2021年11月17日 敦賀~木之本
2021年11月18日 木之本~関ケ原
2021年11月19日 関ケ原~大垣
コロナ禍の影響で泊りがけの旅を控えていたため、奥の細道・結びの地大垣まであと少しの敦賀に至ってから一年以上経ってしまったが、このところ感染状況が落ち着きを見せていることから、いよいよ結びの地・大垣を目指す旅に出ることにした。
山中温泉で曽良と分かれて以降の芭蕉の旅程は定かでないところがあるうえ、敦賀から大垣までは奥の細道本文での記述がほとんどなく、芭蕉がいつ敦賀を発ち、どういうルートを通ったのか、など明らかになっていない。
ルートについては諸説あるが、今回の旅では、敦賀から塩津を経て木之本に行き、木之本から北国脇往還で関ケ原に至り、関ケ原から中山道と美濃路を通って大垣に入る予定である。
いずれにせよ、芭蕉は大垣から迎えに来た門人の路通に伴われ、大垣船町港に着いたのは元禄2年8月20日(陽暦10月3日)といわれている。大垣で多くの門人に迎えられ、如行宅に草鞋を脱いだ芭蕉は、伊勢から来た曽良とも再会している。
2021年11月17日、朝5時過ぎに家を出て9時半ころ敦賀に到着し、久しぶりの歩き旅を再開した。天気予報では、今回の旅の期間中好天が続くことになっていたのだが、あいにく小雨模様の中での旅立ちとなった。
前回の旅では、一乗谷、北の庄城、金ヶ崎城などの戦国時代ゆかりの地を巡っていたが、今回も賤ヶ岳、小谷城、姉川古戦場、関ケ原など奥の細道ルートから多少外れるところにも立ち寄りながら旅を進めたい。
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敦賀~疋田(ひきた)
敦賀駅から国道8号に出て、まずは疋田に向かう。
ほどなくJR小浜線の踏切を越えると、その先の国道はほとんど歩道がなくなってしまい、大型車がすれすれに通るところを、跳ね上げられる雨水を傘でよけながら歩くような始末となってしまう。冷静に考えれば、ところどころで残っている旧道を歩いた方がずっとよかったのに、かなり危ない思いをしながら、ひたすら国道を歩いてしまった。
しばらくして疋田地区に入ると、国道は二手に分かれる。ここはかつての塩津街道新道である左手の国道8号を進む。ここを右の方に行く国道161号は琵琶湖西岸を南北に通るかつての西近江路で、少し先の新疋田駅あたりからは深沢峠越えの塩津街道古道も残っている。しかしこの深坂峠越えは険しい難路だったため、江戸時代に新道野を迂回する道が開かれ、その後は新道のほうが塩津への主要な街道となった。
ちなみに、疋田は古くから交通の要衝で、畿内周辺に設けられた関所のうち特に重視された鈴鹿関・不破関とともに古代三関(さんげん)の1つの愛発関(あらちのせき)があったとされるところである。
疋田~塩津
新道の国道8号の方をしばらく進んで曽々木地区に入ると、その先の麻生口で道が再び二手に分かれる。今回は、そのまままっすぐ新道野越えの国道ルート(塩津街道)を行くが、左に行く県道140号線は、刀根峠を経て柳ケ瀬付近で北国街道(国道365号)に合流する道である。
*刀根峠は、天正元年(1573)、織田信長に追われた朝倉義景軍が壊滅的打撃を受けたところである。義景はわずかな手勢で一乗谷まで戻ったが、信長の追及は続き、一乗谷の戦いで朝倉家は一気に滅亡することとなった。
やがて、国道から旧道が分かれて新道集落に入るが、ほどなく再び国道に合流。緩やかだが長い上り坂の先の峠の頂上に孫兵衛茶屋が見えてくる。
<孫兵衛茶屋>
