2012/08/30~9/1
(軽井沢)~沓掛~追分~小田井~岩村田~塩名田~八幡~望月~芦田~長久保~和田~下諏訪
夏場の休日、街道歩きに出かける日は、4時ころ目覚め、簡単な朝食をとり、身支度して、始発電車で出かけるパターンが多い。
今回の行程は、中山道一の難所と言われる和田峠を越えて下諏訪まで行くのだが、途中の交通の便悪く宿泊の宿も限られているため、二泊三日で一気に辿り着かねばならない。そのため、事前準備をいつもより入念に行い、始発電車に乗るため余裕を持って家を出た。
ところが、駅で電車を待つ間に、携帯のバッテリーが切れていることに気がつく。めったに使うわけではないが、いざという時には必要となるため、一抹の不安を抱えての旅立ちとなる。心当たりと言えば、二日前、甲州街道の高尾~上野原を歩いた際の小仏峠越え。電波圏外の待受でバッテリーを急速に消耗してしまったのかもしれない。ただ、泊りがけの時は、充電器を持参しているので電源さえあればなんとかなるのだが・・・。
8:10軽井沢着。早朝のせいか人もまばら。駅からは軽井沢の特徴的景色となっている離山が良く見える。お椀を伏せたようなその形は、広重の東海道平塚に描かれている高麗山にどこか似ている。
8:39、今日の出発点沓掛宿に向け、しなの鉄道で信濃追分へ。駅から少し北に行き旧道の借宿あたりから歩き始める。
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19 沓掛宿
沓掛宿は現在の中軽井沢のあたり。戦後の大火で宿場のほとんどが消失。昭和31年には沓掛は中軽井沢に名を変えている。
もともと、沓掛の名は、峠の急な坂道にさしかかった所で草履や馬沓を道祖神や山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれている。ここ沓掛宿は江戸方面に碓氷峠を控えている。同様に、東海道の鈴鹿峠を前にした坂下宿手前の小さな集落や小夜の中山で知られる日坂宿にも沓掛というところがあった。
旧道の借宿(かりやど)は、沓掛宿と追分宿の間に置かれた間の宿で、関所を避けるための脇街道、通称姫街道、の入口でもあることから賑わった。間の宿は、江戸幕府公認の宿場ではなく、立場茶屋などで籠や馬を止めて一息入れるところである。集落は国道から外れているため往時の面影を残しており、信濃路の風情が感じられて、歩いていても心地よい。
集落を過ぎて国道に合流すると、日本橋から40番目の追分の一里塚跡がある。その先、右手の旧道に入って行くと追分宿になる。
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20 追分宿
追分という地名は全国に数々あれど、宿名が追分というのはたぶんここだけ。中山道と北国街道との分岐点で、交通の要衝として繁栄した。飯盛女も多く、文化期には旅籠53軒のうち43軒が飯盛女を置いていたという。
集落の入り口右奥には追分宿郷土館、浅間神社、街道沿いには常夜燈や下流の佐久平の用水路として作られた御影用水がある。
すこし先の昇進川を渡ると、この地をこよなく愛した堀辰雄の記念館がある。その門に使われているのは追分宿本陣の裏門である。本陣は、明治になりその機能を失い、他へ移築された。
記念館の向かいが元禄元年(1688)創業の脇本陣油屋旅館。建物は昭和12年に焼失し、昔と反対側へ移築したものという。つい最近まで現役で旅館を営んでいたが、今年、町おこしのNPOによって文化活動の拠点としてリニューアルされている。
このあたり、現金屋などの古い建物や高札場跡も見られ、地元の人たちが往時の雰囲気を大事に残そうとしている気持ちが伝わってくる。
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宿場の京方入口には、つがるやの建物が残っている。昔の茶屋で、枡形のところにあったので枡形の茶屋と呼ばれている。道路を直角に二度曲げて造る枡形は、城下町や宿場によく見られ、敵の勢いをにぶらせる目的があった。
分去れ(わかされ)
国道に合流するとすぐ先に分去れが見えてくる。常夜灯を初めとして当時のままに多くの道標や石碑が置かれている。分去れ道標には、「従是中仙道」、「従是北国海道」と記されており、右に進む道が越後路へ至る北国街道、国道を渡って左に行く道が京都・三条大橋まで続く中山道である。
この近辺には横断歩道が無いので、交通量が多く道幅が広い国道を危険を犯して渡らなければならないが、渡った先の旧道に入ると、再び静かな街道を気持ちよく歩ける。
すぐのところに中山道69次資料館があり、その街道脇にはミニサイズの「69次の遊歩道」が作られているのが可愛いらしい。
ここから先は、浅間山噴火の跡を残す追分原といわれる。浅間山とそれに連なる山々がどこからでも見られ、コスモスなどの花々が咲くのどかで開放感がある街道は、歩いていてすこぶる心地がよい。
昭和42年に完成した千ヶ滝温水路は、浅間山麓の小諸市御影地区、佐久市岩村田地区を潤す用水の水温上昇施設として作られた。灌漑期間における取水地点で13.2℃の水が、この温水路で1.5℃上昇、その他水路による上昇分も含めて、最終的には18.2℃になって水稲の冷害防止に役立てられた。
緩い下り坂が続く旧道沿いの大山神社の少し先、一里塚の看板が出ている。右手奥へ行くと御代田の一里塚が見える。ここは中山道改修以前の一里塚で、現在の道より奥まった所にあり、保存状態も良い。
一里塚から少し先に行くと、しなの鉄道に突き当たり、中山道は小さな地下道を潜る。地下道を出ると、すぐ右のほうには御代田駅があるのだが、ちょうど目の前に蕎麦屋が見えた。街道歩きで旧道ばかりを歩いていると、食事処がほとんど無くて困ることが多いが、今日はすごくついている。人のよさそうなおやじさんが一人でやってる様子で、お客はほかにはいない。手打ち蕎麦を注文しようと思ったが、大盛りか普通盛りかちょっと迷った。おやじに大盛りはどれくらいのものなのかを尋ねると、「だいたい大盛りは○○グラムで並盛りは○○グラム。」と、そっけない返事。グラムで言われても分からないので、結局、並盛を注文。ここで、大事なことを思い出し、携帯の充電をさせて欲しいとお願いする。すると、「そこっ・・・」と、これまたそっけない返事。しかし、そうしたそっけなさとは関係なく、蕎麦はすこぶる美味であった。これなら大盛りにしておけばよかった、と思ったが後の祭り。ともあれ、無事お腹を満たすとともに、携帯の充電もできたところで、再び先を急ぐ。
街道沿いには様々な花が咲いている。
長い屋敷塀の旧家など眺めながら進んで行くと、やがて県道137号にぶつかったところが小田井宿の入口になる。
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21 小田井宿
小田井宿は旅籠5軒程度の小さな宿場だが、この宿には追分宿のように飯盛り女がいないことで、女性連れや子供連れ、大名の奥方やお姫様達の間で評判が高く、姫の宿とも呼ばれた。
