高岡~小松

2017年5月15~16日 高岡~金沢~小松

今回の旅は、高岡から倶利伽羅峠を越えて、金沢、小松を巡る。
5月14日夜、前回と同じく新宿バスタから深夜高速バスで出立し、翌朝6時前に高岡に到着。あいの風とやま鉄道線(旧北陸本線)で15分ほどの石動(いするぎ)まで行き、歩き始める。

芭蕉は、旧暦7月15日(陽暦8月29日)、高岡を発って石動の埴生八幡に寄り、倶利伽羅峠を越えて未の中刻(午後2時頃)には金沢に着いている。高岡から金沢までは11里ほどもあり、暑さ負けで体調を崩していた芭蕉が歩くには、かなりの無理があるので、高岡から石動までの小矢部川の舟運を使ったか、あるいは馬や駕籠を使ったと考えられている。
ともあれ、芭蕉としては、よく知る俳人が待つ金沢に少しでも早くたどり着きたかったのであろう。また、途中の倶利伽羅峠は、木曽義仲が平維盛率いる平家軍を撃ち破ったことで知られる古戦場で、義仲に至極共感している芭蕉にとっては、さぞ格別な思いを持った道行きでもあったのであろう。

倶利伽羅峠の頂上には、約1300年の歴史を持ち、日本三不動尊の一つとして知られる倶利迦羅不動寺があって、古くからの信仰の地だが、明治以降は主要道から外れたことで往時の遺構などがよく残り、旧街道歩きを存分に楽しめるところとなっている。倶利伽羅峠を越える旧北陸道は、平成7年に建設省の歴史国道、平成8年に歴史の道百選に選定されている。
金沢は、北陸新幹線開通以来、訪れる人が多く大変な賑わいになっている。加賀百万石の街らしく、見どころも多く、これまで何度か訪れたことがあるが、楽しみである。芭蕉は金沢に10日間も滞在している。
小松は、40年近く前に仕事の関係で何ヵ月か滞在したことがあって、大変懐かしい所である。芭蕉所縁の見どころも結構あって、こちらも楽しみである。

石動駅前には、義仲公・巴御前NHK大河ドラマ実現プロジェクトの大きな看板がたてられている。源平の古戦場・倶利伽羅峠周辺には所縁のものが多くあり、石川県側の津幡町とともに誘致に向けて相当な熱の入れようである。
-----------------------------------------------------------------------------

石動~埴生八幡宮
石動駅前を通る国道471号を少し行くと、前方に跨線橋が見えてくる。この跨線橋の手前にちょっと分かりにくい地下道があるので、これを通って旧北陸本線を越える。
地下道を出たところは公園になっていて、地蔵堂、常夜灯、その横には梵字を刻む苔むした石柱が整然と並べられている。また、公園の隅には真新しい砂川橋一里塚跡碑が立っている。すぐ横を北陸新幹線が通っているので、その工事に伴い、このあたりは整備されたのであろう。
道はすぐに路線橋を渡ってくる県道42号線に合流し、少し行ったところで埴生方面への道が右に分かれる。
往時の面影が残る静かな道を行くと、やがて突き当りに倶利伽羅源平の郷埴生口の看板が立つ資料館が、その右手に埴生護国八幡宮の鳥居が見えてくる。右手の参道を行くと、左に源義仲の騎馬像が目に入ってくる。日本最大級の馬上の人物像というだけあって、流石にすごい迫力である。


103段の参道石段を上ると、約1300年の歴史を持ち、木曽義仲が戦勝の祈願をした八幡宮社殿がある。倶利伽羅合戦以降、勝ち運の神として、戦国時代には佐々成政、藩政期には加賀藩前田家が厚い信仰を寄せたという。


埴生八幡宮~倶利伽羅峠
八幡宮を出て、資料館横を右へ行く道は、ふるさと歩道「義仲進軍の道」で、資料館前をまっすぐ行くのが旧北陸道である。こちらの道を行き、医王院の山門前を通って行くと、道が二手に分かれ、右に上ってゆく道に「歴史国道 倶利伽羅越えいにしえの街道」という案内板と北陸道の道標が立っている。
往時の雰囲気が漂う石坂の集落を道なりに進んでゆくと、やがて歴史国道の長坂上り口に着く。ここから先は、倶利伽羅峠を越えて竹橋まで続く旧北陸道の道になる。


