加納~武佐

2013/06/12~14  
加納~河渡~美江寺~赤坂~垂井~関ケ原~今須~柏原~醒井~番場~鳥居本~高宮~愛知川~武佐

前回、大井から十三峠、琵琶峠、うとう峠といくつもの峠を越え、御嵩、伏見、太田を経て、加納に至り、金華山の岐阜城から天下を見下ろして家路についた。
今回は、いよいよ関が原を経て美濃路から近江路に入り、近江八幡近くの武佐あたりまで歩くつもりだ。
前前回、前回とも天候に恵まれていたが、今回は出発前日時点で、梅雨前線が横たわる日本列島の紀伊半島に向かって台風が迫っていた。天気予報を聞いていると、とても出かけられるような状況ではないが、天気図を見ると西にしっかりした高気圧があるので、うまくすれば台風が東に押しのけられるような期待もあって、ダメもと覚悟の旅立ちである。
加納(岐阜)には、新幹線名古屋経由でアクセスするのが普通だが、たまたまJRバス発足25周年謝恩キャンペーンで名古屋まで格安料金で行けるというので、久しぶりに夜行バスで名古屋まで行き、そこから電車で岐阜に出ることにした。経済的なうえ、今回は少し長めの行程を予定しているので、少しでも早く歩き始められるほうが都合がよい。午前0時ちょっと前に新宿で乗車すると、意外に席はガラガラで、何処でも好きなところに座っていいといわれ、ゆったり眠れそうな席を確保できた。

早朝、名古屋に到着すると、台風どころか、台風一過の素晴らしい青空が広がっていた。
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加納宿から河渡へ
加納宿は中山道の宿場としては数少ない城下町として発展した大きな宿だが、戦災などにより往時の面影はほとんど残っていない。
岐阜駅を出て駅前通りを進むと、中山道に交わるところに案内板があるので、そこから街道に入る。少し行ったところに秋葉神社があり、境内に加納宿西の番所の碑が立っている。


東海道線の高架下を通り、五叉路へ出て、さらに西へ進むと県道を横断した所に多羅野(だらり)八幡神社がある。かつてのこの辺りは松並木が続く風光明媚なところだったらしく、茶店で売られていた"だらり餅"が旅人に大変人気があったという。

広い道路を横断し、右脇を用水が流れている鏡島(かがしま)地区へ入って行く。ほどなく突き当りを左折し、乙津寺( おっしんじ )への石柱が立っているところを右に道なりにいくと、乙津寺山門が見えてくる。
乙津寺の歴史は古く、天平10年(738)に行基が自ら十一面千手観音像を彫刻して草庵に安置した時に始まる。その後、弘法大師が当地に滞在し、寺を乙津寺と名づけ、七堂伽藍塔などを造営した。


美濃路の紹介資料によると、この寺の裏に今も運行されている現役の渡しがある、ということなので行ってみる。

<小紅の渡し>
寺の裏に立つ小紅の渡しの案内板に従い、堤防を越えて広い河原の草道を行くと、船着き場のようなところにたどり着く。対岸の堤防の上にある小屋で船頭が待機しているので、両手を大きく振るとこちらまで迎えに来てくれるという話なのだが、いくら手を振っても船頭さんが姿を現してくれない。ここまで来て引き返すのも癪なので、藁をつかむ気持ちで看板に記されている市の土木事務所に電話をかけてみた。中山道を歩いて旅して来ており、ぜひここの渡しに乗りたいと思っているのだが、いくら待っても船頭さんが現れなくて困っている、と云うと、すぐに連絡とりますから、と電話の向こうで係りの人が一生懸命対応してくれている様子が伝わってくる。そうこうするうちに、対岸の小屋の中からついに船頭さんが現れて、こちらに向かってきた。


小紅の渡しは、乙津寺への経路として河渡の渡しとともに栄え、現在は県道の一部として岐阜市が運営している現役の渡しだというところが面白い。それにつけても、対岸を離れてこちら側に向かう舟は、なんとものどかでゆったりしている。


舟に乗ってしまうとあっという間に対岸に着いてしまうが、上流のほうに目を向けると、遠くに金華山が臨め、この渡しならではの風情が感じられてすこぶる貴重な体験となった。
対岸に渡り、河渡宿を目指して堤防上の道を下っていくと、彼方に河渡橋が小さく見える。
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54 河渡(ごうど)宿
河渡宿は長良川の渡しで栄えた宿場だが、地理的には低湿地帯にあって、水害が絶えなかった。長良川の川幅は、定水で幅五十間(90m)だが、出水時には百五十間(270m)にもなった。河渡宿は街並みが3町(約330m)という小さな宿場で、川止めの時はかなり混雑したという。今は、嘗ての面影はほとんどなく、河渡の渡しも明治時代に河渡橋が架けられて終了している。

河渡橋の下をくぐって少し行くと土手から下りたところに「いこまい中山道河渡宿」の幟と観音堂が見えてくる。河渡宿の荷駄人足が銭百文ずつを寄進し、愛染明王を祀るため建立したもので、地元の人は "馬頭観音さん"と呼んで大事に守ってきたのだそうだ。


この先、堤防下を少し歩き右に曲がると河渡宿に入るのだが、曲がるところをちょっと間違えてしまった。河渡宿は小さな宿場で、あっという間に通り過ぎてしまう。

河渡宿を出て慶応橋を渡ると生津畷(なまずなわて)に入る。真っ直ぐな道を進んで県道を横切り、突き当たりを右にしばらく行くと馬場の追分のところで街道は左に曲がっていく。


糸貫橋を渡ると左手に南無延命地蔵尊を安置する本田(ほんでん)地蔵堂がある。


その先へ少し行くと本田立場跡がある。旧本田村は東町、仲町、西町で構成され、河渡宿と美江寺宿の中間にあたる間の宿的な立場であった。街道筋には往時の趣を感じさせる旧家や本田代官所跡が残されている。代官所は、寛文十年(1760)に幕府直轄地となり、明和7年(1770)この地が大垣藩に預けられるまで続いた。


代官所跡の少し先の高札場跡を過ぎると、本田松原の交差点右手には遠くからもひと際目立つ一本の大ケヤキが往時を偲ばせるかのように立っている。

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55 美江寺宿
美江寺宿には、天正17年(1589)豊臣秀吉の下知によって問屋場が設けられ、荷物中継ぎ業務に当たっていた。江戸時代になって中山道が整備されるに伴って宿駅業務を担う宿場となった。小さな宿場だったが、美江神社周辺や僅かながら残る古民家などが往時の趣を伝えている。

五六川に架かる五六橋を渡るとまもなく美江寺宿である。五六(ごろく)というのは、美江寺宿が日本橋を入れると56番目となることからこの名が付けられたという。


街道を進むと、樽見鉄道の踏切を渡った宿場入り口には道標が立ち、少し先の街道際に美江寺一里塚跡碑が建てられている。
やがて見えてくる美江神社の歴史は古く、平安時代の美濃国神明帳に美江明神という記載が見られるとのこと。


美江神社境内の奥のほうにある美江寺観音堂は、養老3年(719)に元正天皇が伊賀寺の十一面観音像を移して創建された。観音像は、戦国時代、斉藤道三が稲葉山城を築いた際に岐阜に移されてしまって、現在ここにはないが、国の重要文化財に指定されている。


