2018年9月12日 一ノ関~台町~金成・赤児塚~岩ヶ崎~一迫真坂
2018年9月13日 一迫真坂~堂の沢~岩出山~小黒崎~鳴子温泉
2018年9月14日 鳴子・尿前の関~<中山峠>~堺田・封人の家~赤倉温泉
2018年9月15日 赤倉温泉~<山刀伐峠>~尾花沢
古の歌人の足跡をたどりつつ源義経を追慕する思いを胸に陸奥の長旅に出た芭蕉にとって、平泉は特に思い入れの強い地であった。その平泉への旅を終え、長旅の折り返し点に立った芭蕉は、元禄2年5月14日、出羽越えに向けて一ノ関を発った。
まずは一ノ関から少し南に行った台町の追分から脇街道の奥州上街道に入り、岩出山に向かう。奥州上街道は、陸奥上街道あるいは迫(はさま)街道とも呼ばれ、台町の追分から岩ヶ崎(現栗原市栗駒)を経て、岩出山の天王寺追分で出羽街道中山越に合流する。
天王寺追分に至った芭蕉は、そこから歌枕の小黒崎に足を延ばそうとするが、途中で引き返して岩出山城下に宿をとった。
翌5月15日、岩出山を発った芭蕉は、小黒崎・美豆の小島を経て、中山越えに向かった。途中、尿前の関では、手形不携帯のため関守に怪しまれたが、どうにかこうにか関越えを果たした。元々は、このルートを取らない予定だったため、出手形を用意していなかったことがあだとなったらしい。
そのあと、芭蕉は小深沢、大深沢といった難所を経て中山峠を越え、堺田の封人の家に宿をとった。
悪天候のため翌日も同家に泊まり、快晴となった5月17日、山刀伐峠越ルートで尾花沢を目指した。屈強の若者を道案内に立て、奥の細道で最大の難所ともいわれる山刀伐峠越えであった。
私の今回の旅は、一ノ関から尾花沢まで芭蕉が歩いた道を辿る予定なのだが、これまでになく行程の事前検討には時間を要した。
まず、芭蕉は一ノ関から岩出山まで一日で歩いているが、私にはとても無理なのでどこかで一泊しなければならない。ところが、台町から岩出山に至る奥州上街道には、なかなか宿もないうえ交通手段も極めて不便である。また、芭蕉が歩いたとされるルートについては、ところどころ“歴史の道”が整備されているが、詳しい資料が乏しく、結局は行ってみないとどうなっているか分からないような箇所がいくつもある。加えて、人気のない山道では、近年多い熊出没にも気をつけねばならない。
こうしたことから、今回は特に入念に事前調査に時間をかけ、日程的には少し余裕をもった計画にした。
9月11日夜11:20、一ノ関行高速バスで池袋を出発、翌朝4:45に一ノ関に到着。初日は一ノ関から岩ヶ崎を経て一迫(いちはさま)真坂まで行き、栗原までバスで行って宿をとる。二日目、バスで再び真坂まで戻り、千本松長根などを経て岩出山を訪れ、小黒崎を経て鳴子で宿をとる。三日目、鳴子を出てまず尿前の関を訪れ、難所の中山峠を越えて堺田・封人の家を訪れたあと、赤倉温泉で宿をとる。そして四日目、いよいよ山刀伐峠を越えて尾花沢に至る、という計画である。
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一関・台町~蔵主沢
9月12日、まだ夜も明けぬうちから歩き始め、一ノ関駅前から国道284・342号(一関街道)を仙台方向に少し南下し、台町で奥州上街道は右の細い道に分かれてゆく。
上街道に入るとすぐ先に大きな庚申塔と小さな道標が並んで立ち、道標には「これ従 右ハはざま道、左ハせんだい道」と刻まれている。
すぐ先右手には、一関藩主田村家の菩提寺の祥雲寺があり、また、10分ほど先の長昌寺には、一関藩の時の太鼓が納められている。当時、城下に時を知らせるのは寺の鐘が普通で、太鼓を打ち鳴らすのは皇居、幕府、御三家のほかは禁じられていたので、「一関には過ぎたるもの二つあり、時の太鼓に建部清庵」といわれた。ちなみに建部清庵というのは、江戸でオランダ外科を学んで一関藩藩医となった人物。
長昌寺を過ぎるころには、背後から朝日が差してきた。
朝日を浴びて黄金色に輝く稲穂を眺めながら、山里ののどかな道を歩く気分は最高である。
少し先に行ったところに、泊街道一里塚跡(新山)の標柱がポツンと立っていた。
台町の追分から3kmほどの蔵主沢に来ると、舗装道は左右に分岐し、これらに挟まれる形の正面の山道の裾に「奥の細道 蔵主沢」と書かれた道標が建っている。この山道が奥州上街道なのだが、すっかり雑草に覆われていて人が歩いた形跡がないうえ、道標の横にいかにも怖そうな熊の写真付きの注意書きが置かれている。ここは無理せず、少し回り道となるが、右の市道を迂回して刈又の方に行くことにした。
<刈又一里塚>
市道を1kmほど行くと東北自動車道のガードがあり、ガードを抜けた突き当りに刈又一里塚への道標が立っている。これに従い、左に700m程行くと、先ほどの蔵主沢から来る旧道が抜けて出るガードが見えてくる。ところが、この時、たまたまガードのところが工事中で通行止めになっていた。結果的には、蔵主沢で旧道を選択せず、迂回路をとって来て正解だった。
ともあれ、このガードを抜けて出たあたりには、苅又一里塚の説明板が建てられていた。