茶屋の店頭に狸の置物と並んで福滋境界碑が立ち、ここが福井と滋賀の境界であることを示している。また、狸の横には「芭蕉翁と西村家」と記した石板が立っている。
この茶屋を経営している西村家には「おくのほそ道」の原本の一つ「素龍清書本(西村本)」が残されている。元禄7年(1694)、能書家の柏木素龍に託して完成した本書を、芭蕉は亡くなるまで肌身離さず持ち歩いていた。その後、本書はさまざまな人々の手を経て西村家に伝来したという。現在、「素龍本」は国の重要文化財になっている。
孫兵衛茶屋に着くころには、それまでの雨もやみ、時折青空が見えるようになってやれやれと思ったのも束の間、肝心の孫兵衛茶屋はなんと定休日となっていた。結局、素龍本を見物できなかったばかりか、温かい蕎麦を食べることもできなかった。仕方なく、店先のベンチで念のため用意していたおにぎりをさみしく食べることに相成る。今日は、どうもついてない・・・。
一息ついて茶屋を後にすると、峠から先の国道はゆるい下りとなり、おまけに、すっかり雨も上がって、つい足取りも軽くなる。
孫兵衛茶屋から少し行った右手に「深沢地蔵へ1.1km」という案内板が立っている。ここは、疋田で分かれた深沢峠越えの旧道との合流点である。深沢峠越えの道は、紫式部が父の藤原為時が越前国守赴任の際に同行して通った道としても知られる。
やがて国道の左手に、静かな佇まいの沓掛集落が見えてくる。沓掛という地名からも、かつての深沢峠越えがどんなに険しいものだったかが想像できる。
このあたりまで来ると、いつの間にか青空が広がっていて、目に入る木々の色づきが濃くなっており、絶好の歩き旅日和になっていた。
沓掛集落を過ぎると、国道は北陸本線と大川に挟まれるような形で進み、やがて近江塩津駅に至る。この駅舎は、旧街道の風格と歴史を感じる立派な建物である。
すぐ先でJR湖西線の高架をくぐり、国道をまっすぐ行くと、まもなく塩津の町に入ってゆく。一方、塩津駅を発した湖西線は、琵琶湖西岸を経由して大津、山科に至る。
塩津
国道の塩津信号の少し先、塩津宿の北入口には天保5年(1834)建立の常夜灯が立っており、その基壇には「海道繁栄」「五穀成就」と刻まれている。
往時、敦賀に陸揚げされた海産物、塩・米などは、敦賀から湖北の塩津まで塩津海道で運ばれ、塩津から畿内へは琵琶湖の舟運を使って運ばれた。物資を満載した舟が琵琶湖南端の大津との間を頻繁に行き交う塩津は、琵琶湖に数ある港の中でも大津と並ぶ大きな港町だったという。
こうした塩津港は万葉の昔から歌に詠われ、常夜灯のすぐそばには塩津を詠んだ歌碑が建っている。紫式部も、父の赴任先越前・武生に同行した際、琵琶湖を舟で渡って、ここから深沢峠越えに向かっている。
常夜灯の少し先に行くと道の駅「塩津海道 あぢかまの里」が見えてくるが、かつての塩津宿はその手前で国道から離れて左の旧道に入っていく。塩津は古くからの港町であるとともに海道の宿場町であり、街道筋に残る風格ある家並みが往時の繁栄を今に伝えている。
旧道はやがて琵琶湖最北端の湖岸に突き当たるが、国道の影になって琵琶湖はよく見えなかった。
塩津~木之本
塩津の街並みを過ぎると国道に合流し、一旦湖畔から少し離れて藤ケ崎トンネルに入る。トンネルを出た飯浦地区で、国道はしばらく琵琶湖湖岸に沿っている。
少し先に行くと、旧道は国道から分かれて左の坂道を上って行く。旧道入口には賤ヶ岳(しずがたけ)への案内表示が立ち、左側には八幡神社が鎮座している。
坂道を少し進んだところに六地蔵が立っているが、道路側に背を向け琵琶湖の方を向いている。浅井氏と織田信長に所縁が深い竹生島(ちくぶじま)の方を向いているようだ。