宿場に入ると白壁の塀が続く大きな屋敷や問屋跡など、往時の宿場の落ち着きと面影が残っている。遠くには雄大な浅間山とこれに連なる山々が見え隠れし、のどかな道が続く。
宿入口の石碑群のところには、筆塚も置かれている。
小田井宿の本陣をつとめてきた安川家は、現在もここに住まわれている。宝暦6年(1756)に建てられたという客室は今も良好に保存されているそうだ。
それにしても、ここ小田井宿には宿駅時代の屋敷がしっかり残されており、街道沿いには立派な屋敷がいくつも見られる。
高札場跡の隣が上の問屋場跡で、本陣と同じく安川家がつとめた。
問屋は、隣の宿から送られて来た書簡や荷物を、次の宿の問屋に送り届ける継立業務を担っていた。
下の問屋は尾台家が勤めた。建物は、明和9年(1772)の大火以降のもの。
宿場を出ると旅籠のような古い家が残っており、小田井下町の信号の先には馬頭観音や道祖神などがまとめられている。
岩村田までしばらくは国道沿いの道が続き、近くに佐久インターがあるせいか、新しい郊外型スーパーなどが林立していて、旧街道の趣きはまったくない。
佐久IC東交差点を越えると住吉神社が見えてくる。次の岩村田宿の入口はこの住吉神社を越えたあたりという。参道の階段を上がると、溶岩で作られた常夜灯が立っていて、いかにも浅間山麓らしい。境内には、すごく大きなこぶを作った樹齢700~800年?のケヤキの木がある。こぶは、人が入れるほどの大きな空洞になっており住吉の祠といわれている。
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22 岩村田宿
内藤美濃守15000石の城下町につくられた宿場だったため、高崎宿と同様、城下町の堅苦しい雰囲気が嫌われ、旅人はあまり寄りつかなかった。ここには本陣と脇本陣はなく、寺院坊で大名が休泊する宿場であった。また、善光寺道、佐久甲州街道、下仁田道との追分であったことから、経済の中心地として賑わっていた。
街道沿いには、絵にかいたような立派な屋敷が幾つか並んでいる。
龍雲寺
開山は正中元年(1324)だが、幾多の戦乱を経る中で寺自身も興亡を繰り返して今日の姿がある。昭和6年に発見された骨壷から骨と短刀、袈裟環が出てきたのだが、これが武田信玄の遺骨と確認された。武田信玄は上洛途上に病気が悪化し、そのまま亡くなってしまったが、その死は隠され、影武者が使われていたという。遺骨は生前信玄公と親しかったこの龍雲寺に運ばれ、ここに埋葬されたとされている。
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西念寺
武田信玄が開基となり、永禄3年(1560)岌往上人が開山した。山門、楼門、鐘楼なども堂々としており、立派なお寺である。戦国武将仙石秀久や七代目岩村田城主内藤美濃守正国の墓碑がある。
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商店街を抜けたところの相生町の信号を右折して行くと、すぐに西宮神社がある。岩村田宿は大体このあたりまでだった。
小海線踏切を渡ると、枡型に曲がったところに御嶽神社があって、草生した原っぱに石碑群が残っている。
先に進むと、浅間総合病院に沿って左へカーブした突き当たりに相生の松がある。和宮がここを通った際、野点をされたと云われている。
相生の松を抜け、田んぼの中の道をひたすらテクテク歩くと、街道は落ち着いた家並みの平塚に入る。集落には蔵を持つ家や漆喰の家など古い家が残っている。
街道はやがて平塚から根々井塚原と呼ばれている集落に変わる。道の脇には堀割が続き、街道らしい雰囲気がある。
松本の3代藩主水野忠周(ただちか)の子息で旗本となった水野忠照が、この地域を代々統治するための知行所が根々井にあったことが、このあたり一帯のどことなく瀟洒な風情を今に残すこととなったのであろう。
ふたたび田園地帯をひたすらテクテク行く。
下塚原に入ったところで見かけた瓦葺き屋根のバス停で、いかにもレトロな雰囲気だ。
やや緩い下り坂で小さな川を渡って行くと右手に駒形神社が見えてくる。
駒形神社
狭い参道に橋が架かっており、橋を渡って階段を上ると、左手に本殿がある。本殿は文明18年(1486) の創建と伝わり、重要文化財に指定されている。本殿の中には騎乗の男女2神像が安置されており、この先の望月牧の守り神と伝えられている。
望月牧は、奈良時代から平安時代にかけての官営牧場で、歌枕の地ともなっている。
駒形神社を出ると急な下り坂に変わり、やがて浅科村に入り、その先で大きな五差路に出る。この交差点を渡ると塩名田宿の入口となる。
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23 塩名田宿
塩名田宿は千曲川の東岸にあり、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠10軒ほどの小さな宿場である。普段は穏やかな千曲川だが、増水すると橋が流され川止めの影響を受けることが多い宿場であった。
当時2軒あった本陣の一つ丸山新左衛門家は本陣だけでなく問屋も兼ねていた。現在ここの建物は浅科村の文化財に指定されている。
ちなみに脇本陣は丸山文左衛門家、もう1軒の本陣は丸山善兵衛家で、丸山一族が本陣・脇本陣を勤めていた。
街並みは、本陣・問屋跡のほか、古い家があってなかなか風情がある。
千曲川に近づくと、枡形の道を川原の方へ降りて行く。この辺りは河原宿と呼ばれ、出桁造りで2階に桟を設けた旧家などが数軒残り、千曲の渡しを控えた賑わいの跡を残している。
千曲川は歌にも歌われ、風情のある緩やかな川に思われがちだが、実際には文字通り曲がりくねった急流で知られ、水かさが増すと難所に一変し、旅人を苦しめていたという。実際大きな岩がゴロゴロ転がっている様を目の当たりにすると、島崎藤村の詩などから、どこか郷愁を誘う原風景をイメージしていたものから見ると、別の一面を見た気がする。
今は千曲川をこの中津橋で渡るが、昔は橋を架けても洪水で度々流され、渡し船で渡っていた。川原には、渡し船が荒れた川に流されないよう繋ぎとめていた舟つなぎ石が残されている。
千曲川対岸は御馬寄(みまよせ)と呼ばれていた集落で、古代に馬の牧場があったことに由来している。ここからは緩い上り坂で、坂の途中に一部旧道部分が残っている。再び国道に戻ると右手に御馬寄一里塚跡がある。塩名田宿と八幡宿の間には、ところどころに石仏・石塔がある。
しばらく歩くと下原の集落に入り、古い門のある家が残っている。緩い坂を下りていくと八幡宿の集落が見えてくる。
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24 八幡宿
塩名田宿から八幡宿は、わずか27丁余り(3kmほど)で、中山道の中では最も短い宿間であった。千曲川を挟むうえ、かなりの悪路で通行に難渋するところだったため、一宿を必要としたといわれる。
