上松~大井

2013/04/18~20
上松~須原~野尻~三留野~妻籠~馬籠~落合~中津川~大井

前回、上松を訪れたのは10月末の紅葉が見ごろの時期だった。今回は、年があらたまり春爛漫の木曽路を行くことになる。今年は、桜の開花が例年よりも2週間近く早まったため、桜の時期はもう過ぎているかもしれないが、木々が新芽を吹く本格的な春を堪能できる期待が膨らむ。また、中山道のハイライトとも言われる妻籠、馬籠をたずねるにあたって、島崎藤村の「夜明け前」もしっかり読み終えたので、一層楽しみである。
出発の朝、例によって東林間を早く発ち、八王子、塩尻経由で木曽福島まで電車、そこからバスで上松まで行って、街道歩きの再開である。途中、日野春あたりで見える鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳がいつになくきれいで、空気も澄み切っていて真にいい天気だ。
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38 上松宿
上松宿は、木曽谷の人々の生活を支える木材の中心地として栄えた。寛文3年(1663)から4年にかけて、尾張藩が木曽総山の検見を実施した際、その大半が伐採されていることに驚き、山村代官から山に関する一切の業務を取り上げて、この地に直轄の材木役所を設けて取り締まるようになった。
「夜明け前」にも描かれているが、その管理は非常に厳しいもので、「ひのき1本首ひとつ」と言われるほどであった。ちなみに、島崎藤村の父正樹が、馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を兼ねる名家の家産を傾け、挫折をくり返した末、発狂し、座敷牢で没するに至るきっかけの1つは、この木曽山林の解放運動に奔走したことであった。

前回、寝覚の床を訪れているので、今回はその先から歩き始める。
立場のあった寝覚のたせやと越前屋の前を通り、林の中の石畳道を下って、その先の山間の道を下ると国道に合流する。
国道に合流してすぐに、中央線の鉄橋の奥に小野の滝が見える。広重・英泉木曽海道69次の「上松」にはこの小野の滝が描かれている。ここを旅した細川幽斉が「これほどのものをこの国の歌枕には、いかにもらしける」と手放しで誉めた、と説明板にある。


小野の滝を出てしばらく国道を歩くと、左の荻原集落入口に荻原の一里塚跡碑が立てられている。


集落に入ると小ぶりの水舟が迎えてくれる。


街道はすぐに国道に合流したあと、串ヶ下の先で左に折れ、中央線のガードをくぐると宮戸村集落に入る。上り坂を行くと民家の庭先を抜けた先は細い草道になり、その先はのどかで見晴らしの良いくるみ坂に続く。


心地よい草道を下ってJRのガードをくぐり国道に出ると、すぐ先で左に入るが、すぐにまた国道へ出る。中山道の旧道は、特に木曽路に入ると、後からできた国道や鉄道と合流したり、遮られたり離れたりと、入り組んでいて大変複雑なものになっている。

立町歩道橋で国道を渡って入った先は立町立場があったところで、古い家屋も残る風情のある町並が続き、集落の中ほどを過ぎると、木曽川に架けられた木造の吊り橋が見えてくる。珍しいので途中まで渡ってみると、なんとなく生活観が感じられ、周りの景観に溶け込んでいて風情があった。

 


街道はこの先で再び国道に合流、倉本駅の先で左のJRのガードを抜けていくと倉本の集落に入る。 古民家が何軒か残るひなびた集落だが、栃の木坂と呼ばれる坂を下ると常夜灯と石塔群がならんでおり、その先はまた心地よい草道となっている。


大沢川沿いを下って国道に合流してすぐの万場の信号のところで、ふと木曽川のほうを見ると、桜の花がきれいに咲いている。釣られるようにそちらに行ってみると、木曽川に架かる桃山橋周辺には桜や花桃などいろいろな花が見事に咲いていてまさに春爛漫の様相だ。

 


国道に戻って、てくてく歩いていくと右側駐車場の奥に倉本一里塚跡碑がひっそりと立っている。


街道は倉本一里塚の先で国道から分かれて右側の池の尻集落へと入っていく。ここも立場があったところで、川向こうに桃山発電所を眺めながらひたすらのんびり歩く。
ふたたび国道に戻り、しばらくは須原に向かって延々と国道を歩く。途中、見事なしだれ桜が目に入り、ここでも釣られるようにそちらのほうに行ってみると、しだれ桜のほかにも様々な花々が咲き乱れていて、実に見事な眺めである。ちょっとした桜の名所と言ってもおかしくないような雰囲気だが、おそらく普通の民家の庭先(かなり広大)なのであろう。 この景観を独り占めできるなんて、真に羨ましい限りである。

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39 須原宿
須原宿は、枡形の坂道、幅広の道、町の中を流れる用水路などが、往時の宿場の面影をよく残している。宿のはじまりは古いが、正徳年間に洪水被害をうけ、享保2年(1717)に現在地へ移転された際、他の宿場の良いところを取り入れて宿場造りを行ったため、宿場の特色を残す貴重な存在とされる。

国道から左側に入っていくと、須原宿の案内看板が置かれている。その先、江戸時代からの須原名物桜の花漬で有名な大和屋が見えてくる。


大和屋の横には須原宿一里塚跡があり、向かい側のJR須原駅前広場には、幸田露伴文学碑と大きな水舟がある。丸太をくりぬいて作られたこうした水舟が須原の街のあちこちにあって、なんとも言えぬゆったりとした気分になる。


静かな町並みの中、街道の緩い坂を下っていくと須原本陣跡が見えてくる。


ここには大きな水舟に並んで正岡子規歌碑が置かれている。
  - 寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし -


その対面は、脇本陣跡の西尾酒造である。西尾家は問屋、庄屋も兼ねた脇本陣であった。


少し先に、屋根がかけられたひときわ大きな水舟がある。木曽路はどこも水場が多いが、須原宿内にはこうした丸太をくりぬいた水舟が数多くみられ、宿場の独特の趣を醸し出している。


宿のはずれの枡形のところにある定勝寺は、木曽三大名刹と言われ、桃山様式の代表的建築で山門・庫裡・本堂が国指定重要文化財に指定されている。境内の庭園がよく手入れされていて美しく、しばし旅の疲れも忘れてしまう。

 


この辺りで街道を振り返ってみると、遠くに木曽駒ヶ岳の素晴らしい眺めが見られる。ゆったりした水舟の里で見られるこうした何気ないような景色がなんとも羨ましい。


もときた枡形道まで戻ると、鍵屋の坂になる。ここは古い家の間を用水が流れ、両側が道という、江戸時代そのままの形状が残っている。
長坂のJRの踏み切りを渡り、山の中腹を上っていくと橋場集落へと入っていく。集落の中ほどを左に入ると岩出観音が崖の中腹に見られる。


