2012/10/29~31
下諏訪~塩尻~洗馬~本山~贄川~奈良井~薮原~宮ノ越~福島~上松
軽井沢から下諏訪まで信濃路を歩いたのは二ヶ月前の暑い盛りだった。ずっと気温も下がって、紅葉も見ごろとなった今回は、下諏訪から歩き始め、塩尻を経て木曽路に向かう。
中山道は、武蔵、上野、信濃、美濃、近江、山代と、多くの国をまたぐ長き街道だが、中でも木曽路はこの街道を象徴する風土と景観があることから、中山道の代名詞ともなっている。
電車が下諏訪に近づくと、車窓からは遠くに八ヶ岳や甲斐駒ケ岳が見え隠れする。電車が連なる山々の懐に入るにつれ、心は普段の生活から徐々に離れて旅モードに変わる。
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29 下諏訪宿
前回の旅で、和田峠越えのあと諏訪大社春宮・秋宮に参拝し、温泉で汗を流して一旦下諏訪を後にしていた。今回は、下諏訪駅から少し北に行ったところで中山道に入る。予定では、昼時は塩尻峠の山中になるため、街中にいる間に何か食料を調達しなければと思うが、意外に駅周辺にお店が見当たらず、しばらく国道を歩いてコンビニを見つけ、ようやくおにぎり弁当を確保して旧道にもどった。
旧道に入るとすぐのところに、魁塚(さきがけづか)がある。幕末、江戸城総攻撃の先鋒として出発した相楽総三率いる赤報隊が、にせ官軍との汚名を着せられ、処刑されたところに隊員が慰霊されている。これも幕末の混迷の中での出来事の一つである。
魁塚から少し行くと御柱に囲まれた道祖神がある。下諏訪周辺ではところどころに見られる光景である。
その先でT字路にぶつかり、一瞬進路を見失うが、よく見ると正面に人ひとりが通れるかどうかという狭い路地があり、そこに「中山道」の道標があった。旧道はこの路地を抜け、砥川にぶつかったら、土手沿いに少し行って富士見橋を渡る。
旧道をしばらく行くと、閑静な住宅に囲まれて、代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の旧渡辺家住宅が保存されている。
旧道に戻るとすぐのところにある平福寺は、高野山金剛頂寺の末寺で、中世南北朝時代から戦国時代には諏訪大社下社・春宮の別当寺でもあった。境内の一角に、おひぎりさまと呼ばれる日限地蔵尊が安置されていて、日を限ってお願いすると願いが叶うという。
平福寺の先、長池中町交差点に「右中山道左いなみち」と書かれた道標がある。慶長7年(1602)、制定当時の中山道はここを左折し、伊那街道(三州街道)の小野を経て牛首峠を越えて木曽桜沢へ出ていたが、元和2年(1616)、中山道は道標の右を行き、塩尻を通るように変更された。
ちなみに、三州街道は、中山道の塩尻宿を起点として信濃と三州(三河)を結ぶ街道で、天竜川沿いに伊那谷を南下し、岡崎で東海道に合流する街道である。
長池中町に入ると、手入れが行き届いた生垣のある閑静な家並みが続いていて、歩いていても大変心地よい。
しばらくすると、日本橋から数えて56番目の東堀一里塚跡碑がある。
このあたりには、道祖神などの石塔が散見される。
今井
横河川を渡りしばらく行くと右手に堂々たる門構えの今井家が見えてくる。左手前には明治天皇今井御膳水と番所跡がある。高島藩には、幕府の関所はなかったが、藩は塩尻峠口の今井に、口留とともに米穀の流出防止のための穀留の番所を設けて検察にあたった。
向側の大きな屋敷は今井茶屋本陣で、峠を越えてきた大名や皇女和宮そして明治天皇もここで小休している。
今井の先、岡谷ICジャンクション上を通り、上り坂に入ると石船観音への急な階段が見える。本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかといわれている。お堂には、わらじが多数奉納されている。
石舟観音から少し先には、「旧中山道の大石」と言われる巨大な球状の石がある。昔この大石に盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。
この先、塩尻峠への上りとなる。
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<塩尻峠>
前回、中山道一の難所と言われる和田峠を越え、もう難所は無いものと勝手に思い込んでいたのが間違いで、この塩尻峠は思いのほかきつい坂であった。今井家本陣を過ぎた辺りから徐々に登り始め、頂上前ではかなりの急坂となっている。石船観音から峠までは距離1km、標高差150mほどなので、それほどたいしたものではないが、心の準備をしていなかった分、きつく感じたようだ。
しかし、高度が上がるにつれて木々の紅葉が色鮮やかになり、頂上を目指す励みになった。
頂上には浅間神社碑や明治天皇塩尻御野立所碑などが立っている中で、”熊出没注意”の看板がひときわ目立っている。
塩尻峠は地元では塩嶺峠(えんれいとうげ)とも呼ばれており、頂上付近は塩嶺御野立公園という公園となっていて、小鳥の森としても有名らしい。ちょうどお昼時で、弁当を広げるにはもってこいの場所だ。また、この公園の展望台からの眺望は絶景で、諏訪湖全体とその後方の八ヶ岳などがよく見える。ゆっくりと雲が流れて、その切れ間から、雪をいただいた八ヶ岳が見え始めたときには、しばし時間の経つのを忘れて眺め続けていた。
木々がきれいに色づいた頂上から下っていくと、柿沢茶屋本陣がある。塩尻峠の両側に設けられた茶屋本陣のうち、諏訪側が今井茶屋本陣で、塩尻側がこの柿沢本陣である。茶屋の向かい側には明治天皇塩尻嶺御膳水の石碑と古井戸がある。
茶屋からさらに下ると、東山一里塚手前右手に親子地蔵が並んでいる。その横に、夜通道(よとうみち)と書かれた白い標柱が立っており、塩尻側に住む美しい娘が岡谷の男に惚れて、毎夜この道を通って逢いに行った、という説明書きがある。佐渡情話のような話だが、結末はどうなったのだろうか。
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柿沢集落
長野自動車道のみどり湖PAの上を過ぎると、嘗て立場で賑わっていた柿沢という集落になる。
