白河~郡山

2017年12月6~7日 白河~須賀川~郡山

元禄2年4月21日(陽暦6月8日)、旗宿の宿を出た芭蕉は、白河の関を訪れて、この先の長旅に向かう気持ちを新たにし、白河を経て矢吹に向かった。

今回の私の旅は、一日目は白河から矢吹を経て須賀川に行き、二日目は須賀川から郡山を目指す。
12月6日、最寄り駅を始発電車で発ち、新幹線、東北本線と乗り継いで白河まで行って、旅の再開である。途中の大宮手前あたりで、遠くに白銀に輝く富士山がくっきり見えている。天気予報では寒波到来が報じられているが、幸い、まぶしいほどの真っ青な空が広がり、風もない小春日和で、この時期の歩き旅としてはまたとない好天に恵まれた。
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白河~須賀川
白河を出た奥州街道は女石で国道4号に合流し、2里ほど先の三ツ屋前信号で国道と分かれて踏瀬の五本松に向かう。
旧道に入ると直ぐの愛宕神社前には十三夜供養塔や馬頭観音が立ち並び、かつての街道の雰囲気が漂っている。


踏瀬の五本松
この松並木は、時の白河藩主・松平定信が領内の街道に松苗を植えたのが始まりとされている。800mほど続いている松並木の道は、旧街道の雰囲気があって、歩いていて実に心地よい。


五本松の松並木を過ぎて、旧道の趣を残す七曲り坂、大和久宿、中畑新田宿の静かな道を進むと、街道脇には各宿の標識や白川藩界標柱、関山道標識など、往時の名残が随所に見られる。
(下の写真は、中畑新田宿にあった奥州街道と水戸街道の分岐に立つ常夜燈)


ちなみに、白河の次の根田宿から須賀川手前の笠石宿までの3里半ほどの間には、なぜか宿場が8つもあって、宿場間の距離が非常に短い。

矢吹
矢吹宿は、天正6年(1578)に宿駅として開かれ、天正18年(1590)に町割が行われて宿駅としての整備が進み、賑わったという。ちなみに天正18年は、秀吉が小田原城征伐を行い、奥州制圧も終わって全国統一がかなった年である。
旗宿から7里ほど、須賀川まで2里半ほどしかないが、ここで芭蕉は1泊している。
往時の趣を残すものはほとんどなく、ひと際大きな下の地蔵など見ながら進んで行くと、旧道は国道4号に合流する。


少し先の久来石(きゅうらいし)分岐で、旧道はふたたび国道から分かれ、久来石宿に入って行く。
今の久来石宿には、静かな街道沿いに立派な屋敷が立ち並んでいる。

 


久来石宿を抜けると国道を横切るが、前方はるか遠くまで田圃が広がっている。もともとこの辺は、江戸時代は行方野(ゆきかたの)と呼ばれた広大な原野で、古くから開拓は進んでいたが、昭和になって天栄村に羽鳥湖が造られ、そこから引かれた用水により、今は広大な田園地帯となっている。

久来石宿の先の笠石宿内の旧街道は、国道と並行してまっすぐな道が長く続いている。往時の遺構などは殆ど残されていないが、街道沿いに整然と続く家並みに旧宿場らしさが窺える。
やがて、鏡沼地区に入るが、ここから西の東北自動車道を越えたあたりに、鎌倉時代の悲話伝説に由来する鏡沼がある。鏡沼はかげ沼とも呼ばれ、今はその片鱗が田園の中にひっそり残るだけという。かげ沼では、蜃気楼現象が起きると言われ、芭蕉は奥の細道の須賀川の段で、『かげ沼という所をいくに、今日は空曇りて物影うつらず』と、期待した物影が見られなかった心残りを記している。