*浅井氏滅亡から10年経った天正11年(1583)、ここ賤ヶ岳は柴田勝家と羽柴秀吉の雌雄を決する戦場となった。ここでの戦いに敗れた勝家は、北ノ庄に退却するが、追撃してきた秀吉に攻められ、お市の方とともに自害して果てた。
国道のトンネルの上を通る旧賤ヶ岳トンネルに向けて坂を上って行く。右手に琵琶湖を眺めながら、行きかう車もなく、だれにも出会うことのない静かな道である。
旧賤ヶ岳トンネルを抜けると坂は下りとなり、大音千手堂や粉かけ地蔵といったものがところどころに見られる。賤ヶ岳周辺のこの地域は「伊香具(いかご)の里」と謂われ、古くから繭糸から生産する琴糸が有名で、歩く先々に廃寺跡が残されるなど古くからの歴史の里の雰囲気が感じられる。
道なりに進んだ先で国道8号に合流し、木之本市街に入っていく。
木之本
市街地に入ると北陸本線を渡る手前で国道8号は右に曲がって行き、国道303号はそのまままっすぐに旧市街に入ってゆく。
そのまままっすぐに行くと、突き当たりに木之本地蔵院がある。木之本は木之本地蔵院の門前町であり、北国街道の宿場町として賑わった。今日の宿は、この近くの草野旅館を予約しているので、一旦、荷物だけ置いて宿内の散策に出かけることにした。
旅館からすぐの木之本地蔵院前に出ると、交差点の角に札の辻の碑が立っている。地蔵院前を通っているのが旧北国街道で、街道筋には古い商家や造り酒屋など昔の面影を濃厚に残した街並みが続いている。木之本では、室町時代から牛馬市が開かれたことでも知られている。
地蔵院前を左の余呉方面に行くと、うだつの上がった家が立ち並んでおり、元庄屋や山路酒造などが残っている。
札の辻まで戻り、木之本地蔵院に参拝する。
寺の歴史は古く、白鳳時代にさかのぼり、空海、木曽義仲、足利尊氏、足利義昭も参拝した記録がある。眼の仏さまとして知られる寺で、境内には秘仏である本尊を模した6mの地蔵像が立っている。
地蔵院前から旧北国街道を反対方向に行くと、こちらの街道筋にも本陣跡や冨田酒造など、古い商家や造り酒屋など昔の面影を色濃く残した家並みが続いている。
高月方向にまっすぐ進んでゆくと、突き当りに北国街道と北国脇往還の分岐点がある。道標には、「右 京・いせ道、左 江戸・なごや道」と刻まれている。
北国街道は鳥居本宿で中山道と合流し、ここを起点とする北国脇往還は関ヶ原で中山道に合流するので、北陸、北近江から岐阜、名古屋、江戸方面に出る道としてよく使われた。
*北国脇往還は、賤ヶ岳の合戦の際、羽柴秀吉が大垣から木之本までの13里を約5時間で駆けつけたという「美濃大返し」に使った道として知られている。山崎の合戦の際の「中国大返し」とともに、秀吉の二大大返しとして語り草となっている。
今日は、ここまでとし、予約している草野旅館に戻った。
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今回の旅の二日目は、木之本から関ケ原まで行く予定にしているが、この区間を北国脇往還で歩くとおよそ35kmの長帳場になる。少しでも早く宿を発つため、宿の朝食は早めに用意してもらった。また、隣の高月までは電車で行き、宿に置いてある観光情報などで一押しになっている渡岸寺観音堂(向源寺)に寄ってから北国脇往還に出て、関ヶ原に向かうことにする。
木之本~小谷
琵琶湖北部の湖北地区のこのあたりは「観音の里」と称され、平安から鎌倉時代に造られた数多くの仏像が寺やお堂に安置されている。高月駅を出ると、渡岸寺観音堂(向源寺)への静かな道が続いている。