木曽の清水寺とも呼ばれている岩出観音の懸崖造りの御堂は、一度火災に遭い、文化10年(1813)に再建されたもので、堂内には多数の絵馬が掲げられている。

街道に戻って少し行くと伊奈川橋を渡る。昔は、この伊奈川橋は大雨が降ると上流から流れてくる大石によってことごとく流されてしまった。そのため、この橋は橋杭のない反り橋となったという。江戸の浮世絵師、英泉は「木曾街道六拾九次」の中で、伊奈川橋と背後の岩出観音堂を描いている。


しばらく歩いたら大島橋の手前を左に入っていく。その先は山と山に挟まれた山間(やまあい)の集落で、山裾をぐるっと回り込むように続いている。やがて、間宿平沢の集落へと入るが、気のせいか、かなり長い距離を歩いたような気がする。途中、天長院が見えるが、ここまで思ったより時間がかかったため立ち寄らず、のどかな山村の道を野尻を目指して先を急ぐ。


大桑駅前のながのじゅく橋を渡ると、街道は、この先でJRを渡り、国道に合流する。しばらく国道を歩き、道の駅大桑の前を通り過ぎてすこし先で右へ下っていき、ちょっと先の第11仲仙道踏切を渡って木曽川沿いの道を行く。 
このあたりでは、江戸方面に中央アルプスの素晴らしい眺望が見られる。

木曽川沿いには水力発電所が多いが、まもなく川の向こうに大桑発電所が見える。この先で第12仲仙道踏切を渡り、坂を上って野尻宿へ入っていく。
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40 野尻宿
野尻宿は、外敵を防ぐための七曲がりと呼ばれる曲がりくねった町並みが特徴で、昭和18年の火災のため建物等に宿場時代の面影はあまり残されていないが、いくつかある出梁造りの旧家に往時の面影を少しだけ感じることができる。


倉坂を上り、枡形道を暫く行くと明治天皇御小休所碑が建てられている本陣跡がある。
その先、くねくねした道を進むと野尻駅にたどり着く。駅手前の旅館庭田屋は、ここ野尻では珍しく、往時の宿場の雰囲気が漂う建物だ。


今日は、ここから電車でひとまず南木曽まで行き、予約している妻籠の宿で一泊する。翌日、再びここまで戻ってきて歩き旅を再開する。
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<妻籠宿>
妻籠橋バス停からすぐのところにある妻籠宿のほうに入っていくと、寺下と言われる、この宿の真ん中辺り、松代屋のところに出る。ここから右側には石の階段、左側には広くなだらかな石の階段があって、奈良井などとはちょっと雰囲気が異なる。左側の石の階段のところが、枡形になっている点がこの宿の特徴ともなっている。

 


すでに夕方になっているため、団体の観光客などはすでに引き上げており、静かな街並みの雰囲気をたっぷり味わうことができる。郷土資料館などもすでに閉じているが、明日もう一度来るので、そのときにゆっくり見ることにし、とりあえず、街並みを一通り見るため、江戸口側のはずれの高札場あたりから京口側の尾又橋あたりまで歩いてみた。


事前に得ていた情報どおり、江戸の昔にタイムスリップした街並みである。それにしても、歩いている途中、出会ったのは殆どが外国人なのには驚いた。
今日は、この宿の本陣すぐ近くの阪本屋にお世話になる。


おじいさんとおばあさん2人だけでこじんまりと民宿を営んでいる。聞くと、今日の同宿はフランス人の青年一人だけと言うことで、先ずはゆっくりとお風呂につかり、部屋での夕食と相成る。この食事のボリュームがすごくて、とても食べきれるものではなかった。お櫃に入ったかやくご飯なんかはざっと3人分はあった。夕食は、部屋のコタツで頂くが、隣の部屋には既に布団がしいてあり、いつでも休めるようにしてくれている。
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翌朝、例によって朝食前に散歩に出かける。全く人に出会うことも無く、心持ひんやりとして実に清々しい。奈良井でもそうだったように、明かりがともった静かな街並みは、一層風情がある。


桜の時期は過ぎているが、花桃ほかいろいろな花が咲いていて、自然と穏やかな気分に浸れる。何軒かの古民家の入り口でそれとなく花を飾っているさまは、とてもお洒落な感じである。また、妻籠橋を渡ったところの花桃はこの地の景色に自然に溶け込んでいて実に印象的であった。


朝食後、この妻籠橋の袂からバスに乗り、南木曽で電車に乗り継いで野尻まで戻る。
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<再び野尻>
妻籠から野尻に戻り、昨日の続きを再開する。

七曲りと言われる野尻宿の町並みは、街道が右に左にと曲がっている。外敵の侵入を防ぐ目的だったものだが、その七曲がりの終わりにある家の屋号が「はずれ」と言う。


街道は、その先の二反田橋を渡り、次の下在郷橋を渡ったらすぐに右の坂道を下っていくのだが、道をどうやら間違えたらしく、山の神・川の神を祀った妻神社など、見落としてしまった。
国道の阿寺渓谷入口信号から入った辺りで、本来の街道に合流し、人気のない道をしばらく行くと仲仙道13号踏切を渡る。
踏切を渡った先は、線路とダム湖の間の道で、聞こえるのは鳥のさえずりと心地よい風の音だけ。ゆったりしたダム湖に沿って、とことんのんびりと歩を進める。


ダムのちょうど真横あたりで仲仙道14号踏切を渡って、坂道を国道へ向かって上っていく。
国道に出たらすぐ先の町境の橋を渡り、国道を横断して坂道を上っていくと、かつて立場であった十二兼集落へと入っていく。

集落先のY字路を右に下っていくと熊野神社前に出るが、ここの社殿には牛の絵馬が飾られている。十二兼には牛方が多く住んでいたらしい。
この先、地図によれば、街道は神社横を通って国道とJR中央線を横断していくのだが、十二兼北信号のところでは、どう見ても国道を渡ることはできない。実は、国道下に設けられたトンネルをくぐっていかなければならないのだが、このトンネルの存在が実に分かりづらい。その上、なんと水路トンネルに仮設されただけのいかにも危なげな歩道である。


どうにかトンネルを抜けて街道に復帰すると、その先は木曽川に沿ったのどかな集落を通っていく。暫く歩くと、花々の影に階段の上の中央線の十二兼駅が見えてくる。


もう少し行くと、木曽川に架かる柿其(かきぞれ)橋の前に出る。
柿其橋の橋上から眺めた景色が実に素晴らしい。上流のほうは南寝覚とも呼ばれる景勝地、下流のほうはこの先の羅天の桟へとつながるスケールの大きな荒々しい木曽川の姿が見られる。

