足柄~岩波

2021年2月17日 足柄~御殿場~岩波

前回、足柄峠を下りてJR御殿場線の踏切を越えたところにある足柄駅でいったん切り上げていた。今日は、小田急新松田からJR御殿場線に乗り換えて足柄まで行き、再開する。
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竹之下宿
駅を出るとすぐ目の前が鮎沢川に架かる千束(ちずか)橋で、街道はここを渡って行く。
千束橋については、建武2年(1335)、朝廷側の新田軍と叛旗を翻した足利尊氏軍がこの辺りで戦った竹之下合戦の際、敗走する新田軍がここに架かる橋を落としてしまったため追う足利軍は薪を千束投げ入れて橋の代わりにした、と言われている。
橋を渡った左側に竹之下合戦跡碑が建てられている。


千束橋の先、階段下の参道入口に石塔が並ぶ常唱院前を通って行くと、小山町足柄支所入口に大きな竹之下古戦場碑が建てられている。


建武2年、足利尊氏追討の朝命を受けた新田軍は各地で足利直義軍を破りながら東海道を下って鎌倉に迫ってきた。これに対し、出家していた尊氏自らが鎌倉から出陣し、竹之下に陣を張っていた新田義貞の弟・脇屋義助を奇襲し大勝した。この後、足利軍への寝返りが続出することもあって新田軍は総崩れとなり、勢いに乗った足利軍が、建武政権に反感を抱く武将たちを味方につけながら一気に都に攻め上がる契機となった。

街道はその先の常夜灯と半鐘が立つ曲がり角で左に曲がって行くが、そこが旧竹之下宿で、小さな宿だが宿場時代の屋号を掲げている旧家が何軒か見られる。

その先の交差点向うに常夜灯や馬頭観音、道祖神などの石塔群が見える。


石塔群の脇に有闘坂(うとうさか)の標識が立っており、坂道を進むとすぐに山中の静かな上り坂となる。


有闘坂を上り切ると目の前は比較的最近整備された様子の舗装道となっている。
少し先の杉並木の片隅に有闘坂上一里塚碑と説明板が建てられており、さらにその先の交差点際に戦跡・釜沢と記された看板と石碑が建てられている。


ここにある駐車場の奥の方に行くと、手前の東名高速道が崖下のほうを走っていることもあってすこぶる見晴らしがよく、まったく遮るものなく富士山の全容を眺めることができる。

交差点の反対側の小山高校のところに上横山遺跡と記された説明板が建てられている。奈良時代の初め(8世紀前半)頃の遺跡で竪穴住居跡や掘立柱建物跡などが発掘されて、遠く奈良・平安京で発掘された物と類似の土器も発見されているのだそうだ。
交差点を越えた辺りが陣場だったようで道路際に陣場跡碑が建っている。
その先左手の日立ハイテクサイエンスのところにも上横山遺跡と記された説明板が建てられている。

この先で東名高速の上を越えると御殿場市に入っていく。
しばらく行くと、蓮花寺バス停の先の道路際に石塔が並んでいる。


傍らに「御厨(みくりや)の古道 矢倉沢通り 鎌倉街道 足柄街道 NPO富士山御殿場ガイド 御厨の風」という表示板が建てられている。この表示板は、この先も古道の随所に設置されていた。
平安時代後期(1100年頃)、この辺り一帯(御殿場、小山、裾野)は伊勢神宮の荘園であったことから御厨と呼ばれていたが、いまでもこの地方をみくりやと呼んでいるようだ。

それにしても、このあたりは大型ダンプがひっきりなしに行きかっており、のんびり古道の雰囲気を楽しむどころではなかった。

ほどなく深沢の集落に入ると、ここにも独特の文字が刻まれた唯念上人名号塔がある。傍には馬頭観音や庚申塔などの石仏も並んでいる。


名号塔の手前を右に曲がり数分行くと深沢城址碑が見えてくる。


深沢城址は、戦国時代に今川氏が築城したと伝えられている。その後、武田信玄の手に渡り、武田氏が滅ぶと徳川家康の手に渡ったが家康が関東移封となり廃城となった。

深沢城址を出て街道に戻ってしばらく進んで行くと、家並みがまばらなところでは、街道わきのところどころに石仏や石塔が置かれている。
家並みが増えてくるあたりでは、お茶屋、糀屋、醤油屋といった古くからの商店が見られるようになる。また、抜川に架かる橋のたもとには、双体道祖神と小さな祠が置かれているなど、旧街道の風情がそこここに感じられる。