<渡岸寺(どがんじ)観音>
このあたりの地名が渡岸寺のため、渡岸寺観音堂と呼ばれるこのお堂に安置される観音様は、日本全国に七体ある国宝十一面観音の中でも最も美しいといわれる。写真でしか見ていないが、確かに美しい。
元亀元年(1570)、織田信長軍による浅井氏攻略の戦火の中、この観音様は地中に埋められて難を逃れ、その後も近隣の人々が守り続けている。
拝観時間にはまだだいぶ早いので、紅葉に包まれた観音堂の雰囲気だけ味わってこの場を去ろうとしていたら、ご近所さんに「せっかくここまで来たんだから、ちょっと待ってぜひ見て行ったら・・・もうすぐ係の人が来るから・・・」、としきりに勧められる。先を急ぐため残念ながら観音様の拝観をせずに寺を辞したが、この観音様が地域の人たちにいかに大事にされているかということが感じられた。
小谷
渡岸寺からいったん高時川沿いの道に出て、少し先で国道に合流すると、しばらくは田園が広がる道を淡々と進む。やがて左手に、浅井家三代の居城のあった小谷山が近づいてくる。
国道脇に国指定史跡小谷城跡と小谷城戦国歴史資料館の案内標識が出ているので、標識にしたがって進むと、常夜灯や小さな水車が見えてくる。そこには、城下町大谷市場跡の石碑と北国脇往還郡上宿跡という板書も立てられていた。この市場は浅井三代小谷城時代に武家屋敷から巷間の台所までまかなっていたという。
大谷市場跡のすぐ先、街道から左手奥に少し入ったところに小谷城戦国歴史資料館があり、その背後に清水谷と山城からなる小谷城跡の威容が見えてくる。
(下の写真は大手門橋跡から清水谷・小谷山を臨む)
せっかくなので、この日は関ケ原まで歩く予定で時間に余裕がない旨話して、ごく短時間だが資料館の見学をさせてもらうことにした。開館時間前の我が儘なお願いにもかかわらず、丁寧な説明をしてくれる説明員の方には少し申し訳ないことをした。
<小谷城跡>
小谷城は日本五大山城の一つに数えられ、国の史跡にも指定されている。戦国時代に幾度も戦乱の場となったこの地域には、城跡があちこちに見られる。中でも小谷城は、浅井亮政が北近江守護京極氏より自立して小谷山に築いた屈指の山城で、天正元年(1573)に織田信長によって滅ぼされるまでの50年間、浅井三代の本拠となった。
浅井長政に嫁いだ信長の妹・お市の方やその3人の娘・浅井三姉妹(茶々・初・江)にとってもゆかりの城である。
小谷落城に際し、お市の方と三姉妹は落城前に城から逃れ、信長に保護された。長政・久政親子は小谷城で抗戦するも及ばず自決し、長男の万福丸も処刑され、浅井氏は滅亡した。
浅井氏滅亡後、小谷城は羽柴(豊臣)秀吉の支配下に置かれたが、秀吉は、琵琶湖に面した今浜(現・長浜)に今浜城(長浜城)を築いたため、そのまま廃城となった。
小谷~姉川
国道に戻り少し行くと、左手の小谷山麓に小谷城跡ガイド館とともに浅井家の祈願所であった小谷寺が見える。
この先は、遠くに伊吹山を仰ぎながら国道を淡々と進んでいく。
しばらくすると、道の駅・浅井三姉妹の郷に至る。この近くには、浅井歴史民俗資料館他、浅井地区の公共施設がいくつも集まっている。戦国の世を数奇な運命の中生きた浅井家三姉妹の名をとった道の駅に立ち寄り、名物の鯖寿司で小腹を満たしてしばし休憩。
*浅井家三姉妹のうち、長女の茶々は豊臣秀吉の側室(淀君)となり、次女の於初(おはつ)は大津城主京極高次に嫁ぎ、三女の於江は徳川二代将軍秀忠の正室となって家光を産んだ。
少し先に行った草野川北詰交差点のところに、「ふくらの杜」説明板が立っていた。