 


橋を渡ったところに八剣神社があり、境内にはご神木の大杉が生えている。
橋を戻ると、その先に中川原明治天皇御小休所跡の案内板がおかれている。

柿其橋から少し行くと国道に合流する。遠くに羅天の桟を見ながら木曽川に沿って歩くこの辺りは、沓掛と言うところらしい。沓掛という名は、旅人が草鞋や馬沓をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来するといわれる。だいたいは峠の急な坂道のような難所にさしかかる所に多く、このようなところでは珍しい。羅天の桟を前にして旅の安全を祈願せずにはいられなかったということなのであろう。この先がよほどの難所であったことがうかがえる。

羅天の桟
嘗て、この辺りは木曽川の両岸に山が迫り、険しい断崖が川沿いに続く難所中の難所と言われたところ。中山道は断崖の僅かな平地に通路を確保し、それができない所には桟を架けて道を通した。桟といえば上松の木曽の桟が有名だが、ここは羅天の桟と呼ばれる。


島崎藤村の「夜明け前」の冒頭部分「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・」というのはこのあたりを描いているといわれている。
江戸時代の木曽路名所図会に次のように記されている。
「野尻より三留野までおよそ二里半 道は深き木曽川に沿いせまき所は木を切り渡しつた・かずらにてからめてその巾をおぎない馬にも乗りがたきはなはだ危うきところあり お気をつけめされい」
現在、桟が架けられていたところは、崖を削ってJR中央線や歩道もついた立派な国道が通っており、車で通ると、ここが嘗ての難所中の難所であったということに気づく事もない。
与川の方から桟を振り返り見ても、その険しさは想像に難くない。


与川の先、数件の家が並ぶ金地屋の集落を過ぎたら、国道と分かれ左の細い道に入ると、まもなく三留野宿である。
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41 三留野宿
三留野宿の名前は中世に木曽氏の館があって御殿(みどの)と呼ばれたことに由来しているといわれている。宝永元年(1704)の大火を含め江戸時代に4度の火災にあい、その都度宿のほとんどを失ってきた。また、鉄道開通とともに町の中心が三留野駅周辺(現南木曽駅)に移ってしまったことから、今は静かな町並みとなっている。

JR中央線のガード下を通り、坂道を上っていくと三留野宿入り口の枡形道へと入っていく。
三留野宿は明治の大火で町並みのほとんどを焼失してしまったが、枡形道を抜けると出梁造りの家が並ぶなど、ひなびた街道風景が見られる。
宿場の中ほどに脇本陣跡の説明板が建てられている。代々宮川家が務めてきた脇本陣だが、その建物は残念ながら明治の大火で焼失してしまっている。脇本陣跡の斜め先が本陣跡で、こちらは鮎沢家が務めており、皇女和宮一行が宿泊している。


街道はその先のガードレールの間から狭い階段を下っていくのだが、うっかりすると見落としてしまう。階段を下った先に、享和3年(1803)に建立された秋葉常夜灯がある。
梨子沢の橋を渡ると、南木曽小学校に行く上り階段があり、その階段を数段上がって右に曲がる道が中山道だが、ちょっとややこしくて、このあたりで道を見失ってしまったようだ。すぐに旧道に戻って先に行くと、川岸に鮮やかな花桃が咲き誇ったように咲いている川を渡る。


地形の険しいこのあたり、蛇抜けと呼ばれる土石流に過去何度も襲われたことがあるところだそうだ。目の前の美しい景色からは想像しにくいが、ここを歩いた翌年7月、まさにこの場で大規模土石流が発生したというニュースが大々的に報じられた。

<天白公園>
この先で街道を外れて、木曽川に架かる桃介橋を渡り、ミツバツツジ群生地天白公園へ向かう。今朝、南木曽駅で野尻への切符を買うときに、駅の窓口のおばさんと話していたら、今が一番見ごろなのでぜひ寄っていくように、と勧められていた。
長大吊橋の桃介橋は、大同電力(現中部電力)の社長であった福沢桃介が、読書発電所建設のために大正11年に架けたもので、今は南木曾町有形文化財となっている。


天白公園はミツバツツジの大群落(町天然記念物)のつつじ園となっている。4月中旬頃が花の見頃で、ちょうど今週は南木曽ミツバツツジ祭りが開催されている。園内には約400株のツツジが群生しており、中でもナギソミツバツツジはこの近辺にしか見られない珍種とのこと。公園は高台にあり、群生するツツジの間から、遠くに木曽駒ヶ岳が臨める眺望が実に素晴らしかった。

 


南木曽駅前まで戻って、バスで再び妻籠に向かう。
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42 妻籠宿
妻籠は木曽谷の西南端部に位置し、南北に連なる約6kmの細長い山峡の村である。
この山峡を北流し、木曽川に注いでいる蘭(あららぎ)川とその支流の男垂(おたる)川が形成するわずかな河岸段丘に、1kmにおよぶ妻籠宿を中心にいくつかの集落が点在している。後に作られた国道や鉄道は、ここから大きく西側にそれたため、妻籠宿から馬籠峠へ向かう街道は、ひっそりとして趣のある風情がたっぷりと残されている。
枡形の街並みに古い建物が残されている妻籠宿は、日本で最初に江戸時代の宿場町の復元と保存を行ったところであり、馬籠宿とともに重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けている。

バス停周辺ににぎやかに咲き誇っている花々を眺めながら、宿場のほうに向かうと、宿場入り口に鯉岩なる大岩がある。木曽路名所絵図に描かれた鯉岩は、中山道三名石の一つだったが、明治24年(1891)の濃尾地震で形が変わってしまったという。鯉岩の斜め前にある建物は、南木曾町有形文化財熊谷家住宅、ちょっと先の広場は口留番所跡で、その横にある地蔵沢橋を渡って坂を下ると妻籠宿に入っていく。

前日と今朝、この街の様子は何度も同じところを行ったり来たりして見ているので、今日は、街の中ほどの脇本陣奥谷(おくや)で、島崎藤村所縁のものをじっくり見て行くことにする。


脇本陣奥谷は、代々脇本陣・問屋を勤めた家で、現在の建物は明治10年にそれまで禁制であった桧をふんだんに使って建てられた。現在は昔の生活道具、皇女和宮よりの拝領品など歴史を語る品々を展示した南木曾町博物館として公開されている。島崎藤村の初恋の人おゆふさんの嫁ぎ先でもあり、旧家の堂々たる造りを見ることができる(国重要文化財)。