江戸時代に加賀藩の参勤交代の道として整備されたこの道は、今は石畳風の道が整備され、歩きやすいハイキングコースとなっている。
たるみの茶屋跡を通り、沿道に置かれたいくつもの万葉歌碑を見ながら進んで行くと、やや広くなった峠の茶屋跡には、天池の井戸、火牛の置物、などなど色々なものが置かれている。
峠の茶屋の少し先には大きな矢立堂碑が建ち、近くには矢立観音が鎮座している。この辺は源平合戦の際の義仲軍の最前線となったところで、平家軍が放った多数の矢が立ったことから矢立と呼ばれる。


いかにも旧道らしい風情のある砂坂に入って少し行くと、弘法の水という水場があり、鹿威しがおかれている。


そういえば、歩いている途中、ところどころで鹿威しの音が谷間の方で響いていた。
この先の上り坂の途中で、ふと上を見上げたら、鹿の親子が微動だにせずこちらをじっと見ているのに気が付いた。最初は置物なのかと思ったくらいだが、こんな道の真ん中に置物があるのもおかしいと思ってよく見ると、やはり本物であった。こんなところで体当たりでもされたら大変なので、身につけていた熊よけベルを思い切り振り鳴らし、漸く悠然と立ち去って道を開けていただいた。
その先の道路わきに、砺波山標高265mの標識が置かれていた。

しばらくすると猿ケ馬場に出る。ここは平家の大将・平維盛が布陣したところで、平家本陣跡碑が置かれている。
その先に、角にたいまつをくくりつけて今にも襲いかかってきそうな2頭の牛の像がある。この辺りが歴史に名高い火牛の計の舞台だ。突然の火牛の襲来に平家の軍勢は道から地獄谷に落ち、屍が累々と重なったという。


また、ここには芭蕉塚が建てられており、義仲の末路を涙して詠んだ句が刻まれている。
  - 義仲の 寝覚めの山か 月かなし -


さらには、源平供養塔、平為盛塚、蟹谷次郎碑など数々の遺構が置かれている。
その横の倶利伽羅小道は、やや短い道だが、往時の古道の雰囲気が色濃く残る道であった。


倶利伽羅峠(倶利伽羅不動尊、手向神社、権現石殿)
古戦場の跡を過ぎ、右手の急な階段を上って国見山頂上に出ると、ここには倶利伽羅権現石殿がある。そのすぐ先に、倶利伽羅不動尊、手向神社などの寺社が建っている。手向神社の本殿は、9尺四方の石堂神殿が覆屋のような木造神殿内に安置されている珍しいもの。


倶利伽羅山は古来「手向之神」や「倶利伽羅竜王」の霊地として尊崇されてきた。

倶利伽羅峠~竹橋
倶利伽羅峠から竹橋へは下りが続く。しばらくは舗装道を下り、途中で歴史国道の案内板に従い、左手の龍ヶ峰城跡の方への分岐に入る。
小高い山の上の龍ヶ峰城跡で一休みし、古道らしい面影の山道を下って行くと、やがて加賀側からの倶利伽羅峠への入口、前坂に到着する。そこには、苔むした前坂権現がひっそりと鎮座している。


竹橋~津幡
歴史国道は、前坂付近で一般県道と合流し、やがて竹橋に達する。この辺りはかつて竹橋宿があって栄えたところで、竹の橋橋周辺には重厚なつくりの民家が幾つも建ち並んでいる。
旧道はこの先で、県道215号線(旧国道8号)と合流するが、合流点には道の駅倶利伽羅源平の郷があり、ここが歴史国道の石川県側入口となっている。

ここからしばらくはこの旧国道を淡々と歩くことになる。ひたすら国道を歩いて漸く津幡に至ったところで、金沢まで電車で行くこととする。
-----------------------------------------------------------------------------

