象潟~村上

2019年5月16日 象潟~吹浦
2019年5月17日 吹浦~鼠ヶ関
2019年5月18日 鼠ヶ関~村上

奥の細道の旅で最北の地・象潟は、芭蕉が訪れた当時、独立峰の鳥海山を借景に大小多くの島が入江に浮かぶ、松島と並び称される景勝地で、多くの文人墨客も訪れるところであった。
元禄2年6月15日(陽暦7月31日)、酒田の不玉邸を発った芭蕉は、羽州浜街道を象潟へ向かったが、悪路に加えて雨にたたられ、途中の吹浦で1泊。翌日、吹浦を発ち、女鹿の番所や難所の三崎山を経て、昼過ぎに塩越(象潟)に到着した。ここで2泊して、潟巡りなどをして過ごし、18日朝から象潟の景色を楽しんだ後、舟で酒田にもどって再び不玉亭に宿した。
25日(陽暦8月10日)、長逗留した酒田を後にした芭蕉は、大山、温海を経て、一路越後路へと向かった。陸奥を巡る旅の大きな目的地の一つであった象潟をあとにした芭蕉は、この先の遠い旅路を想って気が重くなった、というようなことを奥の細道本文で記している。

私の今回の旅は、芭蕉の旅程とはすこし異なり、まず酒田から象潟まで行き、そこから南下して村上に向かうことにした。象潟は秋田県で、三崎山で県境を越えて山形県に入り、鼠ヶ関で県境を越えて新潟県に入るといった3県にまたがる旅になる。要所で電車やバスをうまく利用して、効率的に芭蕉の足跡をたどる計画である。
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5月15日夜9:55、酒田行の高速バスで新宿バスタを出発。翌朝6:20に酒田に到着後、まずは酒田市街を散策し、その後、電車で象潟まで行って歩き始める。この日は、象潟をじっくり巡ってから、吹浦に向かう。

酒田
前回、酒田を訪れたときはあいにくの悪天候だったので、あらためて主だったところを見て廻ることにした。
まず向かった山居倉庫は、このところ再放送されているNHKの朝ドラ“おしん”の中で、しばしば目にしている。


このあと、本間家旧本邸、旧鐙屋、不玉邸跡、山王倶楽部、日和山公園、日枝神社、旧光丘文庫、相馬楼、浄福寺などをざっと見て廻り、象潟に向かった。
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象潟
元禄2年6月16日(陽暦8月1日)、芭蕉は、前日泊まった吹浦から、女鹿の番所や難所の三崎峠を経て、昼過ぎに塩越に到着。雨の象潟見物に出かけている。17日には蚶満寺を訪れ、熊野権現の祭礼見物をし、夕食後は舟で潟に出たりしている。快晴となった18日、早朝の象潟橋まで行って鳥海山の晴嵐を眺めたあと塩越を発った。酒田には、夏の日本海で吹く穏やかなアイの風を受けて、舟で戻ったとみられている。

象潟駅を出ると、右手の駅前広場に、芭蕉が象潟で詠んだ句が刻まれた文学碑が迎えてくれる。
  - 象潟や 雨に西施が 合歓の花 –
  - 夕晴や 桜に涼む 浪の花 –
  - 腰長や 鶴頸ぬれて 海涼し -
街の中には「きさかたさんぽみち」という案内標識と説明板が要所に立っており、芭蕉が宿泊した能登屋跡の少し先の公会堂のところには、芭蕉の象潟滞在中の動きを示す大きな絵図が掲げられている。道なりに進んでゆくと、芭蕉が象潟滞在中に世話になった名主・今野又左衛門とその弟・嘉兵衛宅跡などがある。

<熊野神社、欄干橋(象潟橋)>
嘉兵衛宅の先の小高い丘の上に熊野神社がある。芭蕉が到着した日がちょうど、この神社の祭礼の日でお客が多く、予定していた能登屋に泊まれずに、近くの向屋に泊まることとなった。
熊野神社の目と鼻の先に赤い欄干の象潟橋(欄干橋)が架かっており、橋を渡ると左側に舟つなぎ石がある。ここは、九十九島を巡る舟が発着した舟場であった。また、この橋から上流方面は潟になっており、芭蕉は象潟滞在中、何度もここから九十九島と鳥海山を眺めている。


