大石田~草薙

2018年10月26日 大石田~新庄~本合海
2018年10月27日 古口~草薙・・・酒田

尾花沢から立石寺へ足を延ばした芭蕉は、元禄2年5月28日(陽暦7月14日)、前日と同じ道を戻って大石田に向かった。
大石田では、尾花沢で面識を得ていた高野一栄宅に3泊し、滞在中巻かれた歌仙で、
  - さみだれを あつめてすゝし もかミ川 -
を詠んでいる。
そして、6月1日(陽暦7月17日)からは新庄の豪商渋谷風流宅で2泊し、歌仙を巻くなどして過ごし、6月3日、本合海から最上川を舟で下った。この舟下りで最上川の急流を目の当たりにした芭蕉は、大石田で詠んだ句を「五月雨をあつめて早し・・・」と詠みかえている。
清川で舟を下りた芭蕉は、その後、出羽三山から鶴岡を経て、6月13日酒田に至っている。

私の今回の旅は、まず大石田から新庄まで行き、翌日は最上川を舟で下って、草薙で下船後、電車で酒田まで行く計画である。出羽三山から鶴岡へはすでに先行して行っており、今回はその区間を除く変則的ルートになる。このページでは芭蕉の旅の流れに合わせるため、大石田~草薙に絞って記している。
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10月25日夜10:50、村山行の高速バスで八重洲を出発。翌朝5:45に村山に到着後、始発電車で大石田まで行き、歩き旅を始める。

大石田
大石田駅を出て南に向かって行くと最上川に架かる大石田大橋のところにでる。大石田大橋周辺の大石田特殊堤には、往時の舟運時代の様子を今に伝える白壁の塀蔵が描かれているのだが、残念ながらこの日は急な冷え込みで一帯が濃霧に覆いつくされていて、対岸の堤防はほとんど見ることができなかった。


室町時代に始まったといわれる大石田河岸は、寛政4年(1792)には徳川幕府が管理する舟役所が置かれ、江戸期を通して最上川最大の船着場として栄えた。この舟運では、年貢米や特産品の紅花などを酒田まで運び、その戻り船で塩、海産物、衣服、などの生活必需品とともに文化や技術がもたらした。今も街並みには、蔵づくりの建物など、当時の面影がところどころに残されている。

芭蕉が大石田で3泊した高野一栄宅は、大石田大橋近くにあった。高野一栄は、河岸近くで船問屋を営む一方、大石田俳壇の中核に位置した人物で、芭蕉とは尾花沢で面識を得ていた。
大石田到着の翌日、開かれた連句の会で、芭蕉の発句が詠まれた。
  - さみだれを あつめてすゝし もかミ川 –
芭蕉は山寺から戻って大石田に入る手前の今宿あたりで最上川を目の当りにしていた。
5月30日(新暦7月16日)、前日に引き続いて一栄宅で連句の会があり、歌仙「さみだれを」の巻が満尾した。高野一栄宅跡には、この「さみだれを」を発句とする歌仙碑が建っている。


高野一栄宅近くの西光寺境内裏庭には、芭蕉や高野一栄ら多くの句碑が置かれており、「さみだれを あつめてすゞし もがミ川」 の句碑は屋根で覆われている。


大石田~猿羽根峠(さばねとうげ)
6月1日(陽暦7月17日)、芭蕉と曽良は、大石田を後にし、渋谷風流が待つ新庄へと発った。大石田から舟形までは、一栄と川水が用意してくれた馬で行き、そこからは歩いて新庄に向かった。
私は、大石田で芭蕉ゆかりの地を訪ねたあと、電車で芦沢まで行き、そこから猿羽根峠、鳥越を経て新庄へ向かうことにした。

芦沢駅を出て国道13号を少し行くと、大石田から来る県道305号線(大石田名木沢線)に合流する。
羽州街道の旧道は、名木沢の少し先の国道から県道187号線が分岐する毒沢交差点で、国道を離れて右に出ている細道に入る。
猿羽根峠への入口となるこのあたりは、かつて毒沢口茶屋があったところで、小休所の建物に、福原ふるさと歴史保存会の旧道探査活動に基づく猿羽根峠への案内図が掲示されていた。


折角なので、このマップに従ってできるだけ忠実に羽州街道の旧道を歩くことにした。


国道13号バイパスをくぐってすぐに左に折れ、山道に入って少し行くと、通行禁止の柵が置かれていた。そのまま暫く行くと、左手に「羽州街道入口」の標識が立っていた。先ほどの案内図では点線で左に行くよう示されていたところのようだが、左手は草で覆われた崖になっている。本当にここを左に入って行っていいのかためらいつつもこの崖を上ると、人が歩いた形跡が何となくあるような感じになっている。たぶんこれが案内図にあった古道であろうと、とにかく標識を信じて先に進みはじめたものの、倒木やら藪やらできわめて歩きにくい道となっている。