鏡石町から須賀川市一里坦(いちりだん)に入るところで旧道は国道に一旦接近し、またすぐに分かれてゆく。その少し先の旧道に須賀川一里塚がある。

須賀川一里塚
ゆるやかな下り坂になる旧街道の両側に塚の形がはっきりと残っている。日本橋から59番目の一里塚で、往時は「江戸から須賀川六十里」といわれてきた。旧陸羽街道に残る数少ないもので、昭和11年に国の史跡に指定されている。


芭蕉は、この一里塚を経て須賀川中心部にある相楽等躬邸に向かっている。私は国道118号をそのまま進んで、乙字ヶ滝に向かうことにした。幸い、市街から来る道と交差する庄五郎窪まで進んだところで、運よく乙字ヶ滝の方に行くバスがあったので、それで滝に向かった。

乙字ヶ滝
乙字ヶ滝手前でバスを降り、静かな道を少し行くと、阿武隈川にかかる朱色の橋が見えてくる。この橋の左手が乙字ヶ滝で、水が乙字形に落ちるためその名がつけられている。橋を渡り、右岸の川岸に下りて行くと、落差はあまり大きくないが川幅が広い、迫力のある滝がよく見える。

芭蕉は、須賀川に8日間滞在した最後の4月29日(陽暦6月16日)、等躬がつけてくれた馬で石河の滝(乙字ヶ滝)を訪れている。そのときは、折からの五月雨で阿武隈川は増水していたらしく、次の句を詠んだ。
  - 五月雨の 滝降りうづむ 水かさ哉 -
滝見不動堂前の、滝の様子がよく見えるところに、芭蕉と曾良の像が建っている。


このあと、もと来た道を戻って須賀川市街に向かうが、バスは当分ないため、やむなく市街に向かってひたすら歩く。日中は小春日和の天気で暖かかったが、日没が早く、うす暗くなると急に冷え込んできた。予約しているホテルに向かって足を速める。

ホテルは市役所の近くで、NTTにも近い。チェックイン後、まずはすぐ近くの芭蕉記念館を訪れる。以前は、市役所のところにあったらしいが、市役所の工事に伴い、今はすぐ近くのNTTの建物に仮住まいしているとのことであった。展示品はもちろんだが、この先の旅のルート情報など、いろいろ丁寧に説明していただいた。
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12月7日、遅い夜明けを待って、朝食前に市内の芭蕉所縁の地を巡る。

元禄2年4月22日(陽暦6月9日)、須賀川に入った芭蕉は、相楽等躬(さがらとうきゅう)宅に着いた。等躬は通称を伊左右衛門といい、須賀川宿を取り仕切る駅長を務め、俳諧にも造詣が深く、芭蕉とは江戸で旧知の仲だった。芭蕉より6歳年上で面倒見のよいこの人のもとで7泊している。

須賀川市内
市役所に近い宿泊ホテルは、周辺に芭蕉ゆかりのところがあり、真に利便性が良い。
まず、ホテルを出てすぐのNTTの裏手の路地に可伸庵跡に向かう。芭蕉が、奥の細道本文の中で、『この宿の傍らに、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとう僧あり』と記している遁世の俳人・可伸の庵跡である。芭蕉は、須賀川に着いた次の日にこの可伸庵を訪れている。


もともとNTTビルのある一帯はかつての等躬の屋敷跡で、その片隅にこの可伸庵があった。現在は、猫の額ほどのところに、栗の木などが植えられ、芭蕉句碑が置かれている。
  – 世の人の 見付けぬ花や 軒の栗 –

松明通りと呼ばれる旧奥州街道のほうに回ると、角に軒の栗庭園という小公園が作られている。可伸庵跡の前庭として整備された庭園で、芭蕉と曽良の像とともに相楽等躬の座像が置かれている。


松明通りに面して芭蕉記念館の入るNTTの敷地の片隅には等躬の屋敷跡の看板が立っている。
その前を通り、結いの辻小公園を右に曲がった少し先で左に曲がって行くと、突き当たりに十念寺がある。境内には、芭蕉が須賀川で詠んだ句の碑がある。
  - 風流の 初やおくの 田植え歌 -