このような景勝地象潟だが、芭蕉が訪れた115年後の文化元年(1804)6月4日の大地震で潟が隆起し、陸地となってしまった。象潟川河口近くに唐戸石(からといし)といわれる高さ4.3m、幅5mの大きな石があり、この石が地震によって隆起した高さを示す証とされている。
今は、防波堤の影になるところにあり、おまけに周辺が工事中で進入禁止となっていたため、石までたどり着くのに一苦労だった。

<蚶満寺、象潟九十九島>
唐戸石から近い道の駅「ねむの丘」の6F展望フロアに上ると、広大な象潟のパノラマを鳥瞰できる。
蚶満寺はそこからすぐのところで、国道7号に出て、案内表示に従って羽越線の踏切を渡ると蚶満寺門前の庭園に出る。
庭園の池のほとりに芭蕉像と句碑が建っている。
  - 象潟や 雨に西施が ねぶの花 -


そのすぐわきには、句に詠われた西施の像が建っている。


かつての水辺沿いに旧参道が伸びており、その先に山門が見える。


旧参道から北の方を見ると、九十九島の様子を眺めることができる。かつての潟は、今は水田になっているが、島々を舟で巡るかわりに歩いて巡る遊歩道が整備されている。
島めぐりで最初に目にするのが駒留島


遊歩道を巡ると、今でも潟に浮かぶ島々の姿がよみがえるが、特に5月の連休前には、田植え前の水を張った代田(しろた)が辺り一面に広がり、一層風情があるという。私が訪れた時期はやや遅かったが、ところどころに代田が残り、その片鱗を見ることができた。

 


遊歩道を巡ったあと旧参道に戻り、山門をくぐっていくと、本堂裏手の庭園にも芭蕉句碑が建っていた。こちらは芭蕉70年忌に建てられたという年代物で、その傍に舟つなぎ石も残っている。芭蕉は、象潟橋のところから舟に乗り、まず能因島を訪れたあと蚶満寺に上陸し、お寺の中から潟の景色を眺めた。
私は、ここから能因島に行ってみることにした。お寺の方から、鐘楼の方の裏手から出て行けば近道だと教わり、そちらに行ってみたものの、途中で道が分からなくなってしまった。結局、一旦国道7号に出て、象潟小学校のところで線路を渡って少し行ったところで、能因島を見つけることができた。平安時代中期の歌人・能因は、象潟で3年間、小島の一つに庵を結んで暮らしたという。

象潟~吹浦
象潟を一通り巡った後、本日の宿をとる吹浦に向かった。左手に時々鳥海山を眺めながら海岸線の道を南下し、途中、三崎山、十六羅漢を経ると間もなく吹浦に至る。

<三崎山>
三崎山の名は、観音崎、大子崎、不動崎の三つの崎があることに由来している。太古の昔に鳥海山が噴火した際、噴き出した溶岩が海に流れ込んでできたと考えられているこの三崎山は、羽州浜街道の中でも最大の難所と云われ、曾良日記には「是ヨリ難所。馬足不通。」と記されている。
国道を歩いていると、三崎山旧道入口の標柱が立っている。一歩そちらに足を踏み入れると、たちまち山道に入り込み、やがて照葉樹タブの林に入って行く。この日は、かなり強い陽ざしが差していたが、タブ林の中は昼なお暗くて何となく薄気味悪さが漂う感じであった。
そんな薄暗い林に囲まれたところに、慈覚大師が開いてとされる大師堂が残っていている。


案内板によると、今から1200年前、慈覚大師の草庵を結ばれた所であって、境内に数多く残されている五輪塔の中には慈覚大師の当時のものもあるという。


旧道が不動崎の方に行く道と交わるあたりに、「国指定名勝奥の細道風景地三崎(大子崎)」の標柱が立っていた。海寄りの遊歩道のところには小さな東屋があり、そこから眺める日本海と鳥海山はまさに絶景である。

 


