大井~加納

2013/05/16~18 大井~大湫~細久手~御嶽~伏見~太田~鵜沼~加納

前回、中山道のハイライトと謂われる妻籠、馬籠を訪れ、落合、中津川を経て大井まで到達したところで、家路についた。
今回は、大井から再開して加納か河渡あたりまで歩くつもりだが、美濃国についてはもともとあまり馴染みが無く予備知識も少ないため、どこで道草を食ったりするかも知れず、とにかくこの機会にたっぷり美濃路を巡って、二泊三日で行けるところまで行ければよい、と考えている。
いつもと同じく朝早く家を出るが、これまで八王子から中央線で木曽路にアクセスしていたのに対し、今回は新幹線で名古屋に出て、中央線で恵那まで行き、そこから街道歩きを再開する。
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46 大井宿
美濃16宿中随一の繁栄を誇っていた大井宿だが、大井橋を渡り、大井宿を出ると中山道は次の大湫宿まで3里半、十三峠のアップダウンが延々と続く山中の道となる。近代化の流れから取り残されて、静かに時間が流れる山里に往時の街道の趣がたっぷり残されているものと期待が膨らむ。

今日の宿泊は、細久手の大黒屋をとっているが、電話で予約した時に「大井から細久手までほとんど山道で食料など買えないので、必ず大井を出るときに食料を確保するように」と言われていたため、なにはともあれ恵那駅の中にあるコンビニでおにぎりを調達する。なにしろ、これから向かう街道は、細久手の前後30kmほどの区間に宿は大黒屋ただ一軒しかないというところである。当分、人に出会うこともなさそうだ。

しっかり食料を確保し、恵那駅から中央通りを少し歩いて中山道広重美術館の手前で中山道に入る。 交差点から旧道を右に行き、趣ある老舗和菓子店の菊水堂の前を通って進むと、中野村庄屋の家という建物がある。和宮降嫁の際、助郷村に負担を課したことで熊崎新三郎事件が発生した、その舞台となった庄屋宅である。


庄屋宅のすぐ先左側の中野観音堂は、もと中野村高札場があった場所でもある。
観音堂の前の長島橋を渡り、県道の五叉路を越えて暫く歩くと西行硯水公園がある。奥州の旅に出た西行は、帰途、木曽路を経てこの地を訪れ三年間暮らしたという。歌人である西行は、こんこんと湧き出るこの泉の水を汲んで墨をすったという。


公園を出るとすぐ先のJR踏切手前に西行塚碑が街道際に建てられている。
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<十三峠>
踏切を渡ってすぐに左へ曲がり、中央高速の下を通って坂道を上っていくと、「是より西 十三峠」と刻まれた標柱が建てられている。ここからいよいよ、美濃路の難所「十三峠」に入り、大湫宿まで延々と山中の旅となる。


十三峠に入って最初の坂である西行坂を上っていくと、右に少し上ったところに伝西行塚がある。塚の上の五輪塔は室町時代末期のものだそうだが、歌聖西行法師の供養のために造られたと伝えられている。


塚の近くにおかれている芭蕉句碑には次の句が記されている。
  - 西行の わらじもかかれ 松の露 -


西行坂を上りきって見通しが良くなったところに、槙ケ根一里塚が左右とも当時のままの形で残っている。


付近は公園となっており、高台で見晴しがよい。石畳は終って細かい砂利道に変っているが、木漏れ日を浴びながら、心地よい風を受け、ゆったりした道を歩くのはなんとも気分が良い。


街道はやがて車道に合流するが、すぐに車道から離れ、右の砂利道に入っていく。 砂利道に入ってすぐに槙ケ根立場跡の広場がある。


江戸時代末期、ここには槙本屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九戸あり、伊勢神宮遥拝所もあって、大変賑わっていた場所である。だが、明治に入り鉄道が開通すると、ほとんど一般の人の通ることの無い山中の道となってしまった。
またここは中山道から分かれて土岐、多治見を経て、名古屋、伊勢へ向う下街道の分岐点でもあり、立場跡の外れに「右西京大阪・左伊勢名古屋道」と書かれた追分道標が建てられている。


雑木林の中の緩やかな坂道を下っていくと、右側の高台に姫御殿跡と刻まれた石碑が立っている。ここは祝峠といい、展望がよいので旅人にとって格好の休憩地であったそうだ。お姫様が通行するときは、ここに仮御殿を建てて休憩されることが多かったという。


姫御殿のちょっと先に首なし地蔵が鎮座している。昔、中間(ちゅうげん)二人がここで一眠りしたのだが、目覚めてみるともう一人が首を切られ死んでいる。回りを見回したが犯人が見当たらず、怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ」と、刀で地蔵の首を切り落としてしまったんだとさ。


首無し地蔵の先からは乱れ坂と呼ばれているかなり急な下り坂となる。大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女性の裾も乱れた、ということからこのような名になった。
乱れ坂を下ると小さな集落に入り、茶屋跡などをすぎて田圃のあぜ道ほどの細い草道を進む。


途中、熊出没注意の看板を横目に見ながら行くと、ほどなく紅坂一里塚が見えてくる。


この一里塚も、左右ともほぼ当時のまま現存している。ちょうど昼時になったため、ここで一休みし、今朝確保しておいたおにぎりをほおばる。

一里塚の先の石畳道を下っていくと、途中、ぼたん岩なる変わった岩が露出している。岩が丸く層をなして、さながら大きな牡丹のように見えるもので、非常に珍しい。


ここから、でん坂、紅坂を下って数軒の小さな集落に入り、うばが茶屋跡、馬茶屋跡前を通って、黒すくも坂を下っていく。
黒すくも坂を下った先に三社と彫られた大きな常夜燈があり、その反対側に佐倉宗五郎大明神がある。元禄年間、岩村藩で農民騒動が起きた際、竹折村の庄屋田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、打ち首になった。そのとき、村人達が密かに田中氏を宗五郎大明神として祀ったのだろうといわれている。