金沢
金沢に着いた芭蕉は、この日は浅野川近くの京屋吉兵衛方に宿をとり、翌日からは片町の宮竹屋喜左衛門方に移った。金沢には7月24日まで10日間滞在し、多くの俳人と交流を深めており、これを機に後の加賀蕉門が形成されることとなった。
17日には、北枝の庵の源意庵に招かれて納涼の句会を開き、その折詠んだのが、
  - あかあかと 日は難面も あきの風 -
20日には、犀川の畔にある一泉宅の松幻庵の句会に出席し、その折詠んだのが、
  - 秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子 -
芭蕉にとっては、多くの俳人との交流に忙しい日々だったが、曾良は、これまでの過労が祟ったか、とうとう病気になってしまい、医者にかかったりする日々となっている。

私のこの日の宿は、近江市場近くにとってある。金沢の食の中心地であるばかりでなく、金沢城、兼六園、香林坊、橋場などに近く、どこに行くにも便利なところである。まずはホテルにチェックインし、荷物を置いて市街の散策に出かけることにする。
ちなみに、このホテルは、ロケーションが良くて手ごろな料金ということで選んでいて、さほど期待はしていなかったのだが、あにはからんや、控えめながらも全体的にスマートな感じで、スタッフの対応がとてもよく、何かちょっとずつ他のホテルとは違いを感じるところがあって、大変気分のよいホテルであった。

<長町武家屋敷跡>
まずは、香林坊までバスで行き、西側に少し入った長町に向かう。この一帯は、藩政期の姿をそのままに大野庄用水が流れ、黄土色の土塀に囲まれた武家屋敷跡が続いていて、往時の面影がたっぷり残る。


金沢は大きな都市としては珍しく戦災を受けなかったため、市内にはいたるところに旧跡が残り、今もその多くが住居などとして使われている。

<金沢城址>
武家屋敷を見物した後、兼六園下までバスで行く。紺屋坂を上ると、左手が兼六園の桂坂口、右手の石川橋を渡った先が石川門である。


門を入ると、広い三の丸広場があり、内堀に沿って橋爪門続櫓(つづきやぐら)、橋爪橋、五十間長屋、菱櫓(ひしやぐら)などが建っている。これらは、古絵図などにより復元されたものである。


内堀に沿って歩き、管理事務所のところから広い二の丸広場に入る。極楽橋の先を少し上って行くと、三十間長屋、戌亥櫓跡などがある。ここからは、二の丸を囲む美しい櫓をはじめ、市内の眺めがよい。

<ひがし茶屋街、主計町(かずえまち)茶屋街>
金沢城を見物した後、バスで橋場に向かう。橋場交差点からすぐの浅野川大橋からは、河原で遊ぶ子供たちや風情のある梅の橋が上流に見える。この梅の橋の左手一帯がひがし茶屋街である。出格子のある茶屋が軒を並べ、ベンガラで塗られていたり、屋号を入れた行灯が玄関に掲げられていて、大変風情が感じられる。


ひがし茶屋街から浅野川大橋を渡って戻ったところには主計町茶屋街がある。浅野川沿いに昔ながらの料亭や茶屋が建ち並び、夕暮れ刻の行灯の灯がともり始めると、芸妓さんを見かけたりして、艶やかな雰囲気が漂う。


一歩入るとベンガラに塗られた建物に挟まれた、かなり狭い路地が迷路のようになっている。路地裏の暗がり坂という坂を上っていくと、小松まで芭蕉に随行した立花北枝宅跡のところにでる。

本日の散策はここまでとし、バスで武蔵ヶ辻まで戻り、一旦ホテルに戻って夕食に出かけた。
翌日は、犀川を渡った寺町界隈を巡った後、小松を目指す。
-----------------------------------------------------------------------------

金沢で10日間を過ごした芭蕉は、7月24日(陽暦9月7日)金沢を発ち小松に向かった。片町の宮竹屋には、別れを惜しむ金沢の俳人たちが集まり、犀川を渡った先の泉町まで見送り、数人は野々市まで見送った。金沢でその才能を認められた北枝がその後も随行し、体調のすぐれない曾良を補佐して、加賀藩領内を案内している。