ここで、右手のやや広く整備された旧道に入って行くと、すぐ先で芭蕉行脚の道の標柱が立っているところが二股になっている。
右側のひじまがり坂と呼ばれる上り坂を500m程行くと、奥の細道文学碑が見えてきて、正面に左右一対の形を残す苅又の一里塚が見えてくる。ややこじんまりとした一里塚だが、辺りは往時の旧道の情緒がたっぷり残っている。
苅又一里塚から先の道は、標識も何もなく、どこをどう歩いているのか、先がどうなっているのかも分からず、少し不安を抱きながらも、ひたすら道なりに前進して行く。事前に調べた国土地理院の地図では、岩手と宮城の県境に沿っている道ではないかと思われるが、確証はない。1kmほど行くと、一関カントリークラブのコースが見えるところに至り、その先の道は鉄の扉で遮られていて先に進めなくなっている。たまたま、近くにいた作業員の方に扉を開けていただき、フロントに電話でコース内の通過をお願いしてなんとか事なきを得たが、ここは古道がゴルフ場の敷地内を通るようになってしまっているのである。奥の細道を辿って歩く人は、たいがい同じ目にあってしまうようだ。
早々にクラブハウスの脇を通り、吉目木坂を下っていくと、交差点手前左側に石碑群と奥州上街道の標柱が並んでいた。
その先の交差点を直進していくと、路傍に奥州上街道の標柱が立っている。ここからしばらくは、緩やかな峠道を進んで行く。
30分ほど歩くと、やがて峠を越え、右からくる道と合流した先で金流川を越える。橋の脇に芭蕉行脚の道赤児大橋の標識が立ち、あたりには田園風景が広がっている。
苅又の一里塚とゴルフ場を無事通過できてホッとしたこともあり、田を渡る秋めいた風が格別心地よく爽やかに感じられた。
赤児大橋からのんびりと田圃の中の道を進み、やがて県道182号線に出たところで右折していく。
まもなく右手に八幡神社の赤い鳥居が目に入ってくる。その少し先、道が大きく右にまがるところに赤児塚がある。
奥州藤原秀衡は歌舞を好み、そのなかで舞の上手な春風という少年を寵愛していた。他の舞童がこれを妬み、春風を殺して当地に埋めたという。里人は春風がいつも紅色の衣を身につけていたことから赤児塚と呼ぶようになり、塚があるこのあたりを”赤児”と呼んだと伝えられている。
県道は赤児塚から700mほど西に行ったところで町道と交差するが、その右側に芭蕉行脚の道の大きな説明板が建てられている。ここは、交差点を直進して一路栗駒岩ケ崎をめざす。
ここから先、しばらくは左手に金成牧場を遠目に眺めながら進む。
やがて、栗駒の街への入り口看板の立つあたりからは、栗駒岩ケ崎の街までは長く緩やかな下り坂の県道を6km余り淡々と歩くことになる。
岩ヶ崎
現在、栗駒岩ケ崎と呼ばれるこの辺りは、芭蕉の時代、岩ケ崎と言われていた。
岩ケ崎は、中世から明治維新まで続いた鶴丸城の城下町で、枡形の名残がある街並みは、末町、四日町、八日町と続き、六日町と茂庭町を通過して三迫川を越えていく。
八日町の変則十字路の右手には、「奥の細道 岩ケ崎鶴丸城跡」の説明板と名残の松が立っている。城址は栗駒小学校の北側の山にあり、ここは城址には立ち寄らず、先を急ぐ。
街中を抜けると、上街道は国道457号をしばらくは真直ぐに南下する。やがて、国道は尾松郵便局の交差点で西に分かれ、上街道は県道17号となって二迫川に架かる島巡橋を渡る。
芭蕉衣掛けの松へ
島巡橋を渡って600mほど南下すると、県道はまもなく二手にわかれ、県道42号線は南東方向へ、上街道の県道17号線は右に折れて西に向かう。
県道17号線を700mほど行くと、右手に鳥合神社里宮が見え、左手に史跡奥州上街道入口の標柱が立つ交差点にさしかかる。この標柱には「真坂を経て岩出山に至る。約1000mの地点に芭蕉衣掛の松がある」と示されている。ここを左折して田んぼの中のまっすぐな道をしばらく行くと、雷神社の幟と「芭蕉衣掛けの松
直進900m先」の標柱が立つ。この道が旧街道、祠堂ヶ森への道である。
さらに真っすぐに森に向かう細い道を進むと、やがて森の入口に「芭蕉衣掛けの松←徒歩20分」の立て札が立っている。標識に従い、左方向に森を入っていくと、右手に雷神社参道入口の赤い鳥居が見える。
思っていたより広くゆったりした山道だが、先日の台風の影響か、倒木が道をふさいでいたり、ところどころぬかるんでいたりする。
しばらくそのような道を進むと、やがて緩い下り坂となって、舗装された農道に合流する。この合流点手前の左手に、芭蕉が衣を松の枝に掛けて一休みしたという芭蕉衣掛けの松の切り株が東屋に覆われてあった。
今は、周囲の木々が高く、遠望を妨げているが、かつてはこの峠付近は眺望佳景の地として知られ、栗駒山はもとより、北は束稲山まで見晴らすことができたという。
一旦、農道に出て右に進むと、150mほど先で道が大きく右に曲がる手前、道の左側に草生した道が続いているような感じがした。一見これが祠堂ヶ森の古道かと少し不安になるが、入ってみると10m程行ったところに「奥州上街道」の標識が立っている。どうやら、古道に間違いないが、ここも倒木が道をふさいでいたり、ところどころぬかるんでいたりする。
