2012年7月21日 本庄~新町~倉賀野~高崎
今日は、本庄から高崎まで行く。
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10 本庄宿
本庄は、武蔵七党武士団の児玉党一派の本庄実忠が室町時代に築いた本庄城の城下町として発展した。江戸時代初めには廃城となったが、利根川の水運を利用した江戸との交運で賑わい、中山道最大規模の宿場町として発展した。
本庄駅到着後、駅からまっすぐ北上して中山道に出たあたり、りそな銀行付近が宿の中心地であった。現在の町並みには宿場らしい跡はあまり残っていないが、古めかしい蔵や旅籠風の建物がいくらか残っている。
旧本庄商業銀行の味わいのある煉瓦造りの建物は、今は洋菓子店となっているが、かつては銀行が担保に取った繭や生糸などを保管する倉庫だったそうだ。総煉瓦造りで、明治20年代後半、繭の町として栄えた本庄を象徴する建物といわれる。
菓子店の先の交差点を右に入った所にある安養院は、創建は文明七年(1475)曹洞宗の寺で、本堂は本庄最大の木造建造物という。
やがて右手に遠くからも目立つ大きな金鑚神社が見えてくる。祭神は天照大神、素盞嗚尊、日本武尊の三大大神で、創建は欽明天皇2年(541)と伝えられる。権現造りの社殿、神楽殿、大門、御輿殿などを持つ、極彩色の彫刻が施された神社である。
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境内の大きなクスノキは、江戸時代の本庄城主小笠原信嶺の孫忠貴が寛永16年(1639)に金鑚神社の社殿改修の折に献木したものと伝えられる。
神社に沿って右に曲がると、歩道には中山道69次の埼玉県の宿を絵タイルにしたものがはめ込まれている。中山道は、歩道橋を渡って小島という地区に入る。
住宅が途切れた畑の奥に赤い鳥居が見えるがここは浅間山古墳。本庄台地の先端部に広がる旭・小島古墳群の中の一つで、直刀、鉄鏃、銅椀、耳環、などが出土されている。現在は稲荷神社となっており鳥居も立っていて、階段を上がると石室も見られる。
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金久保地区
しばらく歩き、国道17号を横断して右手へ入っていくと、庚申塔などがまとめておいてある。右手には金久保の八幡神社がある。
陽雲寺は鎌倉時代初期の元久2年(1205)の創建と伝えられるが、天正10年(1582)の神流川合戦で焼失した。その後、金窪村領主となった武田信玄の甥の川窪信俊が寺を再建し、養母であった信玄夫人陽雲院の名をとって寺名を陽雲寺と改めている。境内には新田義貞の家臣畑時能の墓などがある。
街道を先に進むと、勝場地区となり、国道に合流する手前のお堂の傍に一里塚碑がある。日本橋から23番目の塚にあたる。
国道に合流するといよいよ神流川を渡る。ここは、埼玉と群馬の県境にあたる。英泉の本庄宿の絵では、神流川の中州まで橋で渡り、その先は渡船によっている。
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11 新町宿
上野国に入って最初の新町宿は、中山道で最も遅くできた宿場であった。
橋を渡ってすぐのところに神流川古戦場跡碑が建っている。
説明板によると、天正10年(1582)織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領滝川一益は信長の仇を討たんと京へ志した。これに対し、好機来たれりと、北条氏は5万の大軍を神流川流域に進め、この地で大激戦を繰り広げ、滝川軍は戦死者3760人を出した。
この碑の少し先に大きな常夜灯が立っており、旧道は右に分かれて新町宿に入って行く。この常夜灯は先ほどの神流川の群馬側にあった見通し灯篭が実物大に復元されたもので、前に建つ道標には「従是左江戸二十四里
右碓氷峠 十一里」と記されている。
しばらく歩くと、右手に諏訪神社が見える。笛木村の鎮守として本屋敷(駅周辺)に祀られたが、宝永5年(1708)現在地に移された。
ところで、ここにはちょっと珍しい元禄時代の鳥居がある。かつて神社の入り口に建っていたが、老朽化して危険なため近年新しい鳥居に建て替えられた。そして古い方は、神社の北裏の地中に半分埋められた状態で保存されている(写真右)。このような鳥居は他では見たことがない。