よごれ茶屋跡の前を通って藤川を渡り県道に出ると、道路向こう側にすこし小型の藤村高札場跡がある。ここは深萱(ふかがや)立場があった所で、道路際に説明板が建てられている。立場本陣を含めて10余戸の人家があったそうだ。


立場を出ると再び峠道に入る。街道はこの先もアップダウンの連続で、何ヶ所かに茶屋があったようだ。
みつじ坂を上り、三城峠を越えて茶屋坂を下り、県道に合流して瑞浪市に入ったところに中山道碑が建てられている。


中山道碑の先から坂を上り、大久後の向茶屋跡の前を通って観音坂を上る。さらに先へ歩き、灰くべ餅の出茶屋跡前を通って、大久後の観音堂から権現坂、鞍骨坂を上り、刈安神社前を通って炭焼立場跡を通り過ぎ、吾郎坂、樫ノ木坂を上っていく。

十三峠に入ってからは、要所要所に案内板や石碑、坂の名前を記した標柱などがあるが、あまりにも数が多いため、この紀行では割愛する。

樫ノ木坂の途中に権現山一里塚が、左右両塚とも現存している。


ここから大湫までの約2kmは、江戸時代のままの土道が続く。
上り坂が続くが、この辺りの坂を巡礼水の坂と呼んでおり、ほどなく巡礼水にたどり着く。説明板によると、「その昔、旅の母娘の巡礼がここで病気になってしまったのだが、念仏を唱えると目の前の岩から水が湧き出し、命が助かった」のだという。

巡礼水の先からびあいと坂を下ると、ちょっとした広場に出る。ここは阿波屋の茶屋跡といわれる場所で、広場端の石窟に十三峠の三十三観音が祀られている。道中の旅人の安全を祈って、大湫宿の馬持ち連中と助郷村などの寄進で建立されたのだそうだ。 また石窟の前の石柱には定飛脚の嶋屋、京屋、甲州屋、伊那の中馬連中などが出資者として名を連ねている。


少し下ると、街道際に尻冷やし地蔵尊が鎮座している。ここの地蔵の後ろから清水が流れ出ていて、地蔵の尻を冷やしているように見えることから、十三峠尻冷のお地蔵様と呼ばれるようになった。十三峠は上り下りの多い難所で有名だったが水場も少なかったため、ここはお助け清水と呼ばれて重宝がられていたという。


この先で県道を横断してしゃれこ坂(八丁坂)を上り、少し下ったあと山の神坂を上っていく。上りきったあたりの開けた場所に、比較的新しい童子ヶ根と刻まれた石碑が据えられている。
まもなく寺坂と呼ばれる急坂を下っていくが、途中に寺坂の石仏群が見られる。
そのすぐ先で「是より東 十三峠」と刻まれた石碑が建てられており、長かった十三峠もようやく終わりとなる。


十三峠の説明板によると、昔の人達は「十三峠におまけが七ツ」と言っていたそうだ。実際、幾つあるのか分からないが、とにかく坂や峠がたくさんあった。
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47 大湫宿
十三峠を越えてほっとしたところで、大湫宿碑が迎えてくれる。
大湫宿は、東に十三峠、西に琵琶峠を控えたのどかな山間の小さな宿場で、江戸時代後期に建てられた古民家が街道沿いに並び、旅籠や店は営まれていないが、こじんまりとして静かで落ち着いた印象の町並みとなっている。

宿碑横の坂道を下り、枡形を左に曲がって宿場に入ると、さっそく古民家2棟が並んでいる。共に江戸時代末期の建物で、旅籠だった三浦家と森川家の両建物とも国登録有形文化財となっている。


少し先の小学校は、かつて本陣があった所で、和宮降嫁の際、この本陣を宿としている。
すぐ先の問屋場跡の角に、時代劇でよく見かける防火用水がある。


その先に虫かごに似た虫籠(むしこ)窓の家があったりする。このあたり、珍しいものがいろいろある。


その対面の階段上が旧脇本陣保々家で、当時の建物が一部残されていて、今も保々家が住居としている。

脇本陣の先にある神明神社は慶長年間(1596~1614)に創建されたということだが、すごいのは「神明の杉」。樹齢1300年、幹回りは10mとも11mとも云われるもので、近くで見るとたしかに巨木である。


大湫観音堂に向かう階段下のところに高札場跡がある。宿の規模に比べて大きな高札場である。


宿場街はこの辺りで終わり、この先は小坂の馬頭様や大洞の馬頭様を見ながらのんびり歩く。
道端に竹を細工した花活けがそれとなく置かれていたりして、ちょっと洒落ている。


大洞の馬頭様のすぐ先に安藤広重の版画にも描かれている大湫の二つ岩がある。写真は母衣岩(ほろいわ)と呼ばれている大岩。

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<琵琶峠>
二つ岩の先に琵琶峠入り口がある。標高550mほどなのでそれほど高い峠ではないが、美濃路の中では最も高所にあり、難所とされた。
昭和45年に江戸時代のままの石畳道が700m以上にわたって確認され、当時の峠道に復元・整備された。江戸時代の石畳道としては日本一の長さだという。


石畳道を上っていくと、街道から左に少し上ったところに見晴し台があり、太田南畝などの文学碑が据えられているが、実際は木に囲まれていて全く見晴らしが悪いところであった。