やがて祠堂ヶ森を抜けて、広域農道大又-割山線に出る。古道の出口には「奥州上街道」、「奥の細道 祠堂ヶ森」の標柱が設けられている。
上街道は、広域農道に出て右に行くとすぐに県道17号線に入り、このあと真坂までやや単調な道を淡々と歩くことになる。
一迫(いちはさま)真坂
やがて、一迫川を渡る手前右手に龍雲寺が見えてくる。寺の後方の高台は真坂館と呼ばれる城館の跡である。地元豪族の居館といったものであるが、政岡の墓があるということでも知られているようだ。ここより手前の龍雲寺の東側に位置する山稜上には、真坂館よりも規模が大きい姫松館が築かれており、城館の跡が残されている。栗原一帯にはこうした城址がいくつもある。
一迫川を渡り、すぐ先で長崎川を越えて真坂の街中を進んで行くと、街はずれの南町の秋葉神社に芭蕉の時雨塚がある。
この時雨塚は、寛政12年(1800)の建立で、地元の俳人午夕の門弟が次の句を刻んで時雨塚としたものである。
- 今日ばかり 人も年寄れ 初時雨 - ばせを
- 野は仕付けたる麦の新土 - 許六
- 春雨も 時にとりてや しぐれ塚 - 午夕
今日は、ここからバスで栗原・築館の方に行き、宿をとることにしている。上街道から少し外れることになるが、一関から岩出山に向かう上街道では宿泊や交通の便が悪く、事前にいろいろ調べたが、ほとんど選択の余地がない。
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二日目、バスで真坂に戻り、歩き旅を再開。
堂の沢
真坂宿を出た街道は再び県道17号線に合流し、やがて県道59号線を左に分岐して、岩出山に向かって南下する。分岐してすぐ右手の沼のほとりに水神社の説明板が立っている。雨乞いの神として信仰された神社で、11世紀にはすでに祠堂があったという古い歴史をもつらしいが、あたりに神社らしきものは見当たらず。
そこから1kmほど行った所に、堂の沢一里塚の跡地があるということだが、それらしいものは何も見当たらなかった。あたりには、真山御上バス停のある広場のようになっている。
この先、堂の沢から天王寺一里塚まで、歴史の道・陸奥上街道は県道17号線の北側に旧道が断続的に整備され、国指定史跡となっている。源頼朝の軍勢が勇ましく駆け抜け、芭蕉が出羽を目指したこの上街道は、中山道、熊野古道とともに日本三古道のひとつに数えられている。
真山御上バス停付近に国指定史跡陸奥上街道の案内板が立っており、そこが旧道の東端の入口になっている。しかし、この入り口にはクマ出没注意の看板がしっかり立てられており、地元の人の話によると、最近もこの辺りで実際に熊が出没しているという。
折角よく整備された旧道だが、あまりリスクを取るのも何なので、ここは県道をそのまま行くこととした。
奥州上街道・千本松長根
真山御上バス停から1.5kmほど先、「国指定史跡奥州上街道 千本松長根300m」の標識が立つ丁字路にさしかかる。角に馬館バス停のある丁字路を右に曲がると、すぐ右手に「馬館跡」「馬館古墳群」の標柱が建っている。このあたりは馬館と呼ばれる所で、かつて真山地区の中心地で、駅舎を置いて駅馬の継立を行ったほか、馬市も開かれていたという。
丁字路を右折して200mほどの左側に千本松長根への案内表示が立ち、その先に上街道臨時駐車場が見える。入口に表示がないので、ちょっと分かりにくいが、吉野川を渡ってすぐ右手に入って行くと、歴史の道説明板があり、その先は石畳の坂道になり、やがて赤松の並木が見えてくる。
この千本松長根は、空に向かって真直ぐに伸びた松並木が尾根伝いに1.5kmほど続いていて、明るく心地よい遊歩道となっている。
途中、多数の馬頭観音など石塔群が立ち並び、少し先には東屋があったり、「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」と刻まれた奥の細道文学碑が建っている。
松並木の終わりに「歴史の道上街道案内図」と、磯良(いそら)神社への案内標識が立っている。この先、磯良神社までの道は分かりにくいが、あとで確かめると、事前に調べた国土地理院地図が正確だということが分かった。現地では、随所に置かれている案内板に素直に従うのが間違いない。
ちなみに、国土地理院地図では松並木の終点から磯良神社は左方向に行くようになっているが、現地の案内標識の矢印が右を向いているので、一瞬不安がよぎる。しかし、案内標識通り右に行くと、鼻こくり坂とよばれる短く急な坂を下りると、すぐに林道にでて左に行くようになっていた。
案内板に従って道なりに山道をしばらく進むと、やがて磯良(いそら)神社の鳥居のところに至り、そこから少し行った沼のほとりに、ポツンと神社が鎮座している。おかっぱ様と呼ばれ、河童を狛犬としている神社は、何となく親しみを感じるが、創建は坂上田村麻呂東征の時に遡るという。