<早朝の兼六園>
宿を立つ前に、私は、いつも早朝散歩に出かけるが、今日は兼六園に行く。
ホテルからすぐに金沢城大手壕に沿った遊歩道を歩き、静かで清々しい白鳥路を歩いていくと、間もなく兼六園である。早朝は無料で入れるだけでなく、観光客で溢れんばかりの日中とは違って、実に静かで清々しい園内を巡ることができる。Early Birdにとっては、いいことずくめだ。
早朝は、紺屋坂を上って少し先の蓮池門口から入園となる。
園内に入ると、すぐに瓢池(ひさごいけ)がある。夕顔亭の横を通って行くと、小さな池と噴水がある。これは日本で最古の噴水で、上にある霞が池との高低差により自然の水圧で噴水している。
ゆるい坂を上って霞が池に行く。この池は兼六園の中で中心的な位置にあり、周りにはいろいろな見所がある。特に、池の周囲の松の雪吊り風景は兼六園の冬の風物詩ともなっている。今は、曲水の水辺にカキツバタが美しい紫の花を咲かせていて、実に素晴らしい。


雁行橋を渡り、根上松を見ながら、庭園の東南奥の山崎山という築山に向かう。この山の上り口付近には芭蕉句碑がある。
  - あかあかと 日は難面も 秋の風 -


この山崎山はカエデ、トチノキなど落葉広葉樹林が多く植えられており、秋になると赤や黄に美しく色づくので紅葉山とも呼ばれている。その季節になると、頂上の東屋の椅子に座ってみる眺めは、絵のように素晴らしいということだ。

兼六園をひととおり堪能した後、石川門から金沢城内に入り、黒門口から出てホテルに戻る。
近くのコンビニで調達した温かい朝食を部屋で摂り、いよいよ小松目指して出立する。

<片町界隈>
ホテルから百万石通りに出て、尾山神社前、香林坊を通り、片町、犀川方面に向かう。
芭蕉は片町の宮竹屋に9日間滞在した。ここには金沢の俳人たちが次々に挨拶にやってきた。金沢は芸事が盛んな土地で、俳諧も盛んだった。今は、このあたりは大きなビルの建ち並ぶ繁華街となっており、昔の面影はまったく残っていないが、宮竹屋のあった片町交差点には芭蕉が辻の石標が置かれている。

<寺町>
犀川大橋を渡り、野町広小路交差点の先左手の狭い路地に入るとすぐに小杉一笑の菩提寺の願念寺がある。
芭蕉は、金沢俳壇の俊秀とされる一笑に会うのを楽しみにしており、金沢に着いて、真っ先に一笑に到着を知らせたが、前年12月に一笑は亡くなっていたことを告げられた。芭蕉の驚きと悲しみは大きく、7月22日にここ願念寺で行われた一笑の追善会で、
  - 塚も動け 我泣声は 秋の風 -
の句を手向けた。願念寺の入り口にこの句碑が建てられている。

また、境内には一笑の辞世の句が刻まれた一笑塚がある。
  - 心から 雪うつくしや 西の空 -


願念寺のすぐ先に、忍者寺として有名な妙立寺の裏口がある。妙立寺の表にまわると、すぐ隣に本長寺があり、ここにも芭蕉の句碑がある。
  - 春もやゝ けしき調ふ 月と梅 -
寺町というだけあって、この界隈には寺が実に多い。

<にし茶屋街>
この後、南大通に戻り、通りを渡った路地を入って行くと、にし茶屋街がある。こじんまりとしたところだが、まっすぐな道沿いに古い建物が建ち並び、風情ある茶屋街が残っている。


野々市、松任へ
再び南大通(国道157号)に戻り、少し行くと泉一丁目信号で旧道は右に分かれる。この旧道はそれほど長い距離ではないが、古い商店や千代尼塚のある念西寺、国造神社などがあり昔の面影がよく残っている。
旧道が再び国道157号に合流すると、国道脇に有松町の古い石標が立っていた。ここから、しばらくは淡々とした国道歩きになる。

やがて横宮を過ぎ、野々市信号あたりから国道は右に曲がって行くが、その南側がかつての北陸道野々市宿だったところになる。
野々市を出てから国道157号を淡々と進み、バイパスをくぐって県道291号線を行くと、かつての北陸道松任宿に入ってゆく。今の松任駅の南側が宿場の中心部であった。
駅前には、松任に生まれた江戸時代の女流俳人加賀の千代女を記念する千代女の里俳句館が建つ。
千代女は、芭蕉の弟子各務支考にその才能を認められ、非凡の才能を示した俳人の一人で、越後の貞心尼、京の蓮月尼とともに幕末女流三大歌人と呼ばれた。