街道に戻ると、すぐ近くの峠頂上のところに馬頭様と並んで和宮歌碑が据えられている。
  - 住み馴れし都路出でて けふいくひ いそぐとつらき 東路のたび -
和宮の想いがひしひしと伝わってくる。


まもなく八瀬沢一里塚に到着する。左右両塚とも塚上の木は無くなっているが、ほぼ完全な形で現存している貴重な一里塚である。


琵琶峠を下り、車道を横切ってさらに下ると県道に合流するが、このあたりが八瀬沢立場跡である。

この先、中山道は一つ茶屋跡などのある方にまっすぐ進んで細久手宿に向かうのが本来のコースのようだが、東海自然歩道のコース案内板に従っていたら、北野神社の方に大きく迂回してゆくコースを取ってしまったようだ。
やや遠回りをしてしまったが、やがて旧道に戻ると少し先に弁財天の池がある。池にはハスの花が咲いていて、ここまで歩いてきたところの山間の景色とはちょっと異なった雰囲気になる。


このあたりは大湫、細久手という地名が続くが、水草が生えている湿地を意味する「湫」の謂れに、こうした池がひょっとすると関係するのかもしれない。
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48 細久手宿
琵琶峠を越え、弁財天池前を経て、奥之田一里塚を過ぎてしばらくすると細久手宿である。
細久手宿は、大湫宿と御嵩宿の間が4里半と長く、難所も多かったことから、慶長15年(1610)に新しく開かれた山間の小さな宿場である。大湫同様、鉄道や主要国道から離れているため、奥深い山里の静かな落着いた集落となっている。
街並みに当時の面影は少ないが、尾州家定本陣であった大黒屋の建物が、当時の宿場の雰囲気を感じさせてくれる。

宿の東口の小高い丘に庚申堂が見える。細久手宿高札場跡と記された標柱が建てられているところを右に入ったところに堂はある。ここは宿内の人々や旅人の憩いの場として親しまれてきた細久手宿の庚申様で、境内には江戸時代の石仏や石塔が沢山並んでいる。


少し先の宿の中程には公民館があって、その駐車場の一角に細久手宿説明板が設けられている。これによると、慶長11年(1606)に7軒屋と呼ばれる小さな仮宿が設けられ、慶長15年(1610)に正規の宿場として整備されたのだそうだ。
この公民館の対面に立派な本卯建の上がった古民家があり、これが中山道を歩く旅人にとっては貴重な宿の大黒屋である。大井宿から御嵩宿の間は、ほとんど人里はなれた山道で、宿泊できる宿はこの大黒屋一軒しかない。当然、今日はここに宿を取ることにしている。


<大黒屋>
大黒屋は尾州家定本陣を務めた旅籠で、本陣並みの扱いがされていた。尾張徳川家が他の大名との相部屋を嫌ったために尾張藩の定本陣に定められた。現在の建物は大火で類焼後の安政6年(1859)に再建されたもので、150年ほどの歴史を持つ。
到着後、通された部屋は、さすがに歴史を感じさせるもの。


早速、ひと風呂浴びて一息入れたら、ほどなく夕食となる。この夕食が、予想外に素晴らしいものだった。正直言って、片田舎の料理程度のものを想像していたが、美濃焼きの器を使い、地元の山の幸・川の幸をふんだんに使い、品数も多く、出来立ての料理が次々に運ばれてくる。


同宿のご夫婦は、静岡の興津から来たそうで、東海道を歩いたときの話や街道歩きの話など、会話も弾んで、素晴らしい食事とともに大満足の時間となった。
ゆっくり食事を楽しんで部屋に戻ると、そこには静かな雰囲気が漂っていて、たちまち江戸時代にタイムスリップしてしまう。こういう宿に泊まると、(東海道赤坂宿大橋屋もそうだったが)ここに泊まった昔の人と、同じ時の流れの中にいるような気分になれるのがおもしろい。
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翌朝、静かな山里に響き渡る鳥のさえずりで目を覚ます。例によって、朝食前に辺りを散歩しようと、玄関におりると、なんと玄関の戸に閂が架かっている。閂を外そうとしていたら、物音に気づいたこの宿の大女将が起きてきて閂を外してくれた。
山里の爽やかな空気を吸いながら、宿の周囲をぶらぶら歩くと、それだけで気分爽快になる。今日もまた天気はよさそうだ。竹林の上に青空が広がっている。


宿に戻り、少し早めの朝食をとって、気分よく出発。

少し歩くと右手の道路から少し上がった所に穴観音が鎮座している。小さな観音が祀られていて、観音の縁日に拝むと九万九千日の御利益があると信じられ、九万九千日観音とも呼ばれている。


さらに右手に津島神社の小さな祠を見て進むと、その先に旧中仙道くじ場跡と刻まれた石碑が建てられている。駕籠かきたちが荷の順番を決めるために、くじ引きをした場所だという。


やがて下り坂に変り、平岩辻という交差点に出ると、右側に「土岐頼兼の菩提所 曹洞宗開元院」や「西 つばし みたけ道」「南 まつのこ おに岩」などの色々な道標がある。


平岩の辻を左へ行き、急坂を上っていくと、街道は「左仲仙道西の坂」と刻まれた石碑のところから砂利道へ入る。


坂道を上っていくと秋葉坂の三尊石窟が見られる。左手には風化の進んだ石仏が安置され、中央には一面六臂(いちめんろっぴ)の観音座像、右手には明和5年(1768)の三面六臂の馬頭観音がそれぞれ石室の中に安置されている。行き交う旅人や牛馬の安全を見守っていたのだろう。


細久手宿を出た中山道は、御嶽宿に向けて平岩の辻から山中に入り、いくつかの峠を越えていく。秋葉三尊石窟の先は、木漏れ日が降り注ぐ林間のゆったりした道が続き、すこぶる気持が良い。