脇本陣奥谷に入ると、私ひとりに語り部が一人ついてくれて、実に丁寧に説明してくれた。

脇本陣の少し先に妻籠宿本陣がある。宿駅が制定されると本陣には島崎家が任命され、明治に至るまで代々本陣、庄屋を兼ね勤めた。妻籠宿の本陣・脇本陣には人馬会所(問屋場)が併設されており、宿場の中でも最も賑わった場所であった。明治半ばに取り壊されてしまったが、島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに、平成7年に復元された。


妻籠宿の島崎家と馬籠宿の島崎家とは深い親戚関係にあって、妻籠宿の島崎家は島崎藤村の母おぬいさんの生家であり、そこから馬籠宿の島崎正樹(馬籠宿本陣最後の当主)のもとに嫁いでいる。島崎藤村こと春樹は、その4男である。また、藤村の実兄広助は、妻籠宿本陣の養子となり最後の当主となっている。

博物館を見た後、昨日世話になったすぐ近くの阪本屋にちょっと立ち寄って挨拶。昨日は、泊り客は2人だけだったが、今日は団体さんが泊まるので大変だ、ということだった。
阪本屋の先の突き当たりの常夜燈を右のほうに行くと枡形道となる。枡形道を下っていくと、寺下地区のいかにも時代劇に出てきそうな古民家が連なっている。寺下地区は妻籠宿の原点ともいうべき町並みで、昔の旅籠そのままに出梁造りや竪繁格子の家々が並んでいる。
目の前の延命地蔵堂内には、文化10年(1813)に、近くの蘭(あららぎ)川から引き上げたという延命岩が鎮座している。旅人から地蔵尊が浮かび出ている岩のことを知らされ、ここに安置したのだそうだ。
延命地蔵堂の先も出梁造りに千本格子が嵌め込まれた古民家が連なっていて、本陣などがある中心街に比べ、街並みはこちらの方がむしろ風情がある。
ただし、昨晩と今朝の宿場は、ほとんど人気もなく静かなものだったが、日中は学生や年配者の団体さんなどが多く、想像を絶する人ごみで、人を掻き分けて歩くような状態。人がいない静かなときに、じっくり見てまわっていてよかったと思いながら、早々に寺下の街並みを抜けていく。

妻籠発電所の先、左手にお土産屋「いんきょ」という店があり、店先に実物大の藁馬が置かれている。


街道はこの先から蘭(あららぎ)川沿いを歩き、田島橋の方から来る国道256号を横断して、道標に従って風情のある草道を歩くと橋場の大妻橋のところにでる。橋の手前、よく見ると民家の庭先に高さ3m超の巨大な石柱道標が建てられている。妻籠は中山道と飯田道(大平街道)の分岐点として栄えたが、この道標はその分岐点に立つもので、明治14年に国道開通を祝って飯田・近江・地元の商人たちによって建てられたもの。


大妻橋を渡ったら道標に従って右の草道に入る。数件の古民家の並ぶ神明集落の間を通って暫く歩くと、さきほど分かれた県道に再び合流し、神明橋を渡って先にいく。橋の手前に「中山道 大妻籠」と記された軒行灯が掛けられている。


旅籠の波奈屋の脇の坂を上り、県道わきの大妻籠看板のところで右に曲がって行くと、橋のところに大きな大妻籠の案内看板がある。橋を渡るとすぐに水車小屋があり、その前を通り過ぎると、昔ながらの風情が残る大妻籠の集落に入って行く。

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大妻籠
大妻籠集落は、妻籠宿の奥座敷といわれ、立場として賑わった。集落に入って、まもなく軒卯建の立派な古民家が何軒か見えてくる。近江屋、まるや、つたむらやと旅籠が連なり、まるやは寛政元年(1789)から旅籠を営んでいる。


街道を道なりに進んだ先、県道との合流点に庚申塚がある。その先すぐの石畳道の入り口に「とうがめ澤 下り谷を経て馬籠峠へ」と刻まれた道標が建てられている。


綺麗に整備された石畳道を上り、林の中のつづら折を上っていくと、突然石畳の道が途切れ、いったん下り坂となり、下り谷集落に入る。
下り谷集落を抜けると道筋はほぼ平坦になり、少し先左手に倉科祖霊社という祠が建っている。松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門が城主の命を受けて豊臣秀吉のもとに使いに行った帰り、この先の馬籠峠で土豪の襲撃にあい、従者30余名とともに討ち死にしてしまったという。

先の坂を上がったところで道は2つに分かれるが、男滝・女滝を見るために古中山道のほうに行く。
吉川英治の小説「宮本武蔵」の舞台となった滝であり、小説では武蔵とお通の情念の恋の場として登場する。向かって左が男滝、右が女滝。


街道に戻り、男垂川(おたるがわ)沿いの道をしばらく行ったところで木橋を渡り対岸へ行く。この先、いかにも中山道らしい風情のある林の中の道で、せせらぎの音を聞きながら心地よく歩ける。
街道はこの先で県道を横断し、バス停「峠入り口」の横から再び石畳の林の中の山道へ入っていく。


しばらく行くと、下枝が立ち上がった枝ぶりのさわらの大樹に出会う。説明板によるとこうした木を神居木(かもいぎ)と呼ぶそうで、昔から山の神(又は天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられ、傷つけたり切ったりするとたちまち、祟りがあると言い伝えられている。


街道はこの先も桧林の中を進んでいく。

少し歩くと一石栃白木改番所跡の広場前に出る。木曽から移出される木材を取り締まるために設けたもので、小枝に至るまで許可を示す焼印があるか調べるほど厳重であったという。

 


番所跡のちょっと先は立場茶屋跡。往時は七軒ほどの家があったそうだが、今は江戸時代後期に建てられたという牧野家住宅が無料休憩所を提供している。この辺り一帯は、まだ枝垂桜が綺麗に咲いていて、峠を登ってきて疲れた旅人の気持ちを癒してくれる。

 


茶屋の前を通り過ぎようとすると、茶屋の主人がどうぞどうぞと招き入れてくれて、お茶と梅酒の梅を振舞ってくれる。次々と通りすがる人たちにも声をかけては、招き入れ、お茶を振舞う。結構外国の人が多く、国籍も多様だ。茶屋の主人の話では、行きかう人の半分は外国人で、その半分はオーストラリアだそうである。
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<馬籠峠>
馬籠峠は、長野県木曽郡南木曽町と岐阜県中津川市の境にある。妻籠宿から大妻籠、男滝・女滝、一石栃を経てかれこれ400mほど上った馬籠峠の頂上は標高801m。

