仙台~松島

2014年7月23日 仙台~多賀城~塩釜~松島~山寺~羽黒山手向
2014年7月24日 羽黒山手向~羽黒山頂上~月山九合目
2014年7月25日 月山九合目~月山頂上~湯殿山~鶴岡

今回の旅は、仙台~多賀城~塩釜~松島と見て廻ったあと、山寺に向かうことにしている。芭蕉の旅の流れとは大きく異なってしまうが、先行して山寺に行きたい気持ちが強くなったためである。さらに、そこから出羽三山~鶴岡へと足を延ばす。
かなり変則的な旅程だが、このページでは芭蕉の旅の流れに合わせるため、仙台~松島に絞って記す。
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7月22日夜、仙台行高速バスで新宿を出発、翌朝5時過ぎ、ほぼ定刻どおりに仙台駅前に到着。東北本線6:00発の一関行きで10分ほどの国府多賀城まで行き、最初の目的地である多賀城跡に向かう。
国府多賀城駅に着いて駅北口に出ると、一帯は遠くまで野原が広がっている。あたりに人気はないし、どうしたものかと思ったが、ふと左の方を見ると小さなプレハブ小屋に観光案内所の看板が掲げられている。朝早いため無人だが、入口の小箱に多賀城跡の案内図や各種資料が置かれているので、一通り頂戴する。

多賀城碑(壷の碑)
館前遺跡という原っぱを横切り、先ほど入手した駅周辺地図を頼りにしばらく行くと、あとは随所に案内板が現れるので、それを頼りに歩くことができた。
案内に従って進むと、小高い丘を登ったところにお堂のようなものが建っている。これは覆屋で、その中に多賀城碑が収められている。

 


多賀城が、神亀元年(724)に大野東人によって創建され、天平宝字6年(762)に藤原朝狩によって修造されたことなど、多賀城の由来を伝える碑として国の重要文化財に指定されているものだが、江戸時代に発掘された当時、これが歌枕の壺の碑と信じられていた。
もともと、歌枕を訪ねることを目的にみちのくの旅に出た芭蕉は、ここまで多くの歌枕が廃墟と化している現実を見て失望していた。だが、この碑を前に、多賀城の栄枯、この地を訪れた古人の心境に思いをはせ、おおいに感動して奥の細道に次のように記している。『むかしよりよみ置ける歌枕おおく語り伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡のたしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千載の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労を忘れて、泪落るばかり也。』
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多賀城遺跡
多賀城碑があるのは多賀城南門があったあたりで、多賀城跡は、多賀城碑の北側の小高い丘に広がっている。
多賀城は神亀元年に創建され、陸奥国府と鎮守府が置かれた。約900m四方の城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁があり、当時の東北を統治する中枢的役割を果たしていた。
発掘調査成果をもとに環境整備が行われており、広大な敷地のそこここに、位置を示す標識や建物跡の礎石などが点在し、ゆるやかな坂を上ったところには政庁跡の復元模型が置かれている。多賀城跡は、平城宮跡(奈良)、太宰府跡(福岡)とともに日本三大史跡に数えられている。

 


今回、訪れていないが、多賀城跡から南東に4kmほどの大代地区にある柏木遺跡は、奈良時代の製鉄炉や木炭窯、工房跡がまとまって発見された遺跡で、多賀城直営の製鉄所跡と考えられている。
多賀城関連遺跡はかなり広範囲に亘っている。

野田の玉川
多賀城跡から南東1kmほどの小高い所に、多賀城跡とほぼ同時期に創建された多賀城付属寺院の廃寺跡がある。建物や礎石などほとんどないが、太宰府観世音寺と似た伽藍配置であったことが窺いしれるように史跡公園として整備がされている。
ここから東に向かえば野田の玉川があるはずだが、詳しい地図も案内板もないため、少し不安を抱きつつ直感を頼りに歩を進めることにした。幸い、しばらく行ったところで野田の玉川に架かるおもわくの橋への案内板を見つけ、ほっとする。

野田の玉川は、歌枕として著名な六玉川のうちのひとつである。ほかには、井出の玉川(京都府)、野路の玉川(滋賀県)、高野の玉川(和歌山県)、調布の玉川(東京都)、三島の玉川(大阪府)がある。
多賀城市は、野田の玉川が下流域にたびたび洪水を引き起こしたことから、平成4年に流域をコンクリート護岸に囲まれた細流として整備した。イメージしていたものと違っていて、はじめは少し違和感を覚えたが、かつての歌枕の面影をなんとかして残そうと苦心した様子がうかがえる。