ここまで旧国道を淡々と歩いてきたが、小松で過ごす時間を考え、ここから小松手前の明峰駅までは電車で行くこととする。
-----------------------------------------------------------------------------

小松
無人の明峰駅を降りると、駅前の道が分かりにくくて少し戸惑ったが、地下をくぐって出ると板津中学校の先で県道に合流する。
少し歩いて突き当りの天神町信号を左に曲がると、すぐ先の梯川のところに小松天満宮がある。
小松天満宮は加賀藩にとって重要な守護神であった。


梯川に架かる小松大橋からは、遠くに白山の姿が臨める。
橋を渡ったあたりは、すっかり真新しい街並みになっており、この先の小松の中心街に入って行く。

芭蕉は、午後4時頃小松に着き、同行の竹意が懇意にしている近江屋というところに泊まった。当時、小松には俳句愛好家が数多くおり、3泊したのち、山中に向かった。そして、山中に8泊したのち、武士で俳人の生駒万子(いこままんし)に会うため、再び小松まで戻って大聖寺に向かっている。

もともと小松は、加賀藩三代藩主前田利常が隠居城を築いた街で、二代藩主利長が高岡城を築いた越中高岡と並ぶ、金沢の衛星都市のような存在であった。利常の隠居城であった小松城三の丸跡は、今は芦城公園となっている。
大通りから一歩入ると、細い道が幾通りも通っており、ところどころに「こまつ町屋認定」の看板がかかる古民家が見られるなど、いかにも古くからの街並みとなっている。なかでも、材木町は小松市の景観まちづくり事業重点地区となっており、往時の趣が残る街並みが続いている。

材木町を抜けると、近くに、地元でお諏訪さんと呼ばれる菟橋(うはし)神社がある。
前田利常は、この神社を小松・金沢両城の鎮護の神と仰ぎ、慶安4年(1651)には現在地に社殿を造営して社領・神宝などを寄進した。7月27日、芭蕉も、菟橋神社の祭礼があると聞き、参詣したことが、曽良日記に記されている。


菟橋神社と通りを隔てたところは、すわまへ芭蕉公園となっている。
その先の寺町に建聖寺がある。門前に「はせを留杖ノ地」の石標が立ち、説明板には、この寺は芭蕉が小松で滞在した場所のひとつであり、小松市指定文化財になっている立花北枝作の芭蕉の木像があると記されている。


境内に足を踏み入れてみると、寺の奥さんと思われる人が「今、洗濯物を片付けますから・・・」と言いながら、境内の木の枝にかけてあった洗濯物を大急ぎで取り込み始める。「洗濯物で芭蕉の句碑が隠れてますので・・・」と。こちらが何も言わないうちに、風体からして芭蕉ゆかりの地を訪ねる旅人と察してくださったようだ。なるほど、隠れていた芭蕉碑と並んで句碑が現れた。
  - しほらしき 名や小松吹 萩薄(はぎすすき) -


さらに、「今、木像を出してきますから、ちょっとお待ちください。」と、こちらが何も言わないうちに、かの有名な北枝作の木像を見せてくださるという。


まさか、見せていただけるとは思っていなかったので、あっけにとられながら本堂で待つと、すぐに木像を目の前に運んでくださった。ありがたく、木像を眺めていると、「手に取ってよく見てください。」と言われる。その上、「今、冷たいものを持ってくるから、待っててください。」と言われ、アイスコーヒーまで御馳走になってしまった。
しばし、芭蕉の話や数十年前の小松の思い出などを話して、ご親切にお礼を言い、寺を辞した。

この後、楽しみにしていた小松うどんを食べるため、一旦小松駅に向かう。かつて、この地に仕事で滞在したときによく食べていたのが懐かしく、今回の旅でぜひ食べたいと思っていた。当時は知らなかったが、加賀藩お墨付きの名物として、また芭蕉も称賛したということで、今では名物小松うどんとして大々的に宣伝されている。