そもそも信濃路は宿間が短いところが結構多い。因みに、軽井沢宿~和田宿の距離は約49kmだが、10次あるので平均距離はわずか4.9km。間の宿も含めると、旅人にとっては大変助かるものだったはずで、和田峠や碓氷峠などの難所が多い山岳コースにも拘わらず、女性が気候温暖で平坦な東海道よりも中山道を好んだ理由の一つがここにある。
八幡神社
宿場の名前の由来になった神社らしく、立派な随神門、本殿を持つ。貞観元年(859)に開かれたと言われ、平安末期頃から武士の信仰があつかった。随神門は、天保14年(1843)の建立で、梁・桁回りに施された彫刻が素晴らしい。
延徳3年(1491)建立の旧本殿高良社(こうらしゃ)は重要文化財に指定されている。高良社は、高麗社の転訛したもので、朝鮮半島から日本へ渡ってきて、このあたりに定着して牧畜の先駆けをした渡来人に関わる社である、という説があるが定かではない。
八幡宿本陣小松家の建物は建て替えられているが、和宮も宿泊したという本陣の門は当時のまま残されている。
やがて県道に合流し、広い道路に変わってしまうが、しばらく歩いて布施川に掛かる百沢橋を渡ると、右手に再び旧道入口があり、ここから旧道の緩い登り坂を歩く。
このあたり百沢と呼ぶが、ちょっと道が入り組んでいて間違いやすい。たまたま腰の曲がったお婆さんがいたので、望月に行く旧道はこの道でいいんでしょうか、と尋ねたが結局良く分からなかった。少々、周辺をうろつく羽目になったが、結果的には何とか目指す道に出ることができた。
旧道の出口付近に百沢の道祖神と呼ばれて地元で親しまれている道祖神が見えてくる。この道祖神、信濃路でよく見られる双体道祖神の中でも宮廷貴族の装いをした珍しいものである。
路傍に建つ様々な石仏のひとつである道祖神は、集落と集落との境界や道の分岐に建つ路傍の神である。芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。その道祖神も地方によっていろいろあるが、男女一対の双体道祖神は、ここ信濃路の安曇野を中心に多く見られる。ところどころで見かけるが、そのたび、なんとなく心が和む。
やがて江戸から45番目の瓜生坂の一里塚跡が見えてくる。その先、道路は左に曲がっていて、角に瓜生坂百万遍念仏塔が見えてくる。当時ここは眼下に望月宿が見おろせる景色の良い場所で知られていたという。
旧道は狭く曲がりくねった坂道だが、途中には石尊大権現、道祖神、御岳神社、百万遍供養塔、馬頭観音など多くの石碑がまとめられていて、これらは長坂の石仏群とも呼ばれている。
長坂を降りると長坂橋を渡り、さらに曲がりくねった細い道を行くと、やがて望月宿に入っていく。
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25 望月宿
宿場の長さが六町と比較的小規模で、もとは鹿曲川の反対側にあったが、寛保2年(1742)の大洪水でもとの宿場が壊滅的な被害を受け現在地に再建された。特に大きな宿ではなかったが、馬を売買する人で賑わった。
この地は古くから馬の名産地として知られ、御牧ケ原(望月牧)と呼ばれる朝廷の官牧として保護されていた。この地で産出する望月駒は優秀であったと云う。
町並みは、古い旅館や出桁造り、連子格子、卯建のある家など多く残されており、往時の面影をしのぶことが出来る。
本陣は中山道の宿駅設定に功績のあった大森久左衛門が名主・問屋を兼ねて勤めた。今は望月歴史民族資料館になっている。
脇本陣は鷹野家が勤めた。建物は平入り切妻造りで木鼻彫刻が施されている。改築されているが上段の間などは原型を維持しているという。
真山家住宅は、望月宿最古の建物で国の重要文化財に指定されている。問屋兼旅籠の建物は明和2年(1765)の火災の後の明和3年(1766)に再建されたもの。木造平屋建(一部2階)、切妻、桟瓦葺、正面2階外壁が1階より前に張り出している出桁造りで、中山道沿いでよく見られる形式である。
旅館山城屋は、江戸時代に旅籠として創業して今でも現役の旅館。外観は古いが内部は普通の旅館仕様とのこと。
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望月宿の主だったところを見て回ったあと、17時ころ宿泊予約している井出野屋旅館に到着。山城屋の向かいにあり、大正時代の建物だそうで、レトロな感じが漂う宿である。宿のHPでは、「犬神家の一族」や「君を忘れない」の撮影に使用されたと紹介されている。客は他に一人だけと言うことで、ゆったりと湯につかり、汗を流してさっぱりしたところで、すぐに夕食になる。まずは、女将さんに、極冷えビールをお願いする。冷えたビールが乾いたのどを通るたび、暑かった一日の疲れが吹き飛んで行く。夕食は、佐久地方名物の鯉こくや鯉のあらいといった鯉料理が中心。
そういえば、湯につかっているときに急に烈しい夕立があったので、「少しは暑さがやわらいでいい雨だったね」と言うと、女将は「もっと降ってくれないとどうしようもない、農家は、日照り続きで水不足が深刻」とのこと。ところで、寂れた街並みの中で望月歴史民族資料館の立派さが際立っているが、さらにその背後の高台に大きく真新しい立派な建物が見えていた。女将さんに「あれは何ですか」と聞くと、「町役場として建設されたが、平成17年の町村合併で役場機能が移転したため、結局殆ど使われないものになった。もともと貧しい町なのに、全く税金のムダ使い・・・。」と嘆くことしきり。いろいろと地方の町々を歩き訪ねていると、寂れた町に公共施設だけがやたらと立派、というところが結構多く見られる。ちょっと心配になり、お客の入りはいつもこんなものか尋ねると、「週末には結構客が入ります。」とのことだったので少しホットする。
今は、ちょっと寂しさが漂うが、望月宿は嘗ての望月牧との関係が強く、大いに栄えていたところである。望月牧は、平安時代中頃まで官牧として管理され、北と東が千曲川、西が鹿曲川(かくまがわ)、南が布施川に囲まれた御牧原台地にあって、望月はその南端に位置する。ちなみに、これまで歩いてきた塩名田宿の御馬寄、岩村田宿の駒形神社、八幡宿の旧八幡宮本殿高良社、それに望月宿の大伴神社といった望月牧所縁の地点が、望月牧の南端を横切る古東山道という線上で繋がって今に残っているところが、興味深い。
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二日目は、翌日の和田峠越えに備え、和田村の先の峠の登り口のあたりまで行っておきたい。朝食はなるべく早めにということで、お願いしてある。朝から青空が広がるいい天気だが、予報では午後遅くなると天候悪化の恐れあるようで、早め早めに先を急ぐことにする。近頃は、ゲリラ豪雨がしばしば発生しているので、特に用心しないといけない。
井出野屋旅館を出てすぐのところ、宿外れにある大伴神社は、注連縄の架かる鳥居をくぐり、朝一番としては少々きつい石段を登る。朝廷直轄の牧場を維持管理する牧監としてこの地に土着して一大豪族となった大伴氏(望月氏の祖といわれている)を祀る神社とされている。延喜式内社として格式は高く、春日造りの現本殿は延宝5年(1677)の建築である。
