2018年5月30日 白石~大河原~岩沼
2018年5月31日 名取~笠島~仙台
元禄2年5月4日(陽暦6月20日)、白石を発った芭蕉は、一路仙台に向かった。途中、岩沼で武隈の松に立ち寄った後、名取で藤原実方や西行ゆかりの地を訪れようと思っていたが、街道から一里ばかりはずれたところにあるうえ旅の疲れもあり、結局は仙台まで13里の道を一気に歩いている。
奥の細道本文では、白石から仙台に至る行程について、白石、名取、岩沼の順に綴られており、岩沼と名取が逆転しているうえ、岩沼に一泊しているように記されているが、これは文脈の都合により創作されたものと考えられている。
私の今回の旅では、初日は白石から岩沼まで行き、電車で仙台まで行って宿をとり、翌日、電車で名取まで戻って笠島を訪れて、ふたたび仙台に向かう。
5月29日夜、福島行の高速バスで八重洲を出発。翌朝、福島駅に着いたら電車で白石に向かい、7時前には白石に到着して旅の再開である。
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白石
白石に着いたら、まずは白石城に立ち寄った。
白石城は、後三年の役(1083~1087)の時、源義家に従った刈田経元が、戦功によりこの地を与えられ、城を築いたのが始まりといわれている。その後、平安時代末期は奥州藤原氏、鎌倉時代は北条氏、南北朝末期以降は伊達氏と主が変わり、豊臣秀吉の奥州仕置後は会津若松城とともに蒲生氏の所領となって益岡城と改称された。関ヶ原の戦い後は再び伊達領となり、南の要衝として、伊達家重臣片倉氏の居城となった。
三階櫓のすぐ横に鎮座する神明社は、大同年間に坂上田村麻呂が創建したと伝えられ、歴代の城主から白石城の守護神として崇められていた。その参道を下りて行くと、城の外堀にあたる沢端川が流れている。武家屋敷通りとなっている川沿いの道を少し行った蔵王酒蔵のあるあたりが、かつての白石宿の中心街であった。
前回の旅の土産に購入した温麺は、江戸時代からの白石の名産品で、街道沿いには温麺の老舗が何軒か見られる。
白石~大河原
旧奥州街道は、白石の先で白石川を渡ってから槻木で阿武隈川に合流するまで、白石川に沿う形で進んでいく。この間は、現在おおむね国道4号となっており、街道沿いにはほとんど昔の面影は残っていない。天気が良ければ、蔵王の山並みが遠くに望めるはずだが、今回は残念ながら曇り空で見られなかった。
宮宿を過ぎてしばらく行くと、やがて旧道は国道から左に分かれ、かつての金ヶ瀬宿に入って行く。その分岐点に鎮座する大高山神社の階段を上って行くと、延喜式内社の歴史を感じさせる本殿が建っている。(この時は、修復工事中であった)
神社の先の旧金ヶ瀬宿の街並みには、庭木の松や旧い屋敷がいくつか見られ、かつての宿場の雰囲気が感じられる。
金ヶ瀬の静かな旧道を行くと、金ヶ瀬交差点で国道に一旦合流するが、すぐに国道沿いの道になる。しばらくして旧道は国道から分かれて右に曲がり、裁判所のところで左に曲がり、旧大河原宿に入って行く。
宿場入口の曲がり角に如意輪観音堂が建っているが、かつてこのあたりは白石川の渡しのあったところである。
大河原は、宿場であるとともに、米と紅花の集積所としても賑わっていた。旧道沿いには商店が長く続き、蔵造りの旧家など往時を偲ばせるものが残っている。
大河原~槻木(つきのき)
大河原旧市街を抜けると、やがて旧道は国道4号に合流するが、ここからしばらくは白石川土手を歩くことにした。この土手には年代物の見事な桜並木が延々と続いており、対岸の桜とともに白石川一目千本桜として東北を代表する桜の名所となっている。