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数分先に行ったところの公園に明治天皇行在所がある。各地で行在所跡というのはよく見かけるが、現存しているというのは珍しい。
この行在所公園の奥に、鮮やかな朱色の稲荷塗りの鳥居が立ち並ぶ於菊稲荷神社がある。
昔、新町に於菊という美しくて気立てのいい娘がいたが、重い病で床に伏してしまった。不憫に思った村人が稲荷神社の側に小屋を建てて看病したところ、ある日、於菊の枕元に稲荷の霊が現れ、病は奇跡的に全快した。以来、於菊は熱心に神明奉仕を続け、いつからかこの神社は於菊稲荷神社と呼ばれるようになって参詣者で大いに賑わった、と言うことらしい。
温井川にかかる弁天橋のところにスリーデイマーチ記念碑が建っており、その向側に弁財天を祀る弁天社がある。天明3年に建立され、元は温井川の中島にあったが治水の関係でここに移された。
弁天橋を渡り、関越自動車道の下をくぐって川の土手沿いに三菱鉛筆工場などが見える道を行く。
烏川(柳瀬川)は利根川の支流で大きな川である。今は柳瀬橋で川を渡るが、昔はこの橋の下流250mの所の舟渡しで対岸の岩鼻村へ渡っていた。
橋を渡り岩鼻交差点を左折してしばらくすると右手に追分の閻魔堂が見えてくる。
ここが倉賀野宿の入口だった。
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12 倉賀野
倉賀野宿は、利根川支流の烏川河岸への物資集散地として、また、日光例幣使街道の分岐点として交通上の重要な地点でもあった。街道は大名の宿泊や日光東照宮へ派遣される例弊使などで賑わいを見せた。
追分
中山道は京から上がってくると、この追分で右江戸へ、左日光へと分かれる。赤い閻魔堂とそのわきに常夜燈や道標などが立っている。常夜燈は文化11年(1814)に例幣使道五科宿の高砂屋文之助が建てたもの。お堂の裏手には庚申塔、馬頭観音などが集められている。
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道標には「従是 右江戸道 左日光道」と赤字で彫られている。ここから例幣使道が始まる。例幣使というのは家康の命日の4月18日に行われる東照宮祭礼に朝廷から派遣される勅使のことで幣帛(へいはく)を運ぶことからこう呼ばれる。例幣使は中山道を下り、倉賀野から日光に向かうので例幣使街道と呼んだ。
倉賀野宿中心部に入ってゆくと、街道は交通量も多くなっているが、古い家もちらほら見える。往時の倉賀野は鳥川などを利用した物資の集積地で上州、信州、越後などの名産品だった、米、煙草、砥石、麻、大豆などが集まり江戸に運ばれた。倉賀野には土蔵が建ち並び宿場は繁盛し、また飯盛女も他より多かったといわれる。
左側にあるスーパーの広い駐車場の片隅に倉賀野の本陣跡碑がポツンと立っている。
その先右手の連子格子のある旅籠風の古い建物が脇本陣だった須賀家で、建物は明治23年の築造といわれるが、門は当時のものという。
倉賀野神社
左手の横町に入ったところにあるのが、昔は飯玉大明神といい、今は倉賀野神社という。本殿は一間社流れ造り、江戸後期の寺社建築の特色である無彩色の彫刻を駆使している。
神社の裏手は利根川支流の烏川の最上流の河岸場であった。倉賀野宿の問屋や本陣は、この河岸問屋を兼ねていた。荷物の集積場として大いに発展してきたところである。
さらに街道を進むと右側に安楽寺がある。安楽寺境内にある将棋の駒型をした二基の板碑は、南北朝時代のものだという。
安楽寺付近が上の木戸跡で倉賀野宿もここまでで、この先高崎宿まで殺風景な車道が続く。道は広くなり旧街道の面影もなくなるが、淡々と高崎宿を目指す。上信電鉄の踏切を越えると道の両側には商店やビルの並ぶ高崎市街となる。
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今回は、高崎新町交差点のところで街道を離れ、高崎駅から一旦帰宅する。
これまでは日帰りの繰り返しで繋いで来たが、高崎までが日帰りコースの限界で、次からは宿をとりながら進むことにする。







