2017年3月13~14日 市振~魚津~高岡
「奥の細道」越中路の段は、歌枕が多い地域であるにも拘わらず、『くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出・・・』と、越後路同様、簡素な記述にとどまっている。
曽良日記によれば、旧暦7月13日(陽暦8月27日)早朝、市振を出発し、泊を経て入善(にゅうぜん)に入った。ここから黒部四十八が瀬と言われる数多の川を越え、滑川で一泊。翌14日朝、滑川を出発して、常願寺川・神通川・庄川を渡って高岡に向かった。猛暑のなかの強行軍だったため疲労困憊し、高岡で宿を取って、翌朝には金沢に向けて出発した。
象潟を出て以来、変化の少ない海岸線の路を延々と歩んできて、さすがの芭蕉も些かくたびれ、とにかく早く金沢にたどり着きたいという気持ちが先に立っていたのであろう。
今回の私の旅は、市振~高岡の越中路を訪ねるのだが、「おくのほそ道の風景地」に指定されている有磯海・雨晴海岸に、ぜひ足を延ばしたいと思っている。ただ、天気予報で、一日目は晴れ、二日目は曇りとなっているため、晴れているうちに雨晴海岸に行き、その後、高岡から市振に向けて芭蕉とは逆の行程を取ることとした。
話がややこしくなるため、以下では、芭蕉の足跡に沿って記している。
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市振~泊
昨年9月に直江津から市振に行った直後の10月に、市振宿のシンボルともいえる海道の松が台風被害で倒れ、12月には糸魚川中心街の街並みが大火で焼失し、立て続けに江戸時代からの貴重な遺産が消失してしまった。
市振宿を再度訪れて、宿東端の海道の松が立っていたところに向かってみると、哀れにも、根元の切株を残すのみとなっていた。私自身もそうであったが、今も険しい親不知を越えてきた旅人にとって、漸くホッとする象徴的存在だっただけに、実に残念なことだ。
一抹の寂しさを感じつつ、宿内を通り過ぎ、国道8号に合流した道を境の関に向かう。
市振駅前を通り過ぎると、少し先で新潟県と富山県の県境となっている境川に差し掛かる。川を越え、右手の旧道に入ったところに、ひっそりと境一里塚が残されている。
徳川幕府は、江戸日本橋を起点に、五畿七道の主要街道の一里ごとに里程標の役割を果たす一里塚を築かせた。境の一里塚は加賀藩領内の基点として作られ、これは富山県内で唯一現存している貴重な一里塚となっている。
静かな境の街中を進むと、杉玉のかかる旧家を見かける。黒部峡酒元林酒造で、今もこだわりの酒を造っている。創業者は加賀藩の関所に勤める与力で、傍らで酒を造りはじめたのが寛永3年(1626)とされている。
すぐ先に、関所の大門が見える。境関所跡は明治に入り小学校となったが、今はその小学校が閉校になったあとに「関の館」が建てられている。
境の関所は、慶長19年(1614)、加賀藩によって開設された。厳重な警備体制は日本随一と言われ、役人・武器などは小さな城に匹敵する武力を持っていた。街道筋には岡番所、浜には浜番所を、山には遠見番所を置き、陸と海、山からの旅人の出入りを監視していた。徳川幕府は各藩が私関を置くことを禁じていたため、藩の関所は口留番所と称していたが、加賀藩では境については幕府と同様に関所と呼び、区別していた。
どことなく往時の面影残る街並みを進んで行くと、境信号のところで再び国道8号に合流する。
このあたりの道沿いはたら汁街道と呼ばれていて、たら汁の看板を掲げたお店が多数並んでいる。一度は味わってみたいと思っていたので、境信号の近くの「ひまつぶし」というこじんまりした店で名物のたら汁を頂くことにした。
この店の女将さんが気さくな人で、世間話や街道歩きの話などしている内に、国道を歩くときは危ないから、ということで腕に装着する反射バンドをプレゼントしてくださった。素朴な味わいのたら汁は、流石に名物というだけのことあって、思っていた以上に美味なものであった。
越中宮崎駅あたりで国道から分かれ、ヒスイ海岸側の旧道を行く。
海側に宮崎・堺海岸公園が見え、明治天皇宮崎小休所跡の前を通って、のどかな雰囲気の宮崎の街中を進んで行く。
漁港のところから海沿いの道になり、海岸とあいの風とやま鉄道線に挟まれた人気のない道をしばらく淡々と歩く。
泊~魚津
小さな笹川を渡ると、道は海沿いを離れ、海浜公園を横に見ながら泊の街中を進んで行く。やがて泊から入善に入り、道は県道60号線から県道2号線になる。
