の先で見過ごしてしまった旧道が右手から合流してくる。
篠窪の集落に入って少し進むと、左へカーブする直前の右崖下に可愛らしい夫婦道祖神が置かれており、その反対側のガードレール下には覆い屋の中の小さな祠が見える。


矢倉沢往還はその先で真っ直ぐ進んで山道へ入っていくのだが、左に曲がって篠窪の集落を進んで行く。やがて右に大きく曲がるところに、いかにも年代を経た風情の座り地蔵が置かれている。


すぐ先の地福寺は、鎌倉武士の二階堂氏が創建したと云われているが、山門が冠木門だったり、大きな狛犬があったりと、ちょっと変わった寺である。


県道をそのまま進むと、すぐ先は三嶋神社である。鳥居の横に街道に覆い被さるような椎の巨木が、樹齢五百年とも八百年とも謂われている。
旧道はその先の分岐で右の坂道の方に行く。

坂を上っていくとすぐに富士見塚がある。
傍らの解説板によると、鎌倉幕府を開いた源頼朝は武士の士気を盛んにするため巻狩りを催していたが、この矢倉沢街道の榎に馬をとどめて富士のすばらしい眺めを鑑賞したという。
富士見塚から上り坂を少し行ったところにある見晴休憩所からの眺望が素晴らしい。


眼下には足柄平野、その真ん中を一直線に走る白い線は酒匂川、その向こうには箱根連山の双子山、明神岳、金時山、矢倉岳、そして富士山が見える。

この先の旧街道は、富士見塚と源頼朝が馬を繋いだという伝源頼朝駒留の榎の間の狭い道を下って行く。やや短い区間だが、枯葉の絨毯が敷かれ、風情たっぷりの旧道である。


やがて車道に合流し、しばらくはこの道を歩くと、少し先で「神山神社0.4km」の表示が出ており、右の旧道を進む。
ミカン畑の脇を行く旧道は、いかにも旧道という雰囲気がよい。ミカンと富士山のツーショットというのはなかなか珍しい構図だ。


住宅地の間の細い道を下っていくと、左手階段の上にひなびた感じの阿弥陀堂が見える処に出る。由緒などは不明だが、ここで毎年5月に行われる百万遍念仏講は300年の歴史があるという。
道を挟んで反対側は神山(こうやま)神社で、広い境内は一面にイチョウの落ち葉が敷き詰められ、さながら黄色い絨毯を敷いたようになっていた。


神山神社を出て数分歩くと県道710号線に合流する。ここは渋沢の稲荷神社前交差点で別れた江戸・明治期の矢倉沢往還との合流点で、ここを左に曲がっていく。
左に曲って少し行った神山交差点を右に曲る道が江戸・明治期の矢倉沢往還だが、もともとは交差点を真っ直ぐ進む道が使われていた。まっすぐの道を行くと、かつて渡し場があったところとなるが、今は渡しも橋も無いので、神山交差点を右に曲がり、小田急線の踏切を越えて川音川に架かる籠場橋を渡って行く。

惣領宿
橋を渡った左詰めに石仏・石塔が集められて並んでいる。


幾度も川の流れが変わっているうえ、JR御殿場線、小田急線、高速道路などの大規模工事の影響もあってのことであろう。
このあたりから松田惣領宿に入って行く。

しばらくすると、右手に延命寺への長い参道が延びており、朱色の山門の奥に薬師堂が見える。


堂内には鎌倉時代の作と考えられる薬師如来坐像・聖観音菩薩立像、室町時代初期の作とされる薬師如来立像が安置されている。

街道はこの先で左に曲がり、しばらく進んでJR御殿場線のガードをくぐって右へ曲ると、ガードを抜けた先は小田急・新松田駅の前に出る。
今の松田惣領宿には宿場時代の面影はほとんど残っておらず、ロマンス通りという名の通りを進む。渡し場が幾度か変わったことやJR御殿場線、小田急線が通ったことで惣領宿内の街道の道筋ははっきりしなくなっている。
やがて信号で左に曲がり、少し進むと寒田神社の案内が出ている。路地の先にある寒田神社は、由緒によると「仁徳天皇3年(315)の古代に創建・・・・」とされる古社。


寒田神社を出たら十文字橋で酒匂川を渡っていく。この橋は東海道線(現御殿場線)開通後の明治22年(1889)に大雄山最乗寺道了尊に通じる幹線道路として造られ、当初は木製の橋でお金を払って渡ったそうだ。その後、洪水で何回か流されたが、現在の橋は平成20年に架けられたもの。
ちょうどお昼時になったので、土手に置かれたベンチでお昼をとることにした。広々とした河原の向こうに富士山を眺めながらいただくおにぎりは、なかなかの御馳走であった。


橋を渡った左詰めに十文字渡しのケヤキが立っている。十文字の渡しは対岸までがあまりに遠いので目印に植えられたそうだが、樹齢200年のケヤキはついに力尽きてしまい平成6年に切り倒されて今は二代目となっている。

