高崎~軽井沢

2012年7月27日~28日 
高崎~板鼻~安中~松井田~坂本~<碓氷峠>~軽井沢
高崎から中山道歩き旅を再開。今回は、碓氷峠を越えて軽井沢まで行くので、峠の手前の磯部温泉で一泊の予定である。
朝からいい天気・・・というよりも、連日、熱中症注意報が出される猛暑日で、後日写真を見ると、写真から熱気が伝わってくるほどだ。
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13 高崎宿
高崎宿は、慶長3年(1598)井伊直政により城が築かれた城下町であり、中山道随一の人口を誇った。しかし、宿場町としては本陣も脇本陣もなく、旅籠の数も少なくて、宿場町というよりは物資の集散地・商業の町として賑わった。

中山道は駅西口を真っ直ぐに行き、新町交差点で右の方に行くのだが、今回は交差点を通りすぎて高崎城のあった城址公園まで行き、濠に沿って進んだ。
少し行った高崎の総鎮守高崎神社の先で、中山道に合流していく。

街道沿いの岡醤油醸造は、天明7年、近江商人の 岡忠兵衛氏が大間々に醤油醸造所を開き、明治30年、四代・宗一郎がここに支店を開いたもの。今も当時の建物を残し、レンガの煙突を背にした店舗は趣がある。


岡醤油醸造のある常磐町信号を右折して行くと、道は君が代橋で鳥川を渡る。

追分~上豊岡
鳥川を渡ってすぐに右折して行くが、広重の高崎の絵はこの辺りだと言われている。この先、草津街道との追分のところに小さな自然石の道標がある。「右はるなみち、くさつみち」と記してあり、古くは信州みちと呼ばれていた草津みちになる。左に少し行くと八坂神社があり、背の高い下豊岡の道標が立っている。ちょっと手前にあった道標も、もとはここにあったという。


豊岡小学校を過ぎると若宮八幡宮がある。平安末期の永承6年(1051)、奥州の安倍氏鎮圧に向かった源頼義・義家父子が建立したというから長い歴史を持つ。


しばらく進んだ左側の建物は上豊岡の茶屋本陣で、つい最近まで個人の住居として使われていた。茶屋本陣を代々所有してきた飯野家では、居住のために内部の改装を行ってきたが、上段の間と次の間だけは江戸時代のまま手を加えていないという。大名や公家の休憩場所で、和宮御下向の際、公卿などが客人として立ち寄っているとのこと。


上豊岡~板鼻
街道が国道18号と合流する手前に、古い養蚕農家の建物が建っている。


碓井川の対岸に達磨寺が見えるので寄り道する。元禄10年、中国の渡来僧・心越禅師が開山したもので、方位方災を除くという北斗星を神格化した北辰鎮宅霊符尊と達磨大師を祭っている。


山門のところまで行くと、真っ直ぐ見上げるような長くて急な石段が延々と続いている。頭がくらくらするほどの猛暑の中、とてもじゃないがこの階段に挑戦する気力は湧いてこない。

国道に戻ると、右手にひときわ目立つ鳥居が目に入る。


八幡宮本殿は鳥居から600mも先のJR線路の向側にあるが、折角なので寄道してみる。上野國一社八幡宮は、天徳元年(957)に石清水八幡宮を勧請して創建された。その後、 源頼義・義家父子や頼朝、さらには新田氏、足利氏、武田氏等関東源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていたという。


この先、板鼻下町信号のところを右に折れ、すぐ左手の細い道に入って行くと次の板鼻宿の入り口になる。 
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14 板鼻宿
宿場はずれの碓氷川の渡しは、舟は使われず歩(かち)渡しで、大変な難所であった。増水の川留めで多くの旅人が宿に逗留するために宿場は繁盛した。又、城下町高崎宿の肩くるしさを避け、ここの宿に泊まる旅人が多かった。
ちなみに、歩渡しには、肩車越しと蓮台越しがあり、人足1人12文で、蓮台越しは平水の時(普通水量)は6人、中水の時は8人または10人、高水の時は12人がかりであった。