そうこうするうちに、ついに、倒木と薮で完全に先を遮られて、全く進む事ができなくなってしまった。さてどうしたものかと困惑しつつ、ふと見ると、右の崖下に道が通っている。ひょっとすると、その道を往けば猿羽根峠に行けるのではないかと思い、滑って転びそうになりながら、何とか崖を下ってその道に出た。
そこから少し進んだところに、羽州街道(古道)と三島街道(37曲り)が交差を示す福原ふるさと歴史保存会の道標が立っていた。そこには、右へ行くのが羽州街道(古道)、左に行くのが三島街道(37曲り)と示されているのだが、もはや素直に羽州街道(古道)の方に進む気分になれず、ここは左の道を進むことにした。
途中、何か所かで道の半分ほども崖が崩れていて危ないところもあったが、結局この道をひたすら進んでいるうちに、何とか猿羽根峠の頂上に達することができた。やれやれ・・・

ともあれ、頂上手前の囲いに覆われた灯篭と鳥居が立つやや広い所に出たところで、鳥居をくぐって、ロープを伝いながら急階段を上る。


階段を上ったところに、“奥の細道・猿羽根峠”と記した真新しい標柱と、その横に“新荘領”なる石標があった。ここは最上郡(新庄藩)と村山郡(尾花沢天領)との境で、“是従北新荘領“とした古い石標の”是従北“が欠落したものなのだという。


そこからさらに見上げたところに猿羽根地蔵堂がある。日本三大地蔵の1つとして有名な猿羽根山地蔵尊で、縁結びや子宝、延命の神様として信仰されている。


猿羽根峠~新庄
猿羽根一里塚の立つところから舟形方面に下って行くと、やがて猿羽根トンネル出口のところで国道13号に合流し、そこには猿羽根神社の鳥居が建っている。
現羽州街道である国道を進んで行くと、かつて新庄藩の口留番所があった舟形町に入る。

南新庄の先で旧道は国道と分かれ、右に進む。やがて左手の如法寺の100mほど先、右の山に向かって入って行くと、夫婦杉に代表される鬱蒼とした杉木立に囲まれた鳥越八幡神社がある。


鳥越八幡神社は最上地方最古の建物の1つで、国の重要文化財に指定されている。本殿は一間社流造りで華麗な彫刻を施し、拝殿は入母屋造り、銅板葺きで本殿とは異なり素木造りである。

さらに旧道を進んで国道47号、13号を渡って少し行ったところに、ひと際背の高いブナの木がそびえる鳥越の一里塚が目に入ってくる。街道の片方に残るだけだが、圧倒的な存在感で長い歴史を物語っている。


一里塚からすぐの路地を右に入ると左手に「奥の細道 氷室の句碑と柳の清水」の標識が立っている。


ここに、かつては豊かな清水が湧き出ていたといい、芭蕉はここで呑んだ冷水のことを新庄の風流宅での三つ物(あいさつの句)の発句としている。
  - 水の奥 氷室尋ぬる 柳かな -

旧街道はこの先、線路で分断されていて良く分からないが、県道310号線の地下道をくぐって反対側に出たあと、線路伝いに新庄駅の方を目指した。このあたりでは、手を延ばせば届きそうなすぐ横を山形新幹線が走っているので、なんとなく心が躍る。

新庄
芭蕉が訪れた当時の新庄は、二代目藩主戸沢正誠(まさのぶ)のもと、初代藩主から継承した藩政の諸策が整い、城下は財政・文化両面において全盛の時代を迎えていた。
その後、新庄城は戊辰の役で廃城となり、現在は堀や石垣の一部が残るのみで、最上公園となっている。
新庄に辿り着いた芭蕉は、尾花沢滞在中に知り合った裕福な商人、風流(渋谷甚兵衛)宅を訪ね、途中で一休みした柳の清水のことを、三つ物の発句に詠んだ。
  - 水の奥 氷室尋る 柳哉 –
折しも、旧暦6月1日は、暑気払いや夏の厄除けをした氷室の節句に当たっていた。
翌日は、風流の兄・盛信宅に招かれ、ここでも三つ物の発句を詠んだ。
  - 風の香も 南に近し 最上川 –
また、この地の俳人たちと、風流の発句「御尋に」で始まる歌仙を巻いた。