鳥居のところに戻ると、そこからさらに“歴史の道”は狼塚の方に向かって続いている。この先も、“歴史の道”を行きたいところではあるが、この上さらに熊出没の心配をし続けて歩くのもためらいがあるため、ここから先は、比較的安心して歩ける県道で岩出山に向かうことにする。
天王寺一里塚・天王寺追分
長く緩やかな上り坂が続く県道を3kmほど行くと、天王寺一里塚に至る。岩出山地内で一里塚が築かれたところは、堂の沢、赤新田と天王寺だが、現存するのはこの天王寺一里塚のみである。
一里塚から少し南に進み、県道から右に外れると、程なく天王寺追分に至る。分岐点には、江戸期に道標を兼ねて建てられた山神塔のほか、上街道・奥の細道のルート図などが建てられている。
一ノ関の台町で奥州街道から分岐し、岩出山に至る奥州上街道は、この天王寺追分で出羽街道に合流する。出羽街道は奥州街道の吉岡宿から分岐して岩出山、尿前、中山峠を経て羽州街道の舟形宿に至る道である。
この追分から岩出山の方へ少し行くと、天王寺への入り口を示す石標が建っている。天王寺は、推古天皇の時代に、我が国の4か所に建立された四天王寺の一つと伝えられている。
岩出山
岩出山には、伊達家霊廟や岩出山城趾があるなど、伊達家所縁の地である。岩出山城は伊達政宗が仙台に入城する前まで拠点としていた城で、天守跡には政宗像が立っている。
芭蕉は当初、中新田・小野田経由で尾花沢に向かう予定であったため、天王寺追分に至った後、この日のうちに歌枕・小黒崎に寄り道しようと、一旦は向かった。しかし、一栗まで行った辺りで、小黒崎まではまだ2里余りあると知り、夕暮れが迫ったため、結局は小黒崎行きを断念し、岩出山に戻って1泊した。
翌日、芭蕉は、当初考えていた中新田・小野田経由のルートから、小黒崎を通る鳴子経由に変更している。岩出山から天王寺追分まで行き、そこから山裾伝いに一栗、下宮に向かった。
岩出山には、芭蕉が訪れた2年後の元禄4年(1691)、伊達家3代敏親により、武士の子弟を教育するため学問所として開かれた有備館がある。江戸期のものとして残る最古の藩校建築で、岩出山城本丸の断崖を借景とした回遊式池泉庭園とともに国の史跡・名勝に指定されている。
有備館を見物した後、小黒崎に寄るため、有備館の目の前の陸羽東線(奥の細道湯けむりライン)有備館駅から、下宮の池月まで電車で行くことにした。下宮は出羽街道中山越の宿駅で、歌枕・小黒崎は下宮から3kmほどのところにある。
小黒崎・美豆の小島
池月から、小黒ヶ崎の向かい側の小黒崎観光センターを目標に国道を行くと、なんと観光センターは廃業しており、建物や駐車場は荒れ果ててしまっている。以前は、駐車場の小庭園に芭蕉像が建てられていたらしいが、それも今は撤去されていた。
小黒ヶ崎は標高245m、長さ800mの一見何の変哲もない小山だが、よく見ると、所々岩が露出している山肌に姿の良い赤松がぽつぽつと見られる。今は季節が早いが、平安朝の時代から都にも知られた紅葉の名所で、単に、紅葉がきれいということでなく、岩場に根を生やしている赤松の緑と紅葉の調和が他ではなかなかない景観ということが想像できる。
小黒ヶ崎から少し先の国道脇に、美豆の小島の案内標識が立っている。ここから西方に少し行くと、歌枕で知られる美豆の小島の説明板が置かれた小公園があり、そこからさらに江合川河原に下りて行くと、美豆の小島のところに至る。
現在、美豆の小島は江合川の河原にあるが、芭蕉が立ち寄った当時は、対岸に接していたようである。江合川の流れの中に何百年にも亘って佇む小島の姿があったともいうが、洪水などにより時代によってその景観は変わってきているようだ。今は、草木が伸びていて、往時の面影は感じられなくなっている。
今日は、尿前の関手前の鳴子温泉の宿を予約しているが、ここからまだ2里ほどもある。
途中の川渡(かわたび)温泉にたどり着いたところで、チェックインが少し遅れるかもしれない、と電話したら、川渡温泉駅まで迎えに来てくれることになった。
鳴子温泉
鳴子温泉郷は1000年を超える歴史を持っており、源義経が兄・頼朝に追われて平泉へ落ちのびる途中に鳴子を訪れたことや、芭蕉が奥の細道の旅で鳴子から尿前を通る中山越を選んだことで、義経や芭蕉にちなんだ名所旧跡や古道なども数多く残されている。
本日の宿は、創業140余年という温泉宿である。到着後、さっそく湯に浸かったら、ほどなく夕食となった。
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翌朝、朝食前にまずは朝風呂にゆったり浸かる。前日、宿の御主人に、奥の細道歩き旅ということを話していたため、宿を出立の際、この先の中山越についていろいろ参考情報を頂けた。この先、尿前の関から境田・邦人の家まで芭蕉の歩いた古道が非常によく整備されているのだが、ここでも熊出没注意ということと、人里離れた区間が長いので飲料を十分準備するようアドバイスされた。
出羽街道の岩出山から堺田までは中山越と呼ばれ、国の史跡に指定されている。中でも、尿前から境田までの区間については、旧鳴子町(現大崎市)が出羽街道中山越復元整備を行い、遊歩道や案内板などが整備されている。この区間については、道標が随所に整備され、奥の細道散策マップがしっかり作られている。