しばらく行って荒川に架かる韮神(にらかみ)橋を渡ると、国道4号のところに出る。そこは韮神山の麓で、白石川が大きく右にカーブしているあたりである。韮神山は奇岩怪岩の山で、奥州藤原氏と源頼朝軍が戦った文治の役の古戦場であった。ふと見ると、正面の山を削った縁にへばり付く様に、「奥の細道」と書かれた標識と大きな石碑がいくつも並んでいる。
その一つは芭蕉句碑で、芭蕉を崇敬する大河原の俳人村井江三が弘化3年(1846)に建てたもの。
- 鶯(うぐいす)の 笠おとしたる 椿かな -
ここには、藤原実方の憚(はばか)りの関の歌碑もある。
- やすらわで おもい立にし みちのくに ありけるものを 憚りの関 -
憚りの関は、平安時代、韮神山と白石川の迫を通る東山道(後の奥州街道)にあった。
韮神橋を渡ると柴田町となり、対岸には白石川一目千本桜や丘陵に船岡城址が見える。
やがて白石川が阿武隈川に合流するところの北西に位置する旧槻木(つきのき)宿に入って行く。
旧槻木宿入口のあたりに鎮座する八幡神社は、前九年の役の時、源義家が氏神の八幡宮を勧請して創建したと伝えられる。
宿内の旧道沿いには、往時の宿場の雰囲気を残す旧家がいくつか見られる。
宿出口付近の久須志神社の参道には、多数の石塔とともに、珍しい石造の蛙が置かれている。
旧道はやがて国道4号と合流するが、合流点近くに四日市場一里塚跡の説明板があった。
国道を渡って堤防に上ってみると、この先で太平洋に流入する阿武隈川の広大な河川敷が広がっている。
槻木~岩沼
四日市場一里塚跡から先、旧道は国道と阿武隈川に挟まれる道を行き、少し先で国道から右の阿武隈川の方に分かれる。しばらく道なりにたんたんと進んで行くと、玉崎の集落を抜けて左にカーブするあたりに道標と八声(やごえ)の橋記念碑が並んでいた。
記念碑によると、「承和9年(842)、陸奥守小野篁卿が国府鎮護の大神を奉じて京より下り鎮守府に赴かんと当地にさしかかった折、霊狐の八声鳴くのを聞き神意に導かれて現在の館南の地に竹駒神社を創建されたと伝えられ、ここにあった橋を八声と呼んだ・・・・」ということらしい。
国道4号の下をくぐり、北上して常磐線の線路の下をくぐって道なりに進んでゆくと、街道左にひと際目を引く真っ赤に塗られた東武(とうたけ)神社が鎮座している。
この先で、街道はやがて枡形となり、岩沼宿の中心部に入る。江戸時代、岩沼は水陸交通の要衝で、仙台藩領内でも大きな宿場として栄えていた。また、京都の伏見、常陸の笠間と並んで日本の三稲荷ともいわれた竹駒神社(竹駒稲荷)の門前町として栄え、歌枕「武隈の松(二木の松)」の地でもある。
<竹隈神社>
竹隈神社境内に入ったすぐのところに、芭蕉句碑と謙阿句碑が建っており、その左手には2本の立派な松が聳えている。
左の芭蕉句碑(二木塚)には、芭蕉が武隈の松を訪れた時の句が刻まれている。
- 佐くらより 松盤(ば)二木を 三月越し -
右の謙阿句碑(名月塚)は、寛政5年(1793)、芭蕉翁の百年忌法要を記念して建立された句碑で、謙阿の句が刻まれている。
- 朧よ里(り) 松は二夜の 月丹(に)こ楚(そ) -
謙阿は古内家の給士で、芭蕉6世とまで言われた俳人とのことだ。
境内には、楼門、唐門、本殿など、日本三稲荷ともいわれるだけあって見事な建物が見られる。
芭蕉は、ぜひ見たいと目指していた武隈の松を見て、『見るほどに、目の覚めるようなすばらしさだ。幹が根元から二本に分かれ、昔の姿を保っていた』と記している。