望月宿を出ると、道は青木坂という上り坂になる。小学校の前を過ぎるとまもなく国道から右へ下る道となるが、下り口に中山道茂田井入口の説明板が掲げられている。ここから細い道を行くと間の宿として栄えた茂田井集落へ入る。
ここは江戸時代へのタイムトンネルの入口だ。
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茂田井宿
坂を下りてゆくと、白壁が歴史を語る造り酒屋の武重本店酒造と大澤酒造の2軒を中心に、江戸時代の面影が色濃く残されていて、どこを切り取っても絵になる見事な街並みである。
茂田井は望月・芦田宿より大きな村で、良質米の産地として知られる。寛保2年の大洪水で望月新町が道ごと流され、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。江戸幕府は宿場町保護のため、厳しい制限を設けていた。立場より規模の大きな間の宿であったが、幕府から認められた宿場ではなかったので旅籠などは存在しなかった。だが、元治元年、天狗党の中山道通過の際は、茂田井村が小諸藩兵400人程の宿となっている。
武重本家酒造
茂田井には武重本家と大澤家の二つの蔵元があって、そのひとつ、明治元年(1868)創業の叶屋(武重本家酒造)の酒造施設三十棟は、国登録有形文化財に指定されている。
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大澤酒造
もう一つの蔵元の大澤家は茂田井村の名主を代々勤めた家柄で、現在の屋敷には、しなの山林美術館、民俗資料館を併設している。少し坂を登ったところに高札場跡の案内板があり、この高札場あたりが茂田井で一番の賑わいを見せていたという。
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しばらく行くと、左手に高さ2m以上もある大きな馬頭観音の石碑がある。このあたりも、街道沿いには大きな屋敷が並んでいる。
急坂を上ると、茂田井のはずれ左手に一里塚跡の案内板がある。
一里塚跡を越えてしばらく行くと、やがて広い通りに出る。手上田方面に見渡す限り広がる畑を眺めながら坂を下り、しばらく歩くと芦田川が流れ、橋を渡って県道40号線の交差点を越えた辺りが芦田宿入口になる。宿入口には「中山道 芦田宿」と書かれた標識と常夜灯が新しく設置されている。
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26 芦田宿
望月宿より小さな宿だが、難所の笠取峠の東の入口にあるので、休憩する旅人が多かった。和宮もここの本陣で休憩している。
現在の芦田宿は立科町の中心として栄え、旧道左手には立派な立科町役場も見られるが、人出はほとんどなかった。
右手に見える立派な門構えの屋敷が土屋家本陣跡で、この本陣は問屋も兼ねていた。門を入った左手の建物は寛政12年(1800)に建て替えられた客殿で、皇女和宮もここで昼食を取られたそうだ。
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本陣向かい側に脇本陣の一つがあったが、今は小さな脇本陣跡碑が立てられているだけ。
本陣跡から少し歩いた左手にもう一軒の方の脇本陣山浦家がある。その山浦家向かいには、味噌・醤油の蔵元酢屋茂(すやも)がある。江戸時代は街道筋で酢の醸造・販売を営んでいたが、明治の半ば頃から味噌・醤油の醸造を始めたのだという。
その先に卯建の残る古い家が数軒見られる。その中の一つ金丸土屋旅館は、元旅籠屋で今も現役旅館を営んでいる。
急な坂を上り切ると、芦田宿入口碑や石打場公園があり、国道に突き当たる。ここで国道を横切り、新しい常夜灯の置かれている脇を過ぎると、見事な松並木が目に飛び込んでくる。これが江戸時代から有名だった笠取峠の松並木で、現在、国の天然記念物になっている。
笠取峠の松並木
慶長7年(1602)、幕府から拝領した赤松753本を植えたのがここの始まりで、今も残った松並木は東海道御油の松並木と並ぶ見事なものだと言われている。当時の松並木は笠取峠までの15丁(1600m)に植えられていたが、今も約1キロに亘って残されている。
途中には双胎道祖神や歌碑などがいろいろ並んでいる。
東海道では、御油のほかにも大磯、舞阪、知立など、みごとな松並木が残されているが、中山道でこのような立派な松並木に出会えるとは想定外だった。松並木大好き人間としては、しばし旅の疲れが癒される。
やがて松並木は国道に合流し、峠の頂上まできつい登り道が続く。大型トラックなどがエンジン全開で通り越していく横をひたすら歩き続ける。途中、一匹のアブがしつこくまつわりついてきたため、しばらくはハンカチで振り払い続けながら歩く羽目になった。
そうこうするうちに峠の頂上をやっと越え、峠の茶屋の先まで行くと「笠取峠」と記された大きな岩や中山道の標識などがあり、そこで国道を離れて右手に残った旧国道に入って行く。
中山道の旧道は、この旧国道ではなく、つづら折りの旧国道を直線的に横切って長久保宿の方向へ下っている中山道元道のほうだというのだが、道は草薮に埋もれているようで、ちょっと不安なためここは旧国道を下ることにした。
しばらくひたすら旧国道を下り続けると、やがて上五十鈴川橋を渡る。右下に松尾神社が見えてくるが、さらに坂を下って行くと長久保宿の標柱が見えてくる。
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27 長久保宿
東に笠取峠、西に和田峠を控えていたことや、善光寺へ通じる上田道の追分だったことなどから、宿場として比較的規模が大きく旅籠の数も多かった。宿場通りは当初本陣のある堅町が中心であったが、その後の発展に伴い横町が形成され、結果的にL字型の珍しい宿場となっている。
宿入口の松尾神社は京都の酒造神松尾神社を勧請したものだといわれ、祭神は大山昨命(くいのみこと)で酒造守護の神として昔から酒造家の尊信が厚かったという。本殿は三代目立川和四郎常重の作で、万延元年(1860)に再建されたもの。総檜造りで、欄間には龍が巻き起こす波に亀が泳ぎ、鶴が舞い遊ぶ姿などの見事な彫刻があって、町の指定文化財となっている。
本陣のある堅町は、緩やかに下る道が真っ直ぐ延びている。見通しが良く静かな雰囲気で、旅籠らしい旧い家も何軒か残っていて趣が感じられる。
照り返しもあり、強烈な暑さで意識は朦朧としているが、ひたすら真っすぐな道を進むと、一服処「濱屋」があった。明治初期に旅籠として建てられたが交通量減少で開業できなかった濱屋は、現在は無人で出入り自由の無料休憩所を兼ねる民俗資料館となっていて、お茶セット、トイレなどが完備している。綺麗に掃除されていて、風通しも良く、しばし心地よく休憩させていただけた。
本陣は真田氏配下で長久保宿開宿に尽力した石合家が問屋を兼ねて勤めていた。石合家四代当主十蔵道定のもとには真田信繁(幸村)の長女が嫁いでいる。現在の建物は、寛永年間(1624~)に建築され、中山道最古の本陣という。表門や大名の泊まった御殿の間が今も昔のまま現存するという。
門の左に真新しい高札場が復元されている。