遊歩道脇に立つ灯台の近くに山形県と秋田県の県境が控えているが、ここにはかつて有耶無耶の関があったともいわれている。

三崎山を過ぎ、崖上の海岸線の道を進み、女鹿を過ぎたあたりで国道7号から分かれて海岸線の国道345号を進む。海に近いため、道路の下が波に洗われて危険なせいであろう、海側だけに設けられている歩道のほとんどが通行止めとなっているため、結局、ずっと車道を歩く。

<十六羅漢>
このあたりは鳥海山の溶岩流が形成した台地で、溶岩台地の先端は、ごつごつした奇岩が連なる岩礁地帯になっている。十六羅漢像は、こうした自然の岩を利用して刻まれているもので、海難事故で亡くなった漁師の冥福を祈り、海上の安全を祈願して、吹浦海禅寺の寛海和尚が元治元年(1864)から明治元年(1868)にかけて石工とともに刻んだもの。


十六羅漢岩からすぐ近くに、出羽二見という伊勢二見浦の夫婦岩に似た岩がある。このあたりは吹浦漁港の北のはずれで、二見浦と呼ばれている。
この出羽二見を見下ろす国道7号沿いの見晴らしのよい場所に、芭蕉句碑が建っている。
  - あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ -

吹浦(ふくら)
芭蕉が吹浦に一泊したのはいわば緊急避難のような事情によるものであったが、私はむしろ吹浦の鳥海温泉遊楽里という宿にぜひ泊まりたいと思っていた。この宿は日本海と鳥海山がすぐ目の前に展開するロケーションにある。
この日は幸い天候に恵まれ、期待通り、雄大な鳥海山と夕日に染まる日本海をたっぷり眺めることができた。

 

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翌日も朝から大変いい天気で、鳥海山がひと際素晴らしい姿を見せてくれている。
この日は、酒田から湯野浜に行き、大山を経て三瀬、温海、鼠ヶ関まで行く予定にしている。酒田までは吹浦駅から電車で行くが、その前に、駅から近い出羽の国一之宮鳥海山大物忌神社を参拝した。

<鳥海山大物忌神社>
吹浦は羽州浜街道の宿場町であるとともに鳥海山大物忌神社吹浦口之宮の門前町として発展した。
大物忌神社の創祀は欽明天皇25年(564)の御代と伝えられ、後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。鳥海山に噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。本社は山頂に鎮座し、麓に口ノ宮と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の二ヶ所にある。
平成20年には、山頂本殿から口ノ宮にいたる広範な境内が、国の史跡に指定されている。


吹浦~酒田~大山
6月18日(陽暦8月3日)、象潟から酒田に戻った芭蕉は、再び不玉亭に宿し、以降7泊している。
6月25日、長逗留した酒田を発った芭蕉は、酒田から海辺寄りの道を歩き、浜中を経て大山の丸屋義左衛門宅に泊まっている。
私は、酒田駅前から湯野浜行のバスで湯野浜温泉手前まで行き、そこから大山に行く途中にある善宝寺に立ち寄った。

<善宝寺>
善宝寺は曹洞宗の名刹で、海の守護神・龍神さまの寺院として、北海道、東北、北陸をはじめ全国の漁業関係者に絶大な信頼があるという。1200年を超える歴史があり、一歩境内に足を踏み入れると、圧倒されるような風格ある雰囲気が漂っている。平成27年には、境内の6つの建造物が同時に国の登録有形文化財に指定されている。(下の写真は、山門と門内右の毘沙門天、左の韋駄天)


このあと、善宝寺前でバスに乗り、大山を経て、少し回り道だが庄内観光物産館で三瀬方面に向かうバスに乗り換える。
途中の大山は、酒造りで有名で、最盛期の明治時代には40軒ほどの造酒屋が軒を並べていたという。

大山~三瀬(さんぜ)
大山から三瀬へは、往時は矢引峠を通る羽州浜街道が主要道だったようだが、バスは国道7号を進んで由良経由で三瀬に至る。

三瀬は、かつて羽州浜街道の宿場だった。芭蕉も通り、古くは義経一行もここを通ったという。
バスを降り、崖の上の方に見える道に上って行くと、駅から来る線路沿いの道に合流し、この道を進むと、そのまま笠取峠に続いている。少し行くと、国道のトンネルの上あたりで視界が開け、眼下に日本海の眺望が広がる。
さらに峠道を上ってゆくと東屋が見えてくる。この東屋のあたりが峠の頂上で、ここからの眺めもすばらしい。