私の今回の旅の一日目の一番の目的は、芭蕉が目指したのと同じく、この武隈の松を訪ねることであった。ところが、竹駒神社の芭蕉句碑やその横の立派な松を眺めているうちに、ついうっかり、これが武隈の松だと思い込んでしまい、すっかり目的達成した気分で旧道をそのまま駅の方まで進んでしまった。武隈の松は、実際には、竹駒神社から岩沼駅の方に少し行ってちょっとばかり旧街道から外れて、現在二木の松史跡公園となっているところにあったのである。旅を終えて帰宅してから気が付いたが、後の祭りであった。
ともあれ、竹駒神社を出て、岩沼宿内の旧街道を北上すると、かつての面影を留めた旧家がいくつも残されている。中でも、かつての南町検断屋敷は突上二階櫓門というちょっと珍しい建物ものである。南町検断屋敷は北町、中町と同様に藩の費用で設置されたもので、治安、交通運搬、鉄砲鑑札等を担っていた。
今日の旅はここまでとし、ホテルを予約している仙台に電車で向かった。
仙台までは20分ほどで、日が暮れるまでまだ少し時間があるので、仙台で仙石線に乗り換えて、以前、多賀城を訪れた際、行きそびれていた末の松山、沖の石まで足を延ばした。末の松山、沖の石は多賀城駅から歩いてもすぐのところにあった。詳しくは「仙台~松島」のページに記した。
このあと、あらためて仙台まで戻り、ホテルにチェックインした。
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5月31日朝5時、外はもう明るくなっている。仙台駅東側に位置する宿泊ホテルから、宮城野の榴岡天満宮、陸奥国分寺が近いので、朝食前の散策にでた。早朝の街は一段と緑が生えて清々しい。
(この詳細は、仙台市街散策のところで後程まとめて記す。)
朝食後、まずは電車で名取に行き、駅から1里ほど離れたところにある笠島にバスで向かった。
笠島
芭蕉は武隈の松を見た後、笠島にある藤原実方の塚をぜひ訪れてみたいと思っていたが、『此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば』ということで断念し、仙台への道を急いだ。目的を果たせぬ無念の気持ちを込めて、次の句を詠んでいる。
- 笠島は いずこさ月の ぬかり道 -
文治2年(1186)、西行はこの地を訪ね、
- 朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄 かたみにぞ見る -
と弔いの歌を詠っている。
名取駅前からバスで20分ほどの”実方墓前”というバス停は、周囲が田圃ばかりの中にポツンと置かれている。バスを降りて目の前の実方橋をわたると、すぐに芭蕉句碑、かたみのすすきと草鞋塚碑が並んでいる。
それを左に見て100mほど歩くと徐々に雰囲気が変わり、鬱蒼と茂った孟宗竹と杉の林の中に藤原実方の墓が見えてくる。
ひっそりと静まり返った林の中の小さな空間だが、ここだけ時が止まったかのように感じられる。中心の木柵で囲まれた中に実方の墳墓があり、左右には実方顕彰歌碑や西行歌碑が立ち並んでいる。
藤原実方は、平安中期の歌人で中古三十六歌仙の一人に数えられる。宮廷の貴公子といわれ、藤原道綱、道信や源宣方などとの親交や、清少納言など多くの女性たちとの交際が伝えられている。
その実方は、左遷で陸奥守として多賀城に赴任してきた。ある日、ここ名取市笠島の道祖神社の前を下馬せずに通り過ぎたら落馬してしまい、これが原因で亡くなってしまった。
件の道祖神社は、実方の塚から歩いて15分位のところにある。