少し行ったところに首塚への案内標識があるので、街道を外れてそちらのほうに行ってみると畑の中に首塚・胴塚がある。天文17年、武田信玄と小笠原長時が戦った塩尻合戦の両軍の戦死者が千余人を数え、見かねた村民が葬った跡の碑である。
天候次第では穂高連峰が臨めるという柿沢集落には、屋根に雀おどりを付けた立派な屋敷がそこここにあり、どこか穏やかで落ち着いた雰囲気が漂っている。この集落の中を通り、遠くの山々を臨みながら塩尻に向かう街道はなかなか風情がある。
柿沢集落を過ぎて塩尻入口の手前に来ると、大きな茅葺の建物が見えてくる。永福寺は木曾義仲が信仰した馬頭観音を本尊として創建され、茅葺の観音堂は安政年間に再建されたもの。仁王門は堂々としたつくりで、観音堂とともに市指定有形文化財となっている。
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30 塩尻宿
塩尻宿は中山道が通る以前から、塩の道と言われた三州街道(三河国に至る街道)と千国街道(糸魚川に至る街道)の基点として宿場が形成され、最盛期には旅籠70軒を数え、松本藩六万石の玄関口として賑わいをみせる宿場であった。
徳川幕府制定当初の中山道はここを通らず、下諏訪宿から小野街道で牛首峠を越えて桜沢を結ぶ最短経路であったが、15年ほど後に経路が変更され、新しい宿場として塩尻が整備された。
宿場は、文政と明治の二度の大火で殆ど消失し、宿場中央にはこれといった旧い建物はほとんど残されておらず、本陣、脇本陣跡には標柱があるのみである。
往時の面影が残る数少ない建物の一つ小野家住宅(国重文)は、二階建の平入りで、旅篭の名残を留めている。
鉤の手を右に曲るとすぐのところに阿礼神社が鎮座している。社殿は将軍綱吉時代の寛保3年(1743)に再建されたものだが、格式高い式内社で、延暦年間には蝦夷征討に向かう坂上田村麻呂が参拝し、治承4年(1180)には木曽義仲も参拝したという歴史を持つ神社である。
堀内家住宅は、築200年の本棟造りで、屋根にりっぱな雀おどりが付いている国の重要文化財である。堀内家は江戸時代、旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農である。雀おどりは、ここに来る前の柿沢集落でも見られた、この地方独特のものである。
大門神社は、昭和35年、境内から高さ64センチの完成品銅鐸が出土したことで、考古学者には有名な神社だという。これまで長野県は銅鐸文化の圏外と考えられていたのだが、これが覆されたということで注目された。
平出の一里塚は、日本橋から59番目の一里塚で、両方の塚が完全な形で残っている希少なものである。通りからちょっと奥まったところにある右側の松は、立派な枝ぶりで、塚も大きく、松の根元に腰を下ろしてしばし休憩を取ったが、程よい傾斜もあって実に心地よかった。
一里塚の先左手、畑の奥のほうに、復元された竪穴住居が何棟も見える。ここ平出遺跡は縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、今も整備が続けられている。
塩尻宿は、中山道の宿場時代の建物など殆ど残っていないものの、縄文遺跡、銅鐸や式内社の阿礼神社、塩の道の基点など、江戸時代よりはるかに昔から文化の中心的存在だった、ということを始めて知った。
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31 洗馬宿
平出遺跡を出てから中央本線の踏切を越え、右手に県の農業試験場を見ながら進み、中山道一里塚信号で国道に合流してしばらく進んで、平出歴史公園交差点で右手に入っていくといよいよ洗馬宿である。
洗馬宿は、慶長19年(1614)、中山道が牛首峠越えから塩尻峠越えに変更となったとき、中山道と北国脇往還(善光寺街道)との分去れの宿場として新設され、本陣、脇本陣、問屋場のほかに荷物貫目改所も置かれる重要な宿場として大いに賑った。
国道を横断して左に曲がる下り坂が旧街道である。下り坂の途中に肱懸松と呼ばれる松が1本ポツンと立っている。細川幽斎(細川ガラシャ夫人の夫、細川藤孝のこと)が、この松に肘をかけて一句詠んだというが、標識が無ければ見落としてしまいそうなかわり映えのない松だ。
肱懸松のちょっと先を道なりに下ると、右に分れる道があり、角に善光寺道との追分の碑が立っている。実際には、ここから善光寺道に入って50m程行った枡形に常夜燈があるところが元の分去れで、今の追分の碑は昭和7年の洗馬の大火後ここに移されたものである。
少し先の民家の脇に邂逅(あうた)の清水入口の標識がでている。木曽義仲の馬の足を今井兼平がここで洗ったのが、洗馬宿の名前の由来となったといわれている。民家の庭先をかすめて階段を下りていくと、木製の流しに太田の清水が流れている。
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このあたりで、薄暗くなってきたので先を急ぐことにする。もともと洗馬には泊まれる宿がないため、この日は塩尻に宿を予約しており、無人の洗馬駅からワンマン列車で一駅戻ることになる。
予約していた塩尻のホテルは、駅から近くて結構大きく立派だが、広いロビーに人は見当たらない。部屋に入って一息入れた後、夕食をどこで摂るか考えるが、駅からここに来る間にざっと見たところ、周囲にこれと言った店は見当たらなかった。おまけに、日が沈むと急に冷え込んできて、街中を出歩く気にもならず、夕食は結局ホテル内の唯一のレストランである中華料理店で食べることにする。街道歩きの楽しみの一つは、その土地の名物などを味わうことにあるのだが、しょうがないという気持ちでお店に入った。ところが、これが意外に本格的な中華料理で、すこぶる美味なものだった。折角こんなにいい料理が出せるのに、広い店内に他に客はおらず、経営が大丈夫なのか、他人事ながらちょっと気になった。
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二日目も、朝から青空が広がり、ひんやりした空気が実にすがすがしい。駅前で挨拶を交わした人が、駅向こうに穂高が見えるよ、と教えてくれた。駅の階段を登って反対側に行ってみると、確かに遠くに雪をかぶった穂高連峰が見えている。