尿前の関
往時の中山越の道は、江合川の北を大畑、中屋敷を経由して東西に延び、岩渕から対岸の尿前へは綱渡しで通じていた。
今回泊まった宿からすぐの鳴子大橋を渡ると江合川の北に出るのだが、今は、岩渕の渡しがないため、国道47号を行ったこけし資料館の少し先で江合川支流の大谷川を大谷橋で渡る。尿前の関跡へは、橋を渡ったところで国道から分かれる右側の細い道を下ってゆく。
いかにも古道らしい趣のある道を下ってゆくと、関所を模した門と柵が見えてくる。
この関所は、代々関所を警備した遊佐氏の屋敷で、この屋敷が尿前番所として機能し屋敷内に岩出山伊達家の役人が詰める番所が築かれていた。街道は関所の中を通り、番所の表門と裏門に遊佐氏一族と村人が配置されていた。
当時は、中山峠を越える道が難所であるため尿前の関を通行する旅人は稀であった。その上、芭蕉と曽良は出手形を所持していなかったため、関守に厳しい取調べを受けることとなったが、その日の内に放免されようやく関越えを果たした。出手形は、領内に入る時に発行されたものを、領外に出るときに差し出すきまりになっている。
尿前の関~中山宿
関所の門の向かい側のハヤシの中に古い芭蕉句碑が建っており、その奥に薬師神社の小さな祠が見える。
その横から急勾配の尿前坂を上っていくが、上り口には「出羽街道中山越」の道標や説明板が立っており、いよいよ中山越の難所が始まることを示している。
尿前坂を上ると一旦国道47号に出るが、国道を横断した先から今度は薬師坂を上り、岩手の森に出る。この森は、尿前の関所が坂下に移るまで番所が置かれていた所で、源義経に同道して平泉に下るときに、腹痛を起こした北ノ方が山鳩に救われたという伝説の地であり、そのお礼として義経が弁慶に建立させたという薬師堂の跡地でもある。
旧道は薬師坂を上りきったところで日本こけし館から延びる町道に合流する。これを右に100mほど行くと、斎藤茂吉が芭蕉の道を訪ねて詠んだ「元禄の芭蕉おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり」の碑がある。この碑の右手奥、道路からは見えないところに薬師堂跡が隠れている。
この先で旧道は町道と別れて直進し、鳴子トンネルの上を跨いだ後、小深沢橋の北詰で再び合流することになっているのだが、旧道入口に鎖がかけられていたため、そのまま町道を行き、トンネルの先で国道に合流して小深沢橋まで進んだ。
小深沢橋の北詰の小深沢入口に来ると、なんと、この先の小深沢の「橋流失の為通行止め」の看板が掛けられている。そこに記されている説明に従い、やむなく、少し先の神奈川県出身歌人・前田夕暮の歌碑に向かう道を入って行く。この道は、“ふるさとの森”を通る心地よい遊歩道となっている。
前田夕暮の歌碑の少し先で、再び小深沢から来る歴史の道にでる。
旧道は再び原生林に入り込み、その先の明るく陽が差す平坦地をしばらく行くと道標があって、大深沢へは直進、左は国道47号へ抜ける道が示されている。
まっすぐ進めば、ほどなく大深沢に至るのだが、少し回り道をして、ここは国道に出る道に進むことにする。近年、紅葉に染まる鳴子峡が景勝地として有名だが、前日泊まった宿の人にそのお薦めビューポイントを聞いていた。大深沢橋の真ん中で立ち止まってみると、下が見えないほどの深い渓谷が、スケールの大きい素晴らしい景観を見せてくれる。
たまたま、観光客の人が近寄ってきて、あと5分すると遠くにわずかに見えるトンネルを電車が通過する、と教えてくれた。折角なのでしばらく待っていると、観光パンフレットなどに紹介されているカットを、ほんの一瞬のことだったが撮ることができた。紅葉の時期に来たら、間違いなく絶景が楽しめると実感する。
少し得した気分で国道を進み、少し先で“鳴子峡大深沢遊歩道“の案内板に従って右に入り、遊歩道を経て大深沢のところで再び旧道の歴史の道に入る。
木々の間から明るい陽が漏れる遊歩道を行くと、右側の遥か下の方から大深沢の清流のせせらぎが聞こえて来て、すこぶる心地よく歩けるところである。
往時は、大深沢は軍用の要衝として橋をかけなかったため、深い谷底へ下りて越さねばならなかった。もともと出羽街道中山越の道中、鳴子峡一帯は坂や歩渡が多く、この街道中最も険しい道筋だったが、中でも大深沢は最大の難所であった。
心地よい遊歩道が歴史の道に合流すると、こうした大深沢の西側の幾重にも続く坂道を上ることになる。
坂が切れると旧街道は平坦な峠道となり、緩やかな坂を下りるとやがて国道47号に合流する。途中、右方の路傍に青面金剛童子碑が見られる。
青面金剛童子は、庚申講の守り本尊として祀られるもので、庚申の日の夜人体に棲む三尸虫(さんしちゅう)がその人の罪を天帝に伝えるとされ、これを防ぐため地域の人々が一軒の家に集まって、寝ずに一夜を過ごしたという。
中山宿