八島のあたりからこのあたりまではふくらの森と呼ばれ、昼なお暗く、追剥やキツネが出るなど、旅人たちに恐れられていたという。
姉川に向かって淡々と歩いてゆくと、やがて北国脇往還は姉川手前の野村西信号で左に分かれて国道から離れていくが、姉川古戦場跡に立ち寄りたい私はそのまま国道を進む。
<姉川古戦場>
少し行くと、国道に架かる野村橋手前で少し上流に姉川古戦場跡の大きな看板が見える。そちらに行くと、現在は車両通行禁止となっている旧野村橋の北詰に姉川古戦場跡碑や説明板などが建てられており、周囲には広大な古戦場跡が広がっている。
*浅井長政は織田信長とは妹・市を正室に迎えるなど同盟関係にあったが、信長が浅井氏とよしみの深い朝倉氏へ侵攻を始めると、長政は苦悩のすえ朝倉方につき信長討伐に動いた。
長政の裏切りに激怒した信長は、浅井攻めを開始。元亀元年(1570)、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍は、ついに姉川に架かる野村橋の周辺で激突した。
姉川をはさんで北側に陣取る浅井・朝倉連合軍は約18,000人、かたや南側に陣取る織田、徳川連合軍は約25,000人といわれる。戦死者と負傷者の血で姉川が真っ赤に染まったといわれるほど壮絶な戦いは、はじめ浅井側有利に進んだが、やがて形勢は逆転し、浅井・朝倉軍は小谷城に敗走した。
姉川の戦い以降も信長は浅井攻めの手をゆるめず、合戦から3年後の天正元年(1573)、小谷城は落城。浅井長政・久政父子は城内で自刃し、浅井氏は滅亡することとなった。
姉川~関ヶ原
旧野村橋を渡って行くと、再び国道365号に合流する。野村で国道から外れた北国脇往還は、そのあと春照(すいじょう)を経て藤川で再び国道に合流するが、それまでは国道から大きく外れている。先を急ぐため、姉川古戦場を見た後、私はそのまま国道で関ケ原まで行こうと考えていたのだが、野一色辺りまで進んだところで歩道がなくなり、交通量が多い国道はかなり危険を感じるようになる。たまたま国道を走っている湖国バスの伊吹登山口線が北国脇往還のあたりに出られるようなので、ここはバスを使ってみることにした。
結局、伊吹登山口に向かう途中の県立伊吹運動場前で降りたところが春照宿のはずれあたりで、そこからあらためて北国脇往還を歩くことにした。
難読地名の春照(すいじょう)は、北国脇往還と長浜に通じる長浜道との分岐点にあり、北陸と東海を結ぶ道であるとともに長浜から大津への湖上交通路の中継点でもあった。往時は、春照宿には本陣・問屋・旅籠・商家が軒を連ねていた。
しばらくは、伊吹山をすぐ左手に眺めながら、交通量が少なく静かでゆるやかな上り坂をのんびり歩いていく。
やがて寺林の道標が立つ交差点に至る。ここには、左手の方の京極氏城館跡・上平寺への案内板も出ている。寺林は、上平寺城落城後、城域に住んでいた人々が移り住んでできた集落といわれる。
右の寺林の方に向かうとすぐに左折の標識が立っている。こじんまりした静かな佇まいの寺林の集落に入って行くと、集落のはずれの三叉路で地蔵尊と数体の石仏群が迎えてくれる。
やがて大きく弧を描いて右にカーブしながら藤古川を渡る。ちなみに、藤古川はこのあと関ケ原の不破の関の方に流れている。進んでいくと集落の先の方に土蔵のある脇本陣を勤めた林家の屋敷が見えてくる。すぐ先の大きな屋敷は本陣の林家で、その先の坂を下って行くと国道365号に合流する。
関ケ原の方からくると、藤川は近江に入って最初の宿場で、ここから春照、小谷(伊部、郡上)を経て木之本宿へ通じている。