ここ美江神社の境内には復元された高札場も置かれている。


神社前の道は枡形で、その角に虫籠窓のある大きな建物がある。ここは旧庄屋和田家で、和田家は美江寺城主和田氏の末裔と伝えられているそうだ。


枡形道を曲がった先に本陣跡碑が建てられている。加納藩によって開設された本陣は濃尾地震で倒壊し、その後再建されたが平成3年に取り壊された。


少し先に行くと再び枡形道となり、右へ曲がったところに「右大垣赤坂ニ至ル 左大垣墨俣ニ至ル」と記された道標が建てられている。


街道を右へ曲がったすぐ先のお堂は千手観音堂で、天保4年(1833)に寄進された石造千手観音が祀られている。


観音堂を過ぎたら道なりに歩き、千躰寺のところの白い祠のところを左へ曲がっていく。その先は中山道の標識に従って犀川沿いの道を歩く。

旧街道を歩く旅では、商店や食事処がほとんど無くて、あらかじめ準備していないと昼食にありつけなくて苦労することが多いのだが、この辺りに市役所があることもあってか、何軒か食事処があり、珍しくまともな昼食を摂ることができた。
食事後、街道に戻り、赤い欄干の長護寺橋を渡ると、その先はアクアパークすなみという公園になっている。


中山道はこの公園の中を通り、堤防に向かって延びているのだが、ちょっと分かりにくくて、案内標識に従って堤防を目指して歩いているうちに、どういうわけか、思ったところに出られなくなってしまった。やむなく、一旦、堤防のところの鷺田橋下のトンネルをくぐり、土手を上って鷺田橋のほうに戻り、さらに強引に崖をよじ上って道路の欄干を乗り越え、やっとのことで歩道に出た。

橋を渡ってすぐの道を南側に曲がり、川沿いに歩いていくと、堤防下の呂久の入口に良縁寺というなかなか縁起のいい名前のお寺がある。


良縁寺の前を過ぎて、右手に白鳥神社、その先即心院や蓮生寺の前を通ってしばらく歩くと立派な門構えの馬淵家長屋門が見えてくる。


馬淵家は、渡しの船頭頭をつとめた家で、その向かいが小簾紅園になっている。
和宮が呂久川(揖斐川)を御座船で渡るとき、馬渕家の庭の紅葉を簾の中から目にして詠ったのが次の歌である。時代の流れに翻弄される切なさがしみじみと伝わってくる。
  - おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ -
このことを記念して造られたのが小簾紅園で、和宮歌碑を初めとして、呂久の渡し、呂久渡船場跡などの詳しい説明板が置かれている。


この地には、かつて呂久の渡し渡船場があった。


小簾紅園を出て、平野井川を越え大垣輪中の堤防坂道を上っていくと「左木曽路 右すのまた宿道」と刻まれた道標がポツンと建てられている。


坂を上りきる手前で堤防を下っていくが、それから先の道をどこかで間違えてしまった。しばらく、中山道から外れてしまったが、岐阜経済大学のあたりでふたたび街道に戻る。
東赤坂を過ぎてしばらく行くとやがて赤坂宿に入っていく。
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56 赤坂宿
赤坂宿は、東山道時代から杭瀬川の舟待ち宿であった杭瀬宿が発展したもので、江戸時代に川港(赤坂港)が整備されると物資の集散地として一層の賑わいとなった。この賑わいは明治に入っても続き、往時は三百隻もの舟がもやっていたとも謂われている。

養老鉄道の踏切を渡った先で左に入っていくと、ほどなく白山神社があり、その先、民家前に池尻一里塚跡碑が建てられている。
杭瀬川を赤坂大橋で渡ると、背の高い時の鐘モニュメントが見えてくる。


旧杭瀬川に架かる赤い欄干の橋を渡ると赤坂宿だが、渡る手前左には御使者場跡碑が置かれている。大名が宿場に入る際、宿役人や名主が出迎えた場所だそうだ。


赤坂港には諸藩の廻米が集積され、数百隻の舟が出入りし、大いに繁盛したという。明治に入ると近くの金生山で採掘された石灰の積み出しの舟で賑わいをみせた。しかし大正時代の鉄道敷設に伴い、舟運は急速に衰退した。


赤坂港跡のところに建つ洋館は赤坂港会館という資料館で、赤坂宿の中心にあたる中山道と谷汲街道の分岐点に、明治8年(1875)に建てられた警察屯所を復元したもの。ちょうど、校外学習の小学生の団体が見学に来ていて大変にぎやかであった。

街並み
赤坂港跡から少し先に行くと赤坂宿の中心街になり、重厚な感じの旧家が立ち並ぶ独特の趣の街並みが続いている。


宿場街を歩いていると、お嫁入り普請跡という、一見、二階家風の家を見かける。これは、和宮降嫁に際して、二階建ての無い宿場だと和宮が「なんと田舎にきてしまったのか」とお嘆きになる、ということで急遽2階建て風に普請し直したものだそうだ。


赤坂本陣公園となっている本陣跡の少し先、四ツ辻右側の谷汲道道標は天和2年(1682)に設置されたもので、谷汲巡礼街道と伊勢に向う養老街道、そして中山道が交叉する赤坂宿の中心地にあたる。当時ここから北に向かうと西国三十三ケ所巡り終点の谷汲山華厳寺があり、南に向かうと伊勢に通じていた。


四ツ辻の向こうに見える古民家は本陣を務めた矢橋家住宅で、建物は天保4年(1833)に建てられたという大型町屋で、国登録有形文化財となっている。


矢橋家住宅の隣が脇本陣跡で、宝暦年間以降は飯沼家が問屋兼務で務めていた。明治以降は榎屋の屋号で旅館を営み、現在も営業を続けている。
脇本陣跡から一軒おいた隣の五七の看板が出ている店はお休み処で、屋号の五七は日本橋から数えて赤坂宿は57番目であるところを由来としている。


少し先が宿場の西の入り口で、御使者場跡碑が建つところは兜塚と呼ばれ、関ヶ原合戦前日の戦で戦死した兵士の鎧兜が埋められているという。関ヶ原の戦いの前日、慶長5年(1600)9月14日家康は赤坂に着陣した。すると西軍は杭瀬川に進出し、前哨戦が行われた。西軍の大勝で、戦死した東軍中村隊の武将野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたという。


中山道はこの先、大きな屋敷が連なる昼飯(ひるい)町を通る。先に進むと右奥に如来寺があり、参道口には善光寺分身如来と刻まれた百度石がある。本尊は信州善光寺の三尊仏の尊影を模刻したもの。信州の本田善光なる者が、難波の堀江で三尊仏を拾い上げ、故郷に運ぶ際、ここで昼飯(ひるいい)を摂った、というのが昼飯町の由来で、発音しずらいため「ひるい」となったという。

東海道本線のガードを越すと、右手に「青墓のよしたけあん」という史跡がある。義経が奥州平泉に落ちのびる途中、ここにきて杖を差し、歌を詠み、杖にしてきた葦を地面にさすと、やがて杖から竹が成長したことから、ここはよし竹庵と呼ばれるようになったという。


ここには小篠竹の塚もあり、傍らの説明板に「青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃、両人ありし候や詳らか(つまびらか)ならず」と記してある。

中山道は、その先の県道を斜めに横断し、住宅街へ入っていく。 しばらくすると右手に常夜灯を兼ねた国分寺への道標がある。


国分寺跡のほうに行く途中、教覚寺脇に稲葉正休公碑が建てられている。稲葉石見守正休は、江戸城三大刃傷事件の一つとされる大老・堀田筑前守の殺害をした人物。
正休公碑前を通って先ほどの県道を横断すると、美濃国分寺跡が広がっている。東西230m、南北250mという広大な敷地は、発掘調査が行われ国指定史蹟となっている。


街道に戻り5~6分歩くと蒼野ケ原一里塚跡碑と常夜灯が建っている。ちなみに、この辺一帯は、南北朝初期の建武5年(1338)、北朝の足利軍主力の高師直(こうのもろなお)と南朝の北畠顕家軍が激突したところである。