国道に下りたところから中山平温泉郷を左に見て2kmほど行くと、道の右側に中山宿跡の説明板が立つところに至る。中山宿は、玉造郡における岩出山、下宮、鍛冶谷沢、尿前の各宿が成立した後に設けられた宿駅で、設営にあたっては鳴子村の初代肝入(庄屋)遊佐氏六代平八郎宣重や七代平左衛門が大きな貢献をしたという。
旧道は、中山宿跡の説明板のところから国道と分かれ、集落の間を抜けて山中に入る。その際(きわ)に、幕末の大肝入遊佐甚之丞が平左衛門の得を偲んで建てたという遊佐大明神碑と岩渕地区の人々が建てた岩渕大明神碑が見られる。
さらに、その先には山神社が鎮座している。
この地の義経伝説によると、義経一行が中山宿にさしかかった時、難産で困っている里人がいた。弁慶が錫杖(しゃくじょう)を作り、観世音菩薩を祈ったところ無事に出産したという。その後、里人は錫杖を本尊として山神社を建立、以来、安産の神として信仰されている。山神社鳥居脇には青面金剛童子碑が、さらに近くには子育て地蔵尊がある。
中山越の道中には、史跡が多いが特に中山宿には数多くの史跡がみられる。
この先、旧街道の風情を残す杉並木の道が200m近く先まで延びている。
軽井沢越
杉並木が途絶えた先からのどかな田園風景が広がり、西原地区の平坦な道筋が1kmほど続いている。これを西へ行って道標のところから左に折れ200mほど行くと、小柴山からの清水を流す軽井沢の谷が見えてくる。軽井沢は、小深沢や大深沢のような険しさがなく、古道の風情を楽しみながら歩くことができる。
軽井沢の谷からさらに西へ行くとやや開けたところに庚申塚の立つ休憩所があり、道標が立っている。このまま旧道を行けば、義経に所縁ある甘酒地蔵尊の方に向かうが、徐々に古道の趣が薄れるとのことなので、少し遠回りすることになるが、ここから国道に抜けることにした。
国道に出てしばらく行くと山形県との県境に至る。この付近で、甘酒地蔵の方から来る“歴史の道”は国道47号と交差し、中山越の“歴史の道“は最後の区間に入る。
この区間は短くて、ほどなく旧道を抜けると、封人の家が目の前に現れる。
邦人の家に寄る前に、小腹が空いていたため、向かい側の芭蕉茶屋で蕎麦を頂くことにした。ここに来るまでに持参していた飲み物が空になっていて、喉がカラカラだったので、出していただいた冷たい麦茶を数杯一気に飲み干した。冷たくておいしいと感想を伝えたら、うちの水は井戸水だから冷たくておいしいんだといい、空になったペットボトルに水を詰めてくださった。お蕎麦も当然この水を使っているので、冷たくて大変美味しく感じられた。一息入れたところで、あらためて邦人の家を訪れる。
境田・<封人の家>
芭蕉が元禄2年5月15日(陽暦7月1日)から3日間逗留した邦人の家は、庄屋で、国境を守る役人と問屋役を兼務した有路家の住居であった。昭和44年に重要文化財に指定されている。”封人”とは国境の守役のことで、芭蕉は奥の細道に次のように記している。『大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。』 そして、かの有名な句が続く。
- 蚤虱 馬の尿する 枕もと -
かつての堺田村は、新庄藩の保護・奨励のもと馬産地として発展し、有路家も常時、数頭の母子馬を飼っていたという。馬屋が家の中にあって、馬が家族同様に大切に飼われていたという、東北地方などではよく見られる生活様式であった。
家の中に一歩足を踏み入れると、右手にいきなり馬の顔が現れて少しびっくりするが、よく見るとよくできた張り子の馬であった。
目を転じると、広い土間の奥に大きな部屋がいくつもあって、むしろかなり大きな屋敷だということに気が付く。しかも、芭蕉が実際に逗留した部屋は、中座敷と言われていて、馬屋から土間といろりのある御座敷が間にあって結構離れている。
封人の家を詠んだ句は、現代人の感覚からすると、ひどく汚いメージを抱かせる。私自身、ここに来てみるまでは、芭蕉はよほど酷いところに泊まったものだというイメージを抱いていたが、実際、来てみたらなかなか立派な屋敷なので、少し意外な感じがした。むしろ、芭蕉は、親しみを込めて詠んだものらしい。
そんな気持ちを察しているかのように、管理人の中鉢さんが、囲炉裏で沸いている湯で、お茶を入れてくださり、邦人の家のことや芭蕉のことなど、親切丁寧にお話ししてくださった。
私が奥の細道を辿る旅をしていることもあって会話が弾んだが、話を伺っていうちに、心からこの文化遺産を大事に思っていることが伝わってくる。中鉢さんの穏やかなまなざしが、印象に残った。
雨も上がった5月17日、芭蕉は、封人の家を発ち、山刀伐峠に向かった。当時、堺田から尾花沢へのルートは向町、満沢を経て岩谷沢に抜ける背坂(せなさか)峠越えが一般的で、芭蕉も、当初、このルートを予定していたが、この経路が遠回りであることを知り、急遽、一刎(ひとはね)経由の山刀伐峠越に変更している。
赤倉温泉
境田から山刀伐峠に向かう途中、口留番所が置かれた笹森を経て赤倉温泉に至る。