 


多賀城周辺は歌枕が多いことで知られており、芭蕉は多賀城碑を訪ねた後、一旦塩釜まで行ってから再び戻って、野田の玉川、末の松山、沖の井(沖の石)を訪ねている。
今回は、時間の関係で、末の松山、沖の井はパスして、ここから塩釜に向かうことにした。塩釜は歩いてもそう遠くないが、仙石線多賀城からすぐの本塩釜まで行って塩竈神社に向かった。

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*以下は、後に白石~仙台を歩いたときに、末の松山、沖の井(沖の石)まで足を延ばして見て廻った時のものである。

末の松山 、沖の井
末の松山は、いにしえより多くの歌人に親しまれた陸奥の代表的な歌枕である。特に清少納言の父で三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ歌は有名で、末の松山のある宝国寺の入口にこの歌碑がある。
  - 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山なみこさじとは –
また、末の松山の松の根元には、古今和歌集・東歌の歌碑がある。
  - 君をおきて あだし心をわがもたば 末の松山波を越えなむ -
その昔、男女の変わらぬ愛の誓いにも例えられた末の松山だが、宝国寺の墓地にあるさまを見た芭蕉は、『末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はして枝を連ぬる契りの末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞』と歎いている。


末の松山から南へ100mほど下っていくと、古来歌に詠まれた歌枕の沖の井(沖の石)がある。民家の間に突如現れる海の磯と見紛う光景は、なかなか趣が感じられる。
  - おきのゐて 身をやくよりも かなしきは 宮こしまべの わかれなりけり -
    (古今和歌集 小野小町)
  - わが袖は しほひにみえぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき - 
    (千載和歌集 二条院讃岐)


ところで、多賀城駅から末の松山に行く途中、砂押川に架かる鎮守橋の袂に「波来の地」碑が建てられていた。先の東日本大震災で、宝国寺の目と鼻の先のこの地点まで津波がやってきていたことを示している。この時、宝国寺は本殿の石段まで水につかったが、末の松山は寺からさらに約8メートル高い場所にあるため、奇跡的に津波を免れている。
ちなみに、貞観11年(869)に発生した貞観地震では、一帯は地震と津波の大きな被害を被ったが、その時の津波も末の松山の麓まで押し寄せたものの、末の松山は無事だった。そのことが都人に伝わり、末の松山は、決して波が越すことのない場所として、決して起こらないことや固い契りのたとえとして詠まれるようになったということらしい。
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塩竈神社
塩竈神社は、陸奥国一の宮として古くから朝野の崇敬が厚かった。創建年代は明らかではないが、奈良時代以前にさかのぼる。中世以降、奥州藤原氏や武家領主より厚い信仰を寄せられ、特に江戸時代に入ってからは、伊達政宗による社殿造営が行われ、伊達家歴代の尊崇が厚かった。
塩竈神社は塩竈街道の終点にあたり、表参道の鳥居は街道のすぐ脇にある。そこから社殿までは参道の長くて急な石段が続いており、階段の先に随身門、唐門と続き、その奥に本殿がある。
随身門、唐門を入ると、拝殿に向かって右側に文治の燈籠といわれる赤く錆びた灯篭がある。(写真では、右側の石燈籠の後方に小さく見える)


これを寄進した和泉三郎こと藤原忠衡は、頼朝に抗して義経を守ろうとした人物で、もともと義経を深く思慕した芭蕉は、奥の細道の中で和泉三郎を次のように称えている。『神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。』
文治3年(1187)に奥州藤原秀衡が病で急逝したのち、二男泰衡は、秀衡の遺言に従って、源頼朝から平泉に逃れていた義経を匿うが、頼朝の激しい圧迫に逆らえず、己が家臣を大将に義経を急襲した。これに対し、秀衡の三男忠衡は父の意志を継いで最後まで忠義を尽し義経の力となったが、義経が自刃した約二ヶ月後、兄泰衡によって誅殺されたのである。