小波渡集落や漁港を眼下に眺めながら笠取峠を下ってきた道は、羽越線の線路の下を通って小波渡集落に入り、やがて国道7号に出る。国道のすぐ側は海である。旧羽州浜街道は、この海岸沿いの道が鼠ヶ関まで続く。

小波渡(こばと)
小波渡を過ぎると、国道の脇に「奥の細道 遺跡 鬼かけ橋」という碑が立っていた。昔は大きな岩が張り出ていて旅人はその下を通ったという。
それにしても、この辺りの海岸は、ひと際水が澄んでいて素晴らしい。


さらに進むと波渡崎の堅苔沢漁港が見えてくる。緩い坂を上った波渡崎灯台のところからの眺めは素晴らしく、はるか遠くにうっすらと鳥海山も見えている。

五十川(いらかわ)
少し先で鳶ヶ坂トンネルを抜けると五十川が流れており、近くにJRの五十川駅がある。この先、海岸沿いに、国道と並行してJR羽越本線が走っている。地球の丸さを実感できる水平線と大きな岩礁が海岸線に続くこの景色は、これまで何度か電車の中から眺めている。

やがて、注連縄を掛け渡した大きな岩が見えてきた。これが塩俵岩で、日本海の荒波と吹き付ける強風によって浸食され俵のような模様となっている。


この近くの小公園に芭蕉句碑が建てられている。
  - あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み -
酒田の不玉とともに小舟で納涼のときの立句で、温海岳から吹浦かけての雄大な景色を詠んだ句である。
この塩俵岩から少し行くと、ひときわ大きな立岩が見えてくる。


温海(あつみ)
国道をなおも進むと、温海の中心部に入ってゆく。このあたりは、いわゆる浜温海で、羽越線のあつみ温泉駅もここにある。
元禄2年6月26日(陽暦8月11日)、芭蕉は温海に着き、鈴木惣左衛門宅に一泊している。翌27日、芭蕉は馬で鼠ヶ関に向かい、曾良は芭蕉と別れて温泉の湯本を見物後、芭蕉のあとを追っている。
このあとも海沿いの道が続くが、時間の関係であつみ温泉駅から鼠の関までは電車に乗った。

鼠ヶ関(ねずがせき)
鼠ヶ関は出羽と越後の国境で、白河の関、勿来の関と並ぶ奥羽三関のひとつである。芭蕉が訪れた時代は、庄内藩と村上藩の藩境であり、関所が置かれていた。ここは、かつて源頼朝に追われた義経が平泉への逃避行の途中、船でこの地に上陸。その際、弁慶が関所の役人の前で嘘の勧進帳を読み上げ、一行の危機を救ったという義経記の逸話が有名である。歌舞伎では加賀の安宅関でのことになっているが、同じような逸話がここにもあった。


なお、古代の関はここから南に少し行ったところにあり、慶長年間(1596~1614)にこの地に移され、庄内に酒井氏が入部された元和8年(1622)以後に整備されたといわれている。

本日はここまでとし、ちょっと遠いが鶴岡まで戻って宿をとることにしている。かつて出羽三山を巡った後、鶴岡に出て、ザッとであるが市街を散策した際、この街の雰囲気が大変好きになった。今回の旅のルートでは鶴岡市街を外れるため、せめて宿泊をしようと思った次第。
鶴岡のホテルにチェックインした際、月山が良く見えるところはないかと聞くと、少し距離があるが、赤川堤防のところまで行くと眺望が良い、とのこと。折角なので、疲れた身体に鞭打って行ってみると、広大な河川敷は大変見晴がよく、日没直前の月山を眺めることができた。