赤倉温泉は、慈覚大師が東国巡礼の旅に出たときに開いたと伝えられ、宿泊施設が小国川沿いに点在している。小さな温泉街だが、山刀伐峠を控え、本日はここで宿をとっている。
夕食前に早速、温泉に浸かってみた。那須の鹿の湯ほどではないが、前日泊まった鳴子の宿の湯がややぬるめだったのに引きかえ、こちらは結構な温度で、体の芯まで温まって、ここに来るまでの疲れが取れるいい湯であった。
大きなザックを背負ってる私の風体を見た宿の御主人は、奥の細道を辿って歩いているのかという。そうですというと、以前にもそういう人がいて、この宿に泊まったことが紀行本に書かれて以来、同じように奥の細道を歩く旅人がたまに訪ねてくるのだという。この地域の奥の細道にまつわる話や、この先の山刀伐峠の様子など、いろいろ話を聞かせてくださり、ありがたい情報となった。
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今日は、いよいよ今回の旅の最後の難関・山刀伐峠に向かう。
宿を発って県道に出ると、長く緩やかな坂道が続き、途中で一刎の標識や山神社を見て進むと、やがて県道の山刀伐トンネルが見えてくる。
山刀伐峠越
トンネル直前の左側に山刀伐峠入口の表示があり、ここを左に入ると、山刀伐峠入口の表示がしっかり出ている旧県道とその右手に芭蕉が歩いた”歴史の道”の入り口がある。その入り口は、ちょっと分かりにくくなっており、うっかりすると旧県道の方に行ってしまいそうだ。
”歴史の道”は「二十七曲り」と言われる曲がりくねった山道で、鬱蒼としたブナ林に覆われて、手付かずの自然が残っている。一歩足を踏み入れると、いつ山賊が現れてもおかしくないような雰囲気に一変する。
山刀伐峠の名は、刀を持った追い剥ぎがこの辺に出没したことからそう呼ばれるようになったという説や、民具「なたぎり」にちなんでいるという説が知られている。なたぎりとは野良仕事用の藁製作業帽で、一方が急で一方がなだらかなその地形を、なたぎりの形にたとえたわけである。たまたまそのなたぎりが、前日立ち寄った邦人の家の展示品の中にあった。
芭蕉は奥の細道本文で、この峠越えについて次のように記している。
『あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て人を頼侍れば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必ずあやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云ふにたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行くがごとし。』
山刀伐峠は標高470m程度の山だが、東の斜面は急勾配のため全長800mの坂道を右へ左へと方向を変えながら上っていく。このような道を20分ほど上ると、峠の頂上の少し手前で旧県道の広い駐車場に出る。そこからから頂上までは、階段を上ってすぐである。
山刀伐峠の頂上には東屋が建ち、そこから月山や朝日連邦を一望することができるらしいが、曇っていてよく見えなかった。東屋の近くには、山刀伐峠越の碑や子宝地蔵尊、子持ち杉が見られる。
頂上を過ぎると、道は緩やかに下る道となるが、東側斜面の道程が800mであるのに対し、西側は3000mと4倍に近い距離がある。
時々、旧県道に合流しながら緩やかな下り道を歩くと、入口から1時間ほどで峠の出口で県道28号線に出る。そこには大きな「尾花沢市」の標識と「奥の細道
山刀伐峠」の案内標識が立っている。
ここから先、尾花沢市街地までこの県道を歩くことになる。
峠越えを終えた芭蕉は、しみじみと次のような感想を述べている。
『雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。』
奥の細道が単なる紀行文ではなく、洗練と推敲を重ねた文学作品であり、太平洋側から日本海側に移る奥の細道の文脈上重要な変曲点として、邦人の家と山刀伐峠は芭蕉特有の創造性をもって象徴的に記されているところではあるが、よほど身に応えたというのが本当のところなのであろう。
山刀伐峠出口~尾花沢
峠の出口から40分くらい歩くと、市野々の集落に至る。ここは、尾花沢への一般道である、堺田から向町、満沢を経て尾花沢の岩谷沢に抜ける背坂(せなさか)峠越えの道が合流するところである。案内役の男とは、この先あたりで別れたらしい。
この辺りから、道の横に広がる田圃は棚田としてよく知られている。新潟や長野などで有名な棚田とは異なり、斜面はそれほど勾配が急でなく、田の一枚一枚はかなり大きく広いものである。
言われてみないと、棚田と気が付かないくらいのものだが、これが尾花沢の市街近くまで続いている。山形県では、「やまがたの棚田20選」を選定するなど、棚田の素晴らしさやそれを守る地域の活動に積極的に取組んでいるようだ。
尾花沢