国道に合流して600mほど進んだところで、右手の細い道に入っていくと玉宿になる。
往時は、玉宿が上り(木之本方面)の荷物を扱い、藤川が下り(関ヶ原方面)を扱っていたという。
この集落の家々は、他では見たことがないような高くて見事な石垣が組まれているのが特徴的。
関ヶ原
閑静な玉宿の集落を通り、国道に合流して少し行くと、街道脇に「笹尾山石田三成陣地一丁」の標識が立ち、さらに少し行くと「決戦地石田三成陣跡」の案内表示板があった。それにしたがって少し行くと関ケ原古戦場が目の前に広がり、左手の小高いところに石田三成の旗印が見える。ここが石田三成の陣地・笹尾山で、芭蕉の旅とは関係ないが、今回の旅で必ず立ち寄りたいと思っていたところである。8年前に中山道歩き旅の途中で関ケ原古戦場跡も訪れたときは、石田三成陣地跡はちょっと離れている徳川家康最後陣地跡のあたりから眺めただけだったので、ずっと心残りであった。
石段を上ってゆくと少し平坦になり、ずらりと竹矢来が設置されている。
このあたりには猛将・島左近の陣地があり、石田三成はそこからもう一段上った山頂に陣取った。山頂の三成陣地からは広大な戦場を見渡すことができ、関ヶ原の北端にあるこの笹尾山は陣地としては最高の位置にあることが実感できた。
このあと、今日は電車で大垣まで行き、駅前のホテルに泊まることにしている。笹尾山から「史蹟 関ヶ原古戦場 決戦地」碑の横を通って古戦場の中の道を進み、JR関ヶ原駅に向かった。
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翌朝、大垣から再び関ケ原に戻り、いよいよ奥の細道結びの地である大垣を目指して歩き始める。関ケ原から垂井までの道は、中山道歩き旅で2013年に歩いた道である。そのときは前日宿をとった垂井宿から関ヶ原を通って鳥居本宿まで歩いている。あれからもう8年経っており、その時とは逆方向だが、当時を懐かしく思い出しながらのんびり歩く。
芭蕉が北国脇往還を経て関ヶ原に入ったのは、元禄2年(1689)8月19日(陽暦10月2日)かその翌日のことといわれる。芭蕉はここから中山道を垂井宿まで進み、そこで美濃道に入って大垣に向かうのである。
関が原~垂井
国道21号をしばらく進み、国道沿いに幟が立っている桃配山・徳川家康最初陣地跡の手前で旧道に入る。少し行くと旧道からも桃配山・徳川家康最初陣地跡が見える。慶長5年9月15日未明に、家康の配下三万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において指揮にあたった。
東海道線と国道に挟まれる旧道を行くと、このあたりからかつての面影がよく残る松並木が続いている。松並木の残る街道を歩くと、不思議に元気が湧いてくる。
松並木の雰囲気を楽しみながら進むと、右に六部地蔵がある。六十六部という全国の寺社を巡礼して修行している行者がここで亡くなったのを里人が祠を建ててお祀りしたそうで、痛みのひどい病気をなおしてくれるという。
やがて松並木が切れたあたりからは、往時の雰囲気が色濃く残る家並みが続く。途中、江戸時代からの野上の七つ井戸があり、その説明板に、ここ野上は関ケ原宿と垂井宿の間の宿であった、とある。これといって目立った建物があるわけではないが、街道沿いの家々がそれぞれ自然に歴史を伝えてきているような雰囲気は他所ではあまり見られない。
やがて街並みが途切れ、バイパスを越えた少し先の日守西信号で国道を渡ると、再び旧道は続いており、すぐ先に垂井一里塚がある。