朝から、なんとなく得した気分になりながら、前日引き上げた洗馬に電車で向かう。
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無人の洗馬駅で降りて街道に出ると、車も人気もなくまことに静かな街並みが続く。朝のひんやりとして澄み切った空気の中、心地よく歩を進めていく。
残念ながら洗馬宿の往時の建物は昭和7年の大火でほとんどが焼失したため、本陣、脇本陣などは嘗ての所在を示す標識のみとなっている。
洗馬駅入口を通り過ぎたところに百瀬本陣跡があり、その隣に荷物貫目改所跡がある。荷物貫目改所とは、公用荷物の重さを計り運賃を決める役所で、規定を超えた荷物には割増金を徴収するなど、伝馬役に加重な負担がかからないようにするための仕組みである。その先に志村脇本陣跡がある。脇本陣は代々志村家が勤め、百瀬家と半月交代で問屋を兼ねていた。両家ともに広い敷地を有し、大きな庭園を持っていたそうだ。
本陣跡の少し先に、鮮やかな朱色に塗られた山門を構える満福寺がある。
宿のはずれの公園には、高札場跡の案内や中山道碑、洗馬宿碑、芭蕉句碑が並んでいる。
下り坂の途中から左に曲り、線路を越えると、その先に言成(いいなり)地蔵堂がある。願い事をすれば必ず叶えて貰える、ということで近在の信仰を集めていたそうだ。
JRのガードをくぐると牧野集落となり、集落を抜けた先で国道に合流する。
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32 本山宿
国道から分れて本山宿に入ると、宿の標柱の向こうに小さな秋葉神社と沢山の石塔が並んでいる。
この宿も、洗馬と同様に、中山道が塩尻峠越えに変更となったときに設けられた宿で、木曽谷の出入口にあたり、政治上、軍事上、重要な地域であった。また、ここは信州そば発祥の地といわれる所でもある。
宿内の道は比較的広く、出梁造りの古民家が並び、ゆったりと落ちついた風情が残されている。建物の並び方は、斜交(はすかい)屋敷といわれ、家が道と斜めにのこぎり状に並ぶ独特の形となっている。
宿場の中ほどには、出梁造りで2階の連子格子が見事な元旅籠川口屋が建ち、ほかにも池田屋などの屋号を標した趣ある家がいくつかあって、往時の様子が窺える。
宿の京方口まで行くと国道に合流するが、その手前で国道をまたがる陸橋を渡って左奥に行くと、本山宿の氏神様の本山神社がある。
街道に戻りしばらく進むと日出塩集落に入って行く。集落入口の左手に江戸から61番目の日出塩一里塚標識があるが、塚は残っておらず標柱だけが立つ。日出塩は本山宿と次の贄川宿の間の立て場であったが、今は往時の面影はほとんど感じらない。
集落を行くと、日出塩駅手前に建つ長泉院の山門前に多数の庚申塔などが並べられている。
駅前を過ぎた街道沿いには、大きな道祖神や秋葉大権現などの石塔が並んでいる。
その先で国道と合流するが、合流する手前左手に御岳公園という標柱が立っており、JRのガードをくぐって行くと鳥居が立っている。この奥に熊野神社があるのだが、山裾の片隅の昼間でも薄暗いところにあり、今にも朽果てそうな様子でちょっと近寄りがたく、鳥居の手前で早々に立ち去った。
是より南 木曽路
日出塩の集落を出て国道をしばらく行くと、「これより南 木曽路」の道路標識があり、その先に松本藩と尾張藩の国境となる境橋がある。
さらに、境橋の直ぐ先に、有名な「是より南 木曽路」と刻まれた石碑があって、ここからはいよいよ木曽路の旅となる。
旧道は、この石碑の向側の崖のところに作られている上り道を行く。よ~く注意してみないと見落としてしまうような、一見、道とは思えないような道がそこに作られている。人一人がかろうじて歩けるほどの細い道だが、よく見ると「中山道」と書かれた小さな標識が置かれている。
上り始めは元来た方向に少し戻るが、すぐ先でスイッチバックの如くぐるっと向きを変え、国道に沿って崖の中腹にわずかに張り付いたような形でつけられた道を桜沢茶屋本陣の方に向かっていく。まさに島崎藤村「夜明け前」の出だしの「あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道、・・・」の表現そのままである。
崖道の途中と国道に合流する出口の所には、馬頭観音や道祖神が置かれている。険しい崖の道で命を落とす危険がさぞ大きかったのであろう、旅の無事を祈る人々の気持ちが分かるような気がする。
桜沢茶屋本陣跡
崖沿いの道から国道に合流すると、すぐのところに古い家が何軒か建っている。ここは立場で賑わったという桜沢で、茶屋本陣跡がある。この本陣は、木曽の碑を建立した百瀬家で、連子格子を備えた屋敷と本陣らしい立派な門があり、明治天皇櫻澤御小休所の碑が建っている。
片平
国道は登坂車線になり、歩道の方も緩やかな上りが続く。片平付近で右手にほんの少しだけ旧道が残っていて、こじんまりした民家が残っている。その先、国道に出たすぐ右手をみあげたところに、民家風のつくりの鶯着寺(おうちゃくじ)がぽつんとある。
寺の前を山のほうに向かう道を少し登った崖のところに、三脚にカメラをセットしてシャッターチャンスを狙っている様子の若者二人を見かける。近づいていって、何を狙っているのか尋ねると、遥か遠くの山あいにほんのわずかに見えている古い鉄橋を列車が通過する瞬間を狙っているんだと言う。よりによってこんなところで、と思うようなところで、一瞬のシャッターチャンスを狙う鉄道マニアの拘りと執念に脱帽。
若神子(わかみこ)
国道の右手擁壁上に日本橋から62番目の若神子一里塚跡がある。国道工事の都合で、見るからに隅に追いやられた感じがして、ちょっと気の毒。
ただ、このあたり、非常に見晴らしがよく、連なる峰々の上に青く大きな空が広がっていて、歩いていても実に心地よい。
旧道は、一里塚の先で再び右に入り、若神子集落へと続いている。ここには古い家も残されていて、水場も何カ所か見られる。
若神子の集落のはずれ右手に諏訪神社があり、曲り角に庚申塔や二十三夜塔などが残っている。
この先急坂を下り、再び右手の旧道部分を上がって、しばらくは国道より一段高い部分を歩くことになる。