道祖神は道路の悪霊を防ぎ通行人を守る神で、道祖神のことを「さえのかみ」とも言うことから、道祖神社には佐倍乃(さえの)神社の別称がある。慶長7年(1602)に野火により、社殿、古来の宝物、文書などをすべて焼失したが、文録元年(1592)に伊達政宗が社殿を修繕したと伝えられ、現在の拝殿は入母屋造りの棧瓦葺で、元禄13年(1700)に四代藩主綱村が建立したものとされている。
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笠島からバスで名取に戻り、ここから改めて仙台を目指す。
名取~仙台
名取駅東側を通っている旧道に、名取郡の北方検断を務めた菊池家屋敷跡がある。菊池家は本陣でもあり肝入も兼ねていた。手前の松は菊池家屋敷にあった樹齢数百年の大傘の松で、明治天皇東北巡幸の折、随行した木戸孝充が詠んだ歌から、衣笠の松と命名したとのこと。
- 大君の 立寄りましし 陰なれば 衣笠の松とこそ いうなかりけり -
そのとなりは増田神社で、江戸時代、ここ名取には増田宿が設けられていた。
名取の先、南仙台駅あたりから名取川までが中田宿で、次の長町宿までは1里ほどしかないが、名取川が川止めになることも多いため宿場が設けられた。往時は南北に木戸があり、検断屋敷もあったというが、今は当時の風情の残るものはほとんどなく、僅かに残る旧家がかつての宿場の面影を残すのみである。
平安の都人にとっては、名取川と聞くと陸奥のさまざまな歌枕を思い浮かべる特別な存在だったという。その名取川を渡ると、次は旧笊川(ざるかわ)を渡る。笊川は、降雨による水量の変動が大きく、降れば降っただけ流れ、すぐに涸れて水無川のようになるのでこの名になった。
笊川を渡るとやがて太子堂に至るが、太子堂駅の東側あたりは、かつて東北地方最古の仙台郡山官衙(かんが)があったところである。官衙は8世紀初期に多賀城が造営される前後まで続き、古代国家成立期における東北地方の政治・軍事の拠点であったと考えられている。
このあたりの街道沿いに、大きな屋敷門の旧家が見られた。
旧道は、太子堂駅の所で国道4号から分かれ、東北本線の西側に出て、しばらく行くと長町駅が見えてくる。街道沿いはすっかり都市化が進み、広い道路が整備されていて、往時の面影は全く見られない。
この先、広瀬川を渡ると、いよいよ旧仙台宿に入っていく。
仙台
宿場の中心を通る国分通りの青葉通りから一本入って日銀仙台支店の立つところに芭蕉の辻とよばれる交差点がある。往時は、辻の四隅に2階建入母屋造りの櫓風建物が陣取り、長屋風の店蔵がつづくここが仙台宿の中心地であった。
明治安田生命の軒先をかりて、芭蕉の辻碑と道標が置かれている。道標には、「北 津軽三厩迄四十五次百七里二十二丁 奥道中」、「南 江戸日本橋迄六十九次九十三里 奥州街道」と記されている。「芭蕉の辻」の名称は、松尾芭蕉と関係無いことは確かだが、その由来については諸説ある。
芭蕉は、白石を出てから13里もの距離を歩き通して、仙台に入った時はすでに夕方となっていた。仙台では、国分町大崎庄左衛門の宿に逗留する。
この地では、大淀三千風を訪ねようとしていたが、既に仙台を離れていた。かわりに、三千風の門弟で画工の北野屋加右衛門と知りあい、その案内で仙台近郊の名所や歌枕の地を訪ね歩いている。
芭蕉は、この地を発つに際し、その加右衛門がくれた餞別に対して、『なお松嶋・塩がまの所々、画に書きて送る。かつ紺の染緒つけたる草鞋二足、餞(はなむけ)す。さればこそ風流のしれもの、ここに至りてその実をあらはす。』と、感謝の気持ちを奥の細道に記している。
<仙台城址>