少し先に行くと、御殿跡入口の標柱があるので右へ行ってみる。
穂見神社の奥にある吾妻神社から御殿場高校一帯にかけては、かつて、徳川家康のための御殿があった場所。境内の一角に御殿場発祥の地碑が建てられている。


元和元年(1615)に建てられた御殿だが元和2年(1616)に家康が死去したため家康公が使うことはなかった。

再び街道に戻ってしばらく歩くと、御殿場バイパス(国道138号)手前に浅間神社ヶ鎮座しているが、参道を進んで行くと拝殿の右手横に二枚橋古墳がある。墳丘の長さが三十数メートルという比較的小さな前方後円墳で詳しいことはわからない。

街道に戻り国道138号を横断して20分ほど歩くと街道際に朱鮮やかな鳥居がそびえているが、ここは新橋浅間神社。ちょうどこの時期、鳥居の周囲には紅白の梅が咲き、その後方には銀色に輝く富士が見えている。


当神社は建久4年(1193)に源頼朝が富士の巻狩りを行った際創建されたと伝わっている。(他説もある)富士登山の際は当神社に詣で、お祓いを受けるのが習わしだったそうだ。

この先も車の往来が多い県道を歩くのだが、ほどなく到着した諏訪神社は、地元の人達には「おすわさま」「いぼがみさま」として親しまれているのだが、またの名を「かまど神社」という。この辺りの地名は竃(かまど)といい、神社の前にあるJR御殿場線の踏切はカマド神社踏切という。
踏切を渡ったところにある竃地名由来碑によると、「建久4年(1193)、源頼朝が富士の巻狩りのおり飯炊きの竃を築いた地が地名となった」とある。右側の3個の石は地名由来の石なのだそうだ。
その横に立つ鳥居から見ると、正面に諏訪神社が見えている。どうやら、神社の参道を県道と御殿場線が横切って作られたようだ。すぐ横に車も通れるカマド踏切があるにもかかわらず、ここにも参拝者専用の踏切が設けられているというのはなかなか珍しい。


竃地名由来碑から先は旧道を歩くのだが、交通量の多い県道に対しすこぶる静かで落ち着いた古道の雰囲気の中を歩けるようになる。
しばらくすると県道に合流するが、10分ほどで再び県道から分かれ、古道を歩いて行くことができる。時折左手の黄瀬川のせせらぎを聞こえてくる中、ところどころで出会う石仏などを眺めながら、先ほど歩いた古道よりもさらに趣のある古道の雰囲気を楽しみながらのんびり歩ける。


再び県道に合流し、20分ほど歩いたところで左の旧道に入ると黄瀬川に架かる高橋を渡り、神山小学校前に出る。橋から下を覗くと、横瀬川はこの辺りでは深い淵になっており、まるで深山幽谷のような景色が広がっている。


橋を渡った所にこの高橋にまつわる伝説の説明碑が立っている。それによると、この橋の架け替えを行った大工の源作は、できあがったばかりの欄干によりかかり渦巻く川を眺めていると誤ってノミを落としてしまった。すぐ川に飛び込みノミを探していると川底に照り輝く御殿があり、美しいお姫様が源作をもてなしてくれた。月日が流れ地上のことを思い出した源作はお姫様にノミを返してもらい、地上に戻って気が付くと御殿もお姫様も無く、右手にノミを持って欄干によりかかっていたのだとか。

神山小学校前の旧道を道なりに進むと、ほどなく黄瀬川を渡って再び県道に合流する。
しばらく歩いて再び黄瀬川を渡ったら、すぐに県道を離れて右に曲がる旧道に入って行く。
ほどなく、県道に合流するところでJR御殿場線の踏切を渡ると岩波駅のところにでる。

この日はここまでとし、帰途に就いた。
次回は、ここから再開し、ゴールの沼津まで行く予定。