しばらく行くと鴨之巣の一里塚がある。ここは左右とも現存しているという貴重な一里塚。左右とはいっても、右と左が対面ではなく16mほどずれているところがちょっと珍しい。


一里塚の先から御嵩町に入るが、この先はうねうねと曲がった下り坂が続く。


坂の終わり近くに山内嘉助屋敷跡と刻まれた石碑があり、ここは江戸時代に酒造業を営んでいた豪商の屋敷があった場所で、今は石垣だけが残されている。


屋敷跡の先から津橋の集落を通って中山道道標の前から再び山の中に入って行く。


しばらく山中の道を歩くと御殿場跡と刻まれた石碑が建てられている。ここは物見峠の頂上で見晴らしが良く、皇女和宮降嫁の際、休憩所となる御殿が造られという。右手に階段があって、上がって行くと東屋があるが、木が繁っていて景色はいまいちであった。


御殿場跡からは下り坂になる。下り坂をいくと唄清水と銘された水場がある。尾張藩千村平右衛門源征重が、「馬子唄の響きに波たつ清水かな」と唄ったことから「唄清水」と名付けられた。


風情のある竹林の坂道を下ると、今度は「一呑(ひとのみ)の清水」という水場にくる。

 


文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁の際、この清水を賞味され大変気に入ったという。後の上洛の際、多治見での点茶に取寄せたといわれている。

一呑の清水からすこし車道を歩くが、十本木立場碑の先からまた山中に分け入っていく。
数分歩くと小さな集落の入り口に謡坂十本木一里塚が復元されている。取り壊された一里塚を昭和48年に復元したのだそうだ。


一里塚のすぐ先に昔は茅葺であったと思われる一軒の大きな家がある。ここは安藤広重の「木曽海道六拾九次之内 御嶽宿」のモデルとなった場所だという。


その先の坂を下ると謡坂の石畳道となる。近年、復元された石畳で、旅人が自らを鼓舞するために、謡を歌いながらこの坂を登ったことからこの名がついた。
謡坂を下ったところにマリア像がある。謡坂地内の農道拡張工事の際、墓地の一角からキリシタン信仰の遺物が偶然相次いで発見され、この地に多くの隠れキリシタン信者が居た事が判明した。当時の過酷な弾圧に耐えた先祖を慰霊するために建立したのだそうだ。


マリア像のちょっと手前に正岡子規句碑がある。
  - 撫し子や 人には見えぬ 笠のうら -

街道筋の岩山に建立された耳神社は、全国でも珍しく、耳の病気にご利益があるという。願いがかなったら、自分の年齢の数だけの竹の錐で簾を作り、奉納するという。


しばらく車道を歩き、集落を抜けたら再び山中へと入っていくと、石室の中にひっそりと寒念仏供養塔がたたずんでいる。1年でもっとも寒い時期に村人が集まり、鐘をたたいて念仏を唱えると、願いがかなったのだという。


まもなく「牛の鼻欠け坂」と呼ばれる急な下り坂となる。御嵩からやって来ると、急な曲がり坂のため、牛や馬の鼻が擦り切れて欠けるほどの難所、と言う意味からこの名がついた。


この坂を下ると、周りに田園風景が広がり、街道は山裾を通って国道に合流する。ようやく、この辺りから平野部を歩けるようになる。


国道に合流すると、すぐの右側に和泉式部廟所がある。傍らの説明書に次のように記されている。「心の趣くままに東山道をたどる途中、御嶽の辺りで病に侵されてしまう。鬼岩温泉で湯治していたが寛仁3年(1019)、とうとうこの地で没した」


甲州道中上諏訪の温泉寺にも和泉式部廟所があるが、その逸話や墓所が全国各地に存在するという。一説には「京都誓願寺の女性たちが中世に式部の伝説を語り物にして諸国を歩いたことが、各地に墓や碑を造らせた」ともいわれている。
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49 御嶽宿
御嶽は、平安時代に開創された願興寺の門前町として栄え、また大湫宿、細久手宿への難所を控えた宿場としても賑わっていた。
国道をしばらく歩き、左手の民家の庭の中に立っている道標のところを左折すると、その先から御嶽の街になる。

御嶽宿に入ると旧商家の家並みが続く。


旧商家竹屋は江戸時代本陣を務めた野呂家から分家した商家で、その主屋は明治10年(1877)頃の建築というが江戸時代の建築様式をよく残している。商家竹屋は、金融業、繭・木材・綿布の取扱いなど、幅広い商売を手がけた豪商であった。


竹屋の隣が本陣跡である。本陣を務めたのは野呂家本家で、建物は明治・大正時代に建て替えられたものだが、立派な門構えは当時の面影を感じることができる。


本陣の隣の脇本陣跡は、みたけ館という郷土資料館となっている。
すぐ先の願興寺は、弘仁6年(815)最澄によって創建されたといわれている古刹。

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前日、大黒屋で同宿したご夫婦に勧められていた願興寺前のお好み焼き屋で昼食を摂る。この店では、サプライズが二つあった。一つは、巨大なお好み焼き。一人前が普通の二~三人前はある大きさで、かなり頑張ったが結局完食できず、半分くらい残してしまった。


