2021年2月17日 矢倉沢~足柄
今日は、小田急新松田から出ている箱根登山道バスで矢倉沢バス停一つ手前の東山バス停まで行き、再開。
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矢倉沢宿
往時、矢倉沢宿には関所が置かれ、旅籠と米屋・豆腐屋・履物屋等の商店が軒を並べており、富士講・大山講の旅人や物資を運ぶ人馬で賑わっていた。
東山バス停でバスを降りて左手の坂を下っていくとすぐに旧矢倉沢宿に入って行く。大正時代ごろまで道の両側に旅籠や商店が並んでいたといい、今も白壁の旧旅籠立花屋が残っている。
立花屋の先は矢倉沢関所跡で、説明板によると、「江戸時代に入り箱根の関所が整備されるとその脇関所として設置され小田原藩が管理」とある。明治に入り関所は廃止されたが末光家に通行手形などが保存されているそうだ。その末光家入口に矢倉沢関所跡碑が建てられている。
街道を進み、その先の集落を抜けたら右へ上る細い道が足柄古道で、その先の切通しとなった県道を横断して少し左に行くと「足柄古道」の標識があるのでそこから右の坂を上っていく。
旧道を進むとやがて猪除けのゲートを入り、明るく開けている茶畑を抜けていくと、ほどなく県道に合流する。
県道を行くと、家康陣馬跡なる説明板が立つところを通る。天正18年(1590)、太閤秀吉が小田原城の北条氏を攻めた時、徳川家康がこのあたりに陣を敷いたという。
家康陣馬跡のすぐ先にあるバス停「足柄古道入口」に「足柄古道」の標識があるが、工事中立ち入り禁止となっている。
ダメもとで進むと、はじめは古道のようなところになるが、すぐその先で整備中の道路に合流する。この道路ののり面にところどころ人一人が通れるほどの遊歩道が設けられているが、古道の趣はあまり感じられない。
*後日調べたところ、工事中のこの道路は、南足柄市矢倉沢から箱根町仙石原を繋ぐ県道731号(通称南箱線)で、観光振興のみならず災害時の代替ルートを目的に2020年開通予定としていたが、2019年の台風被害で開通目前に普及工事が必要となり、2021年4月開通延期になっている。
緩い坂を上って行くとほどなく矢倉沢定山城跡の説明版が立つところに差し掛かる。足柄古道の東尾根上にあった中世の城郭で、大森信濃守氏頼が相模進出の足掛かりとして築城した城であった。
そのすぐ先に源頼朝ゆかりの「ひじ松の説明板」が立つところのはずだが、見当たらなかった。若松の植えられている小さな祠があったが、説明板もなく、これがそれかどうかは不明。
このあたりからは道は下りとなり、やがて左右に分かれる分岐に至るが、なんと金太郎の生家跡のある長者橋の方へ行く道が全面通行止めとなっている。車だけでなくわざわざ通行人も禁止と表示されているので少しひるんだが、ここは迂回路もなく、この道を行けないとなるとここまで来た道を引き返すしかないため、ダメもとで金太郎の生家の方へ向かうことにした。結局、長者橋と金太郎の生家跡周辺で何かの工事をしていたが、通行には特に問題もなく、歩くことができた。
長者橋を渡って右へ曲がるとその先に金太郎の生家跡といわれる四万長者屋敷跡がある。四万長者には八重桐という美しい娘がいたが、その娘が生んだ男児が足柄山の金太郎であった。金太郎は家の前の田んぼの中にある遊び石や、山にいる動物たちとふれあって大きくなったという。
ちなみに、足柄山というのは、神奈川・静岡県境にある足柄峠を中心とする山地のことで、矢倉沢地蔵堂一帯をいう。
<地蔵堂>
そこからもう少し下ると地蔵堂の横に出る。
この地蔵堂は昭和50年の火災で焼失後に再建されたものだが、本尊の地蔵菩薩は南北朝時代末から室町時代初期の作と考えられている。