参拝後、随身門を出て正面の表参道の石段を下った。202段のこの石段はかなり急で、上から見ると転げ落ちそうな感じであった。つい二日前に斎行されたみなと祭では、16人の氏子(輿丁)が約1トンの御輿を担いでこの石段を下りるというから、驚きである。


それにしても、これだけ大きく立派な神社なのに、朝早かったせいか、出会った参拝者は一組の親子だけだった。いたるところ綺麗に手入されており、静寂で神聖な感じがして素晴らしい社である。
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松島
6時に仙台を出てから、駆け足で慌ただしく多賀城史跡、野田の玉川、鹽竈神社と巡ってきたが、それというのも、9時始発の松島湾めぐりの船に間に合わせるためであった。船は、本塩釜駅からほど近いマリンゲート塩釜というところから出ている。塩釜から松島まで、芭蕉が巡ったのと同じコースを約50分で巡るコースである。
湾を出ると、八百八島と言われる約260の島々が次々と現れ、さまざまな景観を見せる。ガイドアナウンスに合わせて右に左に目を移す。乗り合わせた乗客は、一組の親子と一組の夫婦だけで、ほぼ貸切のようなものだ。今日は薄雲りで、この時期にしては日差しが柔らかく、海も穏やかだ。しばし、芭蕉になった気分で、のんびりと湾内を巡る。


奥の細道ではこのときの様子を次のように縷々記している。『そもそもことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭、西湖を恥じず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽くして、そばだつものは天を指さし、ふすものは波にはらばう。あるは二重にかさなり、三重にたたみて、左にわかれ右につらなる。負えるあり、抱けるあり、児孫愛すがごとし。・・・・』
この旅に出る前から憧れていた松島の光景を目の当たりにし、芭蕉にしては珍しく、やや高揚した気持ちをそのまま記している。ところが、芭蕉は奥の細道の中で松島を詠んだ句を記しておらず、その理由が謎とされている。絶景を目の当たりにして感動の余り思うように句が作れなかったという説や、絶景の前では黙して語らずということで意識的に句を示さなかったとする説などもある。ちなみに、「松島や ああ松島や 松島や」が芭蕉の句と謂われることがあるが、これは実は江戸時代後期に相模国の狂歌師・田原坊が作ったものという。

ともあれ、今も、かつて芭蕉が眺めたのと変わらぬ景色、と言いたいところだが、実際には先の東日本大震災と津波の傷跡をそこここで目の当たりにすることとなった。松島湾岸周辺は、他の地域に比べて、比較的被害が小さかったということではあるが、船の中の説明では、一部の島の形が変わってしまっている、ということであった。船に乗る前に通った塩釜港周辺の街中でも、津波の傷跡が随所にあった。

五大堂
島々を巡って松島の観光桟橋に着くと、すぐ近くに五大堂があるので、まずこちらに行ってみる。
五大堂は、坂上田村麻呂が建立し、伊達政宗が桃山式建築手法を取り入れて再建したもので、国の重要文化財に指定されている。小さな島の上に建っているので、下が透けて見える「すかし橋」を渡って行く。


瑞巌寺
五大堂から桟橋の方に少し戻ると、瑞巌寺入口を示す大きな石柱が目に入る。
瑞巌寺は、平安時代初めの天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁によって開創された。平泉の毛越寺と中尊寺 、山寺の立石寺も円仁が開いた古刹である。今の建物は、慶長14年(1609)、伊達政宗が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたもので、伊達家菩提寺となっている。
総門から入ると、右側に参道と並行して洞窟群が続いている。かつて修行僧が生活したという洞窟群に、ただただ圧倒される。現在、本堂・中門・御成門は平成の大工事中で、非公開となっており、拝観はパスする。

 


本堂側から、参道に立って総門の方を見ると、まっすぐ続く杉並木の先には海が見えている。見事な杉並木だが、先の東日本大震災の際の津波が参道の4分の3ほどまで到達し、樹齢200~400年の約1000本の杉の半数が立ち枯れ状態になったため、多くが伐採されたという。
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瑞巌寺入口から西に向かい、円通院前の道を道なりに行くとやがて松島海岸駅に出る。奥の細道を辿る旅としては変則的だが、今回は、ここから電車で仙台を経て山寺に行き、その後、出羽三山巡りの為、手向に向かった。ただし、芭蕉の旅の流れに合わせるため、山寺出羽三山~鶴岡については、それぞれ当該ページに記載している。