もう一つのサプライズは、中山道を歩くためにわざわざ日本に来た外国人10数人のパーティ。小さなお好み焼き屋の外に置かれたテーブルまで殆どこのパーティに占有されていた。数人はシンガポールであとはオーストラリアからの人たちということだった。しかも、なんと、今日ここから歩いて、私が昨日泊まった細久手の大黒屋に宿泊し、その後、馬籠の方まで行く予定だとのこと。馬籠・妻籠はそれなりに有名なので、外国人が多いのもむべなるかなと思っていたが、まさかこんなところまで外国人の関心が広がっているとは、本当に驚きだった。
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中山道はその先の御嵩駅前から願興寺に沿って右に曲がり、次の交差点で左に曲がっていく。しばらく進んで常夜灯が建つ十字路を右に曲がり、国道に出たら左へ曲がっていく。
国道に合流してから少し行くと、鬼の首塚という祠がある。


伝説によると、「鎌倉時代、鬼岩の岩窟に関の太郎とも鬼の太郎とも呼ばれた男がいたが、悪行三昧のし放題。ついに蟹薬師の祭礼の日に討ち取られたのだが、首を京都に送る途中、この地に落ちて動かなくなってしまったためここへ埋めたのだそうだ。
首塚の隣に正岡子規歌碑が建てられている。
  - 草枕むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす野路の夕立 -
子規「かけはしの記」の中の一節。子規が御嶽宿を出て伏見宿へ向かう途中の出来事であった。

国道に合流する顔戸(ごうど)交差点で、右に曲がり数分歩くと顔戸城址があり、交差点を横断して顔戸橋を渡って名電広見線を越えていくと在原行平卿墳が見られるが、ここは寄り道をせずまっすぐ進む。
国道を5~6分歩き交差点を渡って右の脇道に入って行くと、入り際に比衣(ひえ)一里塚跡碑が建てられている。

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50 伏見宿
伏見宿は、木曽川の流れの変化で渡し場の位置が上流に移動し廃宿となった土田(どた)宿に変わって、元禄7年(1694)に新設された宿場である。木曽川と可児川という水運に恵まれ、河畔の湊とともに発展してきたが、宿場の機能はあまり発展せず、嘉永元年(1848)の大火で焼失した本陣は再建されることがなかった。

比衣一里塚跡碑前から脇道に入った中山道は、暫く歩くと再び国道に合流して、緩い坂道を上っていく。
まもなく国道左側の植え込みの中に「伏見宿本陣之跡」と刻まれた石碑が見える。


新設された宿場であったが大きく発展することはなかった。嘉永元年(1848)に本陣はじめ26戸を焼失する大火が発生したが、その後、本陣は再建されることなく、本陣跡碑の隣に「是よ里東尾州領」と刻まれた領界碑が建てられている。

伏見宿に往時の面影は少ないが、伏見交差点まで来ると、一本松公園があり、東屋の立派な休憩所もあって旅人を癒してくれる。


街道際には道標も設置され、「右 御嶽 左 兼山 八百津」と刻まれている。ここは斉藤道三の養子である斉藤正義が築いた兼山城へ至る兼山道との追分でもある。

少し先に行くと旧旅籠三吉屋の趣きある建物があり、「お休み処 らくだ」と表示されている。実は、文政7年(1824)幕府献上品として輸入した駱駝が幕府から断られ、興行師の手に渡って伏見宿で3日ほど滞在したのだそうだ。


この先はごくごく普通の街並み。上恵戸交差点では、「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル」と刻まれた道標が建てられている。
この先は国道を15分ほど歩き、さらにバイパスに合流して10分ほど歩くと地下道入り口と国道の間に真新しい恵戸一里塚跡碑が建てられている。


中山道はその先で国道から分かれ、卸売市場に沿って進んでいく。
ほどなくJR太田線の踏み切りを渡るのだが、その手前にいくつかの石碑が建てられた辞世塚なるものがある。


踏み切りを渡って30分弱歩いた先の龍洞寺に龍の枕石と云われる石がある。その昔、この近くに雌雄の龍が住んでいたそうだが、その龍の寝枕だという。


次の宿場の太田宿へ行くには龍洞寺先から右へ曲がり太田橋を渡っていく。


ここに今渡の渡し場跡碑が新設されている。「木曽の桟 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」 と詠まれたほど、木曽川の増水による川止めに悩まされた渡しでもあった。
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51 太田宿
「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と唄われ、中山道三大難所であった太田の渡しを渡ると、いよいよ太田宿である。ここは落合宿から鵜沼宿までを管理していた尾張藩の代官所が置かれていたことから、東美濃の政治、経済、文化の中心地でもあった。
枡形が残る中山道に沿って、旧太田脇本陣林家住宅、旧小松屋、旧太田本陣門などを見ることができる木曽川沿いの宿場町である。

難所であった太田の渡しに替わる太田橋を渡って、国道に突き当たる手前で、ヘアピンカーブのように木曽川沿いの土手の所に出来た遊歩道を進んでいく。左のほうに今来たばかりの太田橋が見え、その下の化石林公園のところが嘗ての太田の渡し跡だったところになる。


土手をしばらく歩いて、右下に水神や秋葉神社、御嶽神社などの石塔群が見えるあたりで、右に入る細い道を進み、車道に出て左へ曲がると、いよいよ太田宿に入る。
途中右手に中山道太田宿の看板があり、「右伏見宿三里 左太田宿脇本陣三丁」とある。

すぐに江戸側の枡形道が見えてくる。手前左に文明6年(1474)開創という祐泉寺と、朱鮮やかな鳥居が並ぶ太田稲荷がある。


祐泉寺と太田稲荷には幾つか句碑が置かれている。
  - 春なれや 名も無き山の 朝かすみ  芭蕉 -
  - 細葉堅秋雨ふれり うちみるや 石燈籠のあを苔のいろ  白秋 -