板鼻川橋を渡った少し先に、双体道祖神が見られる。これは信州に多く見られる形の道祖神で、女神が瓢、男神が盃を持ち仲睦まじく肩を寄せ合っている。


旅篭など往時をしのぶ建造物が多く残っており、越屋根が乗った養蚕農家形式の家もところどころに見られる。


また、あちこちに庚申塔、地蔵、馬頭観音、案内板などが置かれている。


本陣の木島家があったところに、今は板鼻公民館が建っており、入口右に本陣跡を示す標柱、入口左に板鼻宿碑がおかれている。


ここでは水があふれんばかりに流れている用水路が目につく。これは慶長年間に開窄された用水路で、鷹之巣山麓から烏川まで延べ15kmに及び、昔は各家庭で野菜を洗ったりする生活用水だった。英泉は板鼻宿として宿場東の板鼻堰用水路に架かる寒熱橋(かねつはし)を冬景色にして描いている。


鷹之巣橋~中宿~下野尻
鷹之巣橋の手前に、鷹巣城の城主だった依田六郎の石柱が建ち、その脇には常夜燈や御神燈などが置かれている。この橋の北側に鷹之巣山があり、頂上には中世の鷹之巣城(板鼻城)があった。


橋を渡るとすぐに中宿で、少し先の道路際にどっしりとした庚申塔が建てられている。


中宿を歩いて二手に分かれるところを右に行くと、そのうち碓井川の土手に突き当たる。昔はちょうど突き当たった所が渡し場で、歩渡しで対岸に渡っていたが、今は久芳橋を渡る。


橋を渡っていると東邦亜鉛の化学プラントの異様な姿が見える。安中公害訴訟で有名になった景色で、安中というと、ついこのイメージを思い浮かべてしまう。
橋を渡って、下野尻の交差点を左折していくと安中宿に入る。
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15 安中宿
安中は元々東山道時代から野尻の郷として旅人の往来があった。安中と呼ばれるのは戦国時代、永禄2年(1559)に越後の安中忠政がこの地に築城してからのことであった。慶長8年(1603)中山道が整備され安中宿が成立したが、宿場としては大きく発展することはなかった。
現在の宿内には旧家や史跡なども多く、案内板もちゃんと整備されていて、地元の人々が維持保存に力を入れている様子がうかがえる。

下野尻~杉並木
伝馬町信号交差点を右折し大手坂を上ると、坂の突当りに明治44年に再建された旧碓氷郡役所がある。ほとんどが当時のまま保存されているという。


郡役所隣りの安中教会は、明治11年、新島襄より湯浅治郎をはじめとする地元の求道者30名が洗礼を受け、創立された群馬県で最初の教会。入口から見える礼拝堂は、新島襄没後30年記念に建てられた新島襄記念会堂。同志社大学創始者でもある新島襄は江戸神田一ツ橋の安中藩邸で生まれた。21歳で渡米し、キリスト教徒となって帰国後、父母の住む安中へ帰郷し、キリスト教を伝道、安中教会を設立した。


郡役所の前の大名小路には、安中藩士の住居が並んでいたという。
大名小路の先に行くと、旧安中藩郡奉行役宅がある。郡奉行とは安中藩の民政を司る役職で、3人の奉行と4人の代官がいて、民政全般を担当した。曲がり屋形式で茅葺き、武者窓砂ずりの壁など地方武家屋敷の姿をとどめている。