芭蕉と曾良は、途中、夕立に降られながらもようやく尾花沢にたどり着き、鈴木清風のもとを訪ねた。清風は当時、紅花などを江戸や京都に売る店の若旦那で、江戸で過ごしたした時期に俳諧をたしなんでいたことから、芭蕉とは旧知の間柄であった。奥の細道に、『かれは、富めるものなれども、心ざし、いやしからず。 都にも折々かよひて、旅の情をも知りたれば、日比(ひごろ)とゞめて、長途のいたはり、さまざまともてなしはべる。』と記している。
清風宅は今はないが、その跡に隣接して芭蕉・清風歴史資料館がある。町屋店舗を移転復元したもので、芭蕉、清風に関する資料ほか、古民具等が展示されている。
清風は、芭蕉を一晩泊めたあと、紅花の花摘みや養蚕の仕事で繁忙であったため、近くの養泉寺に案内した。芭蕉は、結局、養泉寺に7泊、清風宅に都合3泊し、尾花沢には10泊の長逗留している。この間、句会に参席したりしながら、ゆっくりと過ごし、身と心を休めた。
養泉寺は、清風邸から少し離れた梺町にある天台宗の寺で、江戸時代まで上野東叡山寛永寺直系の寺院として格式を誇っていた。
芭蕉が訪れた前年に伽藍が大修理されたばかりで木の香も新しく、高台に立地する養泉寺には涼しい風が吹き込むなど、芭蕉にとって旅の疲れを癒すに絶好の休み処となった。
養泉寺の境内にある涼し塚には「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑がある。
涼し塚の後ろの芭蕉連句碑には、芭蕉が尾花沢滞在中に巻いた歌仙の4句(芭蕉3句、曾良1句)が刻まれている。
- すずしさを 我やどにして ねまるなり –
- 這い出よか ひやが下の ひきの声 –
- まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花 –
- 蚕飼(こがひ)する 人は古代の すがた哉 - (曾良)
尾花沢ですっかり身と心を休めた芭蕉は、このあと、人々の勧めもあって、立石寺に足を延ばすことにした。
尾花沢から立石寺へは、羽州街道を天童まで行き、そこから山寺街道を行く。尾花沢から天童までの羽州街道は、南北にまっすぐ伸びた平坦な道である。立石寺までおよそ7里半だが、3里先の楯岡までは清風が馬を用意してくれた。
山寺で1泊した芭蕉たちは、同じ道を引き返して大石田に泊まっている。
私は、奥の細道を辿る旅のはじめに山寺に先行して訪れており、今回は大石田から帰途に就く。
大石田からの奥羽本線・山形新幹線は、天童辺りまで、芭蕉が山寺に向かった羽州街道におおむね並行している。車窓からの景色は、のどかな田園風景が続いている。
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今回の旅は、旧道に関する詳しい情報に乏しく、行ってみないとどうなっているか分からないというところが多かった。しかし、実際に行ってみたら、一ノ関から尾花沢まで、“歴史の道”など、思っていた以上によく整備されており、道標が随所に設置されていてほとんど迷うこともなかった。一関から境田については宮城県公式HPの“おくのほそ道散策マップ”が、山刀伐峠越については山形県最上町観光協会HPの“おくのほそ道歩くマップ”などもおおいに参考になった。おまけに、4日間を通して天候にも恵まれ、芭蕉と曽良も歩いた古道の雰囲気を存分に味わいながら歩くことができた。
現地では、芭蕉の足跡がよく調べられており、しかも地元の方々がそれを大事にしているということが強く感じられた。特に、邦人の家では、管理人さんが、囲炉裏で沸かしているお湯でお茶を振舞ってくださり、芭蕉にまつわる話や旧街道の話など造詣深い話をたっぷりお聞きして、心から文化的資産を大事にされていることが強く印象に残った。
以前は、奥の細道を辿って訪ねてくる旅人が時々あったが、近年は海外からの旅行者が増えてきているとのことで、近日中に外国からのパーティが来る予定になっているという。中山道を歩いているときに、普通の日本人が訪れることがないような人里離れたところで外国人のパーティに出会って驚いたことがあったが、難所をものともせず、日本文化に触れて歩こうとする外国の人たちには本当に感心する。
邦人の家を訪れた日、山刀伐峠越えを前にして泊まった赤倉温泉の旅館では、夕飯のいろいろなおかずの中に、見たこともないものがあって、これが何とも美味しかった。女将さんに伺ったら、赤みずの実を、刻んだみょうがなどと一緒に出汁に漬けたものだという。こうした地元の珍味は、旅の楽しみだ。
翌日、宿を発つときに、女将さんがわざわざお土産にということで、瓶に詰めてくださった。おまけに、若主人が、近くで採った栗の実だと言って、袋にたっぷり詰めてくださった。
大きな温泉場の鳴子とは対照的に、赤倉温泉はこじんまりとした温泉場だが、温泉の質もよく、民宿のように家庭的で穴場的な宿であった。
芭蕉の奥の細道の旅は、平泉を訪れて太平洋側のみちのくを訪ねる旅から、いよいよ日本海側の旅へと移って行く。
私の奥の細道を辿る旅も、ようやく今回で太平洋側を一通り巡ることができた。すでに出羽三山や北陸路など部分的に先行して訪れているところもあるが、次回は最上川舟下りを楽しみにしたい。