江戸時代から昭和初期まで酒造業を営んでいた釜鳴屋(竹内家)の建物は、享保16年(1731)以前の建築と言われ、屋根に本卯建が残る県内最古の町屋だという。
堅町通りは正面で突当り、左折して横町の宿場通りを進む。突当りの右角に「中山道 長久保宿 左ぜんこうじ」の道標が立っている。
このあたりには、昔は旅籠だったと思われる旧家が並び、よねや旅館、濱田屋旅館などが並んでいる。いくつか商店もあるようなので、ちょうどお昼時のため、何か食べ物を調達できないか、探し回る。2軒ほど食堂らしきものがあったが、残念ながら今日は休業中とのこと。たまたま見かけた人に、何か食べ物屋がないか尋ねると、この先の国道に出たところまで行けばあるという。やむなく、自動販売機で買った冷えたお茶を一気に飲み干し、先に進む。
直角に左折した通りが横町で、宿場通りには朽ち果てそうな旧家があったりしてすっかり寂れているが、昔の旅籠らしい家がいくつか見られる。出梁造りの大きな建物は、江戸時代末に建てられた旧旅籠・辰野屋。
やがて突当りで国道142号に合流するが、合流点には「是より長久保宿」と描かれた標柱が立っている。このあたりが宿場のはずれであった。
上田方向には遥か彼方まで田圃が広がっている。
先に進むと、長久保交差点にて国道142号は右からの国道152号を吸収し車両の通行量が一気に増える。
ここで、ようやく食堂を見つけ、ホッとする。食堂に入ると、真っ黒に日焼けした作業員風の集団がいて、私を街道歩き人と見ていろいろ話しかけてくる。話を聞くと、どうやらこの人たちは、ボランティアでこの近くの公園の草むしりをしているのだと言う。東京や横浜のほうから来たと言う人もいて、よく見ると会社員を卒業した顔立ちの人たちばかりのようにも見える。結局詳しいことは良く分からないが、変わった趣味?の人が世の中にはいるものだ。肝心の食事は、ざる蕎麦を注文する。店のおばさんが、帳面を持ってきて、歩き人の私に何か一言書いてくれと言うので、一息入れたいところではあったが、適当に一言記帳する。このあと、蕎麦を食べていると、このおばさんは、なにか得体の知れぬ珍味やらデザートのようなものを出してくれた。
おなかも膨らみ、水分補給もたっぷりとしたところで、再出発。
しばらく歩くと四泊(よどまり)落合の標識が現れ、ここから斜め右の旧道に入るとすぐに四泊の一里塚跡がある。
さらにしばらく歩くと依田川と大門川の合流点の大和橋交差点に出る。ここではちょっと回り道になるが、信号を渡って行ったすぐ先の大門川を落合橋で渡る。この落合橋は、広重の長久保宿の画に描かれているものだが、かつての面影はまったく無い。
その先、依田川を和田橋で渡って再び国道142号に出るが、すぐに青原信号で国道と分かれ、公園沿いの旧道を進んで行く。静かな公園には多数の石碑が並んでいる。
しばらく進むと、左側に珍しい茅葺のバス停が見られる。これは長和町町営バス停で、この先も、ひとつひとつがユニークなバス停に出会うことになる。
ここから旧和田村に入ることになるが、宿場はまだ先になる。途中、石碑群があり、天王夜塔や西国三十三ヶ所碑などが建っている。
ユニークなのが、この地の住民の希望で最近造られたというメス・オス2体のミミズ双体道祖神。ミミズは農業にはかかせない大切な物として祀られたという。
街道沿いには、この先もいろいろな石碑が並ぶ。
三千僧接待碑は、左から馬頭観世音、大乗妙典、南無阿弥陀佛、大乗妙典、庚申塔、三千僧接待碑。
三千僧接待碑とは諸国遍歴中の僧を無料接待するという案内碑のようなもので、当初、諸国遍歴の僧侶一千人への供養接待を発願したが、結願できたので、三千僧接待に改め、碑の一の字を三に改刻した、とある。たしかに、よく見ると改刻の痕がわかる。
三千僧碑から少し先には馬頭観音や中山道碑が並んで見られる。
やがて木立の中に若宮八幡が見えてくる。ここには鎌倉時代からこの辺りを支配してきた大井信定父子の墓が置かれている。祭神は仁徳天皇、奥の本殿は享保6年の建立で茅葺き屋根のもの。
八幡の先左側に、まだ新しい芹沢一里塚跡があり、江戸より49里となっている。
一里塚跡を出てしばらく歩くとバス停芹沢先でやや急な上り坂に変わる。左手に「是より和田宿」と彫られた大きな自然石が見えてくるが、和田宿の中心はここよりまだ先である。
碑を越えると右手に小中学校が並んでいる。どことなく懐かしさを感じさせられる風景である。
その脇に和田埜神社鳥居があるが、本殿はずっと奥にある。
学校の先、道が大きく右に曲がると、角に八幡神社が見えてくるが、たまたま工事中で残念ながら何も見られない。
このあたりでは、幾つかのバス停の脇には水場があり、道祖神が置かれているところもある。
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神社を過ぎて追川橋を渡ると、いよいよ和田宿に入って行く。
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28 和田宿
中山道で最も標高が高い和田峠(1600m)を控え、また次の下諏訪宿まで五里十八町(約22km)と距離があったため、上り下りの旅人でおおいに賑わった。文久元年(1861)の大火で宿の3分の2が焼失してしまったが、和宮の通行が控えていたため突貫工事で復旧した経緯がある。現在も旧本陣や多くの旧家屋が修理保全されて残されている。
元旅籠屋河内屋は、江戸時代後期の様子をそのままに残している貴重な建物で、現在は和田村が管理していて街道資料館のようになっている。
屋を過ぎると道沿いには問屋跡や旧旅籠など往時の趣を残す建物がいくつも並んでいる。
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和田宿本陣跡は、一時和田村役場(昭和59年まで) として使われていたが、昭和61年に解体修理復元され、本陣跡として一般公開されている。当時の本陣は大名が泊まる座敷棟と本陣の所有者が寝泊まりしていた生活棟のいわゆる居室棟に分かれていたが、現存しているのは居室棟の方で、皇女和宮が宿泊したという上段の間などがあった座敷棟は失われてしまった。
バスターミナルの右側の少し奥まった所には、脇本陣翠川家があり、上段の間、二の間などが残っている。
本亭旅館は、街道歩き人には有名な和田宿で唯一の旅館で、昔は庄屋だった。「中山道和田宿旅人御宿本亭」の看板がかけてあるが、残念ながら今年3月で廃業していた。かねてから、和田峠越えの際には、この本亭に泊まるつもりでいたのだが・・・。聞くところによると、家主が高齢化したことに加え、建物が老朽化して当局から営業許可が出なくなったためらしい。
宿はずれの高札場跡、バス停鍛冶足付近で和田宿もだいたい途切れる。
和田宿内ではすべてのバス停がユニークで、一つ一つ個性的なのが素晴らしい。以下にその一部をまとめてご紹介。
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ここで旧道はいったん国道142号に出るが、交差点には日本橋から50番目の一里塚跡がある。