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57 垂井宿
美濃一宮南宮大社の門前町として賑わった垂井宿は、中山道と東海道を結ぶ美濃路との追分宿としても賑わっていた。宿場名にもなった垂井の泉は古代から和歌にも詠まれた名泉で、今も滾々と清水が湧き出している。宿場の規模は小さいが、街並みには随所に往時の雰囲気が残っている。

赤坂宿を出てしばらくして相川を渡ると垂井宿に入っていく。手前の合流点は美濃路を通って東海道へ通じる垂井の追分で、追分標柱の後ろに追分道標が立っており、「是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」とある。


相川を渡ると垂井宿の入り口で、ここには相川の人足渡跡説明板と東の見付説明板、さらには垂井宿碑と垂井宿案内マップも設置されている。
そのすぐ先の枡形となっているところに、今日の宿の旅籠亀丸屋があった。

 


早速、玄関を入ると、おばあさんが待ち構えていたように奥から出てきた。大きな鎧が置いてある玄関で、まずは一息入れなさい、と言いながら冷えた麦茶を出してくれる。一日中暑い中を歩きとおしだったので、コップ一杯の麦茶で生き返った気分になれた。夕食までに、まだ時間があるため、荷物を置かせてもらって、宿場の散策に出た。

街並み
亀丸屋のちょっと先、格子戸の民家は問屋場跡で、その先、和菓子店の横に本陣跡碑と説明板が建てられている。
本陣跡から少し行くと信号のある交差点のところにかなり重厚そうな南宮大社大鳥居がある。寛永19年(1642)、徳川家光の寄進で南宮大社が再建された時に、石屋権兵衛によって400両で建てられたものだという。美濃国一宮で重要文化財の南宮大社は鳥居から1km以上先に行ったところにあるらしい。


街道にはこの先、築200年以上の建物で現在お休み処として残されている旧旅籠長浜屋や、江戸時代の商家で文化末年頃(1817頃)に建てられたという油屋卯吉の建物など、古いたたずまいが残っている。



向かい側の寺が本龍寺で、ここの門は脇本陣にあったものを移築したものだという。また、ここは芭蕉が冬ごもりしたことで知られ、奥には句碑が建立されているが、翌日あらためてゆっくり訪ねることとする。


ぶらぶらと近くを見て回った後、宿に戻って漸く一息入れる。

<旅籠亀丸屋>
亀丸屋は、垂井宿の旅籠屋として200年以上続き、今も旅館を営んでいる。建物は安永6年(1777)に建てられたもので、内部はなるべく手を加えず、当時のままにしてあるのだそうだ。泊り客は他になく、鴬張りの廊下を奥に進んだところにある上段の間に案内される。
一息入れて早速夕食になる。メニュは、焼きナス、冷奴から始まり、典型的な家庭料理が実にいろいろ並んで出る。酒の肴にちょうどよく、喉も乾いているので早速ビールをグッと飲み干して、追加のビールを頼むと、なんと「うちは、ビールは一本しか出しません」と、当たり前のように宣言されてしまった。理由を問うと、お客が飲みすぎて料理を全部食べずに残してしまうことが無いように配慮してのことだという。一瞬、なんと勝手なことを言うばあさんかと思うが、交渉の余地が全くない雰囲気なのでおとなしく従う。その代り、このおばあさんは、食事の間中、時々料理を出したり下げたりするとき以外は、目の前にずっと座って世間話をとどまることなく続けている。何十年も街道歩き旅の客とこうしていろいろ話をしてきたのであろう、流石に話題には事欠かない。先般、細久手宿で泊まった大黒屋の先代女将の話や今の若主人の話など、話は尽きない。結果的には、ビール一本で不思議と満足であった。
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翌朝5時頃、いつものように早朝散歩に出かける。
まずは、朝日が昇ったばかりの清々しい相川河原を、軽く身体をほぐしながらぶらぶら歩く。
少し歩いたところで、路地を巡りながら本龍寺の方に行ってみる。
本龍寺の住職玄潭と芭蕉は親交が深く、元禄4年(1691)、芭蕉は当寺で冬篭りしている。本龍寺内にある時雨庵は芭蕉ゆかりの地で、この間に幾つか句を詠んでいるが、境内の一角の「作り木塚」の中の芭蕉句碑にその一つが刻まれている。
  - 作り木の 庭をいさめる しくれ哉 -


南宮大社の石鳥居のところを参道方向に少し行くと、垂井の清水がある。清水は大ケヤキの根本からこんこんと湧き出していて、池には大きな鯉が泳いでいる。


歌枕の地のこの泉を詠んだ歌は数多い。
芭蕉も一句、
  - 葱白く 洗ひあげたる 寒さかな –

宿に戻ると、おばあさんが待ち構えていて、自転車を貸すからぜひ南宮大社を見てくるように、と勧められる。成り行きで出かけてみることにしたのはいいが、まずは、何年も使った形跡もなく完全に空気の抜けているおばあさんの自転車のタイヤの空気入れからやらされる羽目になる。
南宮大社大鳥居をくぐり、垂井の泉の前を通って行くが、自転車だと南宮大社は思ったほど遠くはない。

<南宮大社>
旧国幣大社で美濃国一の宮として、また全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めている。現在の建物は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の兵火によって焼失したものを、寛永19年(1642)、春日の局の願いにより、三代将軍徳川家光が再建した。
広い境内には本殿・拝殿・楼門など、朱塗りの華麗な姿を並べ、江戸時代の神社建築の代表的な遺構18棟が、国の重要文化財に指定されている。


宿に帰ると、おばあさんが出迎えていて、「どうだった?」という。思いのほか南宮大社は立派なもので、「行ってみてよかった」というと、おばあさんは殊の外喜んでくれた。
いつもよりたっぷりの朝食前の散歩になったが、今日は、いよいよ関が原を越えることになるので、朝食後、この宿をたった一人で切り盛りしている高齢の女将さんが、いつまでも元気でいてくれるよう願いつつ、早々に宿を発つ。

<西の見付跡>
本龍寺の先、緩い坂道を上ると、やがて垂井宿の宿はずれに西見付跡碑が立てられている。広重の垂井宿は、この付近から西を見て、雨の降る中山道松並木の中を大名が行列をつくり、西より垂井宿の西見付へ入ってくる様子を描いたもの、と説明がある。


街道はこの先で東海道線の踏切を渡り、国道を越えて日守の茶屋跡のところにでる。この茶屋は、この先の関ヶ原山中集落の常盤御前塚の傍らにあった秋風庵を明治期にここへ移し、中山道を通る旅人の休み処としたものだそうだ。秋風庵は、芭蕉ゆかりの各地に芭蕉の句碑を建てた垂井町生まれの化月坊により慶応4年(1868)に開かれたものである。
すぐ隣が垂井一里塚で、左側が当時のまま現存している。国の史跡に指定されている貴重な一里塚である。

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58 関ヶ原宿
謂わずと知れた天下分け目の決戦地関ケ原は、北からは北国脇往還、南から伊勢街道が中山道と交わる交通の要衝で、美濃16宿の中で人口は3番目、宿の長さも2番目の規模を擁し、発展を遂げた。天下分け目の合戦が行われた地であることから、周辺各所に広く陣跡など多くの旧跡が点在している。
現在、宿場内の中山道は国道に姿を変えたため、往時の面影を感じられるものは少ない。