橋を渡ったらすぐに左手の旧道を辿って行き、少し行った道の角に形の良い松の木の下に道祖神が見られた。


この先、静かな旧道にはきれいな水が勢いよく流れる用水が流れている。
5~6分歩くと大長寺の裏に出るが、この辺りは酒匂川対岸の町屋とを結ぶ矢倉沢往還初期の渡し場があったところである。ここに石仏や石塔が寺の塀を背にたくさん並んでいる。


少し先で突き当たりを右に曲がって行くと、石塔群や石仏が行く先々で次々に見られ、のどかな旧道が続く。途中、牛島自治会館前にあったのは矢倉沢往還説明板があり、「古代、都より東国に通じた官道のなごりともいわれています。・・・・」とある。

その先で、なんとガラス張りのお堂に納められた宮台のお地蔵さんが見られる。江戸時代には近くの本光寺地蔵堂にあったそうだが、幾多の変遷を経てここで大事にされている。


この先、少し道が分かりにくいところとなるが、やがて洞川に架かる橋場橋を渡り、屋敷塀の立派な旧家の先で右に曲がり、藪通りの坂を上ると福田寺の前に出る。

このあと、関本宿までの道筋には石垣が積まれた家が続き、路傍にさりげなく立っている石仏が、かつて多くの旅人がこの道を通ったことを教えてくれる。

関本宿
ほどなく龍福寺交差点に差しかかり、交差点を右に少し行くと、龍福寺がある。ここには、義民下田隼人の墓がある。関本村の名主であった隼人は、過酷な年貢取立てで一揆を起こそうとした農民を鎮め自らが直訴し、願いは聞き入れられたが強訴を咎められ斬首となった。
交差点まで戻ると、駅側に旅籠富士屋跡説明板が歩道際に設置されている。この先にも「関本宿を語る会」の設置した説明板が随所に設置されている。

次の交差点まで来ると高札場跡が復元されており、そこには「ととう(徒党)して ねがい事くわだつるを ごうそ(強訴)という」とある。


すぐ先が本陣福田屋跡だが説明板によると、元々の本陣というわけではなく小田原藩主大久保公宿泊に際して本陣としたようだ。

この先、街道沿いには富士登山碑上宿の道祖神などの石塔・石仏が次々と現れる。


緩い上り坂はこの先もずっと続くが、5~6分歩いたら弘済寺の看板が見える。弘済寺への入口の大門通りには多数の石塔・石仏が並んでいる。


大門通りを右に入って数分の弘済寺地蔵堂で鎌倉時代から南北朝時代頃の作とされる地蔵菩薩坐像を拝観できる。

街道に戻りしばらく歩くと真っ白いお地蔵様が。通称白地蔵、またの名を化粧地蔵と呼ぶ地蔵様で安産と授乳に霊験あらたか。願いが叶うとお礼参りにうどん粉を塗りつけるのだという。


万治2年(1659)の地検帳にこの辺りが化粧坂として記されていることから室町時代以前から祀られていたのではないかと推測されている。

旧街道はその先のバス停刈野駐在所前から右の脇道に入り山中の足柄古道を歩いていく。
脇道へ入って数分で足柄神社が見えてくる。かつては足柄峠に祀られた足柄明神であったが何度か遷座してこの地に。拝殿は比較的新しいが本殿は慶応2年(1866)の建築。ケヤキの白木造りだが獅子や龍の彫刻が施され素晴らしい。


神社の一段下にひっそりと佇むお堂は足柄明神本地堂(観音堂)。平安時代末頃から盛んになった本地垂迹説が延々と続いているもので、昔は別当寺の弘済寺が管理していたそうだ。

足柄神社から先は山中の足柄古道を歩くのだが、長閑な雰囲気がなんとも心地がいい。足柄古道はまだ続くが、私は二番目くらいの三叉路で県道の方へ下った。
県道のすぐ手前で双体道祖神が立つ突き当りに出た。矢倉沢宿側に下りて県道に出ると、すぐ先の北幼稚園前バス停の手前に大きな石碑群がある。

この先も次々と様々な石碑・石塔が現れてくる。
緩やかな坂を上ってしばらくすると、大きな石を祀った法明堂に至る。「苅野のおまんだら」と呼ばれる曼荼羅石を祀るお堂。日蓮上人がこの地を通り身延山から江戸の本行寺へ向かう事を知った村人が歓迎したところ、「南無妙法蓮華経」とのお題目を書いて貰ったため、それを石に彫り信仰の対象としたとのこと。


そのすぐ先で左に下がって行く道があり、矢倉沢下庭の標識が立っているが、ここは県道をさらに進んで行く。
やがて、東山バス停の手前に大きな石塔群が見えてくる。


その中のひとつは芭蕉句碑で、安政4年(1694)、芭蕉最後の帰郷の折、ここで詠んだとされている。
  - 目にかゝる 時やことさら 五月富士 -

東山バス停のところで石碑群の反対側の坂を下っていくと矢倉沢宿へ入って行くのだが、帰りのバスが限られているため、本日はここまでとし、帰途に就いた。ここから、大雄山まで行き、そこで新松田行のバスに乗り換えて小田急で帰る。