青い空が広がる気持ちのよい道をしばらく行くと、やがて遠くに贄川駅が見えてくる。駅前には蕎麦屋の建物が見え、お昼時が近いので、心なしか心が弾み、足が速まる。ところが、店の前まで行くと、なんと本日休業の看板がかかっていてガッカリ。周囲にはコンビニも何も見当たらず、この先どこで昼食にありつけるのか、不安に駆られながら歩を進める。
贄川駅の少し先で旧道は国道から分かれて左に入って行く。
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33 贄川宿
贄川宿は奈良井川の両岸に迫る山の間の小さな宿場町で、木曽谷の北の入口にあたり、木曽十一宿はここから始まる。贄川宿は何度も大火に見舞われ、古い町並みはほとんどが失われてしまい、かつての面影はほとんど残っていない。
贄川関所は、昭和51年に復元されたもの。初めは福島関所の予備的番所であったが、贄川が木曽十一宿の始まりにあたっていたので、正式な関所となった。女改めもあり、女性の出入りは特に厳しく取り締まった。また木曽檜や檜細工の流出を防ぐ役目も負っていた。
関所の先が贄川宿だが、洗馬同様、昔の面影がほとんどない。本陣も、脇本陣も案内板すらないのでどこがなんだがわからない。
そんな宿場内にある深澤家住宅は、江戸時代末期の木曽地方における宿駅の町家の姿をよく留めるものとして価値が高いと言われている。深澤家は行商を生業とする豪商として知られ、幕末には苗字が許されるなど商人ながら格式ある家柄であった。敷地内にある北蔵、南蔵と共に三棟が、国指定重要文化財に指定されているが、残念ながらこのときは見られなかった。
深沢住宅の少し先、右手の路地入口に「贄川のトチ」の小さな案内標識があり、そちらに入って行くとちょっと分かりにくい枡形になっていて、片隅にボール状の石を重ねた水神碑が置かれている。このような水神碑はちょっと珍しい。
枡形を抜け、JRを跨いで国道に出ると、贄川のトチの案内板に出くわす。国道から70m入ったところに見えるこの樹の樹齢はなんと推定1000年だそうだ。
SS食堂
山また山の景色が続く中、遠くのほうについに“食堂”の看板が目に入り、足が速まる。
年季の入ったドライブインのようなちょっと古ぼけた店だが、入ってびっくり。壁一面に張られているメニュが、ものすごく種類が多い。しばし、目移りして何を注文するか迷った挙句、結局、代わり映えのしない鍋焼うどんにする。
うどんを食べながら見ていると、ちょうどお昼時ということもあって、大型トラックの運転手さんなど、お客が次々と入ってくる。厨房では数人のおじさん、おばさんが次々に注文された料理を黙々とこなしている。こんなにメニュが多いのに、とにかく注文してから出来上がってくるまでが驚くほど早い。一方、店のほうでは、おばあさん二人が注文をテキパキこなしている。厨房も店内も、年季の入ったおじさん・おばさんが阿吽の呼吸で無駄なく動きまわっている感じで、実に小気味よい。
お腹を満たしたところで勘定を済ませると、街道歩き人と見るや頼んだわけでもないのに、店のおばあさんが昼時の忙しい時間帯なのに、わざわざ外に出て写真を撮ってくださった。
店の正面には、色づき始めている木曽の山並みがドーンと迫っている。
桃岡~長瀬
SS食堂を出て、国道を渡ったところの漆器店駐車場を通り、その先の国道の擁壁上の道を、藪を掻き分けながら行くと、桃岡集落に入る。
途中の草道には馬頭観音、中山道碑や石塔群などが続く。
また、額束に素盞鳴尊と記された鳥居と小さな社がある。なぜここに素盞鳴尊なのか、と不思議に思いながらも、由緒書などなく知る芳もないため、通り過ぎる。後日、調べたところでは、どうやら津島神社という名で、横にある大きな半球の石は、こだま様というものらしい。
JRの線路をくぐり、奈良井川を渡った先の旧道へ入ったところが長瀬という集落で、静かな道が続く。この旧道は短く、すぐ国道へ合流してしまうが、色づく山々をバックに黄金色に輝くススキを眺めながら歩くのはなんとも心地よい。
国道を歩いてしばらく行くと、「道の駅木曽ならかわ」がある。一週間前、王ヶ塔に行った帰りに立ち寄ったところだ(このときは車で)。 ここで、お土産にさるなしジャムを購入。
旧道は道の駅の裏側に続いている。
道の駅の裏側をしばらく行くと塩尻市楢川支所がある。そこの駐車場わきの木の根元にひっそりと芭蕉句碑があった。
- 送られつ をくりつはては 木曽の秋 -
支所の駐車場を通り抜け、諏訪神社の森の中の諏訪坂を抜けていくと、漆器の街木曽平沢に入る。
諏訪神社本殿は、木曽義昌軍と武田勝頼軍が鳥居峠で戦ったときに消失し、享保17年(1732)に再建されたものである
木曽平沢
檜を始め豊かな森林資源と漆器に適した気候風土に恵まれた木曽では、古くから漆器が発展してきた。中でも、木曽平沢は全国的にも少ない漆器生産の町として特徴ある町並みで伝統的町屋や塗蔵など多数現存していることから、平成18年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
重要伝統的建造物群保存地区といえば、隣の奈良井があまりにも有名で、平沢はその陰に隠れていたのかもしれないが、風情のある漆器屋の建物が整然と並び、表情豊かなその街並みは、実に素晴らしい。
独特な表情を見せる平沢の街を過ぎ、JRをくぐって河原のススキが金色に輝く奈良井川沿いの道を行くと、途中の川向こうに橋戸の一里塚が見える。
一里塚の先、木曽楢川小学校は木造のかなりお洒落な感じだ。(写真は、奈良井川橋からの振り返り、茶色の建物が小学校)
奈良井川橋を渡ると、いよいよ奈良井宿に至る。
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34 奈良井宿
木曽路といえば奈良井、というくらい奈良井宿の風景は、妻籠や馬籠とともに宿場町の原風景のごとく紹介されている。街道歩き人としては、やはり一度は訪れたいと考えるところだ。
奈良井宿は、鳥居峠上り口にある鎮(しずめ)神社を京口に、奈良井川沿い約1kmにわたって町並みを形成する宿場で、「奈良井千軒」と謳われて木曽路一番の賑わいであった。江戸寄りから下町、中町、上町に分かれ、中町と上町の間に鍵の手がある。