垂井一里塚を通り過ぎ、国道を横断すると、中山道関ヶ原と記された道標が見え、いよいよ関ヶ原の合戦が行われた地に足を踏み入れる。
垂井と関ヶ原の間の宿野上集落に入ると、野上の七つ井戸と呼ばれるつるべ式の井戸が復元されている。


先に進むと、野上の松並木が見えてくる。樹齢300年の松並木が両側に残っていて、町では天然記念物に指定して保存に努めているという。中山道では、松並木は珍しく、笠取峠以来となるが、やはり松の並木は気持ちがいいものだ。


松並木の途中に六部地蔵が祀られている。六部とは六十六部の略で、全国の社寺を行脚中の行者が、この地で亡くなられたので、村人が祠を建てて祀ったことに由来があるといわれる。


桃配山
街道はほどなく国道に合流するが、合流地の左手向こう側に桃配(ももくばり)山が見える。昔、壬申の乱の際、ここに陣を張った大海人皇子へ村人が桃を献上し、それを皇子が兵士に配ったところ、兵士の意識が高揚し、ついに勝利したということから、その名がついたという。
関ヶ原の合戦のときには、家康はここ桃配山に最初の陣をしいた。


街道は、すぐ先の国道一ツ軒交差点から右に入り、旧道を通って再び国道に合流する。その先右手の若宮八幡神社のあたりが関ケ原宿入口だった。

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<古戦場跡>
八幡神社の先、街道を外れて関ヶ原駅のほうに行き、東海道線の跨線橋を渡ると、すぐ左手に東首塚がある。ここには家康によって実検された将士の首が眠っている。
ここには松平忠吉・井伊直正陣跡や田中吉政陣跡があった。このあたりから石田光成が陣を敷いた笹尾山の方に広がる一帯が決戦場であった。


町役場のほうに行くと歴史民族資料館の近くには、徳川家康最後の陣跡がある。戦がたけなわになると、家康は本営を桃配山からここへ移して陣頭指揮をとった。戦が終わるとこの地で部下が取ってきた首の実検を行っている。


もう少し先に行くと、少し離れた笹尾山に石田光成陣跡が見られる。その手前あたりが最後の決戦地であった。


百聞は一見に如かずというが、まさに、この地に実際に来てみてはじめて、関が原決戦場の様子が良く分かる。かなり広い範囲に多くの陣跡が散在しているので、ひととおり見ようとすると一日がかりになるため、ここで街道に引き返すことにした。
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街道に戻ってしばらく西に進むと、ここにも家康の実検が済んだ将士の首が眠る西首塚がある。


中山道は西首塚から少し先で国道から別れて左の静かな旧道を入っていく。ほどなく月見宮と記された石標がある。左の路地奥へ行くと、別名を月見宮と呼ばれる春日神社があり、月見の名所だったというが、ここは福島正則が宇喜多隊と対陣し、激しい戦が行われた場所でもある。

不破の関
さらに数分歩いた先には、壬申の乱(672)後に設けられた三関(不破・鈴鹿・愛初)の一つの不破関跡がある。壬申の乱の際、この付近で天武天皇軍と弘文天皇軍が合戦が行われた。勝利した天武天皇はここに不破の関を置いた。不破関を境にして関東、関西と呼ぶようになったのである。


関跡の先で道は2方向に別れるが、中山道は真っ直ぐの坂道を下っていく。

坂を下ったところの藤古川は、壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)がこの川を挟んで開戦したところであり、関ヶ原合戦では大谷吉継が布陣するなど軍事上要害の地であった。

川を渡った先の坂道を上ると矢尻の池と称する小さな池がある。この池も壬申の乱に関係し、大友皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘ったものと伝えられている。

少し先で国道を横断し、さらに先へ行くと黒血川と呼ぶ川が街道を横切っている。壬申の乱では、この地で両軍が衝突し激しい戦闘が行われた。そのとき両軍兵士の流血がこの川に流れ、川底の岩石を黒く染めてしまい、以来黒血川と呼ばれている。


黒血川のちょっと先に鶯の滝と呼ばれる名所(だった場所)がある。水量豊かで年中鶯が鳴くこの辺りは、旅人の疲れを癒してくれる恰好の場所で、立場としても賑っていたというが、今は小さな滝が流れ落ちているだけであった。

<常盤御前の墓碑>
すぐ先の二股道を右に入って少し行くと、ちょっと奥まったところに常盤御前の墓がある。


都一の美女と言われた常盤御前は今若、乙若、牛若の3児を産んで幸せな生活を送っていたが、源氏が戦に破れると一転し、牛若丸を追ってこの山中まで来たところで土賊に襲われ息を引取ったのであった。
墓の後ろに2基の句碑があり、その一つは芭蕉の句である。
  – 義朝の 心に似たり 秋の風 –

ここから暫く行った街道際に小さな祠があって、そこの説明板に次のように記されている。
『平安末期、此処山中村でおきた常盤御前の不幸な出来事は、涙なしには語れない。常盤は「義経がそのうちきっとこの道を通って都に上る筈、その折りには是非道端から見守ってやりたい。」と、宿の主人に形見の品を手渡し、息を引き取った。時に常盤四十三歳。主人は常盤の念願が叶うよう街道脇に塚を築き、手厚く葬ったのである。その後哀れに思った村人は、無念の悲しみを伝える常盤地蔵を塚近くのこの場所に安置し、末永く供養することを誓い合った。案の定、寿永2年(1183)義経上洛のため弐万余騎を率いて、当地若宮八幡神社に到着し、西海合戦勝利を祈願。合わせて母の塚及び地蔵前では、しばしひざまずき、草葉の陰から見守る常盤の冥福を祈ったという。』


中山道は、この先の東海道線踏切を渡り、JRを左下に見ながらちょっときつい坂を上って今須峠へと行く。峠を越えると今須宿である。
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59 今須宿
美濃路最後の宿場である今須宿は妙応寺の門前町として賑わい、加納宿、関ケ原宿に続く大きさを誇った。宿の規模に比べて旅籠は13軒と少なかったが、問屋場が7軒あり、商業地として賑わいを見せていた。現在の宿場町は、静かな山間の里といった風情で、問屋場家屋として現存する山崎家の古民家に往時の繁栄ぶりを垣間見ることができる。

今須峠は、江戸時代には「馬も滑る」と言われた難所で、特に冬季は積雪に悩まされた峠越えであったそうだ。峠を越えて国道を横断すると、すぐに今須一里塚が出迎えてくれる。すこし坂道を下って今須橋を渡ると今須宿である。


本陣があったあたりに説明板と今須宿碑が建てられている。その向かい側にまっすぐ伸びている道があり、国道とJRの二つのトンネルをくぐったはるか向こうに妙応寺が僅かに見える。ちょっと珍しい景色だ。妙応寺は正平15年(1360)創建で、県下で最も古い寺院だという。


街道沿いの本陣跡のすぐ先に見える古民家は、美濃16宿中唯一の現存の問屋場家屋である。今須宿には人馬・荷物の継ぎ立てを行う問屋場が7軒もあり、商業地として大変な賑わいであったが、その中でも山崎家の建物は往時の繁栄ぶりを知ることができる貴重な建物である。


その先、板塀の一角にある常夜灯は、京都の問屋河内屋が建立したもの。大名の荷物が行方不明になったとき金毘羅様に願かけしたところ発見されたので、そのお礼に建立したものだそうだ。


この先しばらく道成りに行き、国道を横断して行くと、「おくのほそ道 芭蕉道」と「野ざらし 芭蕉道」という標柱とともに芭蕉句碑が建っている。
  - 年暮れぬ 笠着て草履 履きながら -
  - 正月も 美濃と近江や 閏月 -