運が良ければ、鳥海山も見えるとのことだったが、この日はかすかに見えるだけであった。
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鼠ヶ関を越えた越後路は、山間を通る出羽街道と海沿いを通る出羽浜街道があるが、浜街道はこの先に「笹川流れ」という難所があるため、芭蕉は出羽街道ルートをとって中村宿に泊まっている。

鶴岡に泊まった翌朝、 勝木から北中行のバスに乗るため、私はまずは鶴岡から電車で勝木まで向かった。今日も天気が良く、勝木までの電車の車窓から、前日の赤川堤防から見たよりもっとよく月山を眺めることができた。
鶴岡を出て三瀬を過ぎたあたりからは、電車はほぼ海岸線に沿って行く。今回の旅で、象潟から勝木までは、ほぼ海岸線に沿った道だが、この先の出羽街道は深い山道に入り、これまでとまるで雰囲気が異なる道になる。

勝木~北中
勝木駅前にバス停があったが、バスが来るまでかなりの時間があるので、少し先の北中営業所まで行ってバスを待つことにした。北中から村上の間の情報が少なかったため、営業所に何か少しでも参考情報があればと思ったのだが、残念ながらほとんど情報は入手できなかった。

他に乗客はなく貸切状態のバスに乗ると、10分ほどで北中集落に着いた。勝木からの道はここで旧出羽街道に出会う。
北中は明治時代までは中村といい、宿場があった。芭蕉はここに1泊している。バス停のところに旧い旅館が一軒あり、集落には旧家がいくつもあって、かつての宿場の雰囲気が残っている。


その先の国道との分岐点付近に北中芭蕉公園の案内が出ていた。芭蕉の旅から300年を記念して整備されたものという。

北中~葡萄峠
芭蕉は中村宿に1泊した後、旧出羽街道を通って村上に出ている。村上までの間には葡萄峠という難所があった。
山北町では旧出羽街道の保存に力を入れていて、要所に道標を立ててある。事前に調べても旧道の情報が少なくてやや不安であったが、実際に歩いてみると全く心配することなく旧道をたどることができた。大毎(おおごと)までは田畑の中を進むが、次の大沢の葡萄峠入口からは山道になる。


ここから安産の神として信仰されている漆山神社までの旧道はよく保存されている。尿前の関から封人の家までの出羽街道中山越の道も旧道がよく整備されていたが、石畳の残る大沢峠を越えるこちらの出羽街道も山中の旧道が約4kmにわたってそのまま残されている。


漆山神社は古来、名にしおう蒲萄峠の途中にあって、その境内は最も神さびたところである。延喜式の式内社で、矢葺明神ともいわれている。直立百メートルの明神岩は今も千年前と同じく神気を込めて立っている。


漆山神社の先からは舗装道路となり、標高262.6mの地点が葡萄峠である。坂を下り何度か曲がると棚田の向こうに葡萄集落が見え、やがて国道7号に出る。


かつては宿場だった葡萄集落は、葡萄峠を控えた宿場としてそれなりに賑わっていたようだ。現在は集落の真中を国道が走り、国道に沿って民家が建ち並んでいる。また、近くには葡萄スキー場が見える。

葡萄集落~村上
葡萄集落のはずれに葡萄トンネルがあり、トンネルを抜けると、国道は村上に向かって緩やかに下ってゆく。
国道を淡々と進んでゆくと、やがて旧道が右に分かれて、かつての宿場町、塩野集落に入って行く。ところどころに庚申塔なども遺されており、旧街道の面影も残っている。
この後も旧道が国道についたり離れたりしながら、次の宿場、猿沢集落に至る。ここも旧道沿いに長く続く集落で、立派な旧家が多い。

猿沢集落を過ぎてしばらくすると、鮭の遡上で知られる三面(みおもて)川に至る。昔はお宮の渡しを舟で渡ったが、現在は国道の水明橋で渡る。この後、さらに国道を進み、門前川を山辺里(さべり)大橋で渡る。
この橋を渡り、県道を西の方に道なりに進んで、片町で左に曲がって村上市街に入って行く。
村上には、ふた月ほど前に一度来ていたので、今回が二度目になる。村上市街散策の内容は、「村上~新潟」のページにも記している。