峠を上り切ったところの茶屋の脇に正岡子規の句碑がある。
  - 白雲や 青葉若葉の 三十里 -
句の出典は子規の紀行文「かけはしの記」で、句の傍らには馬籠と妻籠までの道程が記されている。「・・・馬籠峠の麓に来る。馬を尋ねれども居らず。詮方なければ草鞋はき直して下り来る人に里数を聞きながら上りつめたり。此山を越ゆれば木曽30里の峡中を出づるとなん聞くにしばし越し方のみ見返りてなつかしき心地す。・・・」


峠から県道に合流して少し下って旧道は再び右に分岐する。県道から分かれて熊野神社の先に間宿「峠集落」がある。宝暦12年(1762)の大火で建物の大半が焼失してしまったが、その後再建された建物が今も多く残っている。この辺りの集落は古くから牛を使って荷物を運搬する「牛方」を生業としてきたと言われている。


江戸時代の面影が色濃く残る集落を下ってくると、集落の終わりごろに峠之御頭頌徳碑なるものが建てられている。「夜明け前」に記された、問屋と牛方の争いを収めた牛行司・利三郎こと今井仁兵衛の高徳に感謝して建てた碑なのだそうだ。


峠の集落を抜けたあたりに十返舎一九の狂歌の碑が置かれている。
  - 渋皮の剥(む)けし女は見えねども 栗のこはめしここの名物 -


ここは古くから栗こわめしを名物にしていた所で、文化8年(1811)に十返舎一九は中仙道を旅して「木曽街道膝栗毛」を書いた。
さらに下ると水車小屋が見えるが、その傍に水車塚が建てられている。明治38年の山津波で亡くなった蜂谷家の供養塚で、文字は島崎藤村の筆だそうだ。


街道は水車塚の先で県道を横断し「中仙道」と刻まれた道標脇から石畳道へ入っていく。しばらく歩くと再び県道に合流するが、県道を数分歩き道標に従って右側の階段を上がっていく道が中山道となっている。


階段を上がった先の遊歩道を進んでいくと、前方の空がぱっと大きく広がって、恵那山がふもとの方まで一気に視界に飛び込んでくる。突然の雄大なパノラマの展開に、しばし息を呑むような感動的瞬間である。


そこは馬籠上陣場跡で、今は展望広場となっている。戦国時代の小牧・長久手の合戦の折、木曽路を防衛する豊臣方は、馬籠城を島崎重通に固めさせていたが、徳川方の菅沼・保科・諏訪の三武将が馬籠城を攻めるために陣を敷いた場所、なのだそうだ。
展望広場には何基かの石碑が建てられているが、その中の一つに島崎正樹歌碑がある。
「・・・ 釈分 みすず刈る信濃の国の真木立つ木曽の谷の外名に負える神坂の邑は山並みの宜しき里川の瀬の清亮けき・・・」
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43 馬籠宿
陣場跡の先、坂道を下るとすぐの所に高札場があり、そのすぐ先に「中山道馬籠宿」と刻まれた石柱が建てられている。


馬籠宿は、街道が南北に山の尾根に沿った急斜面を通っており、その両側に石垣を積み上げて平地を作り、家を建て増していった独特の街造りをしている。山の尾根のため水に恵まれておらず、何度も火災に見舞われているが、宿内では歴史的建造物を保存し、高札場や本陣が復元され、旧態を保っている民家も多く、往時の面影を色濃く残している。自然環境も含めたこうした宿場の景観とともに藤村文学の舞台としての景観があいまって、木曽の奥深い山村にもかかわらず、海外からの旅人も含めて多くの人を引き寄せている。


石畳道を下って最初の見所は脇本陣跡である。蜂谷家が務めていたが、建物は明治の大火で焼失し、今は脇本陣資料館となって当時の関連資料を展示している。
脇本陣跡の1軒先がかつては造り酒屋であった大黒屋で、今はお土産・お食事処となっている。その10代目が書いた「大黒屋日記」が島崎藤村の「夜明け前」執筆のきっかけになったという。また、藤村の初恋の相手おゆふさんは、この大黒屋の娘で、妻籠宿の脇本陣林家に嫁いでいる。


大黒屋の前に咲く姫りんごの花が実に美しく印象的だった。


大黒屋の隣が島崎藤村の生家の本陣跡である。今は藤村記念館となっており、藤村所縁の資料の展示や、焼失を免れた祖父母の隠居所の公開などが行われている。


冠木門をくぐって入館してみると、回廊式の記念堂・隠居所・研究室・第二文庫(企画展示室)・第三文庫(常設展示室など)がある。藤村の勉強部屋だった隠居所の窓辺からは、恵那山がいつも眺められたのであろう。


展示室には藤村直筆の原稿などがあり、写真に収めたかったが残念ながら撮影禁止。

石畳道をすこし下り、右の細い道を行くと島崎家の菩提寺の永昌寺(夜明け前では万福寺といわれている)がある。島崎藤村は、晩年を過ごした神奈川県大磯の自宅で生涯を閉じ、大磯町地福寺に埋葬されたが、こちらに遺髪と爪が収められている。


永昌寺には、島崎家代々、島崎正樹、島崎春樹一族、それぞれの墓がある。気の毒な運命に翻弄され、失意の中で座敷牢で死にいたった正樹(藤村の父)の墓は、寂しげな中にも綺麗に維持されており、少しほっとした。
永昌寺横の小さな公園の一角には、藤村の「母を葬るのうた」の碑が建てられている。藤村の母、縫子は、明治29年、東京で居住中の長男秀雄のもとで死去したが、当時東北学院の教師だった藤村は遺骨を抱いて埋葬のため帰省。「母を葬るの歌」は明治30年発行の若菜集に収録された。

街道に戻るとすぐのところが、本日世話になる但馬屋。玄関を入ると囲炉裏に火が入っていたりして、大変風情があり、細かなところにも気を使っているクールな宿だ。


妻籠同様、ここ馬籠も日中は団体客が押し寄せて大変な賑やかさだが、団体さんが去った後や朝方は、静かで趣きのある旅籠の雰囲気が感じられる。また、ここでも宿内で見かけるのは外国人が多い。
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翌朝、朝食前に散歩にでるが、街道の石畳道ではなくて、一歩奥に入った生活道を歩いてみる。宿の街道裏側には、枝垂れ桜や花桃、水仙等々が家々の庭に咲き誇るのどかな山村の原風景が広がっている。遠くには、雄大な恵那山とその麓にゆったり広がる落合方面の眺望が見られる。

 