入善から魚津までの途中には黒部川が横たわり、一帯はその広大な扇状地が広がるところとなっている。扇状地には田圃が広がり、扇端部では湧水があちこちで見られる。街道筋のところどころには清水が滔々と湧きでる水場があって、コップや茶碗が置かれている。水の恵みの豊かさを目の当たりにする。
県道2号線で黒部川に架けられている橋は下黒部橋である。上流を見ると立山連峰の山々が雲間に見える。黒部川は、北上川、最上川、信濃川のように、水を満々とたたえて流れる川と違って、上流から運ばれた石ころが広い川原を埋めている。
芭蕉が「くろへ四十八ヶ瀬とかや 数しらぬ川を わたりて・・・」と記しているように、当時は、黒部川流域の扇状地は、まだ開拓がされておらず、川原状態であり、扇状地の中は幾筋もの川が流れていた。曾良は旅日記に『入善に至りて馬なし。人雇て荷を持せ黒部川を越ゆ。』と記している。広い扇状地を、人足を雇い、荷物を持たせて歩いたようである。
また、黒部川下流に橋は無かったので、『雨続くときは山のほうへ回るべし。橋あり。一里半の回り坂あり。』と記しているように、一里半ほど遠回りになるが、上流の愛本のはね橋を経由する上街道を利用する旅人も多かった。
片貝川を越えて、しばらくすると魚津に着く。
魚津は、毛勝山や僧ヶ岳を源とした清冽な水が市内をめぐり、その水は三大奇観である蜃気楼、ほたるいか群遊海面、埋没林などの独特な自然や多様な生物を育み、豊かな山の幸や海の幸をもたらしている。
市振を出た芭蕉は、魚津を通り過ぎて滑川で一泊しているが、私は魚津で宿をとった。ホテルの窓からは、立山連峰の姿が眺められる。
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魚津~奈呉の浦
魚津と滑川との境には早月川が横たわっている。
早月川は剱岳に源を発し、3000mクラスの山から一気に富山湾に流れ落ちる全国屈指の急流河川で、海岸、河口近くでも巨石がごろごろしている。
早月川にかかる早月橋からは、剱岳をはじめとする北アルプス北部の山々が一望でき、橋の中ほどに「早月橋から見た北アルプスの山々」という解説板があり、それぞれの山の名前が示されている。
魚津までの途中、片貝川、黒部川を越え、この先も、高岡までは、神通川、常願寺川と、いくつもの川を越えることになる。いずれもはるか遠くまで広がる扇状地を形成しており、行けども行けども立山連峰が眺められる田園風景が続いている。
どこまでも変わらぬこの景色が続くように思えるが、魚津あたりでは、立山連峰は毛勝山(けかつやま)や僧ヶ岳などが間近に見られるようになり、高岡あたりでは大日岳や剣岳が少しずつ近づいていることに気が付く。
今回、雨晴で予定以上に時間を取ったこともあり、滑川~高岡間は電車で移動し、高岡から万葉線の路面電車で越の潟まで行って、渡船で堀岡に渡り、そこから芭蕉の歩いた道を辿って再び高岡まで戻ることにした。
電車の車窓からは、雄大な立山連峰がずっと見えている。窓越しに写真を撮り続けていると、見知らぬおばさんが、スマホのアプリで目の前の山の名前がリアルタイムに表示されるというのを教えてくれた。すごいツールがあるものだと感心する。そうこうするうちに、社内の車掌さんがわざわざやってきて、富山駅と東富山の間が山が一番よく見えるよ、と教えてくれる。地図を見ると富山から東富山までの間は、車窓の正面に北アルプスの山々が横に並ぶ格好になっている。なるほど、電車から眺めるなら、ここが絶景ポイントだと分かる。越中路には、気さくで親切な方が多い。
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奈呉の浦
万葉線終点の越ノ潟から対岸の堀岡までは、富山県営で無料の渡船を利用できる。今は、渡船の通るすぐ横に白く輝く巨大な新湊大橋ができている。日本海側最大級の斜張橋の車道部分は全長3.6kmだが、越ノ潟と堀岡のそれぞれの渡船発着場の直ぐ近くにエレベーターがあって、中心部500m程の歩行者専用道を歩いて渡れるようになっている。
幸い、この日は天候に恵まれ、海面から50m程の高さのところから、日本海や立山連峰、能登半島が一望でき、素晴らしい景色を楽しむことができた。
橋を渡って再び越の潟に戻り、那古の浦を西に向かう。
那古の浦に至った芭蕉は、同じく万葉の歌枕の地である有磯海、擔籠の藤浪を訪れようとするが、土地の人から「ここから五里もあるし、へんぴな所で泊まる宿もなかろう」といわれ、諦めて高岡への道をたどることにした。このとき詠んだ句の句碑が、放生津八幡宮境内にある。