この一里塚は南側の一基だけがほぼ完全に残り、国の史跡に指定されている。一里塚の隣に残る日守の茶屋は、芭蕉ゆかりの地に建てられていた秋風庵という建物を明治になってからこの場所に移し、中山道を通る人々の休み場として利用されたという。
垂井宿
中山道旧道は再び国道21号を陸橋で横切り、東海道本線の踏切を渡る。
しばらくまっすぐに行くと、「垂井宿」の標柱と説明板の立つ場所に出る。ここは垂井宿の西の見付のあった場所で、安藤広重がこの付近から西を見て描いた版画が有名である。
これから先に続く旧道は、古い街道の面影がよく残された道である。8年前に歩いたときと雰囲気はまったく変わっていない。
見付の少し先の本龍寺は、芭蕉が奥の細道の旅の2年後、俳人でもある住職の規外を訪ねてしばらく逗留したことがある寺である。
ここで、
- 作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 -
などの句を詠んでおり、境内には、江戸末期に芭蕉を記念して建てられた時雨庵がある。
宿内には、道筋に往時の趣を色濃く残す建物がいくつも残されている。
本龍寺に立ち寄った後、無料お休み処となっている長浜屋で一息ついて先に進んだ。
やがて桝形となっているところに旅籠亀丸屋がある。安永6年(1777)に建てられた旅籠屋で、江戸時代から営業を続けている。中山道を歩いた時に泊まった旅籠亀丸屋の女将が懐かしく思い出され、挨拶だけでもと思って立ち寄ってみたが、玄関には鍵がかけられたいて残念ながら再会はかなわなかった。近所の人に聞いたら、すでに旅籠としての営業はしていないとのことであった。街道歩き人の中で知る人ぞ知る名物女将だったが、私が泊めていただいた時すでにかなりご年配であった。江戸時代から続く数少ない貴重な旅籠が、建物の老朽化や後継者不在などの理由で一つまた一つと姿を消していくのは寂しい限りである。
垂井~大垣
道なりに進んでいくと、相川橋手前に中山道垂井宿碑、「東の見附」という立て札、大きな観光マップ、さらには「相川の人足渡跡」という立て札がおかれている。
橋を渡って少し行くと「是より右東海道大垣みち 左木曾街道たにぐちみち」と刻まれている追分の道標が立っている。
ここを左に行くのが中山道、右に曲がるのが美濃路である。8年前は、この先の中山道赤坂宿の方からきて、ここを通りかかっている。今回は、ここを右に曲がって美濃路で大垣に向かう。
美濃路に入ってしばらくすると松並木が現れ、昔の街道の面影を残している。松並木が残っている街道を歩くときは、不思議と気分が乗ってくる。
道なりに進み、東海道線の踏切を渡ると、やがて綾戸口交差点で国道21号と交差する。
このあとしばらくは、ところどころに残る旧道を辿るように進んでいく。
まずは国道を横断し、少しだけ国道を進んで、大谷川手前で大谷川に沿うようなかたちの旧道に入っていく。比較的新しい住宅が建ち並ぶ旧道をたどっていくと、少し唐突な感じでポツンと道標があった。ひとつには「雨宮社近道」とあり、もうひとつには「→垂井京都、←大垣岐阜 道」とある。
少し先で県道31号線に出て大谷川を渡ると、県道はまっすぐに大垣市街のほうまでのびているが、旧道はところどころで県道から外れたところを幾度も曲がりながら進んでいく。
東海環状自動車道、大垣環状線を横切ったすぐ先で、県道に沿う形の左側の旧道に入る。杭瀬川に向かう旧道の途中に、古くなった榎が残る一里塚が残っていた。