芭蕉句碑のすぐ先には寝物語碑が建てられており、そのすぐ横には岐阜と滋賀の県境を示す細い溝がある。そこはかつての国境でもあり、美濃国と近江国の国境碑が建てられている。


さらに、その少し先には寝物語の里碑が建てられており、その説明碑に由来が記されている。
国境にある溝を挟んで番所や旅籠があり、「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われている。また、常盤御前が「隣の宿の話し声から家来の江田行義と気付いた」所とも静御前が「江田源蔵と巡りあった」所とも伝えられている。


楓並木の続く旧道を進むと、神明神社脇に旧東山道が僅かながら残っている。


この先の坂を下り、踏切を渡ると近江路最初の宿場柏原宿である。
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60 柏原宿
近江路へ入って最初の宿場である柏原宿は、東山道時代からの宿駅であった。この辺りは、伊吹山の麓にあって薬草の生産地として知られ、江戸時代は伊吹山から産出するヨモギを原料にした艾(もぐさ)を商うことで有名で、賑わいを見せた。規模も大きく、中山道の宿場の中でも宿高で四番目、宿間の長さが13町もあった。

旧東山道を右に見て坂道を下っていき、踏切を渡って右に曲がるとまもなく柏原宿碑が出迎えてくれる。


そのすぐ先にある御堂は照手姫笠掛地蔵堂で、傍らに由来記がある。これがものすごく長文で、ちょっとやそっとじゃ読み切れないような珍しいものだ。


このあたりから街道沿いにはベンガラ塗りの民家が目立つようになる。ベンガラは江戸時代にインドのベンガル地方から輸入された赤色顔料で、朱色に塗られた建物は独特の風合いがある。東海道を歩いた時も、近江の国に入ったあたりのところどころに目についた。

ほどなく八幡神社があり、その境内に芭蕉句碑が置かれている。


  - 其のまゝよ 月もたのまし 伊吹の山 -

元禄2年(1689)、芭蕉は伊吹山を左に見ながら奥の細道結びの地の大垣に向って北国脇往還を歩いている。このあたりからは伊吹山がよく見える。


街並み
八幡神社の先からは、まっすぐな道で見通しの良い柏原宿の街並みがずっと続いている。


柏原駅前あたりから随所に説明板が置かれている。それによると、柏原宿には東西3軒ずつ、都合6軒の問屋があり10日交代で務めていたのだそうだ。
問屋場跡の先は、脇本陣跡、旅籠屋跡、本陣跡などが続いている。説明板によると、柏原宿には旅籠屋22軒、もぐさや9件、造り酒屋3軒、請負酒屋10軒、炭売り茶屋12軒、豆腐屋9軒、他商人28軒などとあり、かつての賑わいが窺える。
本陣は江戸時代を通じて南部家が務めており、建物は和宮宿泊の時、新築されたのだが、明治に入って垂井宿の南宮神社宮司宅に移設されている。
その先の橋際には高札場跡に秋葉常夜灯が建てられている。


常夜灯の脇を流れる市場川に架かる市場橋を渡ると、左手に大きな古民家が見える。柏原宿の特産である伊吹山の薬草を原料とした伊吹艾を商う伊吹艾本舗亀屋左京商店は、寛文元年(1661)創業で、今も昔と変わらぬ佇まいだ。


亀屋左京商店対面のやいと塾と看板が下がった古民家は造り酒屋巌佐九兵衛跡で、造り酒屋はこの先にも山根庄太郎家、松浦作左衛家がある。


ちょっと先の重厚な建物は柏原宿歴史館で、大正6年建築の母屋は国登録有形文化財に指定されている。入口のところに喫茶店が併設されており、軽食がいただける。迷うことなく立ち寄って、名物のもぐさをイメージした「やいとうどん」というのをいただいた。


歴史館の隣に日枝神社があり、その先左側には西の荷蔵跡がある。驚いたことに、この西の荷蔵跡の立派な建物が、現在、なんとデイサービスセンターになっている。


荷蔵跡の先にあるのは享保2年(1717)に建立された薬師道道標で、最澄が創立したという明星輪寺泉明院への道しるべ、だとのこと。


道標先の公園は御茶屋御殿跡である。江戸時代初期、将軍上洛下向の際、休憩や宿泊した館で、天正16年(1588)には徳川家康も休息しているそうだ。

中山道は交差点を真っ直ぐ進んでいく。
交差点のすぐ先に古民家が見えるが、これは郷宿跡で、脇本陣と旅籠の中間的存在として武士や公用の庄屋などの休泊に使われた宿である。


数分歩くと柏原一里塚があるが、今のものは復元されたもので、元々の一里塚はこの先の西見付近くにあったそうだ。
その西見付跡はすぐ先にあるが、今はわずかに土塁が残るのみである。

この先は楓や松の並木が続く山裾の静かな道で、木漏れ日の中を気持ちよく歩くことができる。


ほどなく道が二つに分かれ、中山道は右側の土道へ入っていく。この道は古代東山道で、ここにはかつて東山道の小川(こかわ)の関があった。


小川の関跡から右の土道に入った中山道は、鬱蒼とした杉林の中を通っていく。


ほどなく車道に合流すると、その先に中山道碑が置かれている。


中山道はこの先で国道に最接近するが、すぐに国道から離れ、梓川橋を渡って横河駅があったという梓集落へと入っていく。梓川沿いに進んだ街道は突き当たりで左へ曲がり国道に合流する。
しばらく国道を歩くとひときわ大きな中山道碑が建っている。


中山道はこの先で国道から分かれ、左の旧道へ入っていくと一色である。
旧道に入り八幡神社から少し先の名神高速道路に接した所に一色一里塚碑が建っている。


街道はこの先で、左に名神高速、右に国道に挟まれるようになるが、その先の坂道を下るといよいよ醒井宿である。
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61 醒井宿
東山道の時代から宿場町として栄えていた醒井宿は、木曽路名所図会に、『この駅に三水四石の名所あり 町中に流れ有りて 至って清し 寒暑に増減なし』 と記されるほど、清らかな水が流れることで知られた宿場である。また古くから日本武尊伝説が多く残っていて、醒井という名も、名水が湧き出る泉で日本武尊が目を醒ましたということに由来する。

坂を下ると東の枡形道となり、ここには江戸見付が設けられていた。


ほどなく賀茂神社鳥居が見えてくる。境内では醒井宿三水の一つである居醒(いさめ)の清水が滾々と湧き出している。


居醒の清水から流れ出た湧水は地蔵川となって宿場の中を流れていて、ハリヨとバイカモ(梅花藻)が生息する非常に清らかな流れである。


鮮やかな緑色のバイカモが清水の中でゆらゆらと揺れるこの景色は、まったく予想もしていなかったもので、感動すら覚える素晴らしいものであった。朝から猛暑の中を歩き続けてきて頭はかなり朦朧としていたのだが、たちまち生き返ったような気分になれた。

 


地蔵川に沿って少し歩くと、本陣跡と墨書された標柱が建てられているが、今は樋口山という料亭となっている。


本陣跡の並びの川べりの建物は問屋場跡で、この建物は江戸時代初期の建築と推定されおり、修復されて資料館となっている。この辺りはバイカモが群生しており、この時期、白い小さな花が水面に顔を出している。


問屋場跡と街道を挟んだ向かい側、白壁の軒卯建がひときわ目を引く建物はヤマキ醤油。明治時代後半の創業ということだが、深い味わいの味噌と醤油は醒井の湧水で仕込んでいるという。