すぐ先、安中藩武家長屋(四軒長屋)が復元されている。かつて安中城内には家臣の屋敷が建ち並び、その一部は長屋であった。文字通り長くて、なかなか珍しい建物だ。


蓮久寺のところで左に曲がり、旧道に戻る。街道沿いはどこか落ち着きを感じる街並みで、宿場らしい旧家もいくらか残っている。

市役所の先に醤油醸造の有田屋本社がある。有田屋3代目当主湯浅治郎は明治5年、日本最初の私立図書館便覧社を創設した。明治20年の火災で全焼し、今は有田屋本社向かいに便覧舎跡碑を残すのみとなっている。湯浅治郎は安中教会創設にも大きな役割を果たしている。(下の写真は有田屋本社)


少し先に行くと、新島譲旧宅入り口碑がある。この旧宅は両親が住んでいた所になる。

杉並木~松井田
国道18号を横切ってその先に杉並木が残っている。天保年間には700本くらいあったという。


杉並木が途切れ、旧家がいくつか見られるところに、間の宿・原市(はらいち)村の戸長役場跡があり、郷原という所にくると、右手に日枝神社、隣に自性寺が見られる。

旧道が国道18号線に合流するところには妙義山道の常夜燈が立っており、すぐ先でふたたび国道から左に分かれ、石碑群の横を下って行く。


電車の時間が気になるので、この先松井田駅に向かって急ぐ。今日は、松井田から電車で一駅の磯部に戻り、温泉宿で一泊することにしている。
それにしても、安中というと化学プラントと公害のイメージしかなかったが、旧道を歩いてみたら、これまで抱いていたイメージは一変した。街道沿いの街並みには往時の趣を残すものが多く残されており、穏やかな歴史を感じることができた。
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<磯部温泉>
磯部温泉は地図の温泉記号の発祥地として知られている。妙義山を借景として清流碓氷川沿いの風光明媚な場所に古くからの温泉街が開けている。中山道を往来する旅人や、近在からの湯治客で古くから賑わっていた。
宿について部屋に通されたら、冷房がしっかりきいていて、生き返った気分になる。途中で到着予定時刻を知らせたので、一時間前から部屋を冷やしてくれていたそうだ。猛烈な暑さの中を朝から歩いて来たので、おもてなしの心を格別有難く感じる。
今日はちょうどロンドンオリンピックの開会式にあたり、テレビ番組はオリンピックモード一色になっている。
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7月28日、磯部から電車で再び松井田まで来て、歩き旅を再開する。今日は、いよいよ中山道最初の難所碓氷峠を越える。

16 松井田
宿場の規模はそれほど大きくないが、妙義山への追分があることから、妙義山詣での人々でも賑わっていた。
駅からまず中山道下町交差点に向かい、そこから街道をしばらく行くと、補陀寺がある。そこには、松井田城の最後の城主大道寺政繁の墓がある。豊臣秀吉の小田原征伐の際、大道寺政繁は前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍に攻略されて降伏。以後、道案内を務めて武蔵・忍城攻めなどに参加。代々北条家の重臣として仕えた政繁は、最後は秀吉の命で切腹させられた。


松井田警察署手前で左に折れ、信越線の線路沿いに少し歩いて第十中仙道踏切を渡っていく。
旧道は、いかにものどかな田舎道といった趣となり、このあたりからの妙義山の眺めは実にすばらしい。


妙義山は、赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる。急勾配の斜面と尖った姿が特徴的で日本三大奇形の一つである。

やがて上信越自動車道の手前で国道を渡る。その先の理容店の庭に古い大きな庚申塔と二十三夜塔がある。


五料~五料平~御所平
高速道路の下を通ってしばらくすると、道路際に茶屋本陣お西・お東の標柱があり、その対面に建てられた立て札に「五料村高札場跡」と記されている。高札場跡の横を通って信越線の踏切を渡ったところが五料茶屋本陣である。
道はだらだらと上って行き、信越線の榎踏切を渡ると丸山坂と呼ばれている。坂の途中青面金剛塔、馬頭観音が数基ある。


頂上の左手に夜泣き地蔵が立っている。昔ある馬方が脇に落ちていた地蔵の首を、荷物のバランスをとるために一緒に深谷まで運び、不要になるや捨ててしまった。すると夜な夜な首が泣くので、深谷の人が五料まで戻して胴の上に載せてやったという言い伝えがある。