旧道は国道を横切り、左に入って依田川沿いの集落の中を行く。しばらく行くとまた国道142号に合流し、緩い上り坂が続く。車に注意しながら進むと、国道沿いにはドライブインが何カ所か見られるようになる。
国道はゆっくり上っているが、しばらくして唐沢橋を渡った左手に旧道入口の看板が立っている。この周辺、たまたま道路工事中で、警備会社の人の自信なさそうな道案内に従い、このまま国道を進むことにする。後で分かったが、旧道のほうに問題なく行くことができたはず。聞く相手を間違えた。
本来なら、旧道には、左右に塚が残る貴重な唐沢の一里塚があるのだが、残念ながら見られなかった。かわりに、旧道と国道が合流するところにあった唐沢一里塚碑を写真にパチリ。
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さて、ここで、今日の宿泊予定の宿に電話をする。この先、電波圏外で携帯が通じなくなるので、迎えの車と落ち合う場所と時間を決めるために、この地点で最後の連絡をするよう言われていたからだ。すると、電話に出るやいなや「今、こちらはものすごい雨になっていて危険なため、すぐに迎えに行くので、少し戻ったところにある唐沢バス停に避難して待っているように」と、やや緊迫した声で指示される。今日の天気予報では、天候不安定で午後からところにより激しい雷雨になることになっていた。確かに真黒な雲が急速に広がり、雲行きはかなり怪しいものの、ここはまだそれほどの雨にはなっていないので、自分としてはもう少し先まで行きたかったのだが、山のことゆえここは素直に指示に従う。
どうやら、激しい雷雨はゲリラ特有のピンポイントだったらしく、この辺りは少し降っただけで、大したことにはならなかった。迎えを待つ間、ストレッチをやったりして時間を過ごしていると、たまたま、先日軽井沢で世話になったI氏からメールが入っていることに気付く。次は和田峠越え、という話をしていたため、心配してくれていたようだ。あたりに人気はない避難小屋代わりのバス停で、一人迎えの車を待つシチュエーションゆえ、友の気持ちがいつになく有難く感じる。感謝の気持ちを込めて、無事の旨、返信。
そうこうするうち、30分ほどして迎えの車が到着。早速宿に向かうのかと思ったら、いい温泉があるからと、有無を言わせず近くの町営の温泉に案内される。最近、あちこちにできている山里の温泉場は、どこも混んでいるという印象だったが、ここはそれほど混んでおらず、湯の具合も良く、今日一日の疲れも取れて大満足。湯上りに缶ビール一本飲み干して気分一新したところで、20kほど離れたところにあるという今日の宿泊地に向かう。
そもそも、今日の宿は、本命にしていた和田宿の本亭に電話したときに電話が自動転送されて、行きがかり上泊まることにしたところで、和田からはだいぶ離れたエコーバレーというところのペンションだ。迎えに来てくれたのは、そのオーナで76歳の現役スキー指導員ということだが、途中、途切れることなくいろいろこの地の話などをしてくれる。ペンションのある別荘地に入ると皆顔見知りらしく、出会う人に運転しながらいちいち挨拶を交わす。先ほどもらった名刺には、いろいろな肩書きが書いてあるところを見ると、この方はどうも地元の名士のようだ。
ここ長和町では、旅人の利便のため、宿泊施設の送迎サービスが活用されている。公共交通の便が悪い上、宿泊施設が限られているので、車を使わない旅人には極めて不便な地である。ほっといたら、美ヶ原や霧が峰など周辺の名が売れた観光地に行く車の通過点にしかならないところだが、この送迎サービスにより、旅人は好きなところで好きなだけ過ごすことができ、なおかつスキー場や別荘地に集中している宿泊施設は客を確保できて、町全体が潤うことになる。加えて町が主体になって、中央分水嶺トレイルなど、いろいろなイベントを企画して一生懸命客の開拓をやっている。小さな田舎町だが、長和町は頑張っている!という印象。
ペンションに着くと人のよさそうなオーナの奥さんが出迎えてくれ、すぐに夕食。ほかに客はおらず、ご夫婦と会話が弾む。急に寒くなったので、熱燗を頂いたりしたため、夕食の内容は良く覚えていないが、酒の肴にと出してくれた自家製青唐辛子の素焼きというのが、ものすごく辛かったことだけが記憶に残った。
夜もふけたので、翌日の昼食用おにぎりをお願いし、部屋に戻って爆睡する。
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翌朝、いつものように4時過ぎに目覚めるが、朝食は7時から。窓から星空を眺めたり、ゆっくり身支度をしたりして時間を過ごす。幸い、青空が広がり、天気は上々のようだ。
7時半に宿を出て、男女倉口の和田峠登り口まで送ってもらう。
今回は、和田峠に熊出没の事前情報があったため、用意してきた熊避け用のベルを身につけ、辺りに気を配りながら山道を行く。
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<和田峠>
中山道最大の難所といわれる和田峠は、江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿との間隔が5里と長い。このため、嘗ては何箇所か避難所や茶屋が設けられ、その跡は東餅屋、西餅屋、接待などという地名として残っている。しかし、現在、この区間で飲食できるのは唯一東餅屋のドライブインのみであり、下諏訪に着くまでの一日分の食べ物と飲み物をしっかり持参することが必須だ。
中山道旧道の和田峠登り口は、新和田トンネルへ向かう国道と旧国道が分岐する地点、観音橋横である。中山道の標柱が2本と案内板が立っている。
山道を少し行くと、まもなく避難小屋が見えてきて、隣に33体観音が立ち並んでいる。峠を往来する人馬の安全を祈ったものであろう。
途中の山道は、所々に標識がきちんと設置されており、旧街道の山道としては道幅も結構広く、ゆったりと歩けた。
しばらく歩くと一度国道に出るが、向かいに接待茶屋(永代人馬施行所)跡が残っている。接待茶屋とは、無料で人に粥を、馬に煮麦を施すための施設であった。
建物脇には湧き水が汲めるようになっている。この水は時間を経ても痛まないと言う話を聞いていたので、山中の飲み水としてペットボトルに補給する。
接待茶屋からまた山道に入って行くが、途中にも避難小屋がある。その小屋を過ぎると、苔むした大きめの石がごろごろしている坂に変わってくる。
苔むした道が途切れて、しばらくすると広原の一里塚跡が見えてくる。日本橋から数えて52番目のもので塚跡が1基だけ残っている。
道は国道と合流して進み、東餅屋のドライブインに出る。江戸時代には五軒の茶屋があって繁盛していたが、すべて廃業してしまったという。しかし立場跡にはドライブインが復活していて、名物の力餅が売られている。折角なのでここで力餅を戴き、店の親父に街道の様子などを聞きながら、しばし休憩をとる。見ると、店内にはみやげ物の黒曜石がたくさん並べられている。この地域は黒曜石の原産地として有名で、和田峠直下の男女倉(おめくら)遺跡群では石槍などが出土しているという。