- 早稲の香や 分け入る右は 有磯海 -
放生津八幡宮は、越中国守として赴任した大伴家持が宇佐八幡宮を勧請して興したと伝えられる。
現在の新湊漁港横の海岸線を歩くと、北に能登半島、南に立山連峰が臨まれて、往時の那古の浦の光景が彷彿とする。
また、海岸線から新湊の街中の方に入ると、街中を流れる内川沿いの景色に郷愁を誘われる。運河に架かる個性的な橋の一つ神楽橋のうえから山王橋越しに先を見ると、遠くに立山連峰が臨まれる。
川向うの伏木に越中国の国府があり、天平を代表する歌人の大伴家持は国司としてここに赴任し、多くの歌を残している。ちなみに、万葉集に残された歌は全部で4516首。そのうち大伴家持が作者であるとわかっているものは473首、そのうちの220余首が越中で詠まれているらしい。
この地を通る路面電車は、大伴家持にちなんで万葉線という名前を付けられたという。ゆっくり進む路面電車に乗っていると、どこか万葉の趣が漂っているような気分になる。
万葉線の路面電車といい、富山新港の渡船といい、新湊大橋といい、ここでは他では経験できないようないろいろな手段で移動できるところも面白い。
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高岡
旧暦の7月14日(陽暦8月28日)の夕刻前、高岡に着いた芭蕉は、翌朝には金沢に向けて出発し、倶利伽羅峠へと足を進めた。曽良の日記には「翁、気色勝(すぐ)れず」とあり、芭蕉は相当疲れていたようだ。
高岡は、古代、伏木に越中国国府が置かれ、近世では加賀藩二代藩主前田利長が築いた高岡城の城下町として発展した。利長の死後一国一城令により廃城となってしまい、現在では高岡古城公園に濠や石垣の一部など痕跡がわずかに残るのみである。
高岡の瑞龍寺は、前田利長の菩提を弔うため三代藩主利常によって建立された。平成9年、山門、仏殿、法堂が国宝に指定され、豪壮にして典雅な美しさの禅宗建築として高く評価されている。
瑞龍寺と前田利長公墓所を東西に結ぶ参道は八丁道と呼ばれ、見事な石燈籠、松並木、石畳が続いている。
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<雨晴>
雨晴(あまはらし)は、今回の旅の一番の目的地であり、実際には真っ先に訪れたところである。
3月12日夜、新しくできたバスタ新宿から深夜高速バスで出立、翌13日早朝5時半頃高岡に到着。JR氷見線で雨晴に着いたのは6時過ぎで、すぐに海岸に出ると、まだ日の出前だが数人が立山連峰の方にカメラをむけていた。
雨晴海岸は、岩礁、白い砂浜、青松がつづく景勝地で、ことに、女岩を前景に富山湾越しに3000メートル級の立山連峰の雄大な眺めが見られる事で知られる。万葉の歌人大伴家持は、この雨晴の風景をこよなく愛し、多くの歌を詠んだ。
そんなわけで、期待に胸膨らませ朝早くから雨晴海岸に来てみたものの、夜明け時は、朝もやと逆光のため立山連峰が全く見えなかった。
結局、夜明け前から2時間ほど海岸でじっと粘って、なんとか富山湾越しの立山連峰のシルエットを写真に収めることはできた。
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今回の旅では、残念ながら、白銀に輝く立山連峰を背にした有磯海、という完璧な写真を撮ることはできなかった。だが、朝陽を受けて輝く有磯海は、時間の過ぎるのをしばし忘れてしまう美しさであった。また、行く先々では圧倒的存在感のある立山連峰を眺めることができた。剣岳を中心に左右に連なる3000m級の峰々がすぐ目の前に広がる光景は、他では見られない越中路の旅の醍醐味である。(地魚のうまさは言うまでもない)
越中路は、この立山連峰から幾筋も流れる川でできた扇状地の上にある。
一般的に扇状地というところは砂礫地であることが多く、水はけがよすぎるため、稲作には不向きとされ、「ザルの上で米をつくっているようなもの」といわれる。そのため黒部川扇状地では、昭和26年から10年をかけて、山で採取した赤土を用水路に流し、扇状地一帯に送り込む土地改良事業が行われ、米の収量を大幅に高めることができた。今日の豊かな田園風景は、このときにできあがったものだという。
黒部の大自然を相手にした戦いは、山奥だけではなかったということを知り、人間の底力を見せられたような気がする。
今回は、圧倒的な大自然と万葉の香漂う越中路の魅力を再発見するとともに、温かみある地元の方々との触れ合いもあって、心地よい後味の残る旅となった。