石灯篭の立つ旅籠跡の先、明治天皇御駐輦所と刻まれた石碑が立つところは、かつて庄屋を務めていた江龍家屋敷で、本陣並の規模を誇っていたそうだ。


街道を数分、三水の二つ目である十王水が見られる。近くに十王堂があったことから十王水と呼ばれるようになったといい、地蔵川の中に十王と刻まれた燈籠が立っている。


醒井大橋を渡って左に曲がって数分歩くと三水の三つ目となる西行水が見られる。西行水の上に小さな五輪塔があるが、これを泡子塚と呼んでおり西行にまつわる伝説が残されている。


道なりに進み、県道を横断すると六軒茶屋跡の案内板があり、その後ろに茅葺がトタン葺きに変わってしまった当時の名残りの一軒が残されている。 幕府の天領であった醒井宿は、享保9年(1724)大和郡山藩の飛地領となった。藩主・柳沢候は、彦根藩・枝折との境界を明示するため、中山道の北側に、同じ形の茶屋六軒を建てた。この六軒茶屋は中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。

中山道は丹生川橋を渡り、少し進んで右の細い道に入り、河南集落の中を通っていく。

柏原宿は規模が大きく、古民家が数多く立ち並んで宿場時代の面影がよく残っていて見所一杯だったもので、ついつい写真をとりすぎて、カメラのバッテリ残量が少なくなっていた。そこに来て、醒井宿の予想外の景観の素晴らしさのおかげで、カメラのバッテリ残量がついにほとんど無くなってしまった。今日の宿で充電するまで、この先の写真は限定せざるを得ない。
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62 番場宿
番場宿は中山道中最も小さな宿場だったが、古くは東山道の宿駅が置かれていた。江戸時代に琵琶湖水運が発達し、米原湊に通じる道が開かれると物資の往来が盛んになり、天保年間には問屋場が6ヵ所にも増えたという。こうしたことにより、東山道時代西番場にあった宿場機能は江戸時代に現在の東番場に移っている。

醒井宿を出て小1時間すると、江戸から117番目となる久禮(くれ)一里塚碑が建てられている。


中山道は一里塚の右側を回り込んでいくが、その先は山裾ののどかな道を進む。
宿場に入ると、民家の庭の片隅にやや真新しい問屋場跡碑が置かれている。この宿場内にはかつての遺構などほとんど目にすることがないが、この後も同じような石碑をいくつも目にする。


すこし先、県道との交差点のところにポケットパークがあり、番場宿碑が建てられている。ここは米原湊に通じる道との追分である。


交差点を渡った先には脇本陣跡碑、問屋場跡碑、さらに本陣跡碑が続いている。


本陣跡碑の先左側に『南北朝の古戦場跡蓮華寺』と記された大きな標柱が建っている。


蓮華寺は聖徳太子創建とされる寺だが、鎌倉時代末期の元弘3年(1333)、南朝軍から逃れてきた六波羅探題北条仲時主従430人余がここで集団自刃したことで知られており、多数の五輪塔がぎっしりと残されている。
ぜひ立ち寄っていきたいところではあるが、この先峠越えをしなければならないので、ここはパスして先を急ぐことにした。

この先が東山道時代に宿駅だった西番場地区となる。どことなく旧街道の面影を残す静かな道を進むと、西番場公民館の手前に北野神社がある。


神社と道を挟んだ路傍には、東山道の宿駅だったことを示す石碑が置かれている。


西番場の街並みを通り過ぎると、その先は高速道路の脇を通るのどかな山間の道となる。
程なく名神高速のトンネル上に出るが、ここは小磨針峠と呼ばれるところで、このあたりが彦根市と米原市との境界にあたる。
一度下って、その先の集落の中を上っていくと、峠の頂上左手に鳥居が見えてくる。その横に見える建物が摺針峠の望湖堂跡である。望湖堂は峠に建つ茶屋で、往時は琵琶湖が一望でき、中山道随一の名勝と言われていた。朝鮮通信使や和宮も休憩されたところで、本陣のような造りであったが、平成3年に火災に遭って焼失してしまった。

峠の先から大きくUターンしながら下っていく車道を、中山道草道が一直線に横切っている。草道を麓まで下ると国道8号に合流し、次の宿場である鳥居本宿へと入っていく。
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63 鳥居本(とりいもと)宿
東山道時代は隣の小野集落が宿駅として機能していたが、江戸時代に入り小野に代わって鳥居本が寛永年代(1624~)に宿駅に定められた。近くの彦根城に行交う人々や、高宮にある多賀大社の参拝者で賑わっていた。

摺針峠を下った中山道は国道8号に合流するが、すぐ先の橋を渡ったら再び左の旧道へと入っていく。すこし先で道は枡形となっており、そこには350年以上の歴史を持つという赤玉神教丸本舗の有川家が見える。建物は宝暦3年(1753)以来というから250年以上前のもの。赤玉神教丸は9種類の生薬を配合した和漢健胃薬で、江戸期から今日に至るまで製造販売されている。


街道に沿いには、鳥居本宿の名産であった道中合羽の看板が今も残されている。合羽所木綿屋は天保3年(1832)の創業で、戦前まで合羽を製造していたそうだ。


合羽所のすこし先、右に曲がると国道の向こう側に近江鉄道鳥居本駅が見える。昭和6年に建てられた駅舎は建て替えられているが、当時の様式をそのまま継承した建物なのだという。


本日はここまでとし、鳥居本駅からひと駅の彦根まで行って、ビジネスホテルに泊まる。
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翌朝、早朝散歩に出ようと思ったら、珍しく雨が降っている。だが、青空が見えているので、しばらくすれば雨もやむことであろう。少し様子を見ることにする。ホテル内でブラブラしていたら、自転車が置いてあるのを発見。フロントに聞いてみると、無料貸し出し用との事。これがあれば、彦根城めぐりもあまり時間をかけずにできる。そうこうするうちに雨も上がり、早速自転車を借りて彦根城めぐりに出かける。

国宝指定されただけのことはあって、彦根城天守は風格がある。ただし、堀の外側からはなかなかよく見えない。自転車であちこち位置を変えてみるが、よく見えるところがないので、早朝散歩をしている地元の人に聞いて、漸く写真を撮るのにいいポジションを教えてもらえた。


ホテルに戻って朝食を摂り、近江鉄道で彦根駅から鳥居本まで行って、街道歩きを再開する。
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駅から街道に入ったところに本陣跡の説明板があるが、今は草地となっている。本陣跡の隣が脇本陣跡だが、ここも往時の面影は無い。

しかし少し歩くと、街道筋には虫籠窓や卯建のある家、はたまたベンガラの塗られた格子戸の家が軒を並べ、なかなか往時を彷彿とさせてくれる景観を見せてくれる。


ほどなく、遠くから見てもわかるような昔の儘の合羽所松屋の看板が見えてくる。この松屋松本宇之輔店は丸太屋の分家。和紙に紅殻を混ぜた柿渋を塗ることで防水性と保温性を高めた鳥居本の合羽は、木曽に向う旅人に大変人気があったそうだ。


宿場の終わり近く、十字路の向こう右側に立派な常夜灯が見える。大変珍しい檜皮葺の常夜灯で、ここを右の方に行くと佐和山城が近い。


街道をしばらく進み、途中に見える専宗寺を過ぎて数分のT字路に「右彦根道 左中山道 京いせ」と刻まれた彦根道道標が建てられている。中山道と彦根城を結ぶ脇街道として整備されたが、朝鮮通信使が通ったことから朝鮮人街道とも呼ばれ、後日訪れる野洲で中山道と結ばれている。


街道を進むとやがて小野の集落に入る。小野は東山道時代からの古宿で、往時の面影が色濃く残る街並みとなっている。また、小野小町生誕の地ともいわれ、集落の先、道の左手に小野小町塚と呼ばれるお堂があり、小野小町を祀っている。