この先、国道はY字路になり、国道142号は左に、右はビーナスラインにつながる。旧道は、この分岐ポイント手前斜め左の石畳風舗装路に入るが、突き当たりでふたたび国道142号を横断し、すぐ正面の山道に入る。
やがて旧道は沢水が流れる背の低いトンネルをくぐり、ビーナスラインを横断する。
トンネルを出ると、ビーナスラインにぶつかってしまうが、実はここからこの道路を3度も横切ることになる。
和田峠頂上
そうこうするうちに、和田峠頂上に達した。中山道一の難所ということだったが、比較的幅広でなだらかな登山道だったので、気持ちよく歩いているうちにいつの間にか着いたという感じ。
頂上にある説明書によると、冬場の積雪量多く、この峠越えは想像を絶する厳しさだったという。
現在、峠にはわずかばかりの平坦部が見られ、近くには案内標識、賽の河原、御嶽遥拝所跡碑、馬頭観音などが置かれている。
中央分水嶺トレイルの案内板もあり、矢印の示す方向に10kmほど行けば、王ヶ頭や美ヶ原に辿りつける。
頂上からは、遠くに諏訪の町が見える。
峠を出るとあとは下諏訪に向かってひたすら下るだけだが、深い草に覆われて、歩くところが分からないような草道に始まり、次第にガレ場になる。急坂なうえ道幅が狭く、和田側からの登り道とは全く趣きが異なる厳しい山道だ。前日、ペンションのご主人に、短パンはやめたほうがいい、と言われていたが、なるほどと納得。
頂上にポストのようなものがあり、その中に地元ボランティア作成A4版1枚ものの両面カラーの旧道ガイドが置いてあった。もともと事前にこのルートは詳細に調べていたが、いまいち自信が持てないところが何箇所かあって、やや不安が残っていた。その点、地元の方が作ったものだけに、一見したところ分りやすく、信頼できそうだったので、この先はこれに従って行くことにする。ところどころにある下諏訪町教育委員名の白杭も、道を見失ってしまうような要所要所で意外に頼りになった。
森の中の峠道を下ると石小屋跡がある。厳冬期の通行には人馬供に難渋を極めたという。そこで下原村の名主勝五郎は郡奉行に願い出てここに石積の避難小屋と荷置場を築いたという。
森の中の峠道をひたすら下り、先で国道142号を横断し、ガードレールの切れ目からふたたび峠道に戻る。
清水が流れる峠道を下ると国道を再び横断し、向かいのガードレールの切れ目から旧道に入る。沢のような道なので、ひとたび雨が降ったら往来は相当難儀なことになるだろう。
途中、木立の中に牛頭天王や道祖神を過ぎる。
やがて正面に緑の広場が広がる西餅屋に至る。
西餅屋も東餅屋同様、江戸時代は人気の立場として知られ、ここには4軒の茶屋があって繁盛していたという。 下り道で唯一の広々とした開放的な場所で、なんとベンチもあってお弁当を広げるにもってこいの場所だ。これを逃したら弁当を広げて食べられるところが無さそうなので、ここでおにぎりを戴くこととした。
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ベンチで、昨日の宿で用意してもらったお弁当を広げる。おにぎりだけと思っていたら、おかずやデザートなどが少しずつだがいろいろ詰まっていて、山歩きのことを熟知したオーナ夫婦の細やかな気遣いが伝わり、感謝感激。
西餅屋立場跡を出るといったん国道に出てしまう。事前調査資料ではここからの旧道は極めて危険であり、国道を歩くことが勧められているが、峠の頂上で手に入れた地元ボランティア作成の最新のガイドに従い、国道左手の下の方にいく本来の旧道に向かい、ガードレールの切れ目から崖道を下りていくことにする。街道はこの先もまだまだ下諏訪まで下りが続くが、峠はここで一応越えたことになる。
下り始めるとすぐに53里目の西餅屋の一里塚があった。
一里塚跡の先はガレ場になり「是より崖道 足元注意」の標識がある。片足くらいの幅しかない道で、崖地には丸太の桟(かけはし)が架けられている。左側は崖になっており、石がゴロゴロしていて、標識どおり注意しないとちょっと危険。
和田側からの広々とした山道に比べ、峠の頂上からここまで下ってくる道の険しさはかなりのものだ。京方から、この道を上って行った和宮一行は、さぞ難儀したことであろう。
しばらくこのような山道を下ると、再び国道に合流するが、この辺りでついに雨が降り始める。さいわい、山中の険しいところをひととおり越していたので、濁流の沢下りをするような最悪の事態は免れた。
それにしても、山道も危険だが自分で注意しさえすれば危険は回避できるのに対し、歩道の無い国道ではもっと身の危険を感じさせられる。大型トラックがものすごい勢いですぐ脇を通り過ぎるたびに、身構えなければならない。
浪人塚
ずーっと歩道のない国道を歩いたところで、左の側道のところから国道下をくぐって右に出ると、正面に水戸浪人塚碑が置かれている。ここは、元治元年(1864)、水戸浪士(天狗党)千余名と待ち受けた高島・松本両藩連合軍が戦った古戦場にあたる。
<天狗党>
幕末の水戸藩では尊王攘夷派と門閥派(佐幕派)の対立が激化。攘夷派は天狗党として挙兵するも、幕府の弾圧によって次第に追い詰められる。天狗党は、武田耕雲斎を総大将として尊皇攘夷の志を朝廷に奏上すべく上洛を企てる。道中、幕府追討軍や幕府の命を受けた諸藩と闘いながら西上するが、鵜沼宿の先の長良川の対岸には大垣藩、彦根藩、桑名藩の3藩兵が陣を敷いているため、戦いを避けて中山道を離れてやむなく北上。飛騨を通り、12月末の過酷な雪中行軍を進めて越前まできたところで、頼みにしていた一橋慶喜が追討軍の指揮を取っていると知り、ついに力尽きて降伏した。翌年、幕府の命によって約350人が斬罪にされるという、幕末の混乱の中でのなんとも悲惨な結末となった。
京に向けて先を急ぐ天狗党は討ち死にした浪士をここに埋葬していったが、後に高島藩がここに塚を造り浪士軍の戦死者を祀ったのである。
天狗党の話は、島崎藤村の「夜明け前」でも語られているが、中山道を歩いていると、この先随所で所縁のものを目にすることになる。
浪人塚からその先の工場裏を通り、樋橋を渡ると再び今の国道に合流するが、その手前の山の斜面にひっそりと小さな社があった。山ノ神一の御柱と記されていて、いよいよ下諏訪に近づいたという感が強まる。
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すこし先には立場で賑わっていた樋橋にでる。本陣跡碑が立っていて、ここは立場の中でもかなり大きく、間の宿のような役割もしていたという。
さらに行くと大きな焼却工場があり、旧道はその中を通っていてそこには樋橋一里塚があるのだが、私有地の中なので遠慮し、引き続き国道を歩く。
しばらく国道を行き、地下道で国道を渡ると町屋敷に入っていく。
御柱に囲われた道祖神が見られる静かな街並みを進むと、やがて木落し坂が見えてくる。
木落し坂は7年に1度行われる神事の時に、巨大な材木を上から滑り落とす豪快な神事で知られ、怪我人も続出するという。テレビで見た感じとはかなり違い、上から見下ろすとほとんど絶壁のような急坂で、大木と一緒に滑り落ちたら相当危険であろうと実感する。説明書には斜度45度の100mの崖と書いてある。ほんとにこれは半端じゃない。