村上
枡形の道を進んで行くと、まいづる公園に岩間家、藤井家、嵩岡家といった武家住宅が復元されている。嵩岡家は、つい先日、新皇后となられた雅子さまの祖母の実家にあたるとのこと。


すぐ近くの歴史文化館敷地内には国の重要文化財に指定されている若林家住宅が保存されている。また、近くの市役所のところには榊原帯刀の家老屋敷があった。少し南の臥牛山に村上城(別名舞鶴城)があって、このあたり一帯が武家屋敷街であった。
村上城は室町時代以来この地方の地頭本庄氏の根拠地であったが、江戸時代に入ると、村上氏・堀氏・松平氏らの城主によって城の改造と城下町の建設が行われ、村上城は北越後(きたえちご)の中心拠点として整備された。

小学校のところを廻りこんで行くと、小町に入る角に宿屋井筒屋がある。ここが旅籠大和屋久左衛門の跡で芭蕉はここに2泊した。


小町から大町へと続くこの筋が出羽街道で、江戸時代は村上宿の中心で、町屋が軒を連ねる城下の中でも一番古い地区で、往時の趣を色濃く残している。
大町通りを南に進むと、左手に国登録有形文化財の二軒が隣接している。


「鮭」と大書した暖簾がかかる吉川家は江戸の寛永年間の創業で、米問屋に始まり味噌醤油の製造、そして造り酒屋と変遷し、現在は喜っ川の屋号で村上伝統の鮭の家庭料理を商品化して商っている。
隣の益甚酒店は見事な格子窓と古びた杉玉が蔵元の風情を湛えている。村上は古くから酒造が盛んな土地で、寛文時代には大町だけで11軒の造り酒屋があったという。

大町交差点は往時は三叉路で、そこから出羽街道は北に向かい、北国街道と出羽浜街道が西へ、そして南へは米沢街道が発していた。

今回の旅はここまでとし、村上駅まで行って帰途に就いた。村上から東京へは、まず新潟まで行き、そこから新幹線なので、結構時間がかかる。
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象潟は、芭蕉が訪れた時代は松島と並び賞された景勝地だったが、文化1年(1804)の大地震で象潟を中心に約2m地面が隆起してしまった。当時、本荘藩は、新田開発を進め、島跡を平坦にして、より多くの田園を確保する計画を立てたが、地元の人々が保存運動を展開し現在のような景勝の地が残されたという。こうした保存運動のおかげで、目を閉じれば往時の景色を思い浮かべることができるほどの広大な景色が残されている。これだけ広大な景観を維持するのは大変な苦労があったと思われ、感動さえ覚える。
これまで、遠くて不便なところという先入観があって、なかなか気が進まないというのが正直なところであったが、今回思い切って、はるばるとここまで脚を延ばしただけの甲斐があった。

こうした象潟の景観に欠かせないのが、借景となっている鳥海山だが、秋田県と山形県にまたがり、日本海に裾野を広げている鳥海山は広くこの地域に様々な影響をもたらしている。度々の噴火により、三崎山などのごつごつした海岸線が形作られ、古くから山岳信仰の対象となった。出羽国の一宮大物忌神社の口の宮の一つがある吹浦の海岸近くから見る鳥海山は、独立峰としての存在感がさすがである。

象潟から南へは海岸線の道が延々と続き、天候に恵まれたこともあって、穏やかな日本海の景色をたっぷり堪能できた。このように延々と続く海岸線の景色は、見る人によっては単調なものかもしれないが、もともと日本海の同じような景色を見て育った私にとっては、最高に心地よく感じられ、実にいい旅となった。

出羽街道葡萄峠越えは、一転して人と出会うことの無い山中の旧道を歩いた。ここも地元の人々の旧道保存活動のおかげで、旧道の風情がしっかり残されている。
また、峠を越えて辿り着いた村上は、落ち着きのある城下町の風情が漂う街である。前回の旅ですでに一度訪れているところだが、住民による町屋保存活動なども活発で、こじんまりとしていて、どこかホットした気分になれる街だ。

今回は、象潟から村上までかなりの駆け足で巡った旅だったが、天候にも恵まれ、行く先々で風情ある景色を存分に楽しむことができた。