街並み
伝統的建造物群保存地区の指定を受けている奈良井宿は、東海道の関宿に似て、江戸時代の街並みがしっかり保存されていて、タイムスリップしたような気分になる。建物の大部分は中二階建で、二階を少しせり出した出梁(だしばり)造となっており、連子格子や二階正面に袖うだつをもつものも多く、独特の街並みを形成している。
宿場機能が集中していた中町に入ると、嘗て脇本陣を勤め、七間間口を誇る旅籠で市の有形文化財となっている徳利屋がある。明治時代には、島崎藤村、泉鏡花、幸田露伴、坪内逍遥、岡本綺堂、正岡子規なども宿泊したという。今は郷土館となり地粉の手打ちそばや独自の三色五平餅を商っている。
宿並の左には、創業寛政年間の旅籠越後屋があり、今も旅館を営んでいる。その先の右には今回宿泊する旅籠伊勢屋がある。文政元年(1818)の建築で脇本陣兼下問屋を勤めた。このときは、まだチェックインするには早すぎるので、挨拶だけして鳥居峠を目指した。
伊勢屋の3軒ほど先には、国指定重要文化財の上問屋資料館がある。奈良井宿の問屋と庄屋を勤めた手塚家で、住居前には明治天皇御駐輦碑と明治天皇奈良井行在所碑が立っている。
上町、中町の境で鍵の手(枡形)のところに荒沢不動尊があり、そこを右手に曲がると水場がある。奈良井宿には、こうした水場が何か所にもみられる。
上町に入るとパタッと観光客も減り、落着いた雰囲気になる。漆櫛の商いをしていた中村邸は、出梁造りに鎧庇など典型的な奈良井の商家の様式を残し、市の有形文化財となっている。
宿場の外れにくると高札場があり、その横には宮の沢の水場がある。
上町の先に奈良井宿の鎮守の鎮(しずめ)神社がある。その昔疫病に苦しむ人々が病を鎮めるために建立された。
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鳥井峠
鎮神社の先、右手の石段が鳥居峠の登り口になっている。
標高1197mの鳥居峠は、古くは県坂峯(あがたさかみね)と呼ばれていたが、戦国期に木曽義元が御嶽山遥拝所を設け鳥居を奉納したことから鳥居峠と呼ばれるようになったとされる。
またここは分水嶺となっていて、北の奈良井川は犀川、千曲川、信濃川となって日本海に注ぎ、南の木曽川は太平洋へと注ぐ。
石段を上がり、杉並木の中の草道を行き、一度道路へ出て100m程上がった所から旧石畳道へ入って行く。この先、ひと気が無いようなので用心のため持参の熊避けべルを鳴らしながら進む。比較的平坦な道を行くと沢の向こうに中の茶屋小屋が見える。中の茶屋は、菊池寛の「恩讐の彼方に」の前半の舞台になった所といわれる。
茶屋手前の沢は葬沢(ほおむりさわ)といわれ、天正10年(1582)、武田軍と木曽義昌が戦い、破れた武田方の戦死者500人を葬ったという所である。長居はしたくないと感じる雰囲気が漂う。
中の茶屋の先の草道や沢に架かる木橋を渡り、つづら折りの道を登っていくと、やがて左手に峯の茶屋が見えてくる。今は、新しくきれいな休憩所となっているが、かつては中村利兵衛の茶屋があった所で、ずっと下のほうに奈良井の街が見渡せる。
この先、明治道を少し行くと常設の熊避けの鐘があり、これをガーンと思い切り鳴らしてから少し下ったところに御嶽遥拝所が見えてくる。
木曽谷に入って、初めて御嶽山の神容に接することのできる遥拝所を御嶽四門といい、ここはそのうちの涅槃門。鳥居の奥に行くと御嶽山が見られるはずだが、崩落の危険のため、立ち入り禁止のロープが張られているので残念ながらパスする。そういえば鈴鹿峠上り口の片山神社でも、見るからに石垣や階段が崩れそうな感じで、立ち入り禁止だった。このあたりは、貴族姿の神像もあったりして、うらさびれた感じでなんとなく不気味な雰囲気が漂う。
鳥居前の急な坂を下ると丸山公園口に出る。
ここには御岳手洗水鉢があり、500m先の峠山からの湧水と記されている。
この湧水から少し上った所に義仲硯水の旧跡がある。昔、木曽義仲が平家打倒のため旗揚げして北国へ攻め上がるとき、鳥居峠の頂上で戦勝祈願の願書をしたためるのに使った水と伝えられている。
硯水の旧跡がある場所は丸山公園で、ここには多くの石造物や芭蕉句碑などが立っている。
公園からは薮原宿へ向って下るだけだが、熊の食事時である日暮れが迫っているので、何箇所かにある常設の熊よけのベルを思い切り鳴らして、逃げるように急ぎ足で下る。やがて鳥居峠も終って舗装道路へ出た。峠を登り始めてからここまで、結局誰にも出会わず、少々心細くもあり、ちょっと気が急いたが、何とか無事に日没前に薮原にたどり着くことが出来てホッとする。
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35 薮原宿
薮原宿は、鳥居峠越えのために京方から来る旅人で栄えた宿場である。鳥居峠南に位置し、飛騨街道奈川道の追分けとして多くの旅人で賑わいを見せた。宿場の名産品お六櫛は、浮世絵に描かれるほど当時の名物品で、旅人のお土産としてもてはやされ、現在でも数軒の店で製造販売されている。
しかし、明治期の大火で街並みの大半を焼失し、往時の面影はほとんどなくなっている。
鳥居峠を越えて集落に入ったところに、原町清水と言われる水場があり、傍らに水神様が祀られている。峠を越える旅人の喉を潤してきた清水だが、今でも飲み水として使用されているのだそうだ。
田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿いに祀られていることが多いが、日常生活で使用する水については、井戸や水汲み場に水神が祀られる。
街道から少し外れて線路の反対側に薮原神社と極楽寺が見えるが、あまりゆっくり出来ないので、立ち寄らずに先にいく。薮原神社は、天武9年(680)、三野王が勅使として信濃国を巡った際に熊野から勧請したのが最初で、明治4年に藪原神社と改称された。隣の極楽寺には、お六櫛を作ったといわれるお六さんの墓がある。
薮原宿は度々の火災と鉄道による分断のため宿場の面影はほとんど残っていない。お六櫛問屋篠原商店は、二階の屋根付き、吊り行灯風な看板と面格子があって、わずかに往時を偲ばせてくれる。