街道沿いの趣ある街並みだけでなく、街道から外れた周辺の素晴らしい自然に包まれると、つくづくこの地に来て良かったと思う。

朝食後、但馬屋を出ると、ちょっと先に清水屋資料館がある。清水屋(原家)は宿役人を務めた旧家だが、島崎家と親交があり、藤村晩年の作「嵐」の森さんは清水屋の原一平をモデルにしている。


清水屋の先、馬籠宿南側の入り口に道路を直角に二度折り曲げた枡形となっている。この部分の道路の山手側は切り土になっていて、城郭建築に摸して石垣を築いてある。


坂道を下ったこの枡形のあたりから宿場を振り返ってみる風景は、馬籠を紹介する写真によく使われているものである。水車小屋や石畳の坂道の両側の風情のある街並みには、なにか旅情をそそられ、この宿を去る名残惜しさがつのる。

 


枡形道を抜け県道を横断すると、その先は静かな田舎道になる。暫く歩くと馬籠城跡の説明板がある。室町時代から続いた馬籠城は、徳川方の菅沼・高遠(保科)・諏訪の三軍に攻められそうになったが、守っていた島崎重路が妻籠城に逃げたため戦火を免れ、以来戦火の無いまま廃城となっている。


その先の諏訪神社入り口に島崎正樹翁碑が建てられている。「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルであった正樹翁を記念するもので、明治45年に建てられたもの。幕末の混乱期において地域を代表する立場におかれた正樹翁は、時代の流れに翻弄されてなんとも気の毒な生涯を閉じたが、その後この地ではどの様に見られていたのか気になっていた。今回、妻籠・馬籠を通して色々なものを目にしたら、思っていた以上に大切にされている様子がうかがえて、気の休まる思いがした。


眼下に落合方面を臨む静かで緩やかな坂を下っていくと、東屋の置かれた公園が見えてくる。この公園から眺める景色は素晴らしく、特に落合から中津川の町並みが夕焼けに染まる様は表現のしようが無いほど美しいという。その一角に正岡子規句碑が置かれている。
  - 桑の実の 木曽路出づれば 麦穂かな -


正岡子規が故郷松山に帰郷の途中、この辺りで詠んだ句である。「かけはしの記」には、この句の前に「馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり。」と述べている。
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新茶屋
坂道を下ると、江戸末期に十曲峠から移ってきた立場の新茶屋集落に入るが、集落のかなり手前から、壮大な箱庭のような美しい景観が目に入ってくる。


路傍の小さな池の傍に芭蕉の句碑が建っている。
  - 送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)-
芭蕉が門人の越智越人を連れて嬢捨山の月見と善光寺参りを兼ねて木曽路を旅したのは貞享5年(1688)のことで、この木曽路の旅を「更級紀行」として世に出した。この句碑が建てられたのは天保13年(1842)で、芭蕉を慕うこの地方の門人たちによって建てられた。「夜明け前」では、この碑の除幕式の日のことが書かれている。


その先に島崎藤村の筆で書かれた「是より北 木曽路」と刻まれた碑がある。本山宿と贄川宿の間宿桜沢の「これより南 木曽路」の碑を見てから11宿の木曽路の旅もいよいよここで終わりとなる。


木曽路碑の先に新茶屋一里塚があるが、ここは街道を挟んで両側に現存しているという貴重なもの。この宿には石碑が多いが、一里塚の隣に建てられている国境の碑には、信濃と美濃の文字が刻まれている。いよいよここから美濃路に入る。


落合の石畳
国境碑の先から右側の道に入ると美しい竹林にはさまれた120mほどの石畳道が続く。説明板によると、ここは平成17年の越県合併を記念して作られた落合石畳遊歩道だという。その先から落合の石畳と云われる十曲峠の下り道が続く。全長840mの嘗ての石畳が完全に再現されている。実に端正に整備されていて心地よい道である。

 


石畳道を出てほどなくすると医王寺に至る。山裾の静かな寺であるが、虫封じの薬師として三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師として広く信仰を集めているそうだ。


境内左手の池際に芭蕉句碑がひっそりと立っている。
  - 梅が香に のっと日の出る 山路かな -

医王寺の先からやや急な下り坂となる。十曲峠の険しい下り坂を下りきると、道筋は落合川に架かる下桁橋にさしかかる。この橋を渡ると落合宿が近い。

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44 落合宿
落合宿は江戸板橋より44番目、信濃から美濃へ入る最初の宿場町で、宿内は東から横町・上町・中町・下町と続き、旅籠14軒の小さい宿場であった。文化年間2度にわたる大火に見舞われ、現在はあまり古い町家を残していないが、本陣やわずかに残る町家などで旧街道の面影を偲ぶことができる。

集落の間を抜け県道を横切るところに落合宿の高札場跡と記された石碑が立っている。


落合宿は横町、上町、中町、下町の4町からなっているが、県道を横切った先が横町で、ここは江戸側の枡形道となっている。枡形道を右に曲がると上町に入り、曲がった所に秋葉常夜灯が設置されている。
脇本陣跡には石碑が建てられているが、今はごく普通の民家となっている。その斜め先に井口家本陣跡の立派な本陣門が見える。この門は大火後に加賀藩前田候から贈られたものと云われている。井口家には皇女和宮や明治天皇も御小休みした上段の間や小姓の間などが当時のまま保存されているということだが、今も住居として使われていることから一般公開はされていない。


本陣跡の斜め左先に容量1000リットルという助け合い大釜なるものが置かれている。街道はその先あたりから緩い下り坂になる。坂の途中で、街道にせり出している松は樹齢450年という善昌寺の門冠(もんかぶり)の松という。


街道はここで左に曲がる京側の枡形道となっているが、その曲がり角に中仙道道標があり、「右至中仙道中津町一里」と刻まれている。

しばらく歩くとかなり急な上り坂となる。上りきった所で国道の上をおがらん橋で渡ると「おがらん4社」が見える。木曽義仲の家来落合五郎兼行の館があった場所と云われ、「おがらん」とは「伽藍」(大きな寺院)からきたと推定されている。ここには落合五郎兼行神社・愛宕神社・山之神神社・天神社の4社が祀られている。


街道はその先も分断されてちょっと紛らわしいが、道なりに歩き、国道の下を通って与坂の入り口のほうへ行く。うねうねと曲がった与坂を上りきった先に、どっしり構えた大きな1軒屋、与坂立場茶屋跡がある。越前屋と呼ばれた茶屋の名物は三文餅で、旅人には大変な人気であったそうだ。