この芭蕉の句碑の向い側には、この芭蕉句碑を建てた幕末の女流俳人・市原多代女自身の辞世の句碑が建っている。
松明通りに並行する路地を北に向かい、突き当りの大通りを渡った宮の辻にある小公園は、市原多代女の生家があった所という。そこから少し西の神炊館(じんすいかん)神社に向かう途中、千本格子の見事な石井家の前を通る。須賀川市街には、ところどころに往時を偲ばせる旧家が見られる。


神炊館神社は、新米を炊いて神に感謝したという事蹟からおたきや神社とも謂われている。参道に沿って朱色の灯篭が立ち並び、たくさんの歌碑が並んでいて、いかにも風流なこの街の雰囲気を醸し出している。


神炊館神社から南に走る国道118号に向かって少し行くと、須賀川城本丸跡に二階堂神社が建てられている。そこから少し南に行くと相楽等躬の墓がある長松院がある。


白河藩郷士で、須賀川宿の駅長をつとめた等躬は、若くして江戸に出て俳諧を学び、延宝の頃には芭蕉とも交流があった。芭蕉が須賀川に1週間も滞在したのは、この等躬との親交があったためであった。境内には等躬の句碑が置かれている。
  - あの辺は つく羽山哉 炭けふり -

長松院本堂の裏には、近年作られたと思われる真新しい巨大な塔が建っていて一瞬圧倒される。その横に、鎌倉時代二階堂氏によって築かれた須賀川城の土塁と空堀の遺構がある。相楽等躬の墓は、巨大な塔の後ろ側にあった。
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ひととおり、芭蕉ゆかりの地を巡ったところでホテルに戻り、朝食を摂って、あらためて二日目の歩き旅に発つ。
この日は、須賀川から守山を経て郡山まで歩く。

須賀川市街~守山
須賀川から郡山までは奥州街道を行けば2里ほどと近いのだが、芭蕉は石河の滝(乙字ヶ滝)に寄り道した後、阿武隈川東岸を進んで守山に行き、田村神社を詣でてから郡山に向かっている。曽良日記によれば7里近くあったと記されており、須賀川を立つときに、等窮が馬を差し向けてくれている。
この間の詳細ルートは、前日、芭蕉記念館で教えてもらった手作りのルート地図によると、次のようなものと考えられている。これまで不明部分が多かったが、もうすぐちゃんとしたルートマップが完成する予定、とのことであった。

*** 須賀川から守山への道筋 ***
等窮宅跡(NTT)前の通りを南に向かい、南町郵便局がある大町交差点を左折。曲がってすぐ笠間稲荷の二又を右に進み、六軒道を直進。国道118号との交差点を右に曲がっていけば10分程で乙字が滝に出るが、ここは国道を横切って田中の渡し跡に向け直進。やがて男滝橋に出るので、ここを渡り、阿武隈川に沿って石河の滝を目指して遡る。
滝を見た後、阿武隈川沿いの道を戻り、男滝橋からの道に出る。水郡線の踏切を渡ったら、直ぐ左折し、市野関区民館の先で右折して、小作田を北上する。再び水郡線の踏切を渡り、阿武隈川と水郡線に挟まれた道を北上し、雲水峰橋から来る道に出る。この道を右折して、少し進むと芭蕉の辻に至る。
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私は、乙字ヶ滝は前日すでに訪れているので、市街から東の塩田に向かい、乙字ヶ滝の少し下流の雲水峰大橋で阿武隈川を越えて、芭蕉の辻に向かうことにした。
ホテル前の国道118号を少し行ったところで、県道138号線を少し行き、南東北春日通所リハビリテーションの二又で左の須賀川・塩田間の道路に入って、あとはりんご園の続くのどかな道を道なりに淡々と歩いていく。
雲水峰大橋で阿武隈川を渡ってしばらく行くとやがて芭蕉の辻に至った。この十字路右手に「網の輪 塩田入口」の看板があり、八流の滝への案内が出ているので、ちょっと寄り道をしてみることにした。
滝があるようには思えないところで、半信半疑で案内に従い右手の山道を下って行くとやがて道なき道となるが、さらに行くと滝が現れた。