お六櫛は、1mm太るのに3年かかると言われるミネバリの木を材料にして、一寸(約3cm)に29~42本もの歯を挽くという職人技の見事な伝統工芸品で、最近TVでも何度か紹介されていた。
薮原高札場の標柱が建てられているところを過ぎると、間もなく薮原駅だ。日も沈みかけたため、ここで、今日の宿泊地の奈良井まで電車で戻ることにするが、駅に着いたときは、ほんのちょっと前に電車が出たばかりであった。駅の周りには人気も店も何も無く、無人駅で次の電車を一時間近くひたすら待つことになる。これといってやることも無いので、しょうがなくストレッチなどで時間をつぶす。
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<宿泊地奈良井の様子>
釣瓶落としの秋の日、奈良井に着いたのは、すでに夕暮れ時。昼間の賑やかさはとうになくなり、人影もまばらで、少し寂しさ漂う感じとなっている。
予約している伊勢屋では、通りに面した母屋の部屋に案内される。およそ200年前の建物を残す母屋の宿泊は一人だけ。早速、風呂をいただき湯上りのビールを飲んで寛いでいたら、ほどなく夕食になる。
今日は、満月なので、夕食後、また外に出てみる。空は良く晴れていて、斜向いの越後屋の屋根の上に月は良く見えているが、月明かりだけの街はかなり暗い。どうせなら、出歩くときに堤燈を貸してくれるといいのに、などとほろ酔い気分で勝手なことを考える。
翌朝、鳥のさえずりに誘われて、早朝の奈良井に出てみる。夜明けの鳥の賑やかなさえずりは、いい天気の証しだ。通りには人っ子一人おらず、奈良井を独り占めしている気分になれる。情緒満点の街並みの中、凛とした冷気に包まれた静かな宿場の雰囲気は、なんとも言えない心地よさである。
話が前後するが、今回、あこがれの奈良井の雰囲気を余すことなく写真に残そうと、いろいろ異なる時間帯の写真を撮った。最初は、平沢から奈良井にたどり着いた日中の奈良井。天気が良すぎてか、光が強くて日向と日陰のコントラストが強すぎ、あまりうまく撮れていない。次は、鳥居峠越えをして薮原から電車で戻ってきた夕暮れ時の奈良井。通りを埋めていた観光客の姿はもう見えず、あちこちの外灯がともされ始めて、ちょっと寂しさが漂ういい感じ。その次は、夕食後の夜の奈良井。日没から時間が経っており、結構冷え込んでいるが、この日が満月と知っていたので、月夜の奈良井を撮ったものだが、ちょっと暗すぎてあまり絵にはならない。次は、夜明け直後の奈良井。若干、明るさが不足気味だが、往時の宿場にタイムスリップした雰囲気が最も感じられるように思う。
最後は、朝食後、宿を後にして奈良井駅に向かう時の奈良井の街並み。まだ、人通りはほとんどなく、宿は静かなたたずまい。このときの写真が、背景の山の色合いも鮮やかで、最も綺麗に撮れているように思う。
早朝散歩から宿に戻って朝食をとり、出発の支度を整えながら本日の行程を吟味する。
前日、国道の上松トンネル内で観光バスとトラックの衝突事故が発生したことを報じる防災無線放送が、山間に鳴り響いていた。宿に着いてから見たテレビのニュースでも、当然この事故が大きく報じられていた。街道はところどころ旧道がなくなって国道に合流するが、国道は大型トラックがビュンビュン行きかい、ちゃんとした歩道もないようなところでは身の危険すら感じることもしばしばだ。もともとできるだけ避けて通りたいくらいだが、特にこの先の薮原~宮ノ越間は、国道を歩かざるを得ない個所が多いうえ、国道のトンネル内を通らなければならない個所もある。昨日の今日でもあるので、今回はこの区間をパスして、宮の越まで電車で行くことにする。
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36 宮ノ越宿
宮ノ越は、中山道のちょうど中間地点に位置し、脇街道の伊那へぬける権兵衛街道との追分ともなっていた。明治16年に大火にあい、本陣以下焼失してしまった為、あまり旧跡は残っていない。むしろ木曽義仲が挙兵した地として知られており、挙兵の地である旗挙八幡宮、義仲の墓がある徳音寺など義仲にちなむ旧跡が多い所である。
宮ノ越の駅を出て木曽川にかかる義仲橋を渡ると、その先右側に義仲に関する資料をおさめた義仲館がある。門をくぐると正面に、凛々しいいでたちの巴御前と義仲が並んだ像が建っている。
河内源氏一門の父・義賢は、その兄・義朝との対立の中で殺され、当時2歳の義仲も命を狙われたため、木曽に逃れ、この地で乳夫・中原兼遠に養育された。頼朝、義経の従兄弟に当たる義仲の波乱万丈の人生がここに始まる。
義仲館のすぐ奥にある徳音寺は、木曽義仲の菩提寺で、本堂左手の奥に木曽義仲の墓がある。傍らには巴御前など一族の墓もある。
徳音寺山門(鐘楼門)は、彫刻など施されておらず質素な造りで、享保8年(1723)建立された。
義仲は近江の粟津で戦死しており、その墓は大津の義仲寺にもある。ちなみに、その義仲寺には、芭蕉も葬られている。義仲や義経等、悲劇の武人に思いを寄せていた芭蕉が生前言い遺したことによる。生前、何度も義仲寺を訪れていた芭蕉は、その遺言どおり義仲の墓と隣り合わせで眠っているのである。昨年、東海道を歩いた際は、ほんのちょっと立ち寄っただけだったので、義仲寺にはもう一度ゆっくり訪ねたいと思っている。
旧道に戻り、西に進むと左手に宮ノ越宿本陣跡がある。建物は明治16年の大火で全焼し、現在は標識があるのみである。
その先左側に、明治天皇御前水の標札の立つ井戸がある。1886年頃飲用水のため掘った井戸で、昭和初期まで近郷一の名水として生活を支えたという。
しばらく広く開けた畑のようなところが続く。その背景の山々はきれいに色づき、青い空と白い雲は、画のように美しい。
すぐに宿場外れで、道はゆるい坂道を下る。途中左手に立派なナマコ壁の土蔵があり、その先に宮ノ越の一里塚の木柱がポツンと立っている。
原野
一里塚を過ぎると、見晴らしの良い広い道へ出る。山々が連なるゆったりした景色を眺めながら、のんびり歩いていると、線路を渡ったところから原野という集落に出る。
原野はもと間の宿で、林昌寺のバス停辺りが宿の中心となっていた。両側に古い建物が何軒かある。
