日本橋~蕨

2012年5月19日  日本橋~板橋~蕨
中山道歩き旅の初日は日本橋を発って蕨まで行く予定。以降、高崎までは日帰りコースを何度か繰り返して先に進んで行く。

日本橋出立
中山道は、日本橋から北の三越側に向かい、江戸一の繁華街であった室町を通って、神田、お茶の水方面に向かう。


室町界隈は、ここ数年で大きく様変わりし、日本橋地区のランドマークの日本橋三井タワーをはじめに、COREDO 室町など高層ビルが新しくできている。そんな中でも、重要文化財三井本館の存在感は流石に揺るがない。


昌平橋辺り、レンガ造りのJR高架を眺めながら進むと、やがて本郷通りの緩やかな坂を上る。


坂の途中、街道沿いに湯島聖堂の重厚な築地塀が続いている。五代将軍綱吉は儒学振興のため、湯島の地に聖堂を創建し、孔子を祀る大成殿や学舎を建てた。およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府は昌平坂学問所を開設。その後、長きにわたり学問所としての伝統が受け継がれる処となっている。


湯島聖堂の向かい側、街道右手奥に天平2年(730)創建という長い歴史を持つ神田明神の隋神門が見える。町内神輿100基が宮入する神田祭りは江戸三代祭りのひとつで、京都祇園祭、大阪天神祭と共に日本の三大祭りのひとつでもある。


本郷
本郷三丁目交差点のところに有名な「かねやす」がある。口中医(歯科医)の兼安祐悦が、乳香散という歯磨き粉を売り出して評判になったのだが、このかねやすが江戸の川柳で「本郷もかねやすまでは江戸の内」と詠まれたことにはわけがある。
享保15年(1730)の湯島、本郷一帯の大火後、その復興にあたって大岡越前守は、本郷三丁目から江戸にかけての家は耐火のために土蔵造りの塗屋にすることを奨励し、屋根は瓦で葺くことを許した。そのため江戸の街並みは本郷まで瓦葺が続き、ここを境にこの先の中山道は板や茅葺の家が続くこととなって、この川柳が生まれたという。

かねやすの先、加賀藩の上屋敷だったところに東京大学がある。おなじみの赤門は11代将軍家斉の二女溶(やす)姫が前田家に嫁いだときに建てられたもの。
しばらくはキャンパス沿いの趣ある歩道を道を進む。


東大農学部前で道は二手に分れ、真っ直ぐ行くのが日光御成街道で、川口、鳩ヶ谷を経て幸手で日光街道と合流する。この本郷追分で中山道は左に曲り、白山通りに入ってゆく。ここは日本橋からちょうど一里で、中山道最初の追分一里塚があった場所にあたる。

追分からしばらく行くと、ほうろく地蔵が鎮座する大円寺がある。ほうろく地蔵は、天和の大火をきっかけに、後に自宅に放火した罪で火炙りの刑にされた八百屋お七の罪業を救うために、熱された焙烙(ほうろく)を自ら被り苦しみを受けた地蔵だといわれている。この近くには、お七の墓がある円乗寺もある。


大円寺前を通り、しばらく行くと賑やかな巣鴨の街が見えてくる。

たまたま、この日は浅草神社例大祭(三社祭)の日にあたっている。せっかくの機会なので、中山道から大きく外れるが、浅草まで電車で行って寄り道することにした。
-----------------------------------------------------------------------------

<三社祭>
この日は二日目の氏子各町神輿連合渡御が行われる。浅草氏子44町の町内神輿約100基が11時から浅草寺本堂裏広場めがけて一斉に参集し、正午になると一基ずつ浅草神社でお祓いを受けて発進する。立錐の余地も無いようなものすごい人出と熱気の中、これだけの神輿がきめられた時間の中で参集し、発進していく様は、言葉では表現できないほどエキサイティングであった。

-----------------------------------------------------------------------------

巣鴨
浅草から電車で巣鴨まで戻って街道歩きを再開。おばあちゃんの原宿と言われる地蔵通は、さすがに大変な人出で賑っている。
巣鴨の入口にある真性寺には江戸六地蔵のひとつがある。江戸六地蔵は、京都の六地蔵に倣って、江戸の出入口六箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像で、旅の安全を見守ってくれた。


地蔵通りの途中に髙岩寺とげぬき地蔵がある。ご本尊は非公開の延命地蔵菩薩で、野外にある洗い観音に水をかけ、病気や痛いところを洗うと効き目があると言われ、多くの人で賑わう。

都電荒川線にぶつかる少し手前の庚申塚は、明暦3年(1657)の江戸の大火後に造られたもの。 現在は庚申堂に猿田彦大神が合祀されている。往時、このあたりは板橋宿手前の立場として賑わうところであった。


明治通りを渡った滝野川地区には、かつて刑場があり、新撰組の近藤勇はここで処刑された。
この先、埼京線の踏切を渡って板橋駅西口横を通り、国道17号を横切ると板橋宿に入って行く。
-----------------------------------------------------------------------------

1 板橋宿
板橋宿は、日本橋を出立して最初の宿場であり、多くの旅人はここで別れを惜しんだ。
宿場は、加賀藩の22万坪にも及ぶ広大な下屋敷に面していたことから、加賀前田家との縁が深い。
国道を渡ってすぐ右の方にある東光寺には関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家の墓がある。八丈島流罪となった秀家一族だったが、明治に入って赦免され、秀家の妻が前田利家の娘だった縁で、ここに宅地を与えられ墓も移されたのだという。
旧道のすぐ先の観明寺山門は加賀藩下屋敷の通用門を移築したものであり、境内の稲荷神社は加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷のうちの一社が遷されたもの。

宿中程の石神井川にかかる板橋は、ここの地名の起こりとなっている。江戸時代に架けられた橋は長さ9間、幅3間の緩やかな太鼓橋で、江戸名所図会にも描かれている。


少し先の縁切り榎木は、男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとって煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされた神木。いつのころからか、この木の下を嫁入り、婿入りの行列が通ると必ず不縁になるという信仰が生まれたという。皇女和宮降嫁の際には、榎を避けるための迂回路が作られた上、榎を薦(こも)で覆ったといわれている。


国道に合流して少し行くと、日本橋から3里のところに左右対の完全な形で残っている志村の一里塚は大変貴重なものである。昭和初期に石垣で補強されて現在の姿となっているが、実に見事である。


志村坂上附近で国道から離れて左斜めの住宅街の中の旧街道を行くとまもなく大山道道標と庚申塔が建つ分岐がある。この分岐を西に向かう道は府中経由で富士山や大山に向かう。中山道をまっすぐ進んだ少し先には清水坂碑が建てられている。緩やかな坂を進むと大きく道がカーブするところにもう一つ清水坂碑が建ち、そのあたりからは坂は下りとなる。往時、清水坂は最初の難関の急坂と言われたらしいが、今はそれほどのことはない。
-----------------------------------------------------------------------------

中山道歩き旅初日は蕨宿までと思っていたが、三社祭に寄ったりして予定より少し遅くなったため、荒川を渡ったところの戸田公園駅から一旦帰宅する。