芭蕉が旅立ちまで暮らしていた深川界隈の芭蕉ゆかりの地を巡る。もともとこの界隈は、かつて勤めていた会社に近く、馴染み深いところでもある。
採荼庵
深川不動や富岡八幡がある門前仲町から清澄通りを北に向かうと、仙台堀川に架かる海辺橋の南詰に採荼庵跡がある。元禄2年(1689)2月、芭蕉は奥の細道の旅を前にして、それまで暮らしていた芭蕉庵を手放し、出立の日までこの採荼庵に仮住まいしている。そして、3月27日早朝、ここを発って見送りの門人とともに仙台堀から船に乗り、千住に向けて隅田川を遡った。
現在、ここには、今まさに出立しようとしている姿の芭蕉像が置かれている。
臨川寺
採荼庵脇の仙台堀川に沿った芭蕉俳句の散歩道を通り、清澄橋を渡って清澄庭園と清澄公園に挟まれた道を進んで行くと、清洲橋通りに出たところに臨川寺がある。江戸俳壇で確固たる地位を築きはじめていた芭蕉は、延宝8年(1680)深川に移り住んだ際、この寺の仏頂禅師と親交が厚くなり、度々参禅に通ったといわれている。今は、芭蕉ゆかりの寺として、墨直しの碑、芭蕉由緒の碑、などが置かれている。
芭蕉は、この仏頂禅師から黒羽の雲巌寺での修行時代のことを聞いていたことから、 奥の細道の旅で黒羽に滞在中、禅師の山居跡が残る雲岩寺を訪ねている。
芭蕉稲荷神社と芭蕉庵跡
清洲橋通りを渡って北に行くと、すぐのところに錣山(しころやま)部屋がある。この辺りには相撲部屋が多い。そのまま北に行き、深川稲荷神社の角を左に行くと、ほどなく萬年橋のたもとに出る。
萬年橋を渡って隅田川の方に少しいったところに芭蕉稲荷神社がある。大正6年の大津波の後、ここで芭蕉遺愛の石の蛙が見つかったことから、ここが芭蕉庵のあったところと考えられるようになり、地元の人たちの尽力により芭蕉稲荷神社として祀られ、横には芭蕉庵跡碑がおかれている。
延宝8年(1680)、芭蕉が宗匠生活を捨てて日本橋から移り住んだこの草庵は、もとは杉山杉風所有の生簀の番小屋だったもの。杉風(さんぷう)は、日本橋で鯉屋という幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた門弟である。奥の細道出立前に仮住まいとした採荼庵も、杉風の別墅であった。
ここに移り住んで2年目の天和2年(1682)12月、駒込の大円寺を火元とする大火(所謂お七火事)が発生し、この草庵は全焼してしまった。が、その2年後には、門弟や友人らの寄付金を元手に、元の庵の近くに芭蕉庵が再建されている。
芭蕉庵史跡展望庭園
芭蕉稲荷神社から隅田川堤防の方に少し行ったところに芭蕉庵史跡展望庭園がある。階段を上ると、小さな公園のようなスペースに芭蕉の坐像や説明パネルなどが置かれている。
それにしても、ここからの隅田川の眺めは真に素晴らしく、川面を渡る風が実に心地よい。
芭蕉記念館
展望庭園から芭蕉記念館の方に向かう隅田川沿いは、隅田川テラスといわれる遊歩道となっており、いくつもの芭蕉句碑が置かれている。
遊歩道を歩いて行くと、新大橋の手前右側に江東区芭蕉記念館がある。記念館では芭蕉庵跡で見つかった”石の蛙”をはじめ、芭蕉ゆかりの品々を集めて展示しているが、残念ながら写真はご法度。
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記念館を見た後、近くの深川めし本家割烹みや古というところに寄ってみた。そもそも深川めしは、江戸時代、深川の漁師たちが船の上で簡単に食事をすませるためのものだったが、みや古の深川めしは、せいろに入った炊き込みご飯で、往時の風情を感じさせる店内のござ敷きの大広間でいただくと、また格別の味わいであった。