駅前を通り越すと、すぐのところに明星岩公園があり、ベンチでひと休み。向かいの山の中腹に明星岩が見える。木曽高原の濃ケ池が決壊した際に転がってきた岩だと云われている。
しばらく行くと左側に置かれているのが中山道中間地点案内板で、ここが、江戸からも京都からも67里38町(約268km)の地点と書いてある。
天気さえよければ、ここからは中央アルプスの木曽駒ケ岳がよくみえるはずなのだが、残念ながらこの日はちょっと雲に隠れている。この先、何度も雲が切れるタイミングを見計らいながら歩くが、結局、残念ながらまともな姿をカメラに納めることは出来なかった。
小沢
小沢の道祖神を左に見て竹やぶの横の狭い道を進み、ガードレールの切れ目から左に坂道を下って草道を進む。
このあたりは、野原に道があるようで無いようで、旧道がちょっと分りにくい。地元の街道歩き人向け情報だけが頼りだ。
この先は正沢川に架けられた鉄の網目で足元丸見えの橋を渡る。
国道からの分岐道に合流して進み、木曽義仲を養育した中原兼遠屋敷跡案内板が立つ栗本集落を通る。集落を出て道なりに進むと、巨大な二十三夜塔と薬師堂、さらに続いて左手の小高いところに手習天神がある。このお宮は、古くは山下天神と呼び、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧請したものと伝えられている。
この辺り一帯は、義仲を巡る史跡が実に多い。
木曽警察署手前の蕎麦屋の向かい側の落石防止のフェンスの後ろに芭蕉の句碑がおかれている。
- 思い立つ 木曽や四月の 桜狩り -
木曽警察署看板のある所で脇道へ入るが、すぐまた国道に合流する。
国道を進み、福島トンネルの入り口で右に分岐する道へ入る。そこからしばらく行くと、正面に巨大な冠木門が立っている。ここをくぐると左手に復元された木曽関所が見えてくる。
いよいよ福島宿だ。
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37 福島宿
戦国期に木曽氏の城下町として生まれた福島宿は、江戸時代に関所が設けられ、碓氷関所とともに江戸防衛の重要な拠点となった宿場である。
街道沿いに往時の面影が少ないが、上の段と呼ばれている地区には江戸時代が残っている。宿場の規模としては案外小さく、関所が厳しかったので、旅人は早々に立ち去ったといわれる。
福島入口(冠木門)をくぐって左側の狭い道を行くと、復元された福島関所が切り立った崖の上に建っている。
江戸幕府が江戸防衛のために、東海道の箱根関所や荒居関所、中山道の碓井関所などと並ぶ日本四大関所の一つとして設けた。木曽川の断崖に望む、険しく、狭い場所に設けられたので旅人も大名行列もここを通らざるを得なかった。特に鉄砲と女性には厳しく、通行するのに普通でも女性は1刻(2時間)ほどかかったといわれる。
関所跡の先には、島崎藤村の「家」のモデルとなった高瀬家がある。藤村の姉(園)が嫁いだことから、藤村も高瀬家によく出入りしていたようで、高瀬家資料館には藤村からの手紙なども展示されている。
高瀬家の前の初恋の小径という細い道を行くと、崖に張り付いたような九十九折の急坂を降りたところに島崎藤村の初恋の碑がある。まだあげ初めし前髪の・・・、で始まる詩を、あらためて文字をたどってじっくり読んでみると、ふしぎと新鮮な気分になる。
宿場は、関町、上町、本町と続くが、ここは上町にあたる。通りは普通の商店街になっていて、食事処もいろいろある。ちょうど昼時のため、このあたりで昼食を摂ることにする。
福島役場支所前を右に行き、大手橋を渡ったところに山村代官屋敷跡がある。山村氏は鎌倉幕府の一族の流れを祖とし、関ヶ原で武功を立て木曽谷の徳川直轄支配をまかされる木曽代官となる。以後明治至るまで木曽谷を支配した。
代官屋敷から東へ少し行くと、木曽三大名刹の一つで、木曽氏、山村氏の菩提寺の興禅寺がある。冠木門あたりから川向こうに見えていた紅葉鮮やかなところである。
街道に戻り、すこし歩いて、杉玉が下がった七笑酒造の少し先で左に曲がり、坂を上ると、上の段と呼ばれる地区に入っていく。古い町並みが残る地区で、枡形がそのまま残っていたり、古民家が並んでいたりして、風情がある町並みになっている。上の段は木曽義昌の居城上之段城があった場所で、郭内の多くの道筋が残されており、由緒ある小路名が残っている。
町並みの終わりで道が左に下ったところに、江戸時代の井戸がある。江戸時代中頃に造られた井戸で、昭和の中ごろまで町民の飲み水として使われていたのだそうだ。
旧道は中八沢橋を渡り、旧国道に合流してJR木曽福島駅前へと向かっている。
駅前を通り過ぎたら、すぐ先の御嶽神社裏塀にそって狭い道に入り、木曽町役場前を右に曲がって、役場に沿って裏道のような狭いところを道なりにいくが、ここは、入口をよほど注意しないと間違え易い。(実は、あらかじめ注意していたのに間違えた)
まもなく塩渕の集落に入り、しばらく歩くと塩渕一里塚跡碑が建てられているが、江戸より70里、京へ67里と刻まれている。
塩渕を通り過ぎると旧国道に合流し、右側のJAのスーパーの先で、旧道は左側の細い上り坂を行く。
坂を上りきると中平立場跡の小さな集落に入り、その先の国道19号の陸橋下を通っていくと、明治43年に開通したという旧中央線トンネルが見えてくる。このトンネルが結構長くて、おまけに途中から曲がっているようで出口が見えない。照明は一応ついているはずだが、節電のせいか、殆ど真っ暗で何も見えず、思わず急ぎ足で抜け出る。
トンネルを出てしばらく歩き、国道に合流。少し先の元橋交差点のところで再び左に入り、中央線のガードをくぐっていく。
国道から左に入った旧道は、のどかな神戸(ごうど)集落を通り、薄暗い林の中のへと入っていく。
御嶽山遥拝所跡
林の入り口の右側の階段を上がった所は御嶽山遥拝所で、寛永2年に再建された鳥居が立ち、小さな祠が祀られている。
現在は、残念ながら樹が邪魔をしてここからは御嶽山を見ることはできない。薄暗い林の中の道を抜けた辺りで、西方の山の間に御嶽山が見える箇所がある、ということなので一生懸命探すが、良く分からない。しかたなく、たぶんこっちのほうだろうと思う方向にカメラを向けてシャッターだけ切っておくことにする。