念願の小松うどんで腹ごしらえした後、賑やかな商店街を抜けてひとまず旧北陸道に出る。そこから南に少し行った本折町で、破風付朱色の鳥居が印象的な日吉神社が目に入ってくる。


芭蕉が訪れた頃、この日吉神社の神官は俳人の藤村伊豆守章重が務めており、その藤村伊豆屋敷で句会が催された。その時の発句が、
  - しほらしき 名や小松吹 萩薄 -
である。その句碑が境内にあり、句碑の前には芭蕉留杖の地の円柱の石碑が建てられている。

旧北陸道を、さらに南の方に行った上本折町には多太神社がある。ここには木曾義仲軍に討たれた斉藤実盛の兜と錦の切(帷子)があり、国の重要文化財に指定されている。義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して奉献したものとされる。
倶利伽羅峠の合戦で敗れた平家軍は、加賀の篠原で再び陣をはって戦ったが、義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、最後まで踏みとどまって奮闘し討ち死にした武将があった。その首を池で洗ったところ、墨で塗った黒髪がみるみる白くなり、それがかつて大蔵館(嵐山町)の戦いの中まだ幼少の義仲の命を救ってくれた実盛だとわかった。そのことを知った義仲は人目もはばからず涙したという。
参道には実盛像や兜、芭蕉の像がある。

 


芭蕉像横の真新しい句碑には、芭蕉が小松を立つとき奉納した句が刻まれている。
  - むざんやな 甲のしたの きりぎりす -
この句は、芭蕉が、この神社に奉納されている実盛の甲を見て、実盛と義仲の間の悲しい出来事、数奇な出会いに心を痛めて詠んだものである。
境内には、この句の元になった句の碑がある。
  - あなむざん 甲の下の きりぎりす -


後年、木曽義仲の墓所がある大津義仲寺に自らの骸を移してほしいと遺言を残すほど義仲に思いを寄せていた芭蕉の胸の内はいかばかりのものであっただろうか。

ここまでで、今回の旅を終え、金沢に戻って新幹線で帰途に就いた。
-----------------------------------------------------------------------------

象潟に立ち寄った芭蕉は、酒田を発つときに、『遥々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞。』と、加賀までのはるか遠い旅路に胸が苦しくなると記していた。
山形で日本海側に出て以来、延々と海岸線沿いの道が続いた芭蕉の旅は、那古の浦を過ぎると、ようやく海岸線から離れ、倶利伽羅峠を経て楽しみにしていた金沢に至る。それまで体調を崩していた芭蕉は、倶利伽羅峠で義仲所縁の地を巡ったり、金沢、小松で多くの俳人に囲まれるなどして元気を取り戻している。

倶利伽羅峠といえば、源平合戦の舞台となったことで有名だが、実際歩くと、山中の旧街道沿いには、実に多数の万葉歌碑が置かれていた。
天平18年(746)に越中の国守として赴任した万葉歌人大伴家持は、この地で多くの歌を残している。その家持が赴任の折に、この道を通ったとされ、
  - 焼太刀を 砺波の関に明日よりは 守部遺り添え 君を溜めむ -
と詠んだ歌に、加越国境の砺波関について触れている。倶利伽羅山は、源平合戦の頃までは礪波山と呼ばれていた。
倶利伽羅峠が、源氏と平家の興亡の明暗を分けた倶利伽羅源平合戦の舞台となったのは、平安時代末期の寿永2年(1183)のことであった。
芭蕉がこの地を訪れたのは、ずっと後年の元禄2年(1689)のことで、そのころは、加賀藩の参勤交代の往還道として整備されていた。当時の交通路には東海道、中山道、北国街道の3ルートがあったが、加賀藩はほとんどはこの倶利伽羅峠を越える北国街道ルートを利用していた。

倶利伽羅峠を巡ってはこうした長い歴史があり、実際に歩いてみると、それがよく感じられる。
北陸というと、加賀百万石の華やかさについ目を奪われがちだが、前回訪れた越中路を含め、振返ってみると、思いのほか時空を越えた歴史と文化の厚みが、この地では感じられた。
奥の細道を辿る旅とは別に、あらためてじっくり訪ねてみたいところである。