八流(はちる)の滝
阿武隈山地の宇津峰を源にする塩田川と小倉川が合流した下流にある滝で、網の輪滝とも呼ばれる。幅約10m、落差約6mの滝で、磨いた砥石のような岸壁から川の水が八條(やすじ)になって流れ落ちるところからこの名前が付いている。芭蕉も、石河の滝(乙字ヶ滝)に立ち寄った後、小作田を経てこの地を訪れたと伝えられている。


滝の上に行く梯子が掛けられているので上ってみると、ちいさな広場があり、滝に落ちる手前の流れを見ることができる。これがあたかも庭園に造られる遣水の如く、ゆったりとした眺めであった。
ここからさらに上流に行くと、江戸時代に農業用水用に掘られた網の輪隧洞という30mぐらいの素掘りの隧道があるらしいが、今回はパスした。

元来た道を上って芭蕉の辻に戻る。

芭蕉は十字路をまっすぐの古道を通ったと言われている(事実は不明)が、草生していて人が通った形跡が見られないので、右の塩田への坂道を下って行く。
やがて前方に水郡線の高架が見え、小塩江郵便局の交差点に至る。この交差点には大黒様ほか多数の石像石塔がおかれている。

交差点を左に行くとすぐに雲水峰・江持線の分岐点に出る。ここは江持方面に左折していくと、右に須賀川市役所小塩江支所の建物が見える。
ここで、道を確認のため立ち寄ってみたら、懇切丁寧に鉛筆でなにかの裏紙にさらさらと守山までの奥の細道ルートを書き示してくださった。最近、同じように奥の細道ルートの調査で尋ねて来た人がいたということで、どこか手馴れている感じであった。須賀川の記念館の関係者が調査のため来ていたということかもしれない。いずれにせよ、ここから先は、鉛筆書きしていただいたメモのようなルート図を頼りに歩くことにしたが、これがまことに当を得たものであった。

小塩江支所のところを右に行き、小塩江中学前を通って行く。しばらくは、ほとんど人気のないのどかな道が続き、ところどころで道端に二十三夜塔などの石塔が見られる。


しばらく道なりに進むと、県道293号線湯の川交差点にチェックポイントの一つの小さな商店がある。そこを更に直進するとやがて岩作(がんざく)に至り、水郡線踏切を渡って谷田川を越えると郡山に向かう国道49号に出る。手前の道脇には馬頭観世音や石仏などが並んでいた。

国道に出たら500mほど先の守山東入口信号で左の旧道に入り、守山宿に入る。

守山
守山の街並みは、問屋跡や陣屋跡ほか古い建物がところどころ残り、往時の趣が感じられる。


芭蕉はここで等窮が用意してくれていた馬を下り、問屋の主人善兵衛宛の紹介状を持って善兵衛宅を訪ね、たいそうなもてなしを受けたようだ。
曾良日記には主人の案内で大元明王(田村神社)に参詣したことが記されている。
旧道を道なりに真っ直ぐ進み、国道49号にぶつかる手前で谷田川を渡り、左の細い道を入ると田村神社の参道になる。

大元明王(田村神社)
田村神社は、坂上田村麻呂が建立した鎮守山泰平寺が始まりといわれている。

田村神社といっても神仏混合で、大きな岩に挟まれるような形のかなり急で段差の高い石段を上ると、寺院では仁王門にあたる神社山門に迎えられ、山門をくぐると直ぐに、中心に太鼓が下がっている長床が在る。
この二つの門を通ると、正面に見えるのが田村神社で、大元師(明王)の額がかかっている。