御嶽四門のひとつ、ここ神戸峠の発心門(東)は、京都から中山道をたどり、初めて御嶽山を仰ぐことができたところとなる。江戸から中山道をたどり、初めて御嶽山を仰ぐことができたところは、涅槃門(北)といい、昨日鳥居峠にあったのがそれである。このほかに、長峰峠の菩提門(西)、三浦山の修行門(南)に遥拝所がある。
しばらく歩くとふたたび国道に合流、すぐに左へ入り板敷野の集落を過ぎると、JR中央線の線路脇の細い草道を進む。
坂を下り、沓掛一里塚碑がひっそりと座っている辺りで、またまた国道に合流。
そこに置かれている案内標識に木曽の桟まで0.6kmとある。ここからの国道は歩道が無く、大型トラックが通り過ぎるたびにびくびくしながら進む。
歩道の無い国道を、怖い思いをしながら歩いていくと、やがて木曽ノ桟の案内標識と赤い橋が見えてくる。通行の危険性とは裏腹に、この辺りの木曽川の渓谷と紅葉は実に素晴らしく、車をかわしながらカメラのシャッターを切るのに忙しくなる。
木曽の桟(かけはし)
ここは、かつて中山道最大の難所といわれたところで、危ういものの代名詞として歌まくらにも詠まれている。ちなみに、桟というのは川を渡る橋ではなく、川に削られて切り立った崖にテラスのように架けられたもので、当初は崖の中腹に木組みの桟道が造られていたが、後に尾張藩が石積みの桟道とした。断崖を長さ102m、高さ13mにおよぶ石垣で補強し、その上に木橋を架けたものだが、今は国道の下に石垣だけが遺構として残っている。この様子は実は対岸から見ないと分からない。よりによって、すぐそばに赤い橋が架かっていて、その橋の名は木曽の桟橋というから紛らわしい。
赤い橋を渡ったところに、馬頭観音や芭蕉の句碑などがある。
- 桟や 命をからむ 蔦かつら -
句碑の脇の細い道を上っていくと、車も少なく安全な木曽川右岸の道路に出る。この右岸からは、鮮やかな紅葉に染まる断崖絶壁とゆったり流れる木曽川、その渓谷の懐に抱かれる木曽の桟といったスケールの大きな景観が展望でき、まさに絶景である。
この素晴らしい景色を対岸に見ながら、鬼淵鉄橋までひたすら歩く。
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38 上松宿
上松宿は、江戸時代から木曽ひのきの集散地として発展した街であった。明治時代に国有林となり、上松駅付近は木材の一大集散地となって発展をとげた。上松町の赤沢自然休養林は、木曽檜をはじめ木曽五木が林立する天然林で、伊勢神宮などの御神木を切り出す場でもある。
宿は、江戸寄りから上町、本町、仲町、下町の4町から成るが、宿場時代の町並みを残しているのは、たびたびの火災による焼失を免れた上町だけとなっている。
ただ、宿場手前まで来て鬼淵鉄橋の先の旧道がちょっと分かりにくくなっており、ループ橋のあたりで道を間違えてしまった。どうにか上松駅までたどり着いたが、途中の旧街道の街並みを見落としてしまった。帰りの列車の時間もあるが、せめて寝覚ノ床は見ておきたいので、駅前の観光案内所で寝覚ノ床までの行き方を確かめる。
寝覚ノ床
寝覚ノ床にたどり着いたら、入り口の臨川寺境内で芋煮会をやっている老人会の集団に出くわした。一杯入っていい機嫌になっているおじさん達にやや強引に招きいれられて、ご相伴に預かる。話を聞くと、近所の方たちで、この寺の先代住職が教鞭をとっていた中学時代の同級生が、毎年ここで集まって芋煮会をやっているとの事。皆さん、人生を心から楽しんでいる雰囲気だ。
寝覚ノ床は、花崗岩の柱状節理でできた奇岩がそそり立つところに木曽川の清流が流れ込む景勝地である。巨大な花崗岩の白と川面のエメラルドグリーンが絶妙な色彩を醸し出していて、なかなか珍しい景観が見られた。
そもそも、浦島太郎がここで昼寝をし、玉手箱を開けて目を覚ましたのがその名前の由来と言われている。境内の宝物館には、なんと浦島太郎の釣竿などが収められていた。
寝覚ノ床から東の方に坂道を少し上って中山道に出たところにバス停がある。帰りの列車にちょうど間に合うバスがあるので、それに乗って駅に戻ればよい、と観光案内所のおばさんにアドバイスされていた。バス停のあるところは、嘗て、寝覚という立場だったところで、たせやと越前屋という江戸時代からの古い茶屋が向かい合っていて、いかにも旧街道といった風情である。
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寝覚めからバスで上松駅に戻り、塩尻であずさ号に乗り換えて帰宅の途についた。今回は、天候にも恵まれ、秋の中山道を存分に堪能して、無事二泊三日の旅を終えることができた。
塩尻は、これまであまり縁がなくほとんど知らないところだったが、江戸時代よりずっと遡る縄文時代~平安時代の歴史がしっかり残されていて、新たな発見となった。
奈良井は、妻籠や馬籠とともにメディアでも紹介されているとおり、宿場の原風景ともいえる情景が残されており、たっぷり風情が感じられるところである。その魅力は、外国人が目をつけることからも容易に推し量られる。日中、観光客であふれているのが、ちょっと残念なところだが、そんな賑わいも、夜の帳が下りるころには取り囲む山々の懐にたちまち吸収されてしまう。
木曽路はまだ半分くらいしか歩いていないが、どこまで行っても山また山、谷また谷、仰ぎ見れば広くて大きな空というぐあいに、圧倒的な自然の存在がそこを占めている。
「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」という島崎藤村の「夜明け前」の出だしのこの数行が、木曽路を余すことなく実に完璧に表現している、ということが実際に行って見て実感できた。
「夜明け前」は、こうした木曽路の自然や風景をあますことなく記すだけでなく、混沌とした幕末の混乱の中で実際どのようなことがあったのかを、江戸と京都の中間に位置する馬籠を舞台に、そこに暮らす人びとの目線で記しているものである。この次は、妻籠・馬籠を歩くことになるが、「夜明け前」に記されている歴史的な出来事とその中での庶民の生き様に思いを馳せつつ、その地を訪ねることが楽しみであり、おおいに期待が膨らむ。