峠を越えて御所平にくると、信越線に遮られるので線路に沿って進んだ先、杉の巨木に覆われた碓氷郷の鎮守産土神の碓氷神社がある。


その前にある高墓踏切と国道を渡り、旧道に入っていく。

横川
国道に合流し、下横川信号のところで第十五中山道踏切を渡って線路の右側を行くと、間もなく「峠の釜めし」で有名な荻野屋の黄色い看板が見えてくる。


横川駅は、長野新幹線の開通ですっかり寂れていると思っていたが、意外に駅前は観光客で賑わっていた。たまたまローカル線を使って名所を巡る何かのイベントなのか、駅前の広場にはいくつかテントが張られていて、地元の名産品などを並べた売店が並んでいる。ここで、周辺の名所やこの先の碓氷峠などの詳しい無料の資料をゲット。安中市観光課作成の「旧道日和」という非常によくできた冊子だ。碓氷峠越えに備え、昼食用のおにぎりも確保しつつ、小腹がすいたので、おぎのやで蕎麦をいただきながら一息つく。

街道を進むと、右手に群馬県指定史跡横川の茶屋本陣の標柱が立っている。武井家が代々名主を勤め、幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねていた。


碓氷関所は元和2年(1616)、江戸幕府によって設置された。中山道は重要な交通路であったため、関東入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視した。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていた。旅人が手をついてお改めを受けるおじぎ石も残っている。


地図を見ると関所の先の道がちょっと複雑だったので、関所にいた地元の案内役のおじさんに、念のためこの先の道を訊いたのだが、教えられたのは中山道坂本宿への道ではなくて、なんとアプトの道の方であった。途中で間違いに気がついたが、炎天下で頭は半ば朦朧としており、さすがに引き返す気力は湧いてこない。
アプトの道は、トロッコ列車線に沿ってまっすぐ進む道である。まっすぐな坂本宿の街道と並行しており、碓氷峠登り口のところでは一緒になるが、坂本宿の様子は結局のところ見られずじまいとなった。
しばらくすると丸山変電所が見えてくる。横川−軽井沢間の電化に伴い、碓氷峠を行き来する列車の電力を供給するために明治44年に建設され、明治45年に営業が開始された。国鉄が全国で初めて造った変電所で、純煉瓦造りでは最古のもので、当時の鉄道・電気の最先端技術が導入された。鉄道の歴史を伝える建物は、国の重要文化財に指定されており、周囲の景色に溶け込んでどっしりとした姿は、流石に存在感がある。

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17 坂本宿 
坂本宿は、中山道の整備に伴い、碓氷峠の登り口に宿場が必要となったため、幕府の命により作られた。もともと集落のない土地に作られたため、計画的な都市計画により、真っ直ぐな宿場が造成され、道路の中央には用水路を設置し、整然とした町割りがなされた。ここに本陣、脇本陣、馬宿、旅籠、酒屋、米屋、などの商店が立ち並び、大変賑わった。
現在でも当時の建物がいくつか残り、趣ある街並となっているのだが、今回は道を間違えたため、残念ながら宿内を歩くことができず、峠の途中の覗きから、遠望するにとどまってしまった。

ともあれ、いよいよ中山道三大難所の一つ、碓氷峠越えに向かう。標高は約450mの坂本側から行くと、峠は1200mなので、およそ700m位上る必要がある。ちょっとした登山だ。

<碓氷峠>
アプトの道から玉屋のあたりで中山道に合流すると、その先に東屋風のバス停「中山道口」があり、碓氷峠入り口には「安政遠足」の標識が立っている。


安政遠足(あんせいとおあし)とは、安政2年(1855)安中藩主が藩士の鍛錬のため、藩士96人に安中城門から碓氷峠の熊野権現神社まで走らせた徒歩競走をいう。この先、ゴールの熊野神社まで要所にこの標識が立っている。