塚を出ると新幹線高架をくぐって、しばらく高架に沿って歩くと、やがて左手に用水が流れる原の集落に入る。


原八幡神社の参道を入ると、芭蕉の句を刻んだひるね塚と蕉門四世祇川居士の句と云われる白髪塚がある。
  - ひるかおに ひるねせうもの とこのやま - ひるね塚
  - 恥ながら 残す白髪や 秋の風 - 白髪塚


八幡神社の少し先に、井伊直弼の供養塔がある天寧寺五百らかんへの道標が立っている。


30分ほど進んで芹川に架かる大堀橋を渡ると、公園の前に床の山碑が建てられている。この碑の側面は芭蕉句碑になっている。
  - ひるがおに 昼寝せうもの 床の山 -


その先、石清水神社参道階段横の石碑は享和元年(1801)建立の扇塚である。
井伊藩の庇護を受けた能楽喜多流の9代目家元健志斎古能が、この地を去る時、面と扇を残したのだが、門人達がその面影を伝えるため塚を建立したのだと言われている。


朝の時間帯と言うこともあるのだろうが、鳥居本を出てからこの辺りまで、旧道はせいぜい一車線の幅しかない細い道にもかかわらず、車がひっきりなしに行きかうため、しょっちゅう立ち止まって安全確認をせざるをえなかった。旧道を歩いていて、これほど交通量の激しいところを経験したのは、初めてである。この辺りの住民にとっては、古い街並みも道路も普段の生活の中で生き続けているように思われる。
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64 高宮宿
高宮宿は、多賀大社の門前町として、また高宮布と呼ばれる麻布の集散地として栄えた宿場で、武蔵の本庄宿(埼玉県)に続く中山道第二の大きな宿場として繁栄し、今でも本陣跡や旧家、由緒のある寺社が点在する街並みには往時の面影が色濃く残っている。

やがて近江鉄道本線の踏切が見えてくる。踏切手前の街道際に高宮宿碑が建てられているが、碑の横に立つノッポな常夜灯は遠くからも目に付く。


踏切を渡って進んで行くと古い佇まいの家が立ち並ぶ街道が続く。すこし歩くと、高宮神社の鳥居が見えてくる。鎌倉時代末期の創建という古社である。


高宮神社の向かい側には座・楽庵と記された大きな看板が目に入る。ここは高宮布の仕入れ問屋布惣跡で、今はギャラリー兼喫茶室となっている。高宮布は周辺で産出した麻布で、室町時代から貴族や上流階級で珍重され、江戸時代には近江商人によって全国へ広まっていった。


江戸時代には大変な賑わいだった高宮宿も今は静かな佇まいの旧宿場町となっているが、街並みには卯建の上がった古民家が並び、郷愁を誘う提灯店がそれとなくあったりして、往時の賑わいを感じさせてくれる。


宿場の中央あたりに、多賀大社の大鳥居が立っている。鳥居は石造り、高さ11m、 柱の直径1.2m、柱間8mという大きさで、寛永年間の造営という。鳥居の脇には、「是より多賀みち」の小さな道しるべと13段の石段がついた珍しい形の常夜燈がある。多賀大社は古事記、日本書紀にも出てくる古い神社だが、街道から外れてここから1里ほどのところにある。


大鳥居の前を少し行くと、紙子塚の建つ小林家が見える。縁あって小林家に一泊した芭蕉だったが、紙子の汚い僧姿の坊さんぐらいに見られたようで、その夜、寒い思いをした芭蕉が次の句を詠んでいる。
  - たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子 -
その後、芭蕉と知った小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈るとともに、庭に塚を作って古い紙子を収めて紙子塚と名づけて代々大事にしたとのこと。紙子は紙で作った衣服のこと。


紙子塚のすぐ先が2軒あった脇本陣のうちの1軒で、問屋場も兼ねていた。脇本陣跡の先に立派な門構えが見えるが、ここは小林本陣跡で門のみが往時の姿を今に伝えている。


本陣跡の向かい側の円照寺に明治天皇ゆかりの止鑾松(しらんのまつ)がある。北陸御巡幸の帰途、円照寺に泊まることになった明治天皇だが、松が邪魔をして乗り物が通れないため、役人が松を切れと命じた。ところが、住職が抵抗したため、天皇にお伺いをたてると「歩くことなどいとわず」との返事。住職は、天皇の乗り物「鑾」を止めたので止鑾松と命名したという謂れがある。


円照寺を出て数分の犬上川に架かる橋は無賃橋という。彦根藩は、増水時の川止め解消のため地元の富豪に橋を架けることを命じ、一般からも寄付を募って橋を架けた。江戸時代、橋を渡るには通常お金が必要だったが、この橋は渡り賃不要であったことから無賃橋と呼ばれるようになったという。


無賃橋を渡ってしばらく進むと、往時をしのばせる建物が残る葛籠(つづら)町の集落を通る。かつては葛篭細工が特産であった。
葛篭町を抜けると、街道は広々とした田んぼの中の松並木を行く。ほどなく鳥居本宿の入口で見た「おいでやす彦根」と同じモニュメントがあり、「また おいでやす」と記されている。


葛篭町を抜けると間の宿石畑が近い。
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65 愛知川宿
愛知川宿は東山道時代からの宿駅で、古くから栄えていたが、宿場に制定されたのは江戸時代になってからで、宿はずれに流れていた川からその名がついている。隣の高宮宿と同様に近江上布を扱う近江商人によって栄えた宿場で、宿場先の五個荘は近江商人発祥の地と言われている。

豊郷町の四十九院交差点を通って7~8分歩くと、突如として広い庭のある立派な建物が見える。これは、昭和12年、伊藤忠兵衛商店の専務・古川鉄次郎が寄贈した旧豊郷小学校で、当時としては極めて珍しいコンクリート造りだったということだが、今でもこれ程立派な建物はなかなかあるものではない。


小学校の先に「一里塚の郷 石畑」と刻まれた石柱が立てられているが、ここは江戸時代後期に 間の宿として立場茶屋が設けられ、旅人で賑わった場所。石柱の後方に小さな石畑の一里塚が復元されている。


豊郷町役場前交差点の先にくれない園と呼ぶ公園があるが、ここは伊藤忠商店の創業者伊藤忠兵衛の功績を偲んで昭和10年に造られたもの。伊藤長兵衛は伊藤長兵衛商店の七代目であったが、伊藤忠商店と合併し株式会社丸紅商店を設立し初代社長となった人物である。
数分歩くと伊藤忠兵衛記念館があるが、ここは初代伊藤忠兵衛の旧邸であり、二代目忠兵衛の生家でもある。


この先、近江商人の屋敷や旅籠などが残る愛知川宿になるのだが、30度を超える暑さの中、照り返しがきつく、単調なアスファルト道路を歩き続けたせいで少し熱中症気味になり、このあたりで急に歩き続ける気力が萎えてしまった。やむなく、最寄りの豊郷駅から電車で少し先まで進むこととした。
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冷房の効いた電車の中で一息ついたら気力が戻ったので、豊郷から二つ目の五個荘で電車を降り、再び歩き始めることにした。
五個荘は近江八幡や、日野と並び、多くの近江商人を輩出したところであり、街道沿いには大きな風格ある家並みが残されている。

駅を出て街道に出ると、すぐ左に分かれる道のところに、「左いせ ひの 八日市みち」「右 京みち」と記された御代参街道道標が建てられている。東海道土山宿に至るこの街道は、京の公卿達の代参の者が伊勢神宮と多賀大社へ参詣するために通った街道であったことから御代参街道と言われるようになった。