街道の枡形道を抜けた所の卯建の上がった立派な建物は旧旅籠小松屋で、今は資料館になっている。かつては、お伊勢参りなどの定宿であったそうだ。


小松屋の先の格子戸の嵌められた古民家は、永楽通寶を看板にした永楽屋という呉服店。


永楽屋の少し先が御代桜酒造で、店の横を曲がった奥の酒蔵が並んだ景色はなんとも趣きがある。


御代桜酒造の斜め対面の建物は脇本陣林家で、主屋は明和6年(1769)、表門は天保2年(1831)の建築である。国重要文化財となっているが、今も林家の住居となっているため見学はできない。


脇本陣の斜め前が福田家本陣であったが、今は本陣門だけが当時を偲ばせてくれる。この門は皇女和宮降嫁の際に新築されたものだそうだ。


本陣門の先すこし歩くと十字路に差し掛かるが、その手前が高札場跡で、説明板が建てられている。またこの十字路は郡上街道との追分でもあった。十字路向こう側の追分道標は明治26年に建立されたもので、刻まれている文字は「右 関上有知 左 西京伊勢 道」。


旧中山道はこの十字路を左に曲がり、突き当たりを右に曲がって(ここは京側枡形)、すぐ先の国道高架下を通ったら再び左へ曲がり、木曽川の土手道に出る。
土手道方向に行くと、天明2年(1782)の太田村絵図には既に描かれていたという虚空蔵堂がある。


このあたりは、承久3年(1221)の承久の乱で、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍が木曽川を挟んで激しく戦った場所だという。
国道高架下の方に戻り、左に進むと太田代官所跡と記された説明板が建てられている。ここは東濃一帯を治めていた尾張藩代官所があった所で、現在は太田小学校の敷地となっている。その代官所の役人であった坪内平之進の末子として安政6年(1859)に誕生したのが明治の文豪坪内逍遥である。小学校脇の道を通って学校正面側に回ると坪内逍遥顕彰碑と説明板を見ることができる。

この先、中山道は大型トラックの交通量が多く歩道の無い国道をひたすら歩くことになる。今日は、なんとか坂祝(さかほぎ)まで歩き、坂祝から電車で太田宿まで戻って宿を取ることにしている。
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翌朝、例によって早朝散歩に出かける。
前日、一度見てまわった街道の街並みをもう一度ゆっくり見てまわる。途中、祐泉寺の裏(正面)のほうから木曽川土手のほうに出てみると、ゆったりとした木曽川の土手の道は、朝早くから犬の散歩やウオーキングする人が結構多く見かけられる。

朝食後、美濃太田から電車で坂祝まで行き、歩き旅を再開する。
駅から木曽川のほうに向かうと、国道と並行して、日本ラインを眺めながら歩く堤防上の道、ロマンチック街道が続いている。


前日、大型トラックが頻繁に行きかう殺伐とした国道を歩いて閉口していた。しばらくは、国道を横に見下ろしながら、ライン下りの木曽川を見て気持ちよく歩く。


前方の城山の頂上を見ると、一見小さな城跡らしきものが見えるが、猿啄(さるばみ)城跡という城型の展望台だそうだ。もとは、猿啄城という城があったが、織田信長に攻められて落城し、その後廃城となってしまったということだ。

国道の勝山信号の所で堤防の道を降り、しばらく国道を歩く。勝山西交差点から国道は左にカーブして行くが、ほどなく右手に崖の中腹へ上っていく道があり、ここが旧中山道で岩屋観音堂への参道でもある。崖の中腹の岩穴にある観音堂は、江戸時代の建立だということだが、それにしても、崖にかすかにへばりついたような厳しいところである。


観音堂前の階段を下り再び国道に出て、しばらく歩いて人家が現れたら左に移り、カフェテラスゆらぎの先の階段下のちょっと無気味なトンネルを潜ると旧中山道に復帰する。この辺り、閉鎖されて酷く荒廃した飲食店のような建物がいくつか並んでいることもあって、明るい日差しの下にもかかわらず、一帯にはゴーストタウンのようなうら寂れた雰囲気が漂っている。
このトンネルの先に、鵜沼宿へのうとう峠入口がある。
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52 鵜沼宿
鵜沼は東山道時代から宿駅が置かれ、交通・経済の要衝地であった。慶安4年(1651)に、うとう峠を越える道が整備され中山道のルートが変更されたが、これに伴い宿場も現在地に移されている。
明治24年の濃尾地震で大きな被害を受けたため、趣きのある古民家は少ないが、地元の人たちの復元・保存の活動が活発で、街道沿いに数棟見られる。

<うとう峠>
国道下のトンネルをくぐり抜けると、その先は中山道うとう坂である。上り口辺りはやや殺伐とした雰囲気の山道だが、ほどなく整備された石畳道が出現し、快適な山道になっている。この辺りは「日本ラインうぬまの森」と呼ぶ市民憩いの散策路になっている。


頂上近くの街道際に小さな供養塔があるが、これは「小田原宿喜右衛門供養塔」と呼ばれ、うとう峠で盗賊に襲われ命を落とした旅人を弔うために建てたものだとか。今も地元の人が手厚くお守りしている。
その先の峠を越えた所にうとう峠一里塚の右側が現存している。


左側は、戦時中に陸軍兵舎を建てるために半分以上削ってしまったということで、今は僅かに痕跡が残る程度となってしまった。
一里塚跡を過ぎると、大きな公園があり、日本ラインうぬまの森という。ここにはうぬまの森の石碑、森の本やさん、休憩所などがあり、道の西側には団地、南側は住宅地が広がっている。
団地の道をしばらく下ると合戸池へ出る。