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落合橋の先、旧道は左手に入る。砥川沿いの旧道には静けさが漂っている。
山裾の静かな道を10分ほど歩くと、またまた国道に合流するが、合流点の左側、坂の上が注連掛けと呼ばれる場所である。御柱に注連縄を掛けて清め、休ませる場所なのだそうだ。
国道に出てしばらく歩くと馬頭観音などが見られるが、その先の山の斜面に御柱で囲まれた「山の神」が祀られている。いかにも諏訪大社を間近にした光景だ。
もともと、日本では死者は山中の常世(とこよ)に行って祖霊(それい)となり子孫を見守るという信仰があり、山ノ神は、農民にとっては、春になると山から下りて来て里に実りをもたらす神、山民にとっては、自分たちの仕事の場である山を守護する神、とされる。
ふたたび旧道に入ると、ここにも御柱で囲まれた道祖神がある。
旧道は上り坂になり、先で国道に吸収され、慈雲寺の大きな本堂の手前を斜め右の下諏訪旧道に入る。旧道右には堂々とした杉並木が現れ、木立の間からむこうに諏訪大社下社春宮が垣間見える。
諏訪大社・春宮
ここに来ると、これまでの街道とはうって変わって、多くの観光客で賑っている。
4箇所の境内地をもつ諏訪大社の、ここは下社春宮である。
春宮には主殿として幣拝殿がある。これは御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったもので、二重楼門造りと呼ばれる。下社は御神木を御神体としているので本殿が無く、幣拝殿の両横に一の御柱、二の御柱がしっかりと立てられており、三、四の御柱は幣拝殿の後ろに立てられている。幣拝殿の前には大きな注連縄を飾った社殿、その前には一対の狛犬が建っている。これらの造りは春宮、秋宮とも全く同じである。
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春宮境内から左手奥に入り、浮島神社横を通って浮島橋を渡った畑の奥に、万治の石仏が鎮座している。岡本太郎が激賞したというこの石仏は、大きな自然石の上に首がちょこんと乗っているユニークな石仏として人気があり、訪れる人も多い。
少し歩くとつい先ほど通ったところで見えていた慈雲寺の入口が見えてくる。参道階段左には庚申塔や三界萬霊塔が並び、右手には竜頭水口がある。寛政頃の作で、今でも滔々と清水が流れている。
慈雲寺の先少し歩くと、右手民家前に小さな下諏訪の一里塚跡がある。日本橋から55番目の一里塚になる。
その先の左手に御作田社があり、境内に柵で囲われた小さい水田がある。春宮の御田植神事はここで行われ、収穫された稲は春宮の神供として捧げられる。神社の玉垣からは清水ではなく、温泉が湧いている。
湯田坂を上ると、途中に旦過(たんか)の湯がある。この湯の手前辺りが下諏訪宿の江戸口で番所が置かれていた。
いよいよ下諏訪宿に到着。
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29 下諏訪宿
下諏訪宿は、諏訪大社秋宮の門前町として栄えた。また甲州街道の終点でもあったので、甲州街道からも人々が大勢集って賑わい、宿場の規模も大きかった。中山道唯一の温泉場としても知られ、和田峠を越えてきた旅人にとってはくつろぎとなる宿場であった。
さきほど、春宮周辺も賑やかだったが、秋宮周辺はさらに観光客が多く、大変な賑わいである。
児湯を過ぎると問屋を兼ねた岩波本陣跡が残されている。庭の造りは中山道随一と言われ、文久元年(1861)和宮はここに宿泊している。
元治元年(1864)樋橋で幕府軍に勝利した水戸天狗勢は、無人と化した下諏訪宿に入り、ここに宿泊している。
本陣跡を出ると、その先は「中山道と甲州道中の合流点」で、石碑が建てられている。
諏訪神社・秋宮
4箇所の境内地をもつ諏訪大社のここは「下社秋宮」である。春宮と同じく、御神木を御神体としているので本殿が無く、幣拝殿の両横に一の御柱、二の御柱がしっかりと立てられており、三、四の御柱は幣拝殿の後ろに立てられている。
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諏訪大社は、全国各地にある諏訪神社総本社であり、国内にある最も古い神社の一つとされている。歴史は古く古事記の中では、出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれている。
諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がなく、代りに秋宮は一位の木を、春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝している。そもそも古代の神社には社殿がなかったという。
<下諏訪の温泉>
往時、下諏訪宿は中山道で唯一温泉のある宿場としても人気があった。宿内には旦過の湯、児湯、綿の湯の三ヶ所があった。子宝の湯と云われた児湯と旦過の湯は地元専用だった。
当時、旅籠に風呂は無く、宿泊の旅人は綿の湯に浸かった。その昔、上社の地に住む諏訪明神建御名方神のお妃八坂刀売神が、日頃使っていた化粧用の湯を綿に湿し湯玉にして下社の地へ持ち帰り、その湯玉を置いた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられた。神の湯であり神聖で、やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといい、湯口の清濁は下社七不思議の一つに数えられている。旦過の湯及び児湯は現在温泉銭湯になっている。
今回、和田峠を越え、春宮・秋宮を参拝して帰路に着く前に、旅の汗を流して寛いだのは菅野温泉(すげのおんせん)。入り口が非常に分りにくいけれど、大きな楕円形の湯船にたっぷりの湯がかけ流されている。全体的に実にレトロな趣も相俟って、心から寛げるところであった。ちなみに、現在10箇所ほどある下諏訪の温泉銭湯の入浴料はどこも大人220円。
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二泊三日の信濃路の旅は、天候にも恵まれ無事目的地に到達できた。思っていたより早めに到着したので、諏訪大社春宮、秋宮ともしっかりお参りでき、温泉に浸かってゆっくりと汗を流すことも出来た。今、中山道歩きと併行して甲州街道を歩き始めているので、近いうちにふたたびこの地に来るのが楽しみだ。
中山道は、この次はみどころたっぷりの木曽路に入るが、詳細のプラニングはこれからである。
この夜は上諏訪で花火大会があるらしく、ここ下諏訪駅もどことなく賑いが感じられる。タイミングよく来たあずさ26号に乗り、ほろ酔い気分の中で、この三日間のことを思い返したり、次の旅のことに思いを馳せたりしながら、家路についた。

































