2012年6月8日 蕨~浦和~大宮~上尾~桶川
日をあらためて、前回切り上げた戸田公園駅から再開し、まずは蕨宿へ向かう。
2 蕨宿
日本橋からの距離は4里28町。京都から江戸に入る場合、戸田の渡しの手前にあるので荒川が増水すると川止めとなり、ここに逗留せざるを得ないこともあって、比較的大きな宿場であった。
国道17号から分かれ、右に入って行くところが蕨宿の江戸側の入口に当たり、石造りの碑や木戸をかたどった門が建てられている。
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蕨宿に入って行くと、街道の街並みは小奇麗に整備されていて、街全体で中山道の旧宿場を大事にしている雰囲気が感じられる。
すこし先に「蕨宿界隈史跡めぐり」と記された絵地図が置かれている。
その斜め前の瓦葺格子戸の家は、明治時代の商家で、今は蕨市歴史民族資料館分館として一般開放されている。
さらに先に行くと、中山道武州蕨宿と刻まれた宿場碑の先に鈴木薬局の古い建物が残っている。
「地蔵の小径」の石標が立つ路地の奥にひと際大きな金亀山極楽寺三学院寺が目に入る。本尊の十一面観音は平安中期の作と伝えられる。徳川家康より寺領20石を寄進され、その朱印状が残されているなど、関東七ヶ寺の役寺として格式の高い寺である。仁王門脇の小屋の中にある子育て地蔵が有名で、その脇に六地蔵、目疾地蔵なるものもある。
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蕨宿の終わる所に蕨宿紹介の看板と小さな公園がある。その先で国道17号を渡って浦和市錦町へ入っていく。このあたりには往時の趣ある旧家が幾つか見られる。
しばらく進むと、高速道路をくぐるところに、日本橋から数えて5番目の辻の一里塚碑がある。
武蔵野線を越したところは焼き米坂で、中山道を通る旅人に炒った米を売る茶店が数件あった。往時、ここは旅人にとっては難所であったという。
坂を上った岸町に、かつては水飲み場だったのか、古民家横に古井戸が残っている。
しばらく行くと、遠くからでもすぐにわかるような調(つき)神社の鬱蒼とした森が見えてくる。
およそ1800年前に創建されたとされ、歴史は古く、指定文化財も多い。伊勢神宮へ納める貢ぎ物(調物)の初穂を納めた倉庫群の中に造営されたため、ここの鳥居には貢物搬出入の妨げになる笠木がないのが特徴。また、調の名が月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、江戸時代には月読社とも呼ばれていた。
狛犬ならぬ狛兎をはじめに、兎の石像や彫物、絵馬など随所に兎が配されている。
調神社を出るとすぐに浦和宿入口となる。
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3 浦和宿
浦和宿は日本橋から3番目、旅籠15軒の小さな宿駅であった。当時の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち、8番目と少なかった。しかし、市場としては戦国時代からの歴史があり、毎月2と7の日には六斎市が立って賑わいを見せていた。
今は、大きなビルや高層マンションが林立する大都会になっており、ビルの谷間に僅かに残る古い趣の民家は、いかにも肩身が狭そうに見える。よく見ると、宿入口だったところには浦和宿碑が建てられている。
門前通りと刻まれた石柱のある通りを入ると玉蔵院である。弘法大師空海の創建とされる古刹で、徳川家康から寺領十石が寄進され、江戸時代には住職が豊山長谷寺から派遣されるという格式の高い寺院となった。
街道に戻り少し行くと仲町交差点際には真新しい浦和宿碑が建っている。また、交差点を渡って10mほど先の路地を左に入った仲町公園という小さな公園に、浦和宿本陣跡説明板と明治天皇行在所跡碑が建てられている。
しばらく行った左手の慈恵稲荷神社のところが、市が立っていた跡である。毎月2と7の日、月6回開かれるので二七の市とか六歳市といわれた。
街道はJRを陸橋で越えると、大宮に向けてほぼまっすぐな道が続く。与野駅を過ぎたあたりからはケヤキ並木が続き、やがて左手には埼玉新都心のビル群が見えてくる。
東京特別区以外での中心となるべき業務核都市設置の一環で、旧国鉄大宮操車場跡地の再開発・土地区画整理事業として整備されたということだが、未来都市に突然紛れ込んだような感がする。