青葉通りの先で広瀬川を渡ると、その先の高台に伊達62万石の居城だった仙台城(青葉城)址がある。そこは、標高約130mという結構な高台で、東と南を断崖が固める天然の要害になっている。今では城は消失しているが、がっしりした石垣が往時を偲ばせる。
芭蕉たちは仙台城址を見た後、伊達家の氏神だった亀岡八幡宮を訪ねているが、私は少し離れた大崎八幡宮にバスで向かった。
<大崎八幡宮>
大崎神社は、伊達政宗が建立し、江戸期を通じて伊達家の尊崇が厚かった。伊達政宗はもともと米沢の人で米沢を中心に領土を拡大してきたが、秀吉により山形、会津などを召し上げられこの地に移封された。仙台は政宗にとってはなじみのない土地であり、かつてこの地を治めていた大崎氏の氏神である大崎八幡宮を大切にすることによって旧権威を引き継いだとされる。
本殿は桃山建築の傑作と言われ、国宝に指定されているもので、絢爛たる装飾などさすがに見応えあるつくりである。また、長床は国の重要文化財に指定されている。
私の今回の旅はここまでとし、大崎八幡宮前から仙台駅に行き、帰途に就いた。
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以下は、今朝、朝食前に散策した宮城野の榴岡天満宮、陸奥国分寺について記している。
宮城野は、昔ツツジの名所として知られた榴岡から奥国分寺跡がある木ノ下あたりまでの平野をいう。古来一流の歌枕として多くの歌人に慕われ、みちのくを象徴する名所の一つとして憧憬された。
芭蕉は、仙台を後にする前の日に、加右衛門に案内されてここを訪れている。
<榴岡天満宮>
榴岡公園が近接している榴岡天満宮は、今回宿泊したホテルから歩いて近い。早朝の為、唐門が閉じられており、拝殿の方には入れなかった。社前には合格祈願などの絵馬がたくさん掛けられ、菅原道真にちなむ撫で牛や筆塚などが置かれている。また、境内には芭蕉句碑や仙台俳壇の基礎を築いた大淀三千風追善碑をはじめとして、多数の句碑や歌碑が立ち並んでいる。芭蕉は、元禄2年(1689)5月7日、ここを訪れている。
<陸奥国分寺跡>
奈良時代に聖武天皇の勅願によって建てられた陸奥国分寺の跡は、榴岡から南東へ1kmあまり行ったところにある。途中、楽天イーグルス本拠地の横を通った。
陸奥国分寺跡は、近年の考古学的な発掘調査によって、その規模は奈良の東大寺と同規模であったと推定されている。付近一帯は古今集東歌にある歌に由来して木ノ下と呼ばれていた。
- みさぶらひ 御笠と申せ宮城野の 木の下露は雨にまされり -
陸奥国分寺跡のこの地には、慶長9年(1604)、伊達政宗によって国分寺金堂跡に再建された薬師堂の他、鐘楼、仁王門などが残っている。
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今回は、梅雨入り間近で、事前の天気予報が毎日変わるなど、天候が気になっていたが、結果的に二日間を通して時折陽ざしが見られる薄曇りの天気で、まずまずの旅であった。
一日目は、武隈神社の松の見事さに心を奪われて、直ぐ近くの武隈の松を見過ごしてしまったことが何とも悔やまれるが、一方で、二日目に訪れた笠島の藤原実方の塚では、林に囲まれたその小さな空間が思っていた以上に印象的で、なぜか心に残るものであった。
一日目に宿をとり、二日目に再び訪れた仙台は、かつて陸奥国分寺がおかれ、伊達62万石の城下街だっただけあって、さすがに広い範囲に亘って見どころも多い。杜の都と言われるとおり緑が多く、街並みもきれいで、東北最大の都市に発展していることを、今回歩き廻ってみてあらためて実感した。