立場茶屋の先からは急な下り坂で、坂を下りきって三五沢橋を渡ったところに子野一里塚跡碑が建てられている。
一里塚の先からまたまた槙坂と呼ぶ急な上り坂になる。坂を上りきった石垣のところに覚明神社がある。尾張の覚明行者が御嶽山を開くためにここを通った際にここの茶屋に宿泊した。その後、行者の御嶽開山を記念し覚明霊神を祀ったとされる。


覚明神社の先から今度は急な下り坂となる。
道なりに歩いていくと前方に地蔵堂のしだれ桜が見える。残念ながら桜の花は既に散ってしまっているが、花が咲いたらさぞや見事であろうと思われる立派な枝振りである。


しだれ桜の下はかつて地蔵堂があったと云われる場所で、庚申塔や地蔵、観音像などが集められ、小野の地蔵堂石仏群と呼ばれている。

地蔵堂石仏群からしばらく歩くと街道は国道19号にぶつかってまたまた分断される。中山道は上金の地下道を通って国道の向こう側へ行く。
住宅街の中を進むと、まもなく尾州白木改番所跡碑が置かれている。木曽桧の領外搬出を厳しく取り締まっていた尾州は、ここにも番所を設けていた。


白木改番所跡のすこし先、旭ケ丘公園となっており、公園前の坂を下ると道路際にすみれ塚と呼ばれる芭蕉句碑が置かれている。
  - 山路来て 何や羅遊かし 寿みれ草 - 


まもなく中津川宿だが、それにしても、落合宿を出てからここまでの間、急な坂道を何度も上ったり下ったりの繰り返しだった。最初のうちは、高台に上る度に振りかえって恵那山を眺めていたが、どこまで行っても上ったり下ったりの繰り返しで、しまいにはさすがに少しくたびれてしまった。結局のところ、恵那山は、このあたりのどこからでも、ちょっと高いところであれば、見えるのである。
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45 中津川宿
中津川宿は、奈良・平安時代から東山道の要衝の位置にあり、古くから穀物、塩、味噌、酒、小間物、呉服、紙などの商業活動が盛んで、周辺物資の集散地として大変賑わった。特に商家の多かった新町界隈は今でも賑やかな商店街となっている。
町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、商家が多い新町と、本陣、脇本陣のある本町とに大きく分かれていた。また枡形の先の横町には江戸時代に建てられた家が軒を並べており、往時の面影がたっぷり残っている。

街道は芭蕉句碑の前から石畳道を下り、歩道橋を渡ってさらに坂道を下っていく。この辺りの坂を茶屋坂という。坂を下ったところに高札場が復元されており、傍らには常夜燈、庚申塚、ニ十三夜塔が集められている。


高札場の前から中津川宿の淀川町の街並みが続く。
駅前通りの交差点を横断すると、その先は東新町になる。東新町の入り口に栗きんとんが名物の「すや」という和菓子店がある。創業は元禄年間で当初はその名の通り酢の店であったそうだ。


その先は西新町で、煉瓦門柱の奥に見える蔵は、東濃随一の豪商と云われた間家大正の蔵である。土蔵にコンクリートが併用された珍しい蔵として市の有形文化財となっている。
大正の蔵の対面に冠木門があり、奥にはなまこ壁の土蔵が見える。門を入ると江戸時代の街並みのミニチュアのようなものがあるが、ここは往来庭と称する休憩所であった。


往来庭の少し先の四ツ目川はよく氾濫したそうだが、今は常夜灯を備えた立派な橋が架けられていて、橋を渡るとその先は本町の街並みに入る。
今の本町通りは商店が少なく静かな街道に変わっているが、かつては本陣・脇本陣があり、旅籠が軒を並べる宿場の中心であった。

すこし先の脇本陣跡は歴史資料館になっており、そのはす向かいが本陣跡で石碑が建てられている。案内板によると、建坪だけでも283坪というかなり大きな本陣であったようだ。


本陣跡向いの卯建の上がった大きな建物は曽我家住宅と呼ばれている庄屋屋敷である。
庄屋・脇本陣も務めたことがあった肥田家が江戸中期に建てたもので、明治中頃に曽我家が入居したのだが、ほとんど手を加えることなく修復をしながら保存してきた建物だそうだ。


横町の街並
少し先で街道は左に曲がる枡形道となる。曲がった先が横町で、ここには江戸時代に建てられた古い家並みが残っている。


下町の街並
横町通りを100mほど歩くと突き当たりとなり、街道はここから直角に右へ曲がっていく。曲がった先が下町で宿場町はここまでとなる。横町から下町へ曲がったところに蔵元のはざま酒造があり、薦被り(こもかぶり)に杉玉、ついでに卯建が4つも上がっている。


往時の面影がよく残っている中津川宿をあとに、中津川橋を渡ると、その先はのどかな田舎道が長く続く。途中、何々の跡碑という石柱が数多く建てられている。

橋を渡りしばらく行くと津島神社参道と刻まれた石柱がある。この前を左に曲がり坂道を上っていく。すこし先に駒場村高札場跡の石柱が建てられ、簡単な高札が掲げられている。


ここ駒場(こまんば)村は東山道時代の坂本駅(宿駅)が置かれていた場所ではないかと云われている。宿駅は、16kmごとに置かれる官用の陣馬の継ぎたて施設であった。

さらに道なりに進むと、小手ノ木坂と刻まれた石碑が建てられているが、脇の階段を上がる道が中山道である。階段を上った先の苗木道との分岐点のところに馬頭観音や地蔵などの石仏が多く集められている中に、双頭一身道祖神と呼ばれ、身体は一つで男女別々の頭を持つ、非常に珍しい道祖神がある。


道祖神の先、江戸から85番目の上宿一里塚跡がある。左右とも消滅してしまっていたが、地元の人によって街道の右側だけ復旧された。


一里塚の先は坦々とした道が続くが、道なりに20分ほど歩くと小石塚立場跡の石碑が建てられている。その昔、恋し塚とも呼ばれたこの地に数軒の茶屋があったそうだ。

立場跡の先、国道の拡張工事で中山道が見失われる。国道の側道を進み、中央高速のインターチェンジ下を回り込むと中山道に復帰できるのだが、しばし、迷ってしまった。

旧道に復帰して5~6分歩くと六地蔵石幢という珍しい六地蔵に出会える。仏教の六道輪廻思想に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとするものだが、石燈籠型は珍しい。


近くの六地蔵川がしばしば氾濫し、村人を苦しめたために造立されたという。

この先、様々な石碑や案内板などがある坦々とした道が続く。
しばらく歩くと道路際に千旦林村の高札場跡と刻まれた石碑が建てられている。千旦林は東山道の坂本駅があり、江戸時代は立場で賑わった場所であったという。