街道は地蔵堂前から左に曲がっていくのだが、その突き当りにある万葉うどんは足柄古道では貴重な食事処である。
万葉うどんの左手の一段高い所に真新しい祠が見える。覗いてみると夫婦道祖神が祀られている。矢倉沢往還には夫婦道祖神が大変多い。
その先は山側の旧道と谷川の新道が並行している。ここでも旧道入口で通行止めになっているが、並行している新道の方を歩く。
まもなく、旧道と新道の合流点となり、合流した先の相の川橋を渡ってヘアピンカーブの新道を歩いていく。
ほどなく大きな石碑が現れ、そこに立つ「足柄古道」の標識に従って山中の道へ入って行く。
この先、九十九折の県道を何度も横切るような形で直線的に山中の古道を上って行くのだが、まさに山道となる。県道を出入りするところには、必ず表示があるので迷うことは無い。
林の中をしばらく歩いて階段を上ると県道に出るが、その先の見晴らし台に立つ足柄古道の説明板には次のように記されていた。『奈良時代には官道として東西を結ぶ重要な道路であった。9世紀の初めごろは富士山の噴火で通行が途絶えたが1年後には復旧した。万葉集や更級日記などに足柄峠や古道の様子が書かれている。戦国時代には古道沿いに国境防御の目的で多くの城郭が作られた。江戸時代に矢倉沢往還(脇街道)となり、物資輸送や富士講の人々で賑わった。』
見晴らし台から県道に沿う古道を行くとすぐに県道左側に古道入口の標識が見える。ここから古道に入ると、僅かな区間だが石畳道となっている。
その先で道は二手に分かれるが、ここを右に行くと僅かな区間だが九十九折と呼ばれるジグザグに曲がった上り坂となり、九十九折が終わった先に源頼光の腰掛石と記された説明板がある。だが、腰掛石の説明板はほとんど読めないし、どれが腰掛石なのかもよくわからなかった。
<足柄峠>
ほどなく県道に合流し、1~2分歩くと首供養塚、そのすぐ先に足柄峠一里塚碑がひっそりと立っている。この街道は、かつては甲斐と相模を結ぶ重要な道で多くの旅人で賑わっていたという。
一里塚跡の先、広場の奥におじぎ石と足柄之関跡と記された標柱が建てられている。
足柄之関は、出没する盗賊を取り締まる目的で昌泰2年(899)に設置された関であったが、鎌倉時代には廃止されている。
広場入口に「あずまはや」と記された標柱が建てられており、説明板に「倭建命(ヤマトタケルミコト)、東征の帰途、足柄峠にて あずまはや とのたまう」とある。
関所跡と県道を挟んで斜め向かいに見えるのは大聖歓喜双身天を本尊とする足柄山聖天堂。浅草聖天・生駒聖天と並び「日本三大聖天尊」にも数えられている。
そのすぐ先が足柄峠。関本宿を出てから上り坂が延々と続いてきたが、ついに標高759mの足柄峠に到着。これからは駿河国(静岡県)の旅となる。
峠の道路向う側に新羅三郎義光吹笙之石が置かれている。寛治元年(1087)、後三年の役で兄八幡太郎義家の応援に向かった三郎義光は戦死を覚悟。父より授かった秘曲を相伝すべく、この石に座り伶人豊原時秋に笙の奥義を伝えたという。
<足柄城址>
振り返ると足柄城址碑と説明板が見える。足柄城は平安末期ごろから築城が行われ、北条氏の時代に本格的な城郭となったが天正18年の豊臣秀吉による小田原攻め後に廃城となっている。
説明板横の階段を上ると、そこは主郭跡。その先に二の郭、三の郭と続き、さらに四、五の郭が足柄街道に睨みを利かせていたという。
広々とした主郭公園の向こうに、富士山の姿が圧倒的なスケールで臨める。昔も今も、峠道を上ってきた旅人にとって、突然姿を現すこの絶景は大変なご褒美になったことであろう。