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4 大宮宿
大宮宿の規模は大きく、脇本陣9軒は中山道69次の中で最も多かった。現在の高島屋付近が宿場の中心だったが、全国屈指のターミナル駅となった大宮駅を中心に大変貌を遂げ、今はかつての名残はほとんどない。
さいたま新都心駅から少し行くと右に氷川神社一の鳥居が見える。かつて中山道は神社の参道を通っていたが、寛永5年(1626)幕府は鳥居からまっすぐ土手町へ通じる道を作らせ、これを中山道とした。一の鳥居前の道標には、右氷川神社、左中山道と記されている。
鳥居から神社への参道は、はるか彼方まで真っ直ぐ2kmも延びている。今回はこちらの参道(古中山道)を行く。本当に長い参道だが、年代を感じる広い並木道は歩いていても心地よい。
大宮氷川神社は武蔵一宮で、大宮の地名もこの神社に由来する。氷川神社という名前は関東には多いが元々武蔵国造が出雲の系統で、出雲国の簸川(ひかわ)の川上にあった杵築大社を勧請したところから、その川の名前に因んで名付けられたとされている。さすがに、武蔵一宮というだけあって、規模も大きく立派な神社である。
氷川神社に参拝し、裏参道の方から神社を出て中山道に戻る。
ちょうど昼時になったので街道に出たところのファミレスで食事を摂り、一休みした後、上尾に向かいJR宇都宮線の下をくぐって先に進む。
しばらく歩くと左側のちょっと奥まったところに東大成の庚申塔がある。元禄10年(1697)に建てられたという庚申様は、地元では「耳の神さん、目の神さん」と大事にされているという。
上越新幹線のガード下を通り、JR宮原駅入口を過ぎて少し先右側は加茂神社である。英泉の木曽街道の絵に描かれて有名な古社で、綺麗に手入されている静かな神社である。
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5 上尾宿
上尾宿は江戸から約10里のところにあり、日本橋を七つ立ちすると最初の宿をとるところであったことから、旅籠の数は多かった。しかし安政7年(1860)の大火で宿場の建物はほとんど焼失してしまい、往時の面影を残すものは少ない。
宿入口にある氷川鍬神社は上尾宿の鎮守様で、ご神体は小鍬だそうである。寛永9年(1632)、鍬大神宮として創建された当時、上尾宿名物は鉄製の鍬や鋤であった。
はなみずき通りとの交差点のところに上尾宿案内板があり、屋根瓦の上に鍾馗様が乗っている。上尾宿は火事が多かったことから、ここの鍾馗様は防火の神様となっている。
次の桶川宿は上尾から僅か1時間足らずと近い。
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6 桶川
桶川宿はあまり大きな宿場ではなかったが、周辺で生産される農産物の集散地として賑わい、特に紅花は出羽の最上地方に次ぐ大生産地で、桶川宿に多くの富と文化をもたらしていた。
旧中山道が国道17号と分かれ、戦災も免れたため、今も蔵造りの建物が残るなど往時の宿場の面影が感じられる。
宿場の江戸側の入口あたりにある武村旅館は、江戸時代、紙屋半次郎なる人物がここで旅籠を営んでいたものだそうで、その当時の間取りが引き継がれているという。桶川宿には、江戸末期には36軒もの旅籠があったそうだが現在残っているのは、ここだけとなっている。
向かいの蔵造りの商家の数軒先の冠木門は府川本陣跡で、前田家の宿所とされたほか徳川斉昭、皇女和宮も泊まられたという。上段の間、次の間、湯殿が現在も残っているが、残念ながら公開はされていない。
このあたりには、旧家や土蔵造りの家が多い。写真の蔵造りの商家(矢部家)は、江戸時代に紅花商人としても活躍していた穀物問屋で、建物は明治時代に建てられたもの。
桶川では、地域の人の宿場保存に対する熱心な気持ちが感じられる。
宿場館という案内所では、中山道の埼玉県内の地図等、街道歩きに便利な資料を入手でき、街道歩き人だと話すと、いろいろ丁寧に対応してくれた。
少し先に行って、街道から右の方の少し奥まった所に稲荷神社が鎮座する。拝殿の両側に「紅花商人中」と刻まれた石灯籠が2基並んでいる。桶川は紅花の産地で、取引も盛んであった。
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この日は、このあたりで桶川駅まで戻って一旦帰宅する。