住宅地の間を縫って中山道は下るが、ここら辺は高台で視界が広がり、眺めがとても良い。高台を下って行くと右手に赤坂神社が見える。


赤坂神社参道の坂を下り、通りに出て西にすこし歩くと鵜沼中山道交差点際に高札場が復元されている。


また、この交差点には、手前と向こう側に都合2本の尾州領傍示石が建てられている。


その先の大安寺橋を渡ると、いよいよ鵜沼宿の中心街へと入っていく。
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<街並み>
橋を渡ったすぐ先の古民家は町屋館と呼ばれる資料館である。元々は江戸時代に絹屋と呼ばれる旅籠で、明治の初めから郵便局を営んでいた武藤家から建物の寄進を受けて整備したもので、古い町屋の特徴を伝えている。
町屋館の対面に旧大垣城鉄(くろがね)門が据えられている。大垣城本丸の表口に建てられいた鉄門で、明冶維新で払い下げられ、安積家自邸の門としていたが、各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築された。高麗門に鉄板を張ったものは、他には名古屋城表二之門、大坂城大手門の二例が現存している。


町屋館のすぐ先が坂井家脇本陣跡で、近年復元工事が進められて平成22年5月より一般公開されるようになったもの。昔の図面を使い、忠実に復元されたもので、格式高い建物の特徴を見ることができる。


こういった建物は、太田宿脇本陣林家のように歴史的建物を保存しているのが通常なのに対し、ここは真新しい白木の木材を使ってそっくり造られたもので、極めて珍しい。表門のところには芭蕉の句碑が並んでいる。芭蕉はここを三度訪れている。
脇本陣のすぐ先に見える黒塗りの大きな建物は、明治4年の創業の菊川酒造の本蔵で、本蔵は大正時代の後半に建てられたもの。


菊川酒造の向かいが本陣跡だが、そこには説明板があるのみで、遺構などは何も残っていない。本陣は桜井家が代々勤め、問屋、庄屋を兼ねていた。
菊川酒造のすぐ先に、国登録有形文化財に指定されている古民家が4棟並んでいる。手前から、丸一屋と称し旅籠であった明治27年建築の坂井家、次は唯一江戸時代の建物で、旅籠であった茗荷屋梅田家、3棟目は明治元年建築の梅田家、4棟目は昭和5年建築の安田家である。いずれも重厚で実に見事な屋敷である。


見どころの多いこの宿内でカメラ片手にきょろきょろうろうろしていたら、脇本陣の前で待ち構えていたおじさんに呼び止められ、ぜひ中を見ていってくれと、招き入れられた。そこにはボランティアのおじさんが二人いて、いろいろ丁寧に説明をしてくださった。
ひととおり話を聞いて脇本陣を出た後、すぐ先の坂井家の屋敷を眺めていたら、たまたまその家のご主人が出てきたので、いろいろ話を聞かせていただくことができた。話が天狗党におよんだら、先ほど訪ねた脇本陣に天狗党所縁のものがある、というので坂井さんに案内されてもう一度脇本陣に戻った。(坂井さんもボランティアの一員として、ときどき脇本陣で説明しているとのこと。後日知ったことだが、この脇本陣はもともとは、坂井さんの家の本家にあたる坂井家のものだった。)
案内された奥まった座敷にあったのは、武田耕雲斎揮毫の屏風で、天狗党が鵜沼本陣に宿泊した際に書かれた漢詩が残されていた。


ちなみに、天狗党一行は中山道を鵜沼宿まで進んだが、その先には、彦根藩、大垣藩、桑名藩、尾張藩、犬山藩の大軍が陣を敷き、天狗党を待ち受けていた。これら諸藩は戦国以来の強兵を持って鳴る藩で、しかも大軍であり、さしもの天狗党も、これら強藩兵を相手に戦いを挑むのは困難と判断し、中山道を迂回して北陸道から京を目指すことにした。鵜沼から北上し、蝿烏帽子峠を越え、越前大野郡に入り、敦賀に向かうが、この先あまりにも過酷な運命が待っている。

脇本陣を後にして街道をすこし歩いたところに衣裳塚古墳があった。説明板には、直径52mという県下最大の円墳だが、前方後円墳だった可能性もある、と記されている。


すこし先の津島神社境内に、農村歌舞伎の舞台となる皆楽座がある。回り舞台、奈落、囃子座、楽屋も備えた本格的舞台であるが、今はコンサートなどに使われているそうだ。


まもなく国道に合流するが、江戸時代は荒涼たる各務ケ原(かがみがはら)原野だったところ。次の加納宿までかなりの距離だが、この先暫くは、なんとも味気ない街道をいく。
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53 加納宿
加納城の城下町として発展した加納宿は、大きな宿場であったが、太平洋戦争の空襲により、町のほとんどを焼失し、石碑や道標などで往時の面影を偲ぶだけとなっている。
鵜沼宿を出てから、六軒一里塚跡を通り、各務原市の中心部に入ると、那加信長町、那加織田町という町名が続く。さすがに美濃の国らしい。

那加日吉町に入ると、右手に日吉神社の赤い派手な鳥居が建っている。本殿はずっと奥まった所にある。


新加納立場
日吉神社のすぐ先で二股にぶつかり、ここが間の宿新加納立場の入口になる。二股の所が一里塚でもあった。新加納立場の案内板が立っている。鵜沼から加納までは4里10丁もあり、中山道では2番目に長い距離なので、どうしても中間に休憩場所を設ける必要があり、この立場が間の宿として発展した。説明板の横に新加納一里塚跡標柱が建てられている。
旧中山道は真っ直ぐの道で、真っ直ぐ進んだ突き当たりは旧御典医の今尾家。中山道はここを右に曲がっていくのだが、左に曲がると登録有形文化財となっている今尾家の建物が見られる。


今尾家の塀に沿って進むと突き当たりが少林寺。ここに岐阜県指定文化財の東陽英朝禅師塔所がある。東陽英朝は少林寺の開山者であるが、二宿前の太田宿で立ち寄った祐泉寺の創建者でもあった。