さらに数分歩くと、新道との分岐点があり、旧道は左の細い道に入って行く。
田んぼの中の道の左手に中平神明社の標識が見え、やがて右手に将監塚の案内板がある。
ほどなく三ツ家の一里塚跡碑が現れ、坂を上りきったところに坂本立場跡碑がぽつんと立っている。ここは千旦林村と次の茄子川村の境界だった場所になる。

街道を進み、住宅街を行くと、ここにも尾州白木改番所跡がある。


番所跡からしばらく行くと、街道沿いに趣むきある古民家が見えてくる。茄子川村(なすびがわむら)の庄屋篠原家である。篠原家は中山道の休泊施設として本陣や脇本陣と同様の役割を担っていたのだが、和宮や明治天皇が休憩した部屋や厠、表門などは当時のまま保存されているそうだ。


篠原家の隣から、遠州秋葉山へ通じる秋葉道が分岐しており、その入り口両側には秋葉常夜灯が設置されている。

茄子川村を過ぎると街道は再び山間のひなびた道となる。まもなく中津川市から恵那市に入るが、その境界に「中山道」と刻まれた大きな石碑が建てられている。


長かった中津川宿もここまでで、この先からは大井宿である。
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46 大井宿
大井宿は美濃十六宿の中でも大いに繁盛した宿場であった。宿場内を通る街道には6ヶ所もの枡形が残っており、道巾も当時のまま。本陣門や当時の商家、宿役人の家など、昔の面影を残す建物なども多く残っている。

大井宿入り口の中山道碑の先、岡瀬澤交差点のところに大きな永代燈と岡瀬澤碑が見える。


遠州秋葉山に向かう道筋でもあったこの辺りは、かつては牛宿などもあり賑わっていたというが、今はひっそりしている。

やがて街道は上り坂となり、頼朝の家臣 根津甚平是行に由来すると云う甚平坂に差し掛かる。・・・信濃国の桔梗が原に八重羽の雉という化け鳥がいたそうだ。この化け鳥、里人や旅人に危害を与えていたため、鎌倉幕府から退治を命じられた根津甚平が犬と鷹を連れ、馬に乗って雉を追い、この坂まで追い詰めたのだが、馬はここで倒れ、犬はなおも追い続けたが、日吉(現瑞浪市)で力尽きてしまったのだった。そこで、里人がここに馬と犬のなきがらを葬ったという。


まもなく県道に突き当たるので左にいくと菅原神社の前に出る。

街道はその先の菅原神社前の階段を下っていくのだが、下ったあたりを寺坂と呼んでおり、大井宿の入り口となる。坂の途中に上宿石仏群があるが、ここは大井宿を一望できる位置にあり、宿場はずれで宿内への悪病や悪人の侵入を防いで宿内の無事息災を願うため数多くの石仏を建てていた。


坂を下って明智鉄道のガード下を通り、五妙坂という急坂を下っていくと、途中に高札場が復元されている。徒党礼、親子兄弟礼、火付け礼などに混じってキリスト教を禁止したキリシタン礼も掛けられている。


中山道は五妙坂を下った先の上横橋を渡り左に曲がるのだが、ここが第一の枡形で、曲がった先が横町である。

県道に突き当たる手前の角が本陣跡で、昭和22年の火災で建物は焼失したが、江戸時代初期の建築と云われる本陣門は幸いに焼失を免れたのだった。


中山道は本陣跡の前を右に曲がって行くのだが、ここが第二の枡形で、曲がった先が本町である。

右に曲がってすこし歩くとひしや資料館の紺の暖簾が目に入る。ここはかつての庄屋古山家の建物で、明治初年に改築されているが、当時の町屋建築の様式がよく残っている。
ひしや資料館の先、すぐの所に宿役人の家がある。本陣から分家し、代々問屋を務めていた林家だが、部屋数14室を有する大型旅籠でもあった。


竪町の中ほどに庄屋古屋家の屋敷門が見える。外からは見えないが、家の北側防火壁は厚さ30センチにも及ぶ土壁になっている。


古屋家の前を真っ直ぐ進み、突き当たりを左に曲がる道が第四の枡形で、枡形の先が茶屋町である。
枡形の向こうに見える市神神社は、元々は上宿で煙草の市を開いていたのだが、明治24年(1891)に現在地に移されたそうだ。

最後の枡形を曲がると、この先の阿木川にかかる大井橋には広重の木曽街道六拾九次の図がずらりと掲げられていた。


大井橋が大井宿の西の入口で、宿はここで終わりになる。
宿場街を抜けた街道は、駅に続く中央通りの交差点を横断していくのだが、今回の旅はここまでで、恵那駅から塩尻経由で延々と帰途に着く。
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今回の旅は天候に恵まれたこともあって、春爛漫の中山道をたっぷり堪能できた。
桜の時期を過ぎており、ところどころに見事な枝垂桜が残っているだけだったが、 彩り鮮やかな花桃や春を告げる様々な草花が行く先々で出迎えてくれた。
南木曽の天白公園のミツバツツジの群生地にも寄り道したが、ミツバツツジの合間から遠くに白銀の中央アルプスがくっきりと見える景観は素晴らしかった。
十二兼と南木曽の間に、嘗て羅天の桟と言われ、木曽路随一の難所と言われたところがある。荒々しくもあり美しくもある木曽川の姿には、言葉では言い尽くせないほどの自然のスケールの大きさを感じさせられた。この険しい自然を前にほとんど無力といえる人間が繰り返し繰り返し立ち向かってきた労苦の歴史は想像を絶するものがある。
中山道中のハイライトとも言われる妻籠、馬籠は評判に違わず魅力がいっぱいのところであった。妻籠から馬籠に向かい、馬籠峠を越えて少し行ったところで、パッと目の前が開けて雄大な恵那山の姿が目に写ったときの残像は、この先も記憶に色濃く残るような気がしている。
馬籠では、永昌寺の歴代島崎家の墓碑をはじめ、あちこちに島崎家所縁のものを目にするにつけ、すばらしい自然に溶け込んで島崎家がこの地にとってなくてはならない存在であったということが強く印象に残った。
それにしても、このあたりには海外からの観光客が多いとは聞いていたが、本当であった。大型バスで乗り付けてざっとめぼしいところを見て、さっさと引き上げていく国内の団体さんを除くと、滞在者のざっと半分は外国人である。

魅力たっぷりの木曽路からいよいよ美濃路に入ったが、大井宿は中山道69次の46番目で、まだまだ先は長い。
たくさんのいい思い出を胸に、恵那駅から家路についた。