ほとんど遮るものがない素晴らしい景観だが、主郭碑の後ろのわずかに木の枝が邪魔になる。遊歩道の土橋を渡って二の郭の方に進んでみると、完全に遮るものがなく富士山がすそ野まで眺望できる。この日の天気は、快晴だが寒気が迫っているうえ非常に風が強く、体感温度はかなり寒く感じる。そのせいかどうか、この絶景ポイントに訪れる人もなく、富士山の正面に置かれているベンチに座って、しばしこの絶景を独り占めすることとなった。
城内の遊歩道から県道に戻ると、その先に見えたのは舟形光背を持った上の六地蔵。50~60m先にも八体の地蔵様が鎮座しているが、こちらは下の六地蔵。
六地蔵のすぐ先、崖の上に芭蕉句碑が見える。
- 目にかゝる 時やことさら 五月富士 -
この句碑が建立されたのは嘉永3年(1850)か4年ごろだそうだ。この句の碑は東山バス停のところにもあった。
芭蕉句碑の対面に「足柄古道入口」があるが、ここも通行止めの看板が立てられており、虎御前古道への迂回が示されていた。今日は、ここに来るまでに何箇所も通行止めの標識があってその都度判断に迷ったが、ここはダメもとでそのまま進むことにした。
結局、藪の中の土道を下っていくと、途中で大きな倒木に遮られるところもあったが、通行できないことはなかった。かれこれ10分ほどで、道の傍らに安永3年(1774)建立という小さな馬頭観音があった。
このあたりで赤坂道と呼ばれるこの道は旅人の往来も多かったが、難所も多く、荷馬の遭難もしばしばだったらしい。赤坂というのは、昔このあたりから茶碗や壷を造るのに使う赤土が取れたことからそう名づけられたという。
古道は馬頭観音のすぐ先で林道に合流し、緩やかに下っていく。合流点に立つ道標には、足柄駅まで45分とある。
ほどなく赤い欄干の伊勢宇橋を渡る。橋を渡った所に小さな伊勢宇橋碑が建ち、説明板に橋の由来が記されている。
江戸時代、浅草の豪商伊勢屋宇兵衛は、晩年、交通不便な地に橋を架けることを思い立ち八十八カ所の橋を架けたが、ここはその85番目のものになる。
伊勢宇橋のすぐ先にある石塔は天保10年(1839)に建立された唯念上人名号塔で、高さが3.8mと大きく、南無阿弥陀佛と刻まれた文字は唯念上人の書を彫ったものである。
伊勢宇橋を渡ってかれこれ15分ほど歩くと現存の竹之下一里塚が見られる。塚の頂上に「竹之下一里塚」と刻まれた石碑が置かれたちょっと小ぶりの一里塚である。
県道はここで左に曲がっていくが足柄古道は真っ直ぐ下っていく。途中には天保、宝暦などと刻まれた馬頭観音も見られる静かな道である。
集落まで下ってくると左手奥に嶽之下神社が目に入った。江戸時代には熊野大権現であったが大正時代に周辺2社を合祀して嶽之下神社に改称。真新しい社殿は不審火で焼失後に再建されたものらしいが、お詣りして後ろを振り返ると、なんと鳥居の向こう正面に富士山が見事な姿を見せていた。予期せぬことだったのでしばし見惚れてしまった。
街道に戻ったところに立つ一の鳥居脇にある庚申塔がなんとも味がある。
ここから朱鮮やかな仁王門が印象的な宝鏡寺に寄り道をした。御本尊は聖徳太子の作といわれる地蔵菩薩で「竹之下のお地蔵さん」と呼ばれている。
嶽之下神社まで戻ったら引き続き坂道を下っていくのだが、この坂を馬喰坂と呼び、坂を下った所に馬喰坂碑が建てられている。江戸時代、竹之下は物資の荷継ぎ場で、牛や馬の需要が多く、その売買や周旋をする商人(馬喰)が多かったという。
坂の途中では可愛らしい夫婦道祖神や道標を兼ねた馬頭観音などの石仏群が見られる。
坂を下りきったら、街道は丁字路を右に曲がりJR御殿場線の踏切を越え、その先の千束(ちずか)橋を渡っていくのだが、今日はここまでとし、すぐ横の足柄駅から帰途に就いた。次回は、ここから御殿場、沼津方向に向かう。