少し先で県道を横切り、杭瀬川公園の横を通っていくと、杭瀬川を渡るところに塩田の常夜灯がある。ただし、残念なことに平成30年の台風被害を受けてカバーがかけられてしまっていた。
その横の塩田橋で杭瀬川を渡り、再び県道31号線に出たら、あとは県道をそのまま進むと結びの地は近い。
<正覚寺、芭蕉・木因遺跡>
養老鉄道踏切を越えた少し先に正覚寺がある。通りに面して焔魔堂と愛宕神社が並んでいてちょっと分かりにくいが、正覚寺入口に「芭蕉・木因遺跡」という石碑と「当境有芭蕉翁碑」、および説明板が立っている。正覚寺はこの標柱の奥にある小さなお寺で、境内には「芭蕉塚」と多くの句碑が建っている。
芭蕉にとって大垣は谷木因をはじめ多くの門下の俳人がいる地であった。木因は芭蕉とは北村季吟から俳諧を学んだ同門の仲であった。また、近藤如行ら多くの大垣藩士も芭蕉の門弟となっていた。
元禄7年(1694)、芭蕉が大坂にて病没すると如行らはこれを深く悼み、正覚寺に芭蕉翁追悼碑を建て、さらに木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲んで木因碑を建て、芭蕉・木因遺跡とした。
正覚寺を出て、通りの左側を歩いてゆくとまもなく「奥の細道むすびの地」に至る。
<奥の細道むすびの地(船町湊跡)>
大垣は、西美濃の中心に位置し、江戸時代に大垣城下船町に川湊が設置されて以降、陸路に加えて水路が通じる交通・文化の要衝として発展した。
8月20日(陽暦10月3日)、大垣についた芭蕉は、船町で船問屋を営む谷木因のほか多くの門人に出迎えられた。門人の如行宅に草鞋を脱いだ芭蕉は、大垣に2週間あまり留まって長旅の疲れを癒した。芭蕉は奥の細道本文の中で、『したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる』と記している。
9月6日(陽暦10月18日)、芭蕉は曾良と路通を伴い、船町湊から桑名に下った。旅立つ際、大垣の俳人たちと別れる名残惜しさを詠んだ句が、芭蕉翁と木因翁の像と並ぶ蛤塚に記されている。
- 蛤の ふたみに別 行秋ぞ -
蛤塚の左の木因白桜塚には、
- 惜しむひげ 剃りたり窓に 夏木立 -
と記されている。
現在の船町湊周辺は、奥の細道むすびの地として芭蕉関連の像や碑が数多く建てられているほか、住吉燈台など風情ある景観が残されている。
道路を挟んだところに「奥の細道むすびの地記念館」がある。奥の細道の旅全体を通したゆかりの資料などの展示やAVシアターでの3D映像などが見られる。奥の細道を辿ってここまで延々と旅してきた達成感を一人胸に秘めて、しばし感慨にふけった。
こうして結びの地でゆっくりくつろいだ後、旅の最後に、記念館から大垣駅に行く途中にある大垣城を見学し、帰途に就いた。
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2014年に「奥の細道を辿る旅」を歩き始めてから、結びの地・大垣にたどり着くまでかれこれ7年になった。ただでさえ時間のかかる旅だったのだが、コロナのせいで越前の丸岡から大垣に至るまでに2年も経過してしまった。
ようやくのこと、結びの地にたどり着いたとき、この長かった旅路を振り返って感慨にふけると思いきや、あまりにも長い時間がかかり、多くの見聞を積んだため、にわかに全体を思い出すことが難しくなってしまい、これだけの長い旅を成し遂げたにしては、意外にもほとんど感慨を抱くことがなかった。
しばらくは、このホームページで振り返りながら、はじめからゆっくりと旅の情景を思い返し、実り多かった旅の思い出を反芻したいと思う。