峠道に入ると、いきなり急斜面の登りになっており、入口から7分くらいで常峰番所跡につく。横川関所の出先機関で、関所破りを取り締まっていた。
瓦礫がゴロゴロしている急な坂道を進むと、やがて柱状節理の説明版がある所に着く。このあたりは刎石坂(はねいしざか)と呼ばれ碓氷峠一番の難所とも云われている。


ここには、馬頭観音、大日尊など多数の石仏や石碑が並んでいる。


覗き
入口から40分ほどで峠道が明るく開けると、「覗き」という見晴らしの良い場所に出る。ここからは坂本宿が一望でき、街並みが整然と並んでいるのがよくわかる。


馬頭観音を過ぎ、水に侵食された細い峠道を進むと、弘法の井戸がある。弘法大師からここを掘れば井戸が沸くと教えられたといういわれがある。


井戸から先で道が開けたところに刎石茶屋(四軒茶屋)跡があり,今でも石垣や墓が残っていると案内板にはあるが、よくわからない。
次第に峠道は平坦で明るい尾根道となり、昌泰二年(899)に設置された碓氷坂関所跡のところには東屋がある。
やがて広い道の両側が切られた堀切になる。ここは、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに際し、松井田城主大導寺政繁が北陸・信越勢の進撃を阻止する為に、尾根道の両側を掘り切りして道幅を狭めたところになる。ちなみに、大導寺政繁の墓は松井田の補陀寺にある。
堀切を先に進むと南側が絶壁となるところに南向馬頭観世音がある。昔このあたりは山賊がよく出たところと言われる。この先左手岩場には北向馬頭観世音がある。


東山道時代の一里塚を示した標識の先に行くと、岩や小石がゴロゴロしている急な坂道となる。座頭ころがしと呼ばれ、赤土で湿っていてすべりやすく、岩や小石がごろごろしている急坂である。同じ名前の坂が甲州街道野田尻宿にもあった。


その先の平坦な道が続く栗が原には、明治8年群馬県で最初の見回り方屯所が建てられた。これが交番の始まりだといわれる。
しばらく平坦な道が続き、入道くぼに至ると山中茶屋迄まごめ坂のだらだらとした下り道となる。
山中茶屋は峠の真中にあった茶屋で、寛文2年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあった。明治のころには小学校もあったという。
山中茶屋を出ると急な上りの山中坂になる。山中茶屋で飯を喰って勢いをつけてのぼったことから、飯喰い坂とも呼ばれた。

旅人を苦しめる老婆がいたといわれる一つ家跡を過ぎると、子持山の急坂になり、やがて峠道は二股に分かれる陣場が原に出る。真っ直ぐ行く道が、和宮が降嫁の際に開かれた比較的広く安全な和宮道で、旧中山道はここを左に下りていく。


旅人が身支度を整えたという化粧水跡を過ぎると施行所跡に出る。施工所は人馬の労をねぎらう休憩所だった。ここは、施行所の先の小さな谷川を飛び石伝いに渡って行く。

碓氷峠最後の長坂道をのぼり詰めると、旧道は先ほど別れた和宮道と合流する。この合流点には明治維新で廃棄された神宮寺の仁王門跡碑や日本武尊の故事を歌った碑「思婦石」のほか、小さな祠などの石塔群がある。


碓氷峠頂上
やがて土道は舗装路に変わり、碓氷峠頂上に到着する。入口から3時間程度のちょっとした登山であった。
頂上右手は「安政遠足」のゴールの熊野神社である。


神社の前には、名物「力餅」を売る峠の茶屋が数軒並び、一軒の茶屋の前に日本分水嶺の看板も出ている。ここは群馬県と長野県の県境にあたっている。


国境に位置する熊野神社は、一つの神社でありながらお社の中央で上州側が熊野神社、信州側が熊野皇大神社に分かれている珍しい神社である。神社をお護りする宮司も2人いて、それぞれ神社のお祀りを行っており、御祈祷・お守り・社務所、賽銭箱も別々になっている。


