桶川~熊谷

2012年6月29日 桶川~鴻巣~熊谷
今日は、桶川の先の北本から再開する。

北本
北本は、もとは宿駅として賑わっていたが、江戸時代初期に宿駅が鴻巣に移されて以降は立場となった。北本の名は、宿駅時代の本鴻巣から本宿、北本宿、北本と遷り変わったものらしい。

北本駅の少し先左側、鳥居のずっと奥の塚の上に東間浅間神社が鎮座している。浅間神社は富士山を神様とした神社で、毎年6月31日、7月1日に富士山の山開きにあわせた例大祭が行われ、この一年に生まれた赤ちゃんの成長を祈願する行事として地域の人に親しまれている。ちょうどこの日は祭りの準備で賑わっていた。


鴻巣宿に入っていくあたりは人形町といい、街道沿いには人形店が多い。


鴻巣の人形つくりの歴史は古く、江戸中期の天明年間ころにはほぼ現在の雛人形が作られるようになり、昭和の初期まで盛況が続いたという。
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7 鴻巣宿
鴻巣宿は、慶長7年(1602)まで現在の北本市にあったが、江戸幕府の宿駅整備に伴い、市宿新田(現在の鴻巣)に移された。中山道と日光脇街道への追分になっていることに加え、江戸からの初日の泊まりをとる人も多く、中山道の宿場町の中では比較的大きなものであった。

宿入口近く、街道から少し左に入ったところに勝願寺という古刹がある。浄土宗関東十八壇林の一つであり、徳川家康の厚い庇護を受けて栄えた。三つ葉葵の使用を許されており、今も軒丸瓦など随所に見られる。
栴檀林(せんだんりん)の扁額を掲げる総門を入ると仁王門が構えているが、この時は残念ながら修理工事中でシートに覆われていた。


境内に入るとまず巨大な無縁物供養塔に驚くが、多くの文化財が所蔵されている寺内には丹後国田辺城主牧野家の墓所や真田家千石家の墓などがある。

真田家千石家の墓が並ぶ中の一つには、本田忠勝の娘で家康の養女となり真田信之に嫁いだ小松姫の墓がある。


鴻巣駅入口を過ぎて少し先の鴻神社は、鴻巣の地名の由来になったコウノトリの伝説のある神社である。明治6年に氷川社、熊野社、竹之森雷電社を合祀したもので、鴻三社と呼ばれていた。さらに、明治35年から40年にかけて、日枝神社、東照宮、八幡神社などを合祀して鴻神社と改められた。


武蔵水路を過ぎると、箕田追分けで道は二手に分かれる。右方向は忍道で行田を経て日光へ行き、左へ行く中山道はやがて立場の吹上へ入っていく。


追分から先も坦々とした道が続き、やがて畑などが広がるのどかな街道になる。交差点際に前砂村碑が建てられており「池田英泉の鴻巣・吹上富士はこのあたりで描かれた」と記されている。

吹上間の宿
踏切を渡って吹上駅を左に見ながら進み、本町交差点で左折すると、すぐに吹上神社がある。祭神は大山咋命、倉稲魂命、大物主命、菅原道真で、前身は近江国大津の日枝大社(山王社)を奉奏する日枝社である。


神社の先で街道は高崎線の線路に分断されているので、高架橋を渡る。この橋の下に「吹上間の宿」の説明板がある。


説明板によると、吹上が重視されたのは、日光東照宮を警護する武士達の日光火の番道(忍道、松山道)と中山道が町の中央で交差したこと、そして熊谷宿と鴻巣宿の距離が長かったことから中間に立場が必要だったこと、とのこと。日光火の番街道は千人同心街道、八王子街道、館林道、日光脇街道などとも呼ばれ、八王子から日光へ至る脇往還である。

熊谷堤
間の宿・吹上を抜け、高崎線の線路を渡るとやがて荒川の土手・熊谷堤に出る。
その手前、ちょっと右に入ったところに小さな榎戸堰公園がある。堰の歴史は古く、江戸時代初期には造られていて、元荒川一番堰とも呼ばれる。以後、何度も修復・改築が繰り返され、今の形になったもので、荒川との闘いの歴史の一端が見られる。


このすぐ先、堤への登り口にあるのが権八地蔵である。


歌舞伎の鈴ヶ森に登場する白井権八が江戸に向かう途中、金に困ってここで辻斬り強盗をした。その現場をお地蔵さんに見られ「誰にも言うな」と言ったところ、「わしは言わぬが、お前も言うな」と地蔵に言われた。しかし結局権八は自分でそのことを言ってしまい、磔刑となり鈴ヶ森に晒されることになった。それ以来、この地蔵は「権八ものいい地蔵」と呼ばれる様になったんだとさ。
そもそも、久下に至る長土手は、江戸時代には追いはぎが出没する物騒な所でもあった。

地蔵堂の横から久下に至る約2.7kmの堤の上を歩く。青空のもと遥か彼方まで見渡す限り広がる河川敷を歩くのは実に気持ちがいい。但し、日陰が無いところを延々と歩くので、熱中症を気にしながらひたすら歩くことに・・・。


この先、暑さで頭がボーっとして、どこをどう歩いたかよくわからないが、延々と歩いた熊谷堤を下り、右手の方にJR高崎線の気配を感じながら熊谷駅の方に向かって静かな街中をしばらく進む。まもなくJR高崎線の踏切を渡り5~6分歩いて国道17号に合流し、熊谷宿に入った。
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8 熊谷宿
熊谷宿は、秩父などへの脇道も多く交通の要衝として大いに栄えた。宿の規模では中山道69宿の中では本庄に次いで大きかったが、昭和20年8月14日夜半の空襲で市内の大半が焼失したため往時の宿場の遺構はあまり残っていない。
熊谷宿に入ってしばらくは国道が中山道である。少し先右側の鳥居奥に高城神社が見えてくる。

髙城神社の創建年代は不詳だが、延喜5年(905)に作成された延喜式式内社に指定された古社。天正18年(1580)豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた際、忍城(現・行田市)も攻められ、高城神社も災禍に遭って社殿を焼失した。現在の建物は、忍藩主阿部豊後神忠秋により、寛文11年(1671)に再興されたもの。


高城神社境内にある熊野神社は、永治年間(1141~)この地方を荒らし回っていた熊を熊谷直実の父の直貞が退治して熊谷市箱田に熊野権現堂を築いたものが、明治40年に高城神社境内へ遷され、これが熊谷の地名の起こりとなっている。


少し先の熊谷寺(ゆうこくじ)は、熊谷直実が生まれたところである。一の谷の戦いで平敦盛を討った直実は以降仏門に帰依する思いが強くなり、出家して京都で修行した。その後、この地に戻り、元久元年(1204)蓮生庵を建てた。後の天正年間(1573~)に幡随意上人が草庵跡にこの寺を建てた。


本町1丁目の西端の左側歩道上に、本陣跡を示す石碑が説明板とともに建てられている。本陣は代々竹井家が務め、敷地1600坪、建坪700坪という大邸宅であったが、明治の火災と戦災で焼失した。現在は、本陣竹井家の別邸が星渓園として復元、公開されている。

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次回はここから再開することにして、JR熊谷駅までもどり、一旦帰宅する。
おりしも、熊谷直実像の立つ駅前には、7月開催の団扇祭を前触れる幟や提灯などが飾られ、賑わいを見せていた。