御代参街道道標の先の三叉路にポケットパークがあり、太神宮と記された灯籠が建っている。


中山道はこの三叉路を右斜めに進み、大同川に架かる橋を渡って左折する。大同川は五個荘の町に沿って流れる川で、琵琶湖に流入している川である。


東近江市役所支所前を過ぎ、川から離れるとすぐ右側にお堂が建ち、道を挟んだ隣には風情のある茅葺屋根の家が見られる。


旧道をしばらく歩くと三俣と呼ばれている所に出るが、右手に常夜灯が乗る道標が建っている。常夜灯の台座には御代参街道と同じ「左 いせひの 八日市」「右京道」と記されていた。


ここで旧道を外れて右手に行くと重要伝統的建造物群保存地区となっている五箇荘・金堂集落があるが、今回はパス。
やがて若宮神社を過ぎ、県道326号線を越えたすぐ先、左側の東屋前に明治天皇北町屋御小休所碑が建てられているが、小休みしたのは斜め対面奥の旧市田邸である。
旧市田邸から5~6分、県道を越えた先に金毘羅大権現の常夜灯と手入れの行き届いた藁葺屋根の古民家が見える。ここは旧片山家住宅で大名も休憩した立場本陣であった。このあたり、藁葺屋根の古民家があちこちに見られ、なかなか風情がある。


その先に真っ直ぐな道が続いているが、10分弱歩くと国道8号に合流し、その合流点にてんびんの里碑が建てられている。この地域には中山道など多くの街道が通っている為、商業が発達し、後に近江商人と呼ばれる人たちが誕生した。近江商人はてんびん棒を担いで商売に活躍し、財をなした人が多く、五個荘をてんびんの里と呼んでいる。


国道8号に合流した中山道は100mほど先の交差点で右に曲がり、30mほど歩いたら左に曲がって山裾を進んでいく。
数分歩くと東屋の中に清水の湧き出す井戸があるが、ここは清水鼻の名水と呼ばれた立場があった場所で、今も滾々と名水が湧き出ている。

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66 武佐宿
武佐宿は、近江商人で有名な近江八幡との間で商人や物資の往来が活発で、伊勢へ通じる八風街道の追分でもあったことから、海産物、布、紙など物資の往来で賑わった宿場である。

清水鼻の名水を過ぎると、旧街道は安土町に入り、しばらくは見渡す限り広がる田んぼの中の道を歩く。


新幹線のガード下を通って地下道で国道を横断して少し行くと、深い森に囲まれた奥石(おいそ)神社がある。天正9年(1581)に再建された本殿は織田信長の寄進と云われている。神社を取り囲む森は、老蘇(おいそ)の森と呼ばれ、古くから歌枕として都人にも知られたところである。


大連寺を渡った所に道標が立っており、道標の正面には「中山道 大連寺橋」、右側面に「内野道 右観音正寺 左十三仏」、左側面に「内野道 右八日市 左安土」、裏面に「中山道 東老蘇 右武佐宿 左愛知川宿」と記されている。


鎌若神社、東光寺の少し先で用水路を渡るが、その右側に泡子延命地蔵尊御遺跡の石碑と説明板が立っていて、醒井宿の泡子塚と同じ伝説が記されている。泡子延命地蔵尊御遺跡のすぐ先に西福寺があり、その山門に並んで地蔵堂が建っていて、中に泡子地蔵が祀られている。


蛇砂川を渡ると大門跡と表示があり、その先は平安朝の時代から続く武佐神社。商売繁盛の市神様が祭られていることから市神神社とも呼ばれている。


武佐神社の先、右手に平尾家宿役人宅というのがある。二階が低い塗篭壁で、格子造りの趣のある建物で、この先にある大橋家と共に武佐宿場を取り締った役人の家であった。

奥村家脇本陣跡には立派な冠木門が設置されているが、今は武佐町会館が建てられており、往時の面影は見られない。


左側の洋館は旧八幡警察署武佐分署庁舎で、明治初期に建築された洋館として登録有形文化財となっている。


すぐ先の国道交差点を渡ると左側に大橋家住宅が見える。大橋家は400年前から続く商家で、宿役人を務めた時期もあったという。


武佐郵便局は下川家本陣があった場所だが、今は本陣門が残されている。


本陣跡の先にある十字路左側に「いせ みな口 ひの 八日市 道」と刻まれた八風街道道標が建てられている。八風峠を越えて伊勢に至るこの街道は近江地方に海産物を運ぶ重要な街道であった。
道標の先、愛宕山碑の後ろの一見民家風の建物は松平周防守陣屋跡。武佐は松平周防家が藩主であった武蔵国川越藩の飛び領地であったことから、この地に陣屋を置き領土の管理を行っていた。


陣屋跡から少し先、高札場跡に愛宕山常夜灯が立っている。
中山道はこの先で近江鉄道の武佐駅に突き当たり、右に曲がってすぐに左に曲がる枡形道となっている。
まだ帰途に就くにはすこし早いが、連日の暑さのせいか、次の宿場まで歩く気力体力に自信が持てなくなっている。今回はここまでとし、武佐駅から近江八幡まで行き、米原から新幹線で帰途に就くことにする。
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今回の街道歩き旅は、出発前日は台風と梅雨前線の影響を心配したが、結果的には3日間ともビカビカの天気となった。それどころか、むしろ日中の気温が毎日30度を超え、二日目は35度を越えるなど、連日のニュースや天気予報で熱中症に対する注意が報じられる状態であった。
歩いている途中でめまいがするようなこともあったが、美濃路から近江路に入る今回の旅路は、思っていた以上に見どころたっぷりで楽しめた。

地域の生活に溶け込んでいる御紅の渡しは、河渡の水害との長い戦いの歴史とともに、このあたりの暮らしが長良川とともにあるということを物語る。
美濃赤坂宿の街並みは、どこかどっしりとした感じで、赤坂湊を中心とした嘗ての賑わいが窺える。
芭蕉所縁の本龍寺のある垂井宿は、奥の細道結びの地、大垣に近い。年老いたおばあさんが一人でやっている亀丸屋の行く末が気になる。年寄り夫婦がやっていたが近年営業を断念した和田宿本亭旅館のように、高齢化の波がこうしたところにも押し寄せている。
関が原と言えば、天下分け目の戦いの場と言うのがすぐ思い浮かぶが、それよりおよそ1000年も遡る時代に壬申の乱がここで繰り広げられていた。この地に来て意外にも歴史の深さを知る。
不破の関を超えたあたりから、義経所縁の地が目立つようになる。また、嘗ての賑わいと風情がたっぷり残る柏原宿あたりからは、ベンガラを塗った独特の風合いの民家がそこここに見られるようになる。
醒ヶ井宿は、「三水四石」と呼ばれる名所だけあって、ハリヨとバイカモが生息する清らかな流れを目にすると、まことにさわやかな気持ちになり、しばし旅の疲れを忘れさせられる。
虫籠窓のある家や卯建のある古い家が左右に建並び、嘗ての宿場の雰囲気を色濃く残す鳥居本宿は、合羽が名物とは知らなかった。
近江商人所縁のものがそこかしこに残る愛知川宿の五個荘あたりは信長所縁の安土が近い。
武佐宿は、同じく近江商人で有名な近江八幡が近く、商人や物資の往来が活発で、武佐は市が立つほどであった。

旧街道の趣き深い木曽路から美濃路に入ったのはついこの間だったような気がするが、あっという間にその美濃路を過ぎて近江路に入っていた。不破の関を越えてからは、もう関西圏に入っており、どことなく雰囲気が変わったような気がする。

もう京都は近い。