参拝後、茶屋に入ってかき氷をいただきながら一息入れた。峠を上ってくるときは、ほんの数人の人を見かけただけだったが、ここは観光客で大層賑わっている。軽井沢側からは、国道でいとも簡単に上がってくることができるのである。

軽井沢側に少し下ると、その先、駐車場脇から細い道が下っていく道が旧中山道だが、この道は途中で消滅しているので、遊歩道を歩くことにする。見晴台の入口に「碓氷峠遊覧歩道」の標識が出ているので、これに従って右に入り、整備された道を下って行く。


かれこれ1時間ほど下ると吊り橋が現れ、これを渡るとそこここに別荘が見えるようになる。
すこし行くと、二手橋を渡る。江戸へ行く場合、軽井沢に泊まった旅人は飯盛女に送られてここまで来て、名残りを惜しみながら別れたことがその名の由来だそうだ。

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18 軽井沢宿
軽井沢宿は二手橋のあたりから旧軽銀座の終わる三笠通りとの交差点あたりまでで、本陣1軒、脇本陣が4軒あったという。信濃国に入って最初の宿場である軽井沢宿は、碓氷峠を越えてきた旅人で大変賑わっていたが、宿駅制度が廃止され、国道が開通すると旅人の往来が無くなり急激に衰退した。その後、別荘地として再び賑わいを取り戻したのだが、その分、往時の面影はすっかり失われてしまった。

二手橋の少し先に、芭蕉150回忌で天保14年(1843)に建立された芭蕉句碑がある。


芭蕉句碑からすぐのところにある旧い旅館は、 江戸時代初期の創業である旅籠鶴屋。明治以降はつるや旅館となり、島崎藤村、芥川龍之介、志賀直哉など多くの文人が泊まっている。


夏休みの時期なので軽井沢の町は大変な賑わいを見せている。人気もなく険しい碓氷峠を越えて来た街道歩き人にとっては、まるで別世界にタイムスリップしたような気分にさせられる。

このあたりから中軽井沢にかけては、これまでも何度か家族で来たことがある。旧軽銀座のロータリーを中軽井沢方面に向かって行く離山通りが旧中山道で、林の中に別荘が散在する静かな景色は、いかにも軽井沢らしい雰囲気で心地よいところだ。六本辻の交差点の先も、旧道は唐松林の中を行くが、離山を右に見ながらの快適な道である。離山はお椀を伏せたような特徴ある形で標高1256mの山で、和宮の通行の際は「離」の字をきらって子持山に改名させられた。
旧中山道は 離山交差点で国道に合流して、軽井沢中学校前交差点で国道を渡り、線路を越える。踏み切りを渡って右に曲がり、緩い坂を下って前沢橋を渡ると、中軽井沢駅の裏手に出ることになる。ここから再び国道に戻るとやがて往時の沓掛宿となる。
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賑やかな軽井沢銀座でふと我に返り、メールをチェックすると高崎在住の友人のI氏からメールや留守電が何度も入っていた。例によって別荘に来ているので、軽井沢に着き次第すぐに連絡するように、とのこと。そういえば碓氷峠に入る直前で一度電話をしたが、通じなかったので、これから碓氷峠を越える旨のメールを送り、その後は山中でバッテリ消耗をしないように電源を切ったままだった。ずっと連絡を待っていてくれたようで、ちょっとすまないことをした。
ともあれ、すぐに電話をしたら、早速別荘に招かれ、まずはお風呂で汗を流してさっぱりしたところで、おおいにご馳走にあずかる。このところ、何度か電話やメールで連絡を取っていたが、ようやく久しぶりに顔を合わせて積もる話をすることができ、二日間にわたる炎天下の歩き旅の締めくくりとして、すこぶる楽しい時間が持てた。感謝。