芭蕉は、風流宅に2泊したあと、6月3日(陽暦7月19日)に新庄を発ち、本合海(もとあいかい)から舟で最上川を下って清川に向かっている。
現在の舟下りの乗船地は、本合海から約9km下流の古口にある。翌朝、舟下りの時間に合わせて新庄から電車で古口へ直行したいので、この日の内に本合海を訪れておくことにした。本合海へは新庄駅前から出ている大蔵村営の肘折温泉行バスで行ける。

本合海
本合海寺前でバスを降りると、すぐのところに本合海芭蕉乗船の地があり、芭蕉、曾良の像が立っている。芭蕉はここから最上川下りの舟に乗り、清川に向かった。


この八向楯を含む本合海は、国名勝「おくの細道の風景地」に指定されている。


最上川は、本合海付近で大きく蛇行を繰り返し、断崖絶壁の八向楯(やむきたて)にぶつかって大きく向きを変え、西の日本海に向けて流れてゆく。中世には城が築かれていたというこの八向楯のところは最上川の激流をまともに受けるような地形となっており、水量が多い時などは相当激しい流れになるんだろうと想像される。この八向楯には矢向神社があり、古くから交通の守神であった。かつて、源義経は最上川を遡り、矢向神社を拝んで、平泉に向かったと伝えられている。
本合海大橋を渡ると、八向山の中腹に矢向神社の小さな祠が見られ、最上川を挟んだ対岸には赤い鳥居が立っている。


本合海から新庄へ戻るバスが来るまでかなり時間があるため、濁流に耐えている八向楯の様を想像しながら、周辺をゆっくり歩いて見て廻った。
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二日目、ホテルを出るとすぐの新庄駅から電車で古口に直行し、草薙までの川下りを楽しむ。芭蕉の時代は、本合海から清川へ約24Kmもの舟旅であったが、今は当時の半分の約12kmの舟旅である。
草薙到着後、最寄りの高屋駅から電車で酒田へ行き、芭蕉ゆかりの地など市内散策をして帰途に就く予定だ。

古口~草薙
JR古口駅から国道に出て新庄方向に少し行くと、かつての船番所を模した門が立つ古口の最上川舟下り乗船所に着く。江戸時代、ここには戸澤藩の船番所が置かれていた。


古口から清川までは、両岸に山が迫り、かつては古口・清川間は舟運しか行き来の手段はなかった。今は、左岸には国道が通っているが、右岸には道もない。
最上峡と呼ばれるここでの舟旅は、両岸に迫る山々が四季折々に多様な表情を見せ、雄大な景色が楽しめる。


特に、この時期は紅葉で色づいた山々が素晴らしい。


やがて右岸に鳥居を構えた仙人堂が見える。仙人堂は外川神社とも呼ばれ、祭神は日本武尊と伝えられる。平泉に下る義経主従がここに立ち寄ったということで、堂内には義経ゆかりの古文書や最上川の古絵図などが展示されているという。


そこからさらに少し下ると、白糸の滝が見える。赤い鳥居が立っており、その上の木々の間から一筋の滝が落ちている。


芭蕉は、舟下りの様子を次のように記している。『白糸の滝は、青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎって、舟あやふし。
  - 五月雨を あつめて早し 最上川 - 』

白糸の滝の少し先に、草薙の下船所がある。現在の舟下りコースはここまでだが、芭蕉はここからもう少し下流の清川で下船し、狩川を通って羽黒へ向かっている。
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今回の最上峡の舟下りは、ちょうど紅葉が見ごろとなっており、川の流れも穏やかでじつに快適であった。だが、芭蕉がここで舟下りをした時期は水かさが増して、のんびり舟下りを楽しむどころではなかったようで、大石田の一栄宅で詠んだ句を、奥の細道では詠みかえる事と相成った。周囲の水をことごとく集める最上川は、今でも雨量が多い時には水位が相当上がるらしい。

猿羽根峠の古道ではいささか難儀したが、明治時代になって、初代山形県令三島道庸が、馬車の通行が可能な新道を開削した。新道開通の翌年、この地を訪れたイザベラ・バードは、三島街道と呼ばれるこの新道を通っている。
イザベラ・バードは英国の女性探検家で、明治11年に来日し、横浜から東北・北海道までの数か月に及ぶ旅を「日本奥地紀行」に著している。前回、境田で山形県に入って以降、行く先々で”東北街道会議第14回山形大会”の開催案内のビラを目にしていたが、イザベラ・バード来日140年にあたる今年の大会は、その記念大会ということであった。ちなみに、”東北街道会議”というのは、”街道”をキーワードに独自の地域づくりに取り組む活動の中核的組織であり、その活動内容はかなり奥が深いものであることを後日知った。まだまだ、色々勉強させられることが多い。

ともあれ、今回の旅では、草薙で舟を下りた後、バスでJR高屋駅まで行き、電車で酒田に向かった。
酒田については、当該ページに記載している。