街道に戻り再び街道を歩く。東海北陸自動車道をくぐり、高田、蔵前と通過していくと、切通という所に出る。左手に手力雄神社入口を示す鳥居が見えてくる。この神社は織田信長の崇敬も厚かったといわれた神社であった。この神社で毎年4月手力の火祭が行われている。観光案内で見ると、滝花火の火の粉が降り注ぐ中、神輿を担ぐ様は迫力であり、機会があれば一度見てみたいものだ。


中山道はこの先で国道を横断するが、横断して数分の所に細畑一里塚がある。ここは左右とも現存しているという貴重な一里塚である。


一里塚の先Y字路となるが、真ん中のお堂の中に鎮座しているのは延命地蔵。ここはは伊勢方面との追分で、追分道標が建てられており、「伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里 西京道加納宿兀八丁」とある。


この先は、領下と呼ばれていた集落で、左手には古い八幡宮も残っている。このあたり、歴史を感じさせる大きな屋敷がいくつも立ち並んでいる。
東海道線高架をくぐり、名鉄名古屋線の茶所駅の踏切を越えると、加納宿に入っていく。

<街並み>
中山道は、茶所駅を過ぎた先で右にまがり、その先は右折左折と次々と枡形が続くのでちょっと複雑である。これほどの枡形は、なかなか無いと思われる。

右に曲がって加納大橋を渡ると、その先の枡形道の道標のところで左に曲がっていく。次の枡形道手前に東番所跡碑が建てられている。街道はここを左に曲がり、すぐに右へ曲がって県道を横断していく。突き当たりに道標があるが、ここは左に曲がる枡形道。橋を渡ると高札場跡の説明板が建てられている。当時は宿御高札場と呼ばれていたそうだ。
橋を渡った先で中山道は右に曲がるが、真っ直ぐ先の歩道橋下に加納城大手門跡碑が建てられている。加納城は徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した直後に築城を命じた城で、初代城主は家康の長女亀姫の婿の奥平信昌であった。明治維新で徹底的に破壊されてしまい、今は本丸跡と一部の石垣だけが残っている。
街道に戻って右に曲がると、ちょっと薄気味悪い旧加納町役場跡が目を引く。これでも国登録有形文化財なのだが、戦中に黒く塗られたのが原因のようで、幽霊屋敷みたいだ。
この辺りから宿場の中心街となるのだが、戦災でほとんどの建物が焼失してしまったため石碑で往時を知るのみである。

栄町通りに出たところで、岐阜駅に向かい、駅ビルの中でちょっと遅めの食事を摂る。今回の街道歩きはここまでとし、折角なので駅前からバスで金華山まで行き、岐阜城に立ち寄ってから帰路につくことにする。それにしても、鵜沼からの距離がほとほと長く感じられた。

<岐阜城>
>金華山山頂に位置し、岩山の上にそびえる岐阜城は、難攻不落の城として知られ、「美濃を制すものは天下を制す」と言われるほどであった。


戦国時代には斎藤道三の居城だったが、その後、織田信長がこの城を攻略し、城主となり、地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれている。
1600年、関ヶ原合戦の前哨戦の際、信長の孫 秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城し、天守閣・櫓等は加納城に移された。
展望台からは眼下に清流長良川、東には恵那山や木曽御岳山、北には乗鞍・日本アルプスが連なり、西には伊吹山・養老山脈、南には伊勢湾などが連なる壮大な眺望を楽しむことができる。

岐阜城より天下を見下ろして、しばし信長の気分を味わい、岐阜城を後にした。
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今回の旅の前半、大井から御嵩までは、十三峠、琵琶峠といった峠が、これでもかこれでもかというくらいに続くところであった。しかし、幸い天候に恵まれて見晴らしのいい景色を眺めながら心地よい山間の歩き旅ができた。幸か不幸か、近代化の流れから取り残された山里の大湫宿の落ち着いた雰囲気や細久手宿大黒屋のもてなしに、疲れの中にもなにか癒されたような心地よい気分が残った。

御嵩に入ると漸く平坦な道になり、美濃の中心加納まで続く。
太田、鵜沼は、地元の人たちの復元・保存の活動が活発で、歴史的街並みがしっかり残っている。
なお、和田峠で見かけた水戸浪士の碑以降、ここに来るまで中山道のところどころに天狗党の足跡が残されていたが、ここ鵜沼を過ぎたあと天狗党は中山道から外れて、根尾川ぞいに北上するルートを取って越前に向かっている。悲劇の行軍の始まりである。

中山道は、鵜沼を過ぎて加納まで、やや退屈な長い道になる。
加納宿は、太平洋戦争の空襲により、町のほとんどを焼失し、石碑や道標などで往時の面影を偲ぶだけとなっている。徳川に所縁の強い加納城は、明治維新で徹底的に破壊されたこともあって、宿場全体に徳川所縁のものが少なくなっているような気がする。
その一方で、加納に近づくにつれ、織田信長の気配が強まるのを感じる。加納城は寂れているが、岐阜城は立派に復元され、観光客で賑っている。それぞれの地域における歴史の影響が、なんとなく微妙に異なっているところが興味深い。

今回の旅で、これまで縁の薄かった美濃の街々を巡って、少しばかり認識を深めることができた。加納から名古屋へはわずか20分ほどの近さだと言うことも、初めて知った。名古屋で新幹線に乗り換え、帰途についたが、新横浜までわずか1時間半ほどという短さで、のんびり旅の余韻に浸る間もないほどであった。やはり、新幹線は凄い乗り物である。江戸時代からあっという間に現代にタイムトリップしてしまう。