守山~郡山
神社を出てすぐのところの山中(さんちゅう)交差点から国道49号にでて郡山を目指す。
大善寺を経て金屋の先で阿武隈川に架かる金山橋を渡り、新幹線のガードをくぐるとすぐ先の県道355号線が旧奥州街道である。この先、小原田を経て東北本線の踏切を渡って行くとやがて郡山宿中心部に入って行く。

守山で歓待された芭蕉は、問屋の善兵衛が用意した馬に乗って郡山に向かい、ここで1泊している。
当時の郡山宿は宿駅の整備が始まったばかりで、旅籠などもあまりよくなかったらしく、曾良旅日記には『宿ムサカリシ』と記されている。

郡山市街
郡山は明治以降の急速な発展により芭蕉の時代とは大きく様変わりしている。現在の駅周辺の旧街道筋は大きな百貨店やホテルなど建ち並ぶ賑やかな繁華街になっていて、往時を感じさせるようなものはほとんど見られない。

旧街道の安積国造神社参道入口付近に郡山道路元標がある。江戸時代は木製で、奥州街道の道標として、江戸や会津までの距離が書かれていた。その後、今の御影石に建て替えられたもので、今でも秋祭りの際の神輿の宮入りの基点となっているという。
道路元標に並んで右側は山水道のモニュメントがある。江戸期初期の郡山宿の飲料水は、水田灌漑用溜池の水を各家に引いていたが、明和7年(1770)、商家達が高台に井戸を掘り、木管、竹管で屋敷内まで引く山水道を作った。付近の住人は、こうした商家から、貰い水をしていた。


この道路元標の近くにかつての本陣今泉家があったらしい。
すぐ先の駅前大通の右手にはJR東北本線の郡山駅があるが、旧街道は大通を渡ってそのまままっすぐ行く。少し行ったところで二股に分かれる道の正面に古い道標が二つ並んで立っており、一つは「従是三春道」道標で、もう一つは「右奥州街道 左会津街道」道標である。


ここで、少し戻って国道4号に面している安積国造(あさかくにつこ)神社に寄ってみる。

成務天皇5年(135年)創建という歴史のあるもので、坂上田村麻呂の東征の際には八幡大神が合祀され八幡宮とも呼ばれている。東北遠征時の源頼義・義家が戦勝祈願を行なったという記録も残る。

この日は、この先の安積山まで行く予定だったが、さすがに陽が落ちるのが早く、急に冷え込むので、引き上げるにはまだ少し早いが、ここで帰路につくことにした。
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今回の旅は、二日間ともこれ以上ないと思うほどの好天に恵まれ、のんびりと気分良く旅ができた。

須賀川は、街の中のあちこちに俳句ポストが置かれ、道筋に情緒ある俳句行灯が立っているなど、俳句の街としてとてもよく整備されている。芭蕉が訪れた当時の須賀川は、奥州街道屈指の宿場町として栄え、町人文化が花開く活気のある街だったという。そんな中、芭蕉と相楽等躬等の残したものは、今日に至ってもなお、街全体の雰囲気作りに大きく影響していることがうかがわれ、あらためて芭蕉の存在の大きさが感じられた。

須賀川から守山への人里離れたのどかな道筋には、ところどころに石仏や馬頭観音など旧街道の雰囲気が残っており、奥州街道から外れている守山宿にはどことなく往時の雰囲気が残されていた。また、八流の滝など事前に全く知らなかったところもあったりで、思っていた以上に歩き旅を楽しむことができた。

今回歩いたのは、奥羽山脈と阿武隈高地に挟まれた福島の中通りと呼ばれる地域を南から北に向けた道で、白河を出てしばらくは後方に那須岳が臨めていたが、郡山に近づくにつれ磐梯山、吾妻山、安達太良山が前方に見えるようになってきた。奥羽山脈の2000m級の那須岳、磐梯山、吾妻山はすでに雪に覆われて白銀の輝きであり、季節は冬であることをあらためて気付かされる。
年が明けてから、郡山から